後編
周囲は森で、空には闇。辺りを照らすのは頼りない外灯ばかり。
そんな展望台へと続く丘の道の途上にワタシとカナタはいた。
あれからおよそ一時間、ワタシたちは展望台に向けて走り続けていたものの、ワタシの靴紐が解けてしまったのを潮にしばしその場で小休憩をとっていた。こんなところでオンナノコが二人だけでいるのも危険な気がしたが、そもそも真夜中にオンナノコ二人がぶらついてる時点で今さらなので気にしないことにした。
あがっていた息もだいぶ収まったけれども、お互いなんとなく出発することなく、もうしばらく休憩していく感じの空気になっていた。一度立ち止まってしまうと、再び走り出すのもなかなかかったるいものだし、ここまで来たらゆっくり歩いても展望台までそう時間はかからないだろう。
「…………」
「…………」
なんとなくの沈黙。
ワタシもカナタも特に口火を切るわけでもなく、ただ黙ってその場に佇んでいた。
今さら沈黙を気にするような間柄でもないんだけれども、それにしてもここの静かさはなんとなくワタシの心を不安にする。なにしろ本当に無音なのだ、ここらは。
さりげなくカナタの方を見てみると、カナタもまたワタシのことを見ていて目が合った。
「寒いね」
「そうね」
反射的に言った言葉に反射的に返ってきた言葉。そこからまた沈黙が始まる。まるでこの沈黙の静けさを再確認しあったかのようだった。
まあそれこそ今さら沈黙なんて気にならないはずなんだけれども……。
なんでだろう。なんでこんなにも胸がザワザワするんだろう。
ワタシはワタシでカナタはカナタ。
それで十分なはずだと分かっているはずなのに、なんで今さらになって変な不安を覚えるのか。もうちょっとだけ歩けば目的地に着く、その段になって漠然とした不安を抱えるハメになってるのか。
そもそも、ワタシたちがやろうとしていることが、どうしようもなく「ズレた」ことのように感じてしまうのか。
「ねえミサト」
ワタシがなにか口にしようとしたその前に、カナタがにわかに口を開く。
「ワタシたち、本当に本物のセカイにいけるのかなあ?」
ワタシは思わずカナタのことを凝視した。
口を真一文字に結び、ジっと真っ直ぐにこちらを見つめている。その瞳は若干潤んでいて、鼻白むくらいの必死さを湛えていた。
カナタは、とても真剣だった。
「本物のセカイって……」
「そう、本物のセカイ。ニセモノなんてなに一つない素晴らしいセカイ。そのセカイでワタシたちは本物だけに囲まれて生きていくの」
ワタシが漠然と抱えていた不安が、少しずつ具体的な形を帯びてきた。
「……そこに、カナタは行くつもりなの?」
「当たり前でしょう?」
何を今さら? とでも言いたげな表情でカナタはワタシの顔を覗き込む。
「だってワタシたち今まで、そこに向かって走ってたんじゃないの?」
カナタの帯びている真剣さに変化は全く見られない。とてもとても、冗談の余地など欠片もないくらいに、真剣だった。
本物。
確かにこれはカナタが普段からよく口にしている言葉で、それ自体には共感している。
聴いて五分もしたら忘れてしまうようなニセモノなどじゃなくて、セカイそのものを打ち立てようと真剣に歌う本物。カナタから教えてもらったそういうものに惹かれ、そしてカナタ自身にも惹かれたのは間違いない。
だけど。はっきりと言ってしまうと、カナタが言ったこの「本物のセカイ」には全く共感出来なかった。
もしこの言葉を、かつてのワタシの友人たちが聞いたらどんな反応をするだろうか?
……分かりきっている。
彼女たちはきっと、立ちどころに大爆笑してそれをネタにするだろう。そしてその中にいるワタシも一緒になって笑ったに違いない。
だってバカみたいじゃないか。ニセモノが存在しない世界なんてそんなもの。戦争はとても悪いことだから今すぐやめましょうって、真顔でアメリカの大統領にぶち上げるようなものだ。
何か、何かが変だ。
そもそも、自分でそういう世界がないって分かってるって言ってたじゃないか。
なんで、こんなことを言い出したんだ突然。
「あーそういえばカナタさー!」
ワタシは無理やりにでも話題を変えることにした。
「最近ファミマで食べたキャラメルエクレアがなかなか」
「お腹いっぱいだから食べ物の話したくない」
「あ、ははっ……こ、この前ちょっと気まぐれで韓流ドラマ見てみたんだけど」
「韓流だろうが日本のだろうが全然見てないし興味もない」
「い、いや、これが中々バカに」
「上辺だけのニセモノだらけの言葉と価値観ばかりがツラツラツラツラ。あんなものが面白い訳ないじゃない」
「えっ……あー! や、やっぱりそうかな? あははは!」
「…………」
「はっ、ははっ……」
「…………」
「…………」
「…………」
「……あ、あー! そ、そういえば! 来月フジファブリックがシングル出すみた」
「ミサト」
カナタの鋭い視線。
萎縮したワタシは思わず固まってしまった。
「ねえ、ミサトは行きたくないの? ワタシと一緒に、本物のセカイに?」
イエスかノーか、それ以外の応えを一切許さない張り詰めた問い。
「あのさ……カナタ、ワタシは」
「ミサトはきっと裏切らないわよね? ミサトは絶対に本物よね? ワタシと一緒に本物のセカイに行ってくれるのよね?」
ワタシは二の句が告げられなかった。
ギラギラした猜疑心に満ちた目。その裏腹にあるのは間違いなくワタシへの恐怖心だ。もしワタシがノーを突きつけたとしたら、カナタはこの場で発狂してしまうかもしれない。
なんとなくカナタが脆いオンナノコであることは分かっていた。
本物を求め過ぎるが故にニセモノを受け入れることが出来ない、気位が高いからこその孤独と不安を抱えたオンナノコ。
だけど、これは何かが違う。
もはやそこに気高さは感じられない。
今のカナタは本物を指向する気位の高いオンナノコじゃない。
ニセモノに囲まれた孤独と不安に潰されたが故に「ホンモノ」に執着する脆いオンナノコだった。
ワタシはなにかを言わなければならない。
今のカナタはカナタじゃないって、はっきりと言わなければならない。
だけどそれを言う前にカナタはワタシの手首を掴んで「行くわよ」とだけ乱暴に言い、ズシズシと前へ前へと進んでいった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ワタシたちが本物で、あいつらこそがニセモノなのよ。それはもう、絶対に、間違いのないことなんだから。
この時、ワタシはあの日のカナタの言葉を思い出していた。
今から五ヶ月くらい前、カラオケでカナタが言った言葉。
いつも通りの調子で言った言葉ではあるのだけれども、何故か今日までその言葉が胸に引っかかったままでいた。
その話をする前に軽く、あの日――カナタと出会った日――の後日談をしておこう。
カナタが手をとって興奮した後、ワタシは「ば、バカじゃないのアンタ!」なんて言ってプリプリ怒り、「も、もうワタシに関わんないでよ! 誰がアンタなんかと友達になってやるもんか!」という実に教科書的な口上を述べ(それに対する「じゃあ親友にはなってくれるのね?」という返しにワタシは応えられなかった。真っ赤に染まった顔を上げることすら出来なかった)、ワタシは逃げるように去っていった。
まあ、後の展開は大体予想出来るんじゃないかと思う。
その翌日、ワタシの机の中に一枚のCDが入っていた。「FAB BOX」というタイトルのアルバム。その中には前日に聴いた曲も入っていた。
ジャケットにはこんなことが書かれた付箋が貼られている。
お近づきの印
それ聴いたら感想聞かせてちょうだいね
あなたの本物の親友 ミトリカナタより
一番下に、ケータイの番号とメアドが書かれていた。というか、そもそもワタシのケータイに既に登録されていた。
ワタシは半ば睨むようにカナタの席の方を見たが、カナタはワタシと目が合うと無駄にチャーミングなウィンクを返してきた。昨日の時点でカナタの大変素晴らしい人格を把握していたワタシは、ため息を一つだけついて反抗を諦めた。
学校が終わり、友人たちと遊んでから家に帰ったワタシはカナタから借りた(押しつけられた)CDを聴いた。
そのCDを聴いたワタシの反応は……正直もう予想がつくと思う。
全曲聴き、しばらく呆然としてからもう二周して、それからカナタに電話をかけた。ワタシの胸はまだ高鳴っていた。三回のコールの後、カナタの「もしもし」の声が聞こえた。
「あんたが押し付けたCD聴いたよ」
「どうだった?」
「なんていうか……」
「次にミサトは凄すぎて言葉にならない、という」
「凄すぎて言葉にならない……へっ?」
「あはっ! ……でしょでしょ? 絶対そう言うと思ったわ」
カナタが得意そうに笑う。やっぱり一発くらい殴っとかないとなと思った。
「うんうん。やっぱりいい音楽に出会った時の感想ってそうじゃなくっちゃダメよね」
「昨日は無理やり感想を求めたクセに」
「あれはあくまでミサトがどんな人かを知っておきたかったからよ。あんまりトンチンカンなことを言ってこないかどうか、念の為に試させてもらったの」
「トンチンカンなことってどんなことよ?」
「必要以上に背伸びして知ったようなことを言い出すことよ。音楽のことなんて欠片も知らないくせに、いっちょ前に批評なんてしだした日にはもうまるで駄目ね」
まあミサトなら大丈夫だと思ったけどね、と再びカナタが笑った。
別に異論なんてなかったけれども、カナタはそれとは違うのかなとはボンヤリと思った。
「……音楽の話するのって難しいと思う。正直昨日のあれだって、今思い出すとめっちゃ恥ずかしいこと言ってたなって感じだし」
「ううん、あんなものよあんなもの。気取らないでありのまま、思ったことを語ってくれればそれでいいの。頭で考えたことじゃなくて、心で思ったことを言えばいいのよ」
やっぱり恥ずかしいことのように思う。ワタシの友人たちなんかには絶対にさらけ出せないタイプの恥だ。
しかしカナタ相手にさらけ出す分にはそんなに悪くないタイプの恥でもあった。なんて言ったって言いだしっぺのカナタからしてめちゃくちゃに恥ずかしいことを言っているのだし、そもそもワタシ自身がこういう恥ずかしさを嫌いではないことに気づいていたからだ。なんというか、思ったことをポンポン言える感じがいい。あの友人たちとの会話には「決まりごと」があまりにも多すぎる。誰かがそういうものを定めた訳じゃないのに。
そんな訳でその日から、こんな感じにカナタと話をするようになった。
カナタがCDを机の中に入れてはワタシがそれを聴き、その感想を電話で話す。
最初はそんな感じのやり取りだったのが、そのうちCDの感想とか抜きに電話の頻度が増えていった。カナタに話をすると不思議と身体から重たいものが抜け落ちたようなスッキリとした気持ちになったし、ワタシが思ってもみなかったような視点での話も聞けて刺激的だった。挙句、親にすら話したことがないような話をするようになっていた。
たとえば、中学生の時の初恋の話。
教室の片隅でいつも本を読んでいたオトコノコが何となく気になったけれども、ある出来事のせいで結局ほとんど何の関わりも持たないまま卒業して、それから二度と会うこともなかったという、ただそれだけの話。
