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前編

 真夜中の住宅街をワタシとカナタは駆けていく。

 ここではない、ニセモノに満ちあふれたこんな場所ではない、そんなどこかへと逃げだしたい。そんなことを言ったところでアテらしいアテなんかないけれど、カナタはそんなワタシの手を掴み、ワタシを導くように前へ前へと突き進んでいく。もっとも、そんなカナタにもはっきりとしたアテがあるかどうかは疑わしい。さっきから目まぐるしく流れていく風景は、いつまで経っても全然代わり映えしなかったからだ。だけど、それはそれで構いはしなかった。ワタシにとって大事なことは、自信に満ちあふれた表情で先頭をひた走るカナタと一緒に、このどうしようもないニセモノのセカイから逃げだすことだったからだ。

 しかし、若気のいたりで突っ走るには色々と限界があった。ガス欠の車が青春パワーで走りだすだなんて、そんなファンタジーはありえっこない。

「ねえ! そろそろちょっと休もうよ!」

「なに言ってんのミサト! このくらいで根をあげてちゃワタシたち、どこにだってたどり着けやしないわ!」

「そんなこと言っても、ワタシたちもうさっきっからずっとこうしてるじゃん! しかもずっと同じところをグルグルグルグルバッカみたいに!」

「うっさいわね! そんなごちゃごちゃお喋りする元気があるなら走るの走るの走るの! ワタシたちなんて、グズグズしてたらアっという間にニセモノに食い殺されちゃうんだから!」

 そんなことを言われても、息はとっくにあがってるし、めいっぱいに動かしてる足ももつれてちゃんと回ってくれないし、いくら深夜っていったって人目だって微妙に気になるし、なによりそう言うカナタだって十分に疲れてるしで、このまま走り続けていい事なんて一つもありゃしなさそうなのだ。繋いでいる手に滲む汗の中には明らかにワタシのじゃない汗が混じっていて、いやもう混じってるというかプールに飛び込んだ後の犬みたいにびしょ濡れで、要するに最愛の友人との果てなき逃避行を意味もなく続けるには、ワタシたちはあんまりにも疲れすぎていたのだ。

「分かった、分かったってばもう! カナタの言いたいことはすっごいよく分かるんだけど! このまんまじゃそのうちどっかで疲れてぶっ倒れて死んじゃうよ!」

「…………」

「だからちょっとだけ! ねえ、ちょっとだけ止まって休もうよ! ほら、すぐ近くに自販機もあるからちょっとなんでもいいからなんかジュースでも飲んで、ねえ!」

「…………」