これはYouTubeで見たフジファブリックのライブ映像の話をしていた時に何故か思い出した話で、ワタシは唐突にそれを語りだしたのだ。我ながらとつとつとしていて要領を得ない感じだったけれども、カナタは余計な口を挟むことなく、最後まで黙って話を聞いてくれた。
そしてワタシは泣いてしまったのだ。
この話を誰かにすること自体始めてで、むしろ親にすら話すつもりは全くなかったのだけれども、この話はカナタにこそしなければならない話だったのだと心の底から思った。
ワタシは、間違いなくカナタのことを大好きになっていたのだ。
それからすぐに、ワタシは自分から教室で一人眠るカナタのところにやってきて、後ろ手に隠していたヘッドフォンを「じゃーん!」と差し出した。デカくて無骨でいかにも高そうなヘッドフォン……カナタの持っているのとは違うけれども、それでもワタシのお小遣いで買える範囲のものは買ったつもりだった。
「……学校ではワタシに話しかけないんじゃなかったかしら?」
実際、最初は周りから変な目で見られるのが嫌で電話でしか話をしなかったのだ。
ワタシの友人たちは、さも当たり前のように「貞子」に親しげに話しかけているワタシのことを唖然と見つめていた。
「だってヘッドフォン買ったんだもん。そりゃあ話しかけたくもなっちゃうよ」
最初はキョトンとしていたカナタも、やがて呆れたようにため息をついて苦い笑いを浮かべた。
「……そうね、それなら仕方ないわね」
「うん、仕方ない仕方ない」
そしてワタシたちは思いっきり笑った。思いっきり笑った後、ワタシたちはお互いのヘッドフォンを交換しあって曲を聴いた。
カナタはワタシのヘッドフォンを「良い買い物をしたわね」と評してくれて、それがとっても嬉しかった。
梅雨も明けつつあった七月の上旬、こうしてワタシとカナタは学校でも仲良く話をするようになったのだった。
とは言っても、別に前の友人たちのことを疎かにするつもりはなかったのだ。しかし必然的にどんどん一緒にいる頻度が低くなってき、やがてほぼ一緒にいることがなくなってしまった。しかしその頃にはカナタと一緒にいることが当たり前になっていて、そのことを気にすることは全くなくなっていた。
もちろんそれは、「世間」的には決して良いことではなかったのだけれども。
期末試験を数日前に控えたある日、ワタシの上履きに砂がつめられていた。
最初、イマイチ状況が飲み込めなくて下駄箱の前で思考が停止したけれども、すぐ近くでクスクス笑いが聞こえてきて、そちらを見てみると廊下の影で女子たちがジロジロとこちらを眺めながら嘲笑していた。その女子たちはワタシの友人たちだった。そんな彼女たちを見てワタシはやっと状況を把握した。思えば、当然の帰結だった。
貞子にとりつかれた呪われオンナ。
大体そんなところだろう。
ワタシはジロリと彼女たちを一瞥し、その場で上履きの砂を捨ててから上履きを履いた。ああクソ、ソックスが汚れるじゃないか。そんなことを思いつつも無表情で群れている彼女たちとすれ違う。
その際に一際強くなったクスクス笑いが鬱陶しかったし、「なんかこの辺臭いよねー」「そうだねー何か砂臭いよねー」みたいな下らない悪口も地味にイラついた。
流石にちょっとはショックだったし気分も重たくなったけれども、それでもそんな特筆する程にはキツくはなかった。
やっぱりなんといっても、カナタ以外のクラスメイトのことなどどうでも良くなっていたのだ。大体誰かに迷惑をかけている訳でもないのに、自分の気に入った友人と休み時間に話をすることのなにがいけないんだ。そいつを許さないのが教室を支配する糞ったれエアーな訳だけれども、カナタと一緒にいればそんなものはそれこそ空気見たいにどうでもいいものになっていた。一人ぼっちだとただ従うしかなかったそういうものも、カナタと一緒なら何一つ怖くはなくなった。この安心感こそが、紛れもなく本物の友人って奴なんだろうなと思った。友人なんて、心の底から大好きな人が数人いるだけで十分なのだ。
だけど何事も積み重なればウザったくなってくるものだ。
そんな折の一学期の終業式の日。ちなみにこの日もロッカーにゴミをつめられ、持ってきたお茶がなくなっていた。カナタも大体そんな感じのことをされていて、それでもいつものように素知らぬ顔で過ごしていた。
式が終わった後、ワタシとカナタはマックでお昼ご飯を済ませてからカラオケに入った。
ワタシはバンプやアジカン、ラッドに相対性理論なんかを歌うのだけれども、カナタは意外なことにホルモンとか凛として時雨とかのいわゆるシャウト系の曲を歌う。ワタシが歌ったら絶対に滑って引かれて終わりなんだろうけれども、カナタが歌うとこれが本当にかっこいいのだ。元々の声はいいところのお嬢様みたいに透き通っていてキレイなのだけれども、シャウトする時は驚くくらいに攻撃的になる。しかもただむやみやたらなダミ声ではなく、なんというか力強くて鋭いのだ。「喉からじゃなくて腹から声を出すのがコツよ」なんて本人が言うもんだからワタシもちょっとだけ挑戦してみたのだけれども、そもそも腹から声を出すという感覚が全然掴めなくて、イタズラに喉を痛めただけで終わってしまった。
二時間ほどぶっ通しで歌い続け、ワタシがバンプの「fire sign」を歌い終わったところで休憩することにした。ちなみに部屋は四時間取っている。
「ねえカナタ。アイツら、どうしてワタシたちのことほっといてくれないんだろうね?」
カルピスをストローですすりつつ、ワタシはポツリと呟いた。我ながらくたびれた感じの声だった。
「別にワタシたちアイツらになんにも迷惑とかかけてないのにさ。ワタシとカナタが一緒にいるってだけでネチネチネチネチ。なんかホントバッカみたいだよね」
「なによミサト、あんな下らないの気にしてるの?」
「たまにあるくらいなら別にいいんだけどさあ。ほとんど毎日あんなのが続いてくると流石にやんなっちゃうよ」
そう言ってワタシはカルピスを一気に飲み干した。すする中身がなくなっても八つ当たり見たいにひたすらに吸引を続けて、ジュルルルとはしたない音を響かせる。やっぱりカラオケはJOYSOUNDとフリードリンクの店に限る。
「……割と最近まであの中にいたヤツがいうのもなんだけどさ、ああいう奴らの群れたがりとかマジウザいわ」
「今じゃワタシとつるんでる訳だけどそれはいいの?」
「それとこれとはぜんっぜん違うじゃん。ワタシはカナタが大好きだから一緒にいるの。あいつらと一緒にいたのはただ孤立しないために仕方なく」
「ふふっ、ワタシのこと、殺したいほどに大っ嫌いとか言ってた子の言葉とは思えないわ」
「うるさいなあ。今更そんなこと言うカナタなんて大嫌いだよもう」
カナタの意地悪な言葉に、ワタシはプイっとそっぽを向いた。
「あら、ひょっとして怒っちゃった?」
「怒った。もう口効いてあげない」
「それは困ったわ。ミサトから嫌われちゃったらワタシ、学校で一人ぼっちね」
「そんなの気にするタマじゃなないクセに」
大体、一人ぼっちになって困るのはむしろワタシの方だ。
元々孤独には強くないのに、大親友のカナタがいなくなったらそれこそ学校に行けなくなる。自分でもある程度自覚しているように、ワタシは結構脆い人間なのだ。
カナタは恋人に甘えるように自分の頭をワタシの背中に乗せて寄りかかり、ワタシの制服をちょいちょいと引っ張る。
「そんなに怒らないでよ。そんな風にされたら、ワタシ悲しいわ」
「ワタシはカナタよりもっと悲しんでるもん」
「そりゃあそんな風にいじけるカナタもかわいいんだけどさ、いつものようにクールにお話してくれるカナタの方がもっと活き活きしてて可愛いと思うのよ」
「ワタシなんてどんなに足掻いてもカナタには勝てないもん。顔立ちも胸の大きさもカナタの足元にも及ばないもん」
「……なによそうやって。ちょっとからかっただけじゃない。そりゃあデリケートな部分をつついちゃったかもしれないけど、だからって、なにもそこまで頑なにならなくたっていいじゃない……せっかくミサトとカラオケに来たのに……こんなの酷いわ……」
潤んだ声。背中にかかる頭の重力も増す。
いやいや騙されちゃいけない。よくよく聞いてみるといつもの芝居がかりの気配がそこには感じられる。
「……知らない、大っ嫌い」
このあしらいを最後にカナタは黙ってしまった。カナタの頭もワタシから離れてしまう。流れ的にしばらくしたらまた何事もなくカナタが話しかけてくるかなと思ったのだが、数分経っても何の反応も帰ってこない。
そっと後ろを振り返って見ると、カナタもまたこちらに背を向けてうつむいていた。
はいはい上手な演技ですねーその哀愁漂ってる感じが様になってますよー、なんて最初は思っていたのだけれども、ただならぬ様子で揺れる肩としゃっくりをするようにむせぶ声にワタシは思わずギクリとなった。
ヤバイやりすぎたと思ったワタシは、
「ごめん……その、冗談だから」
と気まずい思いでささやいた。
「……ワタシのこと、大っ嫌いなんでしょ?」
「ないないないない。ワタシがカナタのことを嫌いになるなんてそんなの絶対ないから」
「果たしてこの世に絶対なんてものが存在するのかしら?」
「じゃあたった今絶対なるものが誕生したって感じでいいじゃん」
「だって昔殺したいほどに大っ嫌いって言ったじゃない?」
「だからそれは昔の話だよ。今はむしろそれが裏返って殺されてもいいくらいに大好きだよ。むしろ愛してるくらいだよ」
「……正直ちょっと引くわ」
「うん、ワタシも自分で自分に引いた」
どちらともなくプっと吹き出し、お互いクスクスと笑った。
「……ねえ、ワタシのこと好き?」
「当たり前じゃん。今更なに言ってんの?」
「じゃあ、大好きって言って」
またそんな恥ずかしいことを。
「大好き」
「心がこもってない。もっと感情を込めて。全米が涙を流すかどうかが貴方の感情表現能力にかかってるのよ」
ワタシは思わずため息をついた。
やれやれ。しかしこういう子どもじみたところにさえたまらない可愛さを感じてしまうワタシは相当変な人間なんだろうか。これで変態とか言われるくらいならいっそ開き直ってカナタの胸を揉みしだいてやる。ぶっちゃけ普通におっきくて羨ましいんだよ。
ワタシは一際大きく息を吐くと、背後からそっと腕を腕を回す。カナタのうなじの辺りから、シャンプーのいい匂いがする。ワタシが少しカナタの髪の毛に顔を埋めると「んっ」なんて声を漏らしてドキッとした。カナタの心拍数が上がっているのを感じる。きっとワタシの心拍数の上昇もカナタに伝わっていることだろう。
変な気分だった。しかしこの変な気分は心地がいい。この心地よさに乗ってしまえば、ワタシはカナタにどんな言葉でも伝えられる気がする。
「カナタ……ずっとずっと、大好きだよ」
こんなセリフ、彼氏にだって言ったことないってのに。まあ彼氏がいたことは一度もないのだけれども。そしてカナタ相手だからこそこのセリフが出てきたことを思うとますます恥ずかしくもなってきた。
そんな感じでリアクションを待っていたのだが、一向に返事が返ってくる気配がない。気持ち、カナタの身体が震えている気もする。
「……あのー。カナタ、今の聞いてた?」
反応なし。
「先に言っとくけどもう一回言ってパターンはなしだからね? 正直冷静になればなるほど恥ずかしい感じが……」
「や」
や?
「やーん! ミサトちゃんマジ天使いいいいいいいいぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいっ!」
「げふぅ!」
奇声とともに振り返ったカナタが思い切り抱きついてきた。この脈絡がなければ間違いなくタックルと認識するレベルの勢いだった。
「キャー! なに今の! ホント完璧だっただけど! ずっとずっとの言葉の間の取り方とか、最後の大好きだよの程よく湿った感じとか的確すぎて涙が出てくるレベルよ! っていうか最初に名前呼ばれた時、ゾクゾクゾクゥって来ちゃった!」
「い、いやそのリアクションおかしいから!」
「もうカラオケボックスにたむろしてる暇なんてないわ! 役所に行きましょう役所に! 婚姻届け出したらそのままマイホームを買って毎日子作りに励むのよ! きっと珠のように美しい女の子が出来るから名前は珠子に決まりね! ワタシたちオンナ同士だけど愛さえあれば関係ないわ! 受胎するのはワタシだから安心して一緒に子作りしましょ!」
「キモッ! もう取り返しがつかないくらいキモイよカナタ! 今すぐワタシから離れるか閉経するかしてえ!」
このままじゃカナタの変態性が空気感染しかねない。不純異性交遊ってレベルじゃなくなってただの十八禁になる。
しかし必死にジタバタと暴れまわるワタシに構うことなくカナタは言う。
「大丈夫よ。ワタシたちが本物であり続ける限り、あいつらなんてちっとも怖くなんてないんだから」
さっきまでのハイテンションはどこへやら。熱狂的な変態みたいな感じだったカナタは敬虔なシスターのような調子に豹変して、ワタシの耳元に囁くように言い聞かせる。
「あいつらがワタシたちのことを構うのはね、ワタシたちみたいな本物が本物として生きているのを見ていると、自分たちのニセモノぶりが際立つようで怖いからに決まってるわ」
決まってる。
こういう話をする時のカナタは特に断定的な言葉を使う。違和感を全く感じないかと言われたら嘘にはなるけれども、それでもこの頃には最初に会った頃程の違和感を抱くこともなくなっていた。
そう、普段だったら特にいちいち覚えていたりはしないのだ。
しかし、この日は違った。
どっちにしてもね――その言葉に続いた、以下の言葉。
「ワタシたちが本物で、あいつらこそがニセモノなのよ。それはもう、絶対に、間違いのないことなんだから」
この言葉を言った直後、カナタはワタシの瞳を覗き込んだのだけれども、ワタシは思わず軽い悲鳴をあげそうになってしまった。
カナタの瞳が、ボンヤリとした真っ暗いものだったから。
いつもは神様のように自信に満ちあふれたカナタがたまに瞳に浮かべる、自信の欠片も見られないような真っ黒い目。
ワタシはこの日、カナタのこの目を始めて見てしまった。
ワタシの戸惑いを知ってか知らずか、カナタはフッと微笑むと「さて、そろそろ再開しましょうか」なんて言ってデンモクに曲を入れ始めた。ワタシの心臓は未だにバクバクと高鳴っていたが、さっきと違ってちっとも心地よくなんてなかった。
カナタが入れた曲は、Syrup16gの「汚れたいだけ」。カナタはシャウト系だけじゃなくて普通の曲も普通に上手く歌う。
シロップ独特の重く歪んだサウンドと悲壮感漂う歌詞を歌う。それはもう、完璧なくらいに歌いこなす。
しかしそれは余りにも出来過ぎな、カナタと曲が一二〇%シンクロしたかのような完璧さだった。一〇〇%の技量と感情表現と二〇%の自己陶酔。まるでDVが常態になっている夫婦を見るような気味の悪さ。
とても聴いていられるような気分になれなかったワタシは、ワタシとカナタのグラスが空なのを良いことに、「カナタ、ワタシ飲み物とってくるね」と言い残し、カナタのオーダーも聞かず早足に部屋から出てしまった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「そうよ……ワタシたちは本物のセカイに行くの」
ワタシを無理矢理に連れて行くように前へ前へと歩みながらカナタが言う。
「こんなニセモノに満ち満ちた墓場のようなセカイなんかじゃない。ニセモノなんてなに一つない、本物という本物だけが満ち満ちたセカイに、ワタシたちはきっといくのよ」
振り返りもせず、自分に言い聞かせるようなその言葉に、ワタシは胸をざわつかせる。
あの時には分からなかった、カナタが時折浮かべるボンヤリとして不安定な瞳の意味。カナタはもはやいつものカナタではない。カナタは深刻に自分を見失っているのだろうと思う。
「そうじゃないとワタシ……あんなニセモノなんかに囲まれたらワタシ、絶対に耐えられない。あんなものがセカイであっていい訳がないんだ。本物のワタシたちは本物に囲まれて、本物の輝きの中に生きて……」
それはあるいはカナタの本性であるのかもしれない。今までの神様のような自信に満ちあふれていたカナタは全部ニセモノで、こんな風にホンモノにしがみつかなければ壊れてしまうようなカナタこそが本物のカナタなのかもしれない。きっとそれは、軽蔑に値する本性なのだろうと思う。
それでもワタシはカナタに着いていく。
ワタシはワタシでカナタはカナタ。
その関係性だけは絶対に変えてしまってはいけないに違いないから。
例えこのセカイがニセモノに満ち溢れていたとしても、ワタシとカナタという関係性だけはきっと本物に違いないから。
ねえカナタ。
カナタは確かに今、本物と手を繋いでるんだよ。
ワタシもまたカナタという本物と……。
もうすぐワタシたちは展望台に辿り着く。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「わー! やっぱりキレイだよねえ!」
展望台から見下ろす夜の街の風景はきらびやかだった。いつかどこかで見たような街灯と建物の明かりに彩られていると分かっていても、思わず息を飲んでしまうような風景。
ワタシとカナタは今、隣同士に並んで街を眺めている。ワタシは思わず柵に身を乗り出して息を飲んでしまったのだけれども、そのタイミングが完全に同時だったものだから、思わずワタシはカナタのことを見つめながら笑ってしまった。
「ねえねえ見てよカナタカナタ! あそこにあるのがワタシたちの学校だね! ……となるとワタシの家はあの辺りで、カナタの家はあの辺りかな? あそこが普段帰りによるコンビニで、あそこがカラオケで、それからあそこが……!」
そう言ってワタシは小さな子どものように指をさしながらはしゃぐ。こんなの、一人で見ていたら普通のつまらない風景に違いないのに、カナタが隣にいるというだけでなんでこうこんな風景が輝いて見えるのだろうか。
「ホントにね……ガッコーなんて全っ然好きなんかじゃないのに、こうして眺めちゃうと、なんか不思議と広い心で見れちゃうよね……っていうかワタシたちもちっぽけな感じがしてどうでもよくなっちゃうっていうかさ」
ワタシは不意に空を見上げる。夜空には三日月が浮かび星が瞬いていている。気持ち、街から見上げるよりもキレイに見えるような気がしてくる。あるいは、隣にカナタがいるからそう思えるのか。
「……ねえカナタ。きっとワタシたち、まだまだ闘えるよ。ニセモノのセカイの中でも、カナタさえいればきっと、あの墓場みたいな学校も楽しく過ごせると思うんだ」
さっきからワタシの言葉以外に何の音も聞こえてこなかった。ワタシがひたすらに喋りまくって響く声以外には、何の音もしなかった。隣にいるはずなのに、カナタの息遣いすら……。
「ワタシきっと大丈夫だよ。ニセモノに囲まれても、墓場のような学校にいても、カナタさえいてくれればワタシは」
「違う」
ポツリと、カナタは呟いた。
感情なんて微塵もこもっていなかった。いや違う。確かに感情はあった。
それは、露骨に表出してしまったら間違いなく正気の人間のそれではありえないような、そんな病的なまでに濃厚な憎悪。
いき過ぎた憎悪が故の、本人のキャパシティをはるかに超えてしまったが故の、無感情。
ワタシは怖かった。
なにが?
カナタの表情を直視することが。
ワタシがカナタの隣ではしゃいでいるその横で浮かべているであろう、憎悪しかありえないようなカナタの表情が。
「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う!違う!違う!」
カナタが一つ違うと言う度に、カナタから理性のネジが弾け飛んでいくように見えた。
越えてはならない一線などとっくの昔に越えていた。本物の世界などないと心の奥底で分かっていながらホンモノにしがみついたままでこの展望台に向かっていった時点で、既にカナタがカナタとしていられる一線など越えてしまっていたのだ。
「こんなものが本物の世界な訳がないこんなものは全部全部全部全部全部ニセモノだニセモノのセカイがワタシをニセモノにするためにニセモノの分際でワタシに反省を促してワタシにニセモノの光景を見せつけてワタシにキレイねとでも言わせてワタシにニセモノに還るように洗脳してワタシをニセモノに変えるんだあんな墓場みたいなところにいるニセモノ連中のようにするんだこんなものちっともキレイじゃないキレイじゃないキレイじゃないキレイじゃない!
こんな風景が本物であってたまるかああああああああああああああああああああああああ!!!」
ワタシは腰を抜かしてその場にへたりこんでしまった。身体が震えて、目頭が熱くて、息が苦しい……間違いなくワタシは恐怖に泣いている。
カナタは目を見開き、身体を乗り出し、獣のように荒い呼吸をしながら、この風景を睨む。それはもう、見えない敵と闘っているような表情で睨みつけている。
いや違う。カナタは確かに敵を見てはいるのだ。ただ、その敵は、まさにこのニセモノのセカイのなにもかもなものだから、あまりにも大きすぎくなりすぎて、どこに焦点を置けばいいか分からなくなってしまっているのだ。
カナタはおもむろにワタシに顔を向ける。
例の真っ黒い瞳がかつてないほどに怖くて、ワタシはついに「ヒッ!」と悲鳴をあげながら後ずさった。率直に言って、ワタシはカナタから逃げだしたかった。
「……ねえ、なんでそんな目でワタシを見るのよ、ミサト?」
「カ、カナタ……」
裏返った無様な声しか出ない。このカナタを目の当たりにして、ワタシはこのカナタにこそかけてあげるべき言葉を見つけられないでいる。
ワタシはワタシでカナタはカナタ。
それだけは絶対に変わらないと思っていたのに、その前提さえなにもかもが壊れてしまいそうな、そんな気さえしていた。
「やっぱりミサトはワタシと一緒に本物の世界に行きたくないのね……こんなニセモノの風景に感動してニセモノのセカイに満足して戻っちゃうのね……そうやってワタシのことを裏切るのね……」
「カナタ……ワタシ、ワタシ……」
「もういい! どうせこんなセカイはニセモノで、ミサトも所詮ニセモノ連中と一緒だったのよ! ワタシのことを裏切ってこのニセモノのセカイを美しいって思って騙されて! そんな程度のニセモノだったのよ! だからこんなものだって!」
カナタはポケットからIPODを取り出すとそれを地面に叩きつける。
カナタはここに、ヘッドフォンは持ってきていない。普段は肌身離さず持ち歩いているヘッドフォンを持ってきていない。
「これだって結局ワタシを本物の世界に導いてくれなかった! 本物の夢を見せるだけ見せてミサト見たいにワタシのことを裏切るんだ! だからこれも壊れちゃえばいい! こんなニセモノ、こうやって! こうやって!」
カナタは獣じみた雄叫びをあげながらIPODを踏みつける。踏みつけて踏みつけて、踏みつけることに飽きると既に粉々になっているIPODをもう一度地面に叩きつけて、再びひたすらに踏みつけた。
ワタシはただこの光景を、泣きながら黙って見ていることしか出来ない。
きっと、カナタのヘッドフォンも、こんな風に壊されたに違いないと、そんなことを思いながら。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
夏休みを終えて、ワタシたちのイジメはいよいよエスカレートしていった。
理由は単純だ。カナタがクラスの人気者の男子に言い寄らられて、それをカナタがそいつのことをたぶらかしたと誤解されたから。さながら、貞子の癖に「私たちのカイくん」を毒牙にかけたといったところだろうか。
文化祭の日、適当にぶらついていたワタシたちの所に突然そいつがやってきて、カナタを呼び出して告白をしてきたのだ。もちろん、カナタはそれをピシャリと断った。
「今のワタシはミサト一筋よ。愛してるわ、マイスイートハニー」
なんてことを言ってきた始末だ。ワタシはノリで「浮気したら思いっきり腹パンしてやる」と返しておいた(そしたらさらに「ヤダ、想像しただけで興奮しちゃうじゃない」と顔を赤らめながら返してきた。やっぱりカナタはド変態だ)。
しかし話はそれで終わらず、「私たちのカイくん」はしつこくカナタに言い寄ってきたのである。何日も、何日も。
――カナちゃんはそうやってクラスに心を閉ざしてるけど、本当は寂しがり屋だっていうことをボクは知ってるんだ。
――その証拠にカナちゃんはいつもホヅカさんと一緒にいるじゃないか。それは本当はカナちゃんが友達を欲している証拠だろ? それが違うならホヅカさんにも関わらないはずだ。
――だからボクはそんなカナちゃんの心を開いてあげたいんだ。大丈夫、僕に全部任せてくれたら、いっぱい友達が出来るし、楽しいこともいっぱいできるよ。
――ほら、ホヅカさんもなんとか言ってあげてよ。キミはカナちゃんの友達だろう? だったら本当に友達のためになることをしてあげるんだ。ボクだって別にいきなり恋人から始めようなんて思ってない。それが出来るなら一番だけど、ボクはとにかくカナちゃんのことが放ってはおけないんだ。
――だってボクはカナちゃんのことを心の底から愛してるんだから!
確か十月の頭くらいの帰り道のことだったと思う。夕日が落ちかかっていて、河川敷辺りで繰り広げていたらさぞかし青春の一幕っぽい絵になったことだろうと思う。まあ実際は住宅街の一角での話だったのだけれども。
あの時ワタシは、こんな感じに「私たちのカイくん」がベラベラベラベラ顔を醜く赤くしながらまくし立てているのを、呆れを通り越した薄ら笑いを浮かべて聞いていたと思う。
あまりにも的外れというか、「私たちのカイくん」の凄まじいバイアスのかかりっぷりと、露骨ににじみ出ている「私たちのカイくん」のエゴに、なんというか、この援交を誘ってきてるみたいな感じの臭い親父顔を何発も何発もぶん殴ってやったらさぞかし気持ちがいいんだろうなあ、なんて考えていた。それでも拳が汚れそうで嫌だったのだけれども、それでも後五分もこんな調子で喋り続けてたら間違いなく殴ってたと思う。
しかしその点、カナタはとっても毅然としていて素敵だった。
「ねえ、ちょっといいかしら?」
と言って取りあえず言葉を止めたカナタは、キョトン顔で見つめる「私たちのカイくん」にスカっと爽やかな笑顔で言ってやったのだ。
「あなた、自分の思ってる一億倍は醜いオトコノコだから、お願いだから二度とワタシに話しかけないで? 本当にワタシのことを愛してる本物の殿方なら、きっとちゃんと守ってくださるわよね? それが無理なら今すぐテメエのチンポコ踏み潰して二度と求愛出来ないようにしてあげる」
「私たちのカイくん」は瞬く間に顔を青くした。可哀想な「私たちのカイくん」はきっと、自分に声をかけられて喜ばない女子がいないと、当の女子たちに思いこまされていたに違いないのだ。
顔を青くしたまま固まってしまった「私たちのカイくん」は、聖マリア様のような笑顔を浮かべたカナタに「なに? チンポコ潰して欲しいの?」と止めを刺され、うひぃ! なんて無様な悲鳴をあげて逃げていった。
夕日に向かって遁走する「私たちのカイくん」を尻目に、ワタシとカナタはお互いに親指を立てて祝杯を挙げたものだった。あの日カラオケで一緒に熱唱したレミオロメンの「粉雪」が気持ちよかった。
「ね、ニセモノなんてあんなものよカナタ。自分たちの信じるバカなニセモノの物語で、本物のワタシたちをニセモノと一括りにしようとする。そんなものに負けちゃダメだし、そもそもちゃんと対処すればあんな頭の悪いニセモノ何かに負けるわけないんだから」
「でも、気持ちよかったなあ。あのバカの間抜けヅラ。なんていうか、ワタシたちをいじめる連中もあんなものだって思っちゃうと、ぜんっぜん屁でもないって感じだよ」
「まああんなやつのちんぽこなんて踏みつけるのだってゴメンよ。ワタシが興味あるのはミサトの安産型なおケツだけ」
「……この変態め」
「でも、そんなワタシが好きなのよね? 言ってくれればおっぱいくらいは揉ませてあげるから、遠慮しないでちょうだいね」
カラオケからの帰り道での会話。
今思うと、本当に甘かった。
さて、もちろんここまでは前フリだ。問題はここから、カナタにボコボコにされた「私たちのカイくん」が女子たちに泣きついたことで、いよいよ「私たちのカイくんが貞子ごときにたぶらかされた」なんて噂になってしまったのである。
ただでさえ普段からイジメを受けていたのに、ここからますますヒートアップしていったのだ。
せいぜいが無視やシカトや陰口にちょっとした嫌がらせ程度だったのが、本格的な「危害」を加えだしたのだ。
具体的に言うならば、せいぜいが砂を詰められる程度だった上履きは切り刻まれ、ゴミをつめられる程度だったロッカーその中身にはカラスの死骸がつめられていた。
持ってきた弁当は目の前で捨てられ、上履きだけじゃなくて体操着も切り刻まれ、トイレに行けば閉じ込められて水をぶっかけられる……別にもっとあげてもいいのだが、とにかくこんな感じのことを毎日毎日やられたのだ。カナタのことを「心の底から愛してる」と豪語した「私たちのカイくん」はそんなワタシたちのことを一切助けなかった。ある日、カナタの水筒に精液の入ったコンドームが入っていて、カナタは便所に駆けつけて思いきり吐いた。女子たちのクスクス笑いが聞こえてくる中、「私たちのカイくん」は私のことを見てニヤニヤと嫌らしく笑っていた。「小説に銃が出てきたのならば、その銃は撃たれなければならない」なんて言葉をいつかどこかで聞いたか読んだけれども、もし今この場に拳銃があったならば、間違いなくあの腐ったニヤニヤ顔に風穴を開けるために存在しているに違いなかった。トイレから帰ってきたカナタは、例のボンヤリとした真っ暗な瞳を浮かべていた。
ワタシたちは本物で、彼女たちはニセモノのはずだった。しかし、この教室ではニセモノの言葉こそが行為こそが崇められていた。だからこそここは墓場だったのだ。
そんな感じで十二月を迎えたワタシたちは、もうすっかり限界だった。身も寒ければ心も寒くて、本当にもう、ボロボロだった。
ワタシたちはいつしか教室で会話をほとんどしなくなり、休み時間にはヘッドフォンを被って音楽を聴いていることが多くなった。
その頃、ワタシがもっぱら聴いていたのはフジファブリックの「銀河」だった。こいつをひたすらにループ再生して聴きまくった。
これは出会いの日、カナタがワタシに聴かせてくれた曲だった。
そしてこの日の放課後、ついにワタシたちの逃避行の火蓋を、カナタが切ったのだ。
放課後、ワタシの家で遊ぶことにしたワタシとカナタは、帰りにCDショップで買ったアイドルのニューシングルを聴いていた。
これはニセモノたちの間で流行っているアイドルのポップスで、ワタシたちはこいつを笑うためにわざわざ買ってきたのだった。
こういう発想が普通に出てきている時点で、精神的に相当キテいたことが伝わるような気がする。
「相変わらず、五分後には聴いてたことも忘れちゃいそうな曲だよね」
軽率で軽薄で矜持の欠片も見受けられないまさに軽さだけが売りの曲。こんな曲を聴いてハイになれるなんて、ニセモノの連中はなんて幸せな集団なんだろうと思った。
「なーんかここまでスッカスカな曲だといっそ清々しいものがあるよね。こんなのがオリコンとかで上位に食い込むんだから、ホントバカしかいないっていうか、こんなスカスカの連中があんな下らないことばっかりやってくるんだから本当にやんなっちゃうよ」
「…………」
「実際こんなの、ヘッドフォンつけて聴くまでもないよね。こんなのをじっくり聴くなんて、ただの拷問だよ」
「…………」
今ワタシたちはワタシのIPODをヘッドフォンも何もつけない状態で聴いている。
というのも、ワタシのヘッドフォンが先生に没収されてしまったからだ。
ワタシたちは当たり前のように休み時間にヘッドフォンを取り出して曲を聴いていたりしたわけだが、当然ながらそういうものの持ち込みは校則違反だ。だから休み時間が終わる数分前にはしっかりカバンの中にしまっていたし、少なくとも授業中のワタシたちはとても模範的な生徒だった。だから先生も恐らくは感づいていても、取り立てて何も言ってこなかったのである。
しかし、流石に隣にいた女子に無理やりカバンを漁られてヘッドフォンを晒されたらそりゃあもう没収されてしまうのだ。どういう訳か、IPODにまで被害が及ばかなかっただけまだマシだと思った方がいいと思う。
おかげで、卒業式の日までヘッドフォンが返ってこなくなってしまった。
「あーあ。あのヘッドフォン結構高かったんだけどなあ、ワタシのお小遣いの一年分だよ、一年分! ……まあせっかくだし、今度はもっといいの買おうかな? バイトでも始めてさ。ねえカナタ、何か良い機種知らない?」
「…………」
「……ねえ、聞いてるカナタ? なんか今日うちに来てから一言も喋ってなくない?」
「…………」
「な、なんだよカナタ、気味悪いなあ。普段はおしゃべり変態大魔王なカナタがそんな黙りこくってたら、なにを企んでるかって思っちゃうじゃん! なに? とうとうワタシに夜這いでも仕掛けようっての? だったら部屋を暗くしてこんなチャラい曲じゃなくてもっといい感じのムードの曲を……ってさせないからね!? っつーかなにムダにノってるのワタシ!?」
「…………」
こんな感じにずっとワタシが喋り通しても、なんの返事も返ってこなかった。俯いていて、長い髪が影になっていて表情も見えない。
思えばこの日はずっとこの調子だったのだ。今日の五時間目の体育が終わってからずっと、何かに動揺している感じがして、それがだんだん鬱屈したものになっていったような……。
「カナタ……ねえ、ホントどうしたの?」
「…………」
「ねえカナタってば」
「うるさい」
顔を覗き込もうとしたワタシは、唐突に振り返ったカナタと目が合った。ボンヤリとした真っ暗い目。ワタシは反射的にビクリと後ずさった。
イジメがエスカレートして以来遭遇する頻度の多くなったその目。
いや、そもそも今みたいに本格的にイジメが始まる以前にも、学校に行く必要のなかった夏休み中にさえ時折浮かべていたその目。
ボンヤリとしていて、真っ黒くて、見えない敵と闘っているような……。
カナタはそういう敵たちの、ボンヤリとした真っ黒さに怯えているようにも見えた。
あるいは、そういう敵たちに、カナタ自身の姿を見出しているような……。
カナタはにわかに立ち上がると、アイドルのCDジャケットとカバンを持ってワタシの部屋から出て行った。
え? ちょ、ちょっと? っていう感じで慌てて追いかけたものの、カナタの足取りはとんでもなく速くて迷いがなくて追いすがるだけでも大変だった。カナタのそのオートマティックな足取りが露骨なまでに機械的で、その後ろ姿がとても怖かった。
「ね、ねえ! カナタどうしたのいきなり! マジで意味分からないんだけど!」
「うるさい」
「いやうるさいじゃなくて! っていうかそれワタシが自腹で買ったヤツだし! 結構ワタシ金欠だったのにわざわざこの為だけに買ったヤツで!」
「うるさい」
「……なに? ワタシなんかカナタを怒らせるようなこと言った? なんかホント良く分からないけど、訳話してくれたら普通に謝るから! だからちょっと落ち着いて、止まって、ねえカナタぁ!」
「うるさい! うるさい! うるさい!」
行き先も分からないままにカナタの後を追い呼び止めてもひたすらにうるさいの一辺倒だった。
最後の方になるとワタシが何も言うでもなくても「うるさい!」を叫び続けていて、ワタシはカナタに言葉をかけることを諦めてしまった。
うるさいと叫び続ける機械と化したカナタが辿りついたのは、家の近所にある公園だった。夕方の時間帯ということもあって、鬼ごっこをして遊んでいる子どもたちや、犬の散歩や買い物がてらに井戸端会議をやっている主婦たちがいる。カナタは公園の真ん中で立ち止まり、カバンとCDのジャケットを握り締めながら地面を睨みつけていた。例の、ボンヤリとした真っ黒い瞳で。
「ハァ……ハァ……も、もうカナタ、ちょっとホントいい加減に……!」
なんとか追いついてカナタのそばに歩み寄ろうとしたその時、カナタはカバンを放り投げ、「うあああぁっぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁっぁあああぁあああぁぁあああぁぁぁあああああああああ!」と叫びながらCDを思い切り地面に叩きつけた。ただでさえ公園のど真ん中で仁王立ちだなんて普通に耳目を集めそうなのに、そんな奇行に及んだものだからいよいよみんなの目がこちらに集まってきた。鬼ごっこをしていた子どもたちは一斉に立ち止まってカナタのことを見つめ、主婦たちもおしゃべりを止めて何事かとこちらを遠慮がちに眺めていた。
「うるさい! うるさい! うるさいのよ! どいつもこいつも本物のほの字にもたどりつけやしないニセモノどもが! こんなものをありがたがるからニセモノどもはバカなのよクズなのよ愚かなのよ! こんな曲をありがたがる程度の脳みそしか持ってないからワタシたちみたいな本物に嫉妬して焦燥して逆ギレしてワタシたちにあんな下らないことをするのよ! ワタシたち本物を踏みにじってそんなに楽しいかクソクソクソクソクソ! こんなニセモノのセカイなんてもううんざりよ! どいつもこいつもぶっ壊してやるぶっ殺してやるこうやってこうやってこうやってええええええええええええええええええええええええええ!!!」
カナタは吠えに吠えながら叩きつけたCDをひたすらに踏みつけ叩き割り粉々に砕いた。ジャケットも中身のCDもとっくの昔に粉々になっても、それでもカナタは飽くことなく叫びながら踏みつけ続けた。鬼ごっこに興じていた子どもたちは大声で泣きながら逃げ出し、近所のおばさんたちは潜める気のないヒソヒソ声で「ヤダァ、ちょっとホントなにアレ」みたいな会話を早口に取り交わして吠える犬を引き連れてそそくさと去っていく。
ワタシは、しばらく呆然としてなにも出来なかったが、気を取り直すとワタシはカナタのことを羽交い絞めにして無理矢理に止めた。
「カナタ、ちょっとカナタ本当に止めて! お願いだから! ねえ、カナタ、カナタぁ!」
最初は奇声をあげながらジタバタと暴れていたカナタも、やがて落ち着くとハアハアと荒い息をあげながらその場に立ち尽くした。
「カナタ……」
ワタシがなにかを言おうとする前に、カナタは自分のカバンをゴソゴソと漁ると、タオルに包まれていた、なにかの機械の破片らしきものを地面にばらまいた。
一瞬これがなにか良く分からなかったけれども、破片の一つに耳の大きさくらいの楕円形のスピーカーを見つけた時、これがかつてカナタのヘッドフォンだったものであったことを把握した。ワタシは吐き気をこらえるように両手を口にあてた。
「なにこれ、酷い……!」
デカくて無骨でいかにも高そうなヘッドフォンだったものは濃度の高い悪意と暴力によって破壊されていた。そのあまりにも度の過ぎた凄惨さに、見ているこちらまで絶望的な気分になってくる。
そういえばおかしいとは思ったのだ。
なんでワタシのヘッドフォンを先生に没収させておいて、ワタシ以上にヘッドフォンにこだわりを持っていたカナタには一切の手出しをしなかったのか、と。
思えば今日の嘲笑はワタシにではなく、圧倒的にカナタに向けられていた。それこそ五時間目の体育の時間、カナタがカバンを覗いた時に浮かべていた露骨に動揺する表情と、その後の鬱屈とした態度で気づくべきだったのだ。
「ミサト、もうワタシイヤだよぉ……」
こちらに振り向いたカナタは、ポロポロとあられもなく涙を流しながらワタシに抱きついてきた。
「もうこれ以上こんなセカイにいるのはイヤ。こんなニセモノに囲まれたセカイにいるなんてワタシには耐えられない……ここにいると、どんどんワタシの本物がニセモノたちに壊される……」
ワタシはカナタの背中を優しく叩きながら、かたわらのヘッドフォンの残骸を眺める。
確かにワタシたちは奪われたし壊された。ヘッドフォンという大切な本物の象徴を奪われ、壊されたワタシたちは、これ以上一体なにを奪われ、壊されていくというのだろうか。
ワタシたちは本物だという尊厳だろうか。
今のワタシたちに、それを守りぬくことは本当に出来るのだろうか。ワタシは、それ以上にカナタは耐えることが出来るのだろうか。
分かっている。
無理だ。
無理だけど……無理だと分かっていても、他に方法がないじゃないか。耐えきれないと分かりきっている戦いに、それでも向かっていかなければならない絶望。強大なニセモノに立ち向かわなければならない絶望。
絶望、絶望。
それ以外に、なにもない。
ここはセカイに侵略された世界の、どん詰まりだった。
「カナタ」
その時、ポツリとカナタが言った。
「一緒に、逃げよう?」
カナタの瞳は、例のぼんやりとした真っ黒い色が浮かんでいた。
「ワタシと一緒にここから逃げようよ。こんなニセモノのセカイから……本物のワタシたちにふさわしい場所に」
こんな目をしたオンナノコに、これ以上戦えと言い放つ権利のある人間が、一体この世のどこにいるというのだろうか?
「そうだね……」
だからワタシは頷いた。カナタの逃避行に着いていくことに決めたのだ。
「ワタシ、どこまでも着いていくよ、カナタのいるところになら、どこまでも」
たとえそれがどこに行き着かなくとも、絶望しかない戦いに向かっていくよりはよっぽどマシだと思ったから。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
IPODを破壊し尽くしたカナタは、その場に泣き崩れてしまった。「あうああ……」なんて、幼児めいた泣き声を漏らしながら。
思えば、始まりは一緒だったのだ。
逃げ出したところでどこに行き着く訳がないと分かっていて、それでも逃げ出すしかないという絶望を抱えていて、だからこそワタシたちは一度立ち止まった。
だけどワタシはカナタさえいればそれでもいいと思えたのだ。だから展望台というゴールから眺める風景を見るだけで、それだけでまだ闘えると思っていた。それはある種の諦観、だけどこのニセモノのセカイに立ち向かっていけるという確信でもあった。それはきっとカナタも一緒だろうと思っていた。
しかしカナタはワタシの言葉に可能性を見出してしまったのだ。「ちゃんとしたゴール地点」という言葉に、本物の世界というありもしない可能性を見出してしまったのだ。
本当にカナタは、ワタシが思っていたよりも、ずっと、ずっと、脆いオンナノコだったのだ。ワタシが見出していた諦観を、ありえもしない可能性と錯覚してしまうくらいには。
ワタシは、これ以上なんて声をかけてあげればいいのだろうか。本物の世界の、本物の言葉以外には、一切なにも受けつけることの出来ない、このとても弱いオンナノコに。
涙に震えていたカナタの身体が、ピタリと止まった。
「……さま?」
なんの前触れもなく顔を振り上げたカナタが言った言葉を、ワタシは聞き取れなかった。
「ノ・モーンッホさま?」
ただ、ワタシは直感的に分かっていた。
それは絶対にロクな言葉じゃないと。
果たしてそれが真実だったと判明した時、そしてその言葉を口にするカナタのグロテスクなまでにキラキラと光り輝く瞳を見てしまった時、ワタシは心の底から戦慄した。
「ああっ! ついにおいでになったのですね、ノ・モーンッホさま! ワタシを本物の世界に導くために、ついにワタシにその御霊を表し遊ばされたのですね!」
もちろん、その御霊とやらはどこにもいなかった。だけど、考えたくもないことだったけど、カナタにはきっとその御霊とやらがはっきりと見えてしまっているに違いなかった。
「カナタ……ねえ、なに言ってるのカナタ?」
「ワタシずっと辛かったんですよ! どいつもこいつもニセモノばかりで、そのくせにワタシのことをイジメにイジメ抜いて、だからワタシはこんなセカイぶち壊してやりたいんですよ!」
「ねえ、カナタ止めて! お願いだから止めて! カナタ、どうかしてるよ! ホントにどうにかしちゃってるよ!」
「……え? このセカイは壊せない? ……だけどワタシを本物の世界に連れってくださるって! ありがとうございます! ありがとうございます! これでワタシは救われました! 本物のワタシについに本物の救いが訪れた! ありがとうございますありがとうございますありがとうございます!」
「ねえカナタ聞いて! この世界に本物もニセモノもないの! そんな風に世界を単純に0か1で割り切っちゃダメなの! 本物もニセモノもごっちゃになった世界に、どうしようもない世界に、それでもワタシたちは生きていかなきゃダメなの! ワタシがここに行こうって言ったのはそれを確認するためで、カナタをそんな変なホンモノの世界なんかに連れて行くためなんかじゃ……!」
「うるさいいいいいいいいいいいいいいいいい!」
カナタにしがみついて叫んでいたワタシは、ものすごい力でカナタに突き飛ばされた。
へたりこむワタシを見る時のカナタの瞳はぼんやりとして真っ黒かったけれども、すぐに「ノ・モーンッホ」さまの御霊――ワタシから見たら訳の分からない虚空――の方を見だすと、カナタの瞳はまたすぐにキラキラと光り輝きだした。
「はい……はい! 分かりました! 向かいます! すぐに向かいますとも! ええ、こんなニセモノなんて知りません! そうですとも、このセカイに本物はワタシ一人なのですから!」
気を抜くと言葉として聞き取れなくなるくらいに速く、痛々しいまでにカスれるくらいに高く、駄々をこねる幼稚園児みたいに幼く。
まさにそれはそんな声だった。
カナタは幼稚な無邪気さでバンザイをすると、その姿勢のまま森の中へ走っていった。
ダメだ!
その姿を見た時ワタシはそうはっきりと思った。そして思うなりワタシはすぐに立ち上がってカナタの後を追った。バンザイの姿勢のまま走っているクセにその足は信じられないくらいに速くて、かつてないほどに全力で走っているワタシの足ですら見失いそうになったほどだった。
だけど、このままカナタをどこかに走らせてしまってはダメなのだ。今ここでカナタのことを見失ったら、カナタは絶対にどこかへと消えていってしまう。このセカイではないどこかへといってしまう。それだけは絶対にダメだった。たとえこれから向かおうとしているセカイが本当に本物の世界であったとしても絶対にダメだ。カナタはきっとそこでさえダメになってしまう。絶対にそうなのだ、それは間違いがないのだ。だからワタシはカナタを引き止めなければならないのだ。
真夜中の森は真夜中の住宅街と比べてありえないくらいに暗くて、このままカナタのことを見失ったら絶対に遭難するんだろうなあと思うと走っているうちに泣きそうにもなって、だけどそれでもワタシは絶対に足を止めることはなかった。
ワタシはワタシで、カナタはカナタ。
そのワタシであるところのワタシとして、絶対にここで足を止めてはならないのだ。
ワタシはワタシとしての役割を果たさなければならないのだ。そしてカナタにカナタとしての役割を果たさせなければならないのだ。
たとえそれによってニセモノのセカイを守ることになったとしても、本物の世界を敵にまわすことになったとしても。
カナタはやがて森の中にあったオンボロの小屋の中に入っていった。ワタシもその中に入ろうとしたけれども、ワタシが入ろうとした途端に扉がものすごく硬くなってうんともすんとも言わなくなった。
「このぉ! ……開けろ、開けろよクソお!」
いくらドアノブをひねってもムダだと悟ったワタシは、ドアに向かって思いっきりタックルをし始めた。このクソドア、見た目は今にも自壊しそうなくらいにオンボロなのに、まるでコンクリートに体当たりしてるみたいに硬いのだ。
「っざけんなノ・モーンッホぉ! カナタを返せよこの野郎! 本物をテキトーに逆さ読みしただけの読みづらい架空異星人の分際で、カナタを訳の分からないホンモノのセカイとやらに連れてこうとしてんじゃねえよクソがぁ! 開けろ! 開けろ! 開けろおおお!」
十数回体当たりをしたところで、ワタシはあっけなく山小屋の中に入れた。いや、というか十数回目の体当たりの時には、そのオンボロのドア自体がなくなっていた。
よって体当たりの勢いのままで思いっきりつんのめったワタシはそのまま「ぶへっ!」と床に倒れ込んだ。
「なあんだミサト。ニセモノの分際でワタシたち本物を渇望しちゃうんだ?」
頭上から降ってくる声に顔を上げると、そこにはキラキラ瞳のカナタと、機械みたいな顔をした異星人らしき二人の男がワタシのことを見下ろしていた。
いや、そこはまだいいとして。
「カナタ……なにその服?」
「え、これ? ああ、これはノ・モーンッホ特性の本物スタイルよ。どうすごいでしょ? 憧れちゃうでしょ?」
「カナタ……ありえないよその服……!」
まるで疑うことを知らないカナタの言葉に、ワタシは思わず首を振る。
実際ありえないくらいダサい。ただダサいだけじゃなく、絶望的にダサかった。もはやそれは立派な狂気だった。
まず全身タイツというだけでありえないのに、何故だか頭から訳の分からない触覚が三本生えていて、肩には北斗の拳の雑魚キャラみたいな肩パットがついている。銀色を基調に赤だの青だの緑だのといった目に痛い原色が、ウルトラマンの中途半端でお粗末なパロディみたいな感じのデザインで塗りたくられていて、挙句の果てには真ん中にマジック(もう明らかにマジック書きなのだ)に下手くそな字で「ほんもの」と書かれていた(「の」の字が悲惨なくらいにかすれていた)。この下手さは、絶対に狙って出せるものではなかった。見ているだけで不安定になる下手くそさだった。
こんなグロテスクなものを着て、そんなキラキラと光り輝く目でいられるなんて、こんなの誰がどう考えてもまともではなかった。
「……まあいいわ。ワタシたちはこれから本物の世界に行くための儀式をするの。本物の音楽に彩られた本物のダンスで本物の世界へ連なる本物の門を呼び出すの。ミサトはそこで指を咥えて見てなさい」
「違う! カナタがこれから行こうとしてるのはホンモノのセカイだ! カナタを彩ろうとしてるのはホンモノの音楽だしカナタが踊ろうとしてるのはホンモノのダンスでホンモノのセカイにしか辿り着けないホンモノの門しか呼び出せない! っていうかそれすら絶対に呼び出せない! だって、今カナタが本物って呼んでるそれは、全部が全部、ただの粗悪なニセモノなんだから!」
ワタシが言い終えるや否や、カナタは口を大きく開いて「キエエエエ!」と奇声をあげた。ワタシは思わず耳を塞がずにはいられなかった。カナタの横にいる二人の男も全く同じように口を大きく開いてカナタに唱和している。ニセモノであるワタシの言葉をただニセモノとして排除しようという訳だ。この醜さは、紛れもなくワタシの前の友人たちがオタクを「キモイ」の一言で切り捨てるそれと全く同じものだった。
「所詮ニセモノはニセモノってことね。もういいわ、ワタシたちはこれから儀式を執り行うから。もうミサトとはお別れね」
そういいながらカナタはワタシの横の方を指差した。そこには今日没収されたはずのヘッドフォンが、少なくともIPODではない良く分からない小型の機械に接続されて置かれていた。そしていつの間にか、カナタの手元には、跡形もなく破壊されたはずのヘッドフォンが握られていた。
「万が一本物の世界に行きたいっていうのなら、それを被ってワタシと一緒に踊りなさい。そうすればミサトは本物の世界にたどり着けるから……
出来ればワタシは、カナタと一緒に本物の世界に行きたいな」
ワタシの見込んだ、本物の親友であるミサトと一緒に。
カナタに対する絶望に支配されていたワタシの心に、カナタの言葉が光のように差す。
思わずカナタのことを見ると、そこには確かにいつものカナタがいた。
神様のような自信に満ち溢れた、いつもワタシのことを前へ前へと導いてくれるカナタが。ちょっとドン引きするくらいのド変態だけれども、ワタシよりもはるかに美しくてかっこいいカナタが、確かにそこにいた。
しかしそんなカナタはすぐに引っ込み、例のキラキラとした瞳に戻ると、カナタはヘッドフォンを被り、横にいる男たちと一緒に踊り始めた。
いや、それはもはやダンスだなんて呼べる代物ではない。そしてどういう訳だかワタシの耳に聞こえてくる音楽も、もはや曲の体裁をなしていなかった。
「ほらほら見てよミサトすっごい楽しいよ! ほら! ほら! 本物パンチ! 本物キック! 本物ターン!」
そんな雄叫びをあげるカナタの身体の動きは形容のしようがないくらいに稚拙で、その稚拙さのあまりにおぞましくすらあった。間違ってもそれは、理性のある人間が楽しそうに振舞っていい動きではなかった。
曲だって酷い。メロディラインもはちゃめちゃなら音の出し方も酷くて、ギターとベースとドラムとピアノとトロンボーンとチェロとオルガンとオーボエと和太鼓と小太鼓を全くバラバラに演奏しているようなそんな曲だ。いや、むしろ雑音だ。
だけどそれでも、カナタの表情はとても晴れ晴れとしていたし、その瞳はとてもキラキラとしていた。恐らくカナタがこんなに自分を解放できるのは、このホンモノのセカイをおいて他にないんだろうな、とも素直に思ってしまった。
なんだか、心の底からバカバカしかった。
ホンモノのセカイに無様に没入するカナタの存在がだけじゃない。ニセモノのセカイとの対峙を本気で考えていて、カナタと一緒なら乗り越えられると信じていたワタシ自身もだ。
きっと、人間は自分のセカイを超えることが出来ないのだ。自分にとっての心地のいいセカイ以外に、自分の居場所を見出すことが出来ない。だからきっと人は、その居場所を守るために、時にはそれを奪うために、傷つけたり、傷つけられたりするのだ。
だからワタシの元友人たちにとってオタクは永遠にキモイ存在なのだ。
だからオタクたちにとってワタシたちみたいな女子は永遠に恐怖の存在なのだ。
だからカナタにっとてニセモノのセカイは永遠にニセモノなのだ。
そうしてワタシたちは傷つけあっていくのだろう。それに耐えられないものはどこか別のセカイへといってしまうのだ。
永遠に、永遠に……。
ああ、本当に。
どうしようもないセカイなんだ、ここは。
全てを諦めたワタシはため息をつくと、かたわらに転がっていたワタシのヘッドフォンを手に取ろうとした。
デカくて、無骨で、いかにも高そうなヘッドフォン。
――やっぱりミサトとお友達になれてよかった。
その時、ワタシの脳裏に言葉が浮かんできた。それは、かつてカナタに言われた言葉。
――ミサトのその尊い強さはね、沢山のニセモノたちに埋もれてしまった、尊い本物に手を差し伸べて、このセカイを美しいものにするためにあるの。
こんなことを言ってくれたカナタは既にもういなくなってしまったはずだった。かつてカナタだったものは、ワタシの目の前で本物パンチや本物キック等を繰り出している。
迷妄だ、こんなのはもう迷妄なんだ。
だけど、そう思おうと思えば思うほどに、カナタのこの言葉がグルグルグルグルと頭の中を回って、離れてくれなかった。
離れろ離れろといくら思っても全く離れてくれなくて、だけどそのうち、この言葉を離したくなくなってしまった。この言葉を離してしまったら、その時にこそ全てが終わってしまう気がした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ワタシとカナタが本格的に仲良くなる前。
ワタシはかつてカナタにワタシの初恋の話をしたことがあった。それは、親にすら話したことのない苦い思い出。
YouTubeで見たフジファブリックのライブ映像の話をしていた時になぜか思い出した出来事で、ワタシは唐突にそれを語りだしたのだ。我ながらとつとつとしていて要領を得ない感じだったけれども、カナタは余計な口を挟むことなく、最後まで黙って話を聞いてくれた。
ワタシは中学二年生の時、教室の片隅でいつも本を読んでいた男の子が好きだった。確か名前はミネカワユウイチ。彼の友人からはユウちゃんと呼ばれていた。
なんだか近寄りがたくて、だけど彼に漂っていた豊かな静かさがとてもキレイなものに思えて、気がつけば彼のことについて考えを巡らせる時間が多くなっていた。いつもは一人で本を読んでいる彼だけれども、たまに大人しそうな男子たちと話をしている姿に思わず目が惹かれていた。彼の話し方はとても落ち着いていて、心地がよかった。彼のしていた話の内容はよく分からなかったけれども、周りの男子たちはいつも彼の話を夢中になって聞いていた。ワタシもそんな彼と、心の底から話がしたいと思っていた。
だけど結局、彼と話をすることはなかった。
二年生の時のバレンタインデーの日。
その日の放課後、HRが終わるなりワタシはこっそりと教室を抜け出して玄関の前にやってきた。この期に及んで直接渡すのが恥ずかし過ぎたワタシは、せめて下駄箱にこっそり入れてさっさと帰ろうとしたのだ。しかしそれさえもためらって、玄関の前をウロウロしているうちにワタシの友人たちがやってきて、ベラベラと自分の話をし始めた。
それはワタシの友人が「キモチワルイ男子」に「逆チョコ」を渡されたのを手酷く拒否ってやったという話。その「キモチワルイ男子」は彼の友人だった。彼とその友人は特にいつも一緒にいたからもしかしたら親友だったのかもしれない。
――あんな根暗でキモイ奴らのチョコなんて、誰が貰ってやるかってのよ!
それは一際はばかりのない声だった。
そしてそのタイミングだった。嗚咽している男子と、それを優しくなだめている男子、その二人組が曲がり角から出てきたのは。
「キモチワルイ」の一言で恋心をバッサリと切られた男子と、ユウちゃんだった。
嗚咽していた男子はその涙を数秒間止めて、そしてより一層激しく嗚咽し始めた。ワタシの友人たちは冷淡に「なにあれ泣いてんだけど。マジキモイ」とヒソヒソ声で言い放つ。
ユウちゃんはしばらく無言でその場に立ち尽くし、それからなにも言うことなく友人を連れて玄関に向かった。すれ違いざま、彼はワタシたちのことを思い切り睨んだ。普段の彼からは想像もつかないくらいに、しかし彼にしか放てないであろうとも思わせる、静かで鋭い殺気を孕んだ瞳。彼らが歩いてきている間も「ヤダー」なんて言っていた彼女たちも、彼のその殺意には思わず沈黙せざるを得なかった。ワタシの友人の一人は、「ヒッ」と短い悲鳴をあげながら背後に一歩たじろいだ。実はそれはワタシだったのかもしれない。
しばらく一触即発の雰囲気が漂って、彼の友人が「止めてくれユウちゃん! 頼むから止めてくれ!」と間に入ったことでその場は収まった。彼はとても悲しそうな表情で彼の友人に「ごめん」と謝って、ワタシたちとは目を合わせることなく玄関から帰っていった。
とても耐えられなかった。
ワタシは、精一杯の作り笑いで「ごめん、用事思い出したから帰るね」とめちゃくちゃ早口に言って、友人たちの返事も待たずに物凄い勢いで走って帰っていった。
めちゃくちゃに走って、カバンの中に入れていた手作りのチョコレートを通学路から少し外れたところにあるコンビニのゴミ箱に捨てて、その場でゲロを吐くように泣いた。
結局それから彼とは二度と話をすることもなかったし、高校も別々で二度と会うこともなかった。
後で知ったことだけれども、彼は学校始まって以来の優秀な生徒で、東大生とか京大生とかをバンバン輩出するような名門高校に入学した。それを知った一部の女子たち――その中には学校一の美女ともてはやされた女子も含まれていた――彼にアプローチをかけたらしいけれども、彼はその全てをやんわりと断ったそうだ。
「なんかさ……ワタシが抱いてた違和感って、多分その辺りから始まってるんだよね」
それでカナタみたいな人に惹かれた理由もその辺りから来てる。
そんな感じのことを、ワタシはポツリ、ポツリと言った。
「別にワタシの友人もチョコを受け取らなきゃいけないって訳じゃないし、そのことで不快感を抱いちゃいけないって訳でももちろんないんだよ。彼の友人の方も、なんかとんでもなくトンチンカンなこと、キモチワルイことをしたのかもしれない。でも……だからって、あそこまで酷いことにならなくちゃいけなかったのかなって。なんでもうちょっとだけでも、彼らのことを分かってあげようとしなかったのかなって。彼らの方ももうちょっと彼女たちのことを、オンナノコのことを分かってあげられなかったのかなって……どうしても、どうしてもそんなことを思っちゃうんだよ」
自分でも何が言いたいのかが良く分からない。分からないけど、どうしてもそういうことを思ってしまうのだ。そういう言葉にならないような気持ち、どういう言葉が適切なのかが分からないもどかしさが頭の中をグルグルと回り続ける。
結局、いくら考えても無駄なのかもしれない。恐らく誰だって自分以外の人間はあくまで「他人」だってことは分かってる。
だけどそれだと不安だから、一人ぼっちは不安だから、そういう「他人」同士で一緒になる。そこには確かに友情もあるんだろうし、恋情だってあるのかもしれない。だけど彼らはその集団の外にある想像力に触れた時、あまりにも違う想像力に触れた時、彼らがどうしようもなく「他人」であることを思い知る。だから彼らはそういうものから目を背けて、酷い時には暴力を振るう。
ワタシはそういうものに対して、どうしても違和感を拭えずにいた。そして……多分きっと、心の奥底ではそういうものを悲しく思っていたのだ。
「ワタシ、ユウちゃんのことが好きだった。本当はユウちゃんと話がしたかったし、ユウちゃんのことを知りたかった。ただそれだけだったのに、なんでこんなことになっちゃったんだろう……バカみたいだよ、ワタシ」
ワタシは軽くハハッと笑って、それっきり黙ってしまった。自分でもなんでこんな話をし始めたのか分からなくて、だからこの感情にどう決着をつけていいのかも分からなかった。ポッカリと胸に穴が空いたような虚しさばかりが募る。
こんな話しなきゃよかった。
後悔して、適当なことを言って電話を切ろうとしたその時だった。
ミサトの笑い声が――とても、とても、穏やかな笑い声が、ワタシの耳を優しく撫でた。
「やっぱりミサトとお友達になれてよかった」
ワタシは反射的に「え?」と返して、そのまま呆然としてしまった。
「普通の人以上に隣の人間のことを考えてしまうくらいに感受性が強くて、そうすることで傷ついてしまうくらいに優しくて、それでもそういうものから逃げないで、向き合って、言葉に出来るくらいには強くって――だから、ワタシみたいないじめられっ子にまで目をつけられちゃうような、どうしようもなく、損をしてしまうオンナノコ」
そうなんだろうか。
ワタシはその程度にはバカな奴なんだろうか。言われてしまえばそんな気しかしなくて、否定をしようがなくて、とてもとても悲しい気持ちになってきた。
苦い笑いがワタシの口から漏れる。
「……ホント、どうしようもないバカなんだね、ワタシって」
「ええ、バカね……でもね」
そんなカナタだからこそ、きっと、なによりも美しい本物に巡り会えるよの。
ワタシは言葉を失っていた。視界が曇って、頭の中を訳の分からない多幸感が支配して……ただただ、胸に迫ったそういう思いが決壊しそうになっていた。
「傷ついて、悲しくなって、みっともなくなって、それでもその先にある美しいなにかを求めることを信じられる強さを持ってる。
ミサトのその尊い強さはね、沢山のニセモノたちに埋もれてしまった、尊い本物に手を差し伸べて、このセカイを美しいものにするためにあるの。
ミサトが、かつてユウイチっていう美しい本物を見出すことが出来たようにね」
ワタシの中でなにかが崩れた。
いつかどこかで崩れなくてはならなかったなにかが音を立てて崩れた。
ワタシはカナタに、救われたのだと思った。
ワタシは誰彼はばかることなく、それはもうみっともないくらいに泣き崩れて叫んだ。
泣いて泣いて泣きまくって、「ワタシ、ユウちゃんのことが好きだった、好きだったんだよう!」と喚いて、「だけどみんなのことも、ワタシの友達のこともちっとも嫌いになれなくて! 嫌いになっちゃいけないと思って、それがホントにホントに悲しかったんだよう!」と唸って、止まらなくなっていた。
ワタシはただただカナタの言葉が嬉しくて、ひたすらに泣きまくった。
誰にも分かってもらえないと思っていたこの気持ち、だからこそずっと心の奥底に溜め込んでいたこの気持ち。
ワタシという存在なんてちっぽけだって思ってて、だからこういう人に誇れることなんてちっともありはしないと思っていたワタシだけれども。
ワタシが、他でもないこのワタシだからこそカナタと巡りあえたというのなら、ただそれだけで自分の存在を誇れそうな気がした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
その翌日は土曜日だった。
ワタシは特に目的もなく貯めておいたお金を全部持ち出して、ヤマダ電気でヘッドフォンを買った。それで貯めていたお金は大体消えた。それからワタシはツタヤに行って、カナタが好きだと言っていた曲を色々と借りた。
そして月曜日。
朝一番でカナタのところにやってきたワタシは、後ろ手に隠していた新品のヘッドフォンを「じゃーん!」と差し出した。
デカくて無骨でいかにも高そうなヘッドフォン……ワタシは敢えてカナタの持っていた奴とは違うものを選んだ。
「……学校ではワタシに話しかけないんじゃなかったかしら?」
ワタシの友人たちは、さも当たり前のように「貞子」に親しげに話しかけているワタシのことを唖然と見つめていた。何故だろう、その視線がむしろ気持ちよかった。
「だってヘッドフォン買ったんだもん。そりゃあ話しかけたくもなっちゃうよ」
最初はキョトンとしていたカナタも、やがて呆れたようにため息をついて苦い笑いを浮かべた。
「……そうね、それなら仕方ないわね」
「うんうん、仕方ない仕方ない」
そしてワタシたちは思いっきり笑った。
思いっきり笑った後、ワタシたちはお互いのヘッドフォンを交換しあって曲を聴いた。
何故って、そうするのが自然だったから。
ワタシたちはここから始めて行くのだ。
ワタシたちはヘッドフォンの奥のセカイに潜っていくことで世界を手に入れる。
お互いのセカイを、どのようなサウンドで聴くのかを認識したいと思うのは、それはもう当然のことだったのだ。
一曲聴き終えたカナタは、ワタシにヘッドフォンを返しながら「良い買い物をしたわね」と評してくれた。
それがとても嬉しかった――誇らしかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
気がつけば、ワタシの手に握られていたヘッドフォンが粉々になって砕けた。
別に特別に力を入れたつもりはない。気がついたらヘッドフォンの方から崩れ落ちてしまったのだ。
さらに視線を向けると、さっきまでカナタと一緒に踊っていた男たちも消えていたし、どういう訳だか耳に響いていた不協和音な曲も聞こえなくなっていた。
ただ、カナタが「本物リターン! 本物ウェーブ! 本物コークスクリューブロー!」なんてマヌケに叫んでいる声ばかりがこだまするだけだった。
ああ、なるほど、そういうことか。
ワタシは全てに納得がいった。
だから、ワタシがやるべきことは一つしかない。
ワタシは思いっきり、右の手――粉々になっていたヘッドフォンを持っていた手――を、思いっきり握り締めた。
なあに、要するに手を差し伸べるのだ。
尊い本物に向けて。
このセカイを美しいものにするために。
ただし――その前に、手を出させてもらう。
ポンコツと寝坊助オンナを目覚めさせるには、これが一番って相場が決まってるからだ。
「カあああぁぁぁぁぁぁあああああナああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああタああぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああ!!!」
だからワタシは思いっきり叫びながら、拳を振り上げてカナタに向かって突進した。
ワタシの渾身のストレートはまさに完璧と呼ぶにふさわしいものだった。
ワタシの拳が彼女の左頬に吸い込まれるようにキレイに入り、カナタはそのまま後ろに吹き飛んだ。
瞬間、カナタのヘッドフォンと「本物スタイル」が弾け飛んだ。あの狂気的にダサかった全身タイツから、元のコートとジーンズ姿に戻る。
カナタが崩れ落ちて、しばらくの沈黙。
ワタシは倒れこんだカナタの元にゆっくりと歩みだす。倒れたままのカナタは、左頬を抑えて「ヒィ!」と悲鳴をあげながら這いずるように後ずさった。多分今、ワタシは鬼の形相とやらなのだろうか。まあ、別にそうだったとしても、和らげるつもりは一切ないのだけれども。
「カナタ……周りを見てみなよ」
ワタシはわざと大げさに両手を広げながら部屋全体を見渡した。カナタもそれにつられてたのか、キョロキョロと挙動不審気味に首をあちらこちらに動かす。
どこをどう見てもオンボロの山小屋。
こんなところに本物の門とやらを呼びだす儀式を行うなんて実に酷いミスマッチだ。そんな妄想は中学生までに卒業するべきものだ。
ワタシはカナタの視線に合わせるように身をかがめて、ニコニコと笑いながら言葉を続ける。
「このボロだけの山小屋……こんなところでいじめられっ子の女子高生が全身タイツで訳の分からない動きをしながら本物本物と妄想を叫ぶ……ねえこんなものなんだよ、カナタのいう本物なんて」
「わ、ワタシ……ワタシは」
「こんなもんなんだよ!」
ワタシは怒鳴りながらカナタの胸ぐらを掴んだ。今にも泣き出しそうな瞳に映し出されたワタシの顔はなるほど、まさに鬼の形相だ。
「なんだよこのザマは! ええっ? 情けないにもほどがあるだろ! テメエの独りよがりなホンモノに逃げ出して閉じこもってそれで行き着いた本物の世界とやらがこれか! ねえ、ワタシはチョー失望したよ! ワタシが人生の中で一番大好きになった友達がこんな無様な醜態さらして、閉じこもって、こんな露骨なニセモノに騙されて一人ぼっちになろうとする! 周りのことをロクに見ないでなにもかもを敵視する! ……なんなの? アンタ本当に高校生? おっぱいの恋しい図体とおっぱいばかりのデッカい小学生が、学生服着て高校生ゴッコやってるだけじゃないの!?」
「止めて……ミサト、止めて」
「怖いか!」
ワタシが右手を振り上げると、カナタはまた「ヒイイイ!」なんて悲鳴をあげながらあられもなく顔をかばう。
見たくない。こんなカナタなんてちっとも見たくない。ワタシは思わず思い切り歯を食いしばる。
「こんなことを言い出すニセモノのワタシが怖いか! 怖いわよねえ? だってワタシがこうやってなにかを言えば言うほどカナタが本物でもなんでもない、ただの引きこもりのか弱いニセモノだってバレバレになっちゃうから! だけどそんなのはとっくにバレバレなんだ! あんたがホンモノを求めるのはニセモノを直視するのが怖くて安心できる場所にいたいから! 安全にニセモノたちを見下せる場所にいたいから! ホントバカだよカナタ……そんなことをやって見下されるのは自分だってなんでそれが分からないんだよお!」
「ミサト……」
カナタの表情に戸惑いの色が浮かぶ。
多分それはワタシがボロボロに泣いているから。
カナタのこんな姿を見なければならないのが本当に悲しくて、カナタにこんなことを言わなければならないことが本当に悲しくて。
本音を言うと、ワタシだって本当は本物が欲しかった。
そんなものはありえないってことくらい、高校生に上がる頃には分かっていた。だけどそれでもカナタに出会ったあの日、他でもないカナタにその本物を見いだしたと思っていたし思いたかった。
だけど結局はこのざまだ。ワタシにとっての本物だったカナタはホンモノというニセモノに回収されてしまうくらいに弱くて、情けないオンナノコだった。
だからもう、はっきりと言わなければならないのだ。たとえ身と心を鬼にしてでも。
だって、ワタシはワタシで、カナタはカナタでしかないんだから。
ホンモノとか、ニセモノとか、そういうのでは全くないのだから。
「ねえ……ワタシたちは認めるしかないんだよ……! このセカイは本物なんて手渡してくれないんだって! これこそが本物だって言ってくれる存在なんてないって! ワタシたちの周りにはどうしようもないくらいにニセモノしかなくて、だけどそれでも自分たちにとっての本物を勝ち取って行かなきゃならないんだ! そうしなきゃワタシたちは生きていけないんだよ!」
「止めて! もう止めてミサト! これ以上聞きたくない! なにも聞きたくない!」
ミサトはついに泣き叫んだ。
「ワタシは、どうしようもないくらいに弱いの! ワタシはミサトみたいに強くなんてないの! ニセモノたちに周りを囲まれるのが怖くて、だけど一人ぼっちも嫌だったからミサトを仲間に連れ込んで、依存して! その狭いセカイの中で満足する! ワタシはその程度の存在なの! だからもう言わないで! これ以上ワタシを傷つけないで!」
「ふざけるなあ!」
ワタシはカナタの頬に平手を張った。
もう本当にやめて欲しかったし、本当にやめたかった。
だけどワタシはやめない。
だって本物になったカナタは、それはもう本当に美しくてかっこいいんだから。
ワタシがカナタのホンモノを剥ぎ取ってやらないと、きっとカナタはいつまでたっても本物にはなってくれないのだ。
しかしこれは本当に、傷つくし、悲しくなるし、みっともなくなる。
だけど、そういう辛さに立ち向かう勇気をくれたのは、間違いなくカナタだったから。
「カナタが弱い? 寝言も大概にしろ! じゃあその強いはずのワタシを心の底から惹きつけたのは一体誰だ? カナタは戦えるんだよ! ワタシの知る限りで、一番かっこよく、華麗に戦えるオンナノコなんだ! 光り輝く本物のためにクールに戦える闘士なんだ! カナタに足りないのは勇気だけ! ニセモノなんて有象無象ごときにやられるのを恐れるくらいに、プライドばかりが高くて臆病なんだ! そうじゃなくて、誇り高くなれ! 前に進め! カナタの中の本物を、ニセモノごときにすりつぶされるな!」
だからワタシは叫んだ。
カナタに本物になって欲しいから、きっと本物になってくれるって信じてるから。
尊い本物に手を差し伸べて、このセカイを美しいものにするっていうのは、絶対に、こういうことに決まっているのだから。
「このニセモノに囲まれたセカイの中で本物を見つけ出すには、ニセモノのセカイから目を背けてちゃダメんなだよお!」
カナタの涙が止まる。
この世のなにもかも絶望したかのような目。時が止まってしまったかのような目。
だけど時間は止まらない。だってワタシたちは生きているから。生きている限りワタシたちの時間は止まらない。
カナタの絶望が、少しずつ動き始めた。絶望を絶望のままにして、だけどそれでもその絶望を受け入れるように、
「……ミサト。一つだけ応えて」
「なに?」
「ここは、ワタシがいるここは、一体どこ?」
一瞬なんのことか分からなかったけれども、すぐにカナタに言うべき言葉を思いついた。
きっとこれは、ステキな応えだろうと思う。
「ここは、世界だよ」
ワタシはニッコリと微笑んで、カナタに語りかける。
「基本的にはニセモノばかりで、だけどきっと本物だって探せばどこかにある、そしてそれだけの価値はきっとある。ここは、そんな世界だよ」
だからワタシはここにいるんだよ。
だからワタシはカナタに語りかけるんだよ。
この世界の本物が確かにそこにあるから。
カナタはしばらくキョトンとワタシのことを見つめていた。意味が分かっているのか分かっていないのか伝わりづらい表情で。
だけどそのうち俯いて、身体を震わせて……泣いているのかと思い声をかけようとしたその瞬間。
「あっひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」
それはもう大爆笑だった。
この山小屋中に、いや山全体に響き渡るような、そんな大爆笑だった。
笑って笑って……そうすることによって、カナタはカナタの中の「ホンモノ」を埋葬したのだと何となく思った。
「なーんだ、ここは世界だったのね。そっか、そうだったんだ。通りで、いくら探しても本物が見つからなかった訳ね……だって、世界は世界でしかないんだから、当然よね」
「……そうだよ。だからワタシたちで見つけ出すんだよ。世界の中から、本物を。カナタがワタシのことを見つけ出してくれたように」
「あら? ミサトって本物だったんだ?」
「うん、本物だよ」
ワタシはそうきっぱりと応えた。
「だけど、カナタがワタシのことを本物にしてくれたんだよ。カナタに出会うまでのワタシは、今よりもっともっと弱いオンナノコだった。感受性と自意識だけは無駄に過敏で、だから周りに勝手に失望してた、そんな弱いオンナノコ」
「それを言ったら、ワタシもカナタがいなかったらもっと弱いオンナノコでしかいられなかったわよ。プライドばっかり高くて周りのことを勝手に見下して、だけど本当はそういう連中に無様な姿を見せることをなによりも怖がった、そんな弱いオンナノコ」
「……なんか今更だけど、ワタシたちってホントダメなオンナノコだよね」
「そうね。がっかりしちゃうくらい、ダメダメよね、ワタシたち」
そしてワタシたちは思いっきり笑いあった。
それはもう笑えて笑えて仕方がなかった。
だけど心の底から健やかに笑えた。なんというか、そういうダメな部分がワタシの心の中にストんと収まったような気がした。
もし仮にニセモノの人間たちの心が穴だらけのそれだったとしたら、今、この瞬間、ワタシたちの心の中にとびきりに大きなピースがはまりこんだような気がした。
ワタシはもう二度と、この世界への失望感に沈み込むことはないことだろう。
カナタがもう二度と、ホンモノを追い求めて自分を見失うことがないに違いないように。
「ねえミサト……世界って、美しいわね」
「……そうだね」
「それは、きっと世界の中の本物を信じることが出来るからね」
「……そうだね」
「辛くて、泣きたくなって、逃げだしたくなって……それでも美しい本物があるっていうことを信じることが出来るからね」
「……そうだね」
「ワタシたちも、きっと本物になれるのよね……そうやって本物を探し求めることで、本当に尊い存在に、ワタシたちはなれるのよね」
「……きっと、きっと、そうだよ……」
気がつけばワタシは泣いてしまっていた。
それは悲しかったからじゃない。とっても嬉しかったからだ。確かにワタシたちはその一歩目を踏み出したのだと。ワタシたちは尊い存在への第一歩を踏み出すことが出来たのだと。カナタという、ワタシにとっての一番の親友と一緒に、その一歩を。
うずくまって泣きじゃくるワタシを、カナタはそっと抱きしめてくれた。ワタシの身体を胸に引き寄せて、優しく頭を撫でる。
嬉しくて、温かくて、本当に誇らしかった。
「これがきっと、大人になるってことなのね、ミサト」
「……うん! ……うん!」
「可愛くて、かっこよくて、それでいて大人になりきれない素敵な人たちに手を差し伸べられる……きっと、そういう大人になろうね」
「……うん! ……うん!」
「大丈夫よ! その頃にはまな板みたいなミサトのおっぱいも大きくなってるから!」
「……うん! ……うん?」
反射的に、泣きはらしたまま顔を振り上げると、そこにはイタズラに笑っているカナタがいた。小生意気にも、舌まで出している。
「もう! こんな時に冗談とかバカじゃないの! 人の貧乳をからかってそんなに楽しいかロケットおっぱい!」
「ふふっ! こういう冗談を上手く交わすのも大人への第一歩よミサト!」
顔を真っ赤にして身体を叩くワタシを、カナタはカラカラと笑いながら受け流す。
そんな下らないことをやっていた拍子に目と目が合って、なんだかおかしくなったワタシは思いっきり笑った。カナタも一緒に笑って笑って、心の底から楽しい気分になった。
ひとしきり笑い終えると、ワタシたちはどちらともなく、まるで恋人同士のように額を合わせあった。
カナタの体温が、心地いい。
「だからカナタ……一緒に帰ろう? ホンモノでもニセモノでもない、そんな世界に」
「ええ……ワタシたちにとっての本物を見つけ出すために」
そう、帰ろう。
ワタシたちの世界に。
この世に溢れかえったニセモノたちの中の尊い本物に手を差し伸べて、この世界を美しいものにするために。
そして、ワタシたちはどちらともなく立ち上がると、山小屋の外に出る。
外はすっかり太陽が昇り、ワタシたちを、ワタシたちのいる世界を照らしていた。
ワタシたちはその太陽の眩しさに反射的に手で目をかばった。
「あの太陽、掴めそうね」
そうしながらカナタがそう言うと、両腕を太陽に差し出すようにめいっぱいに広げた。
しばらくカナタのことを見ていたワタシだったけれども、ワタシもカナタと一緒に太陽に向かって思いっきり両腕を伸ばした。
その眩しさに目がくらみながらも、その灼熱に身を焼かれながら、その悠遠さに途方のなさを感じながらも、精一杯そこに向かって腕を伸ばすことで、あの輝かしい本物に近づけると信じながら。




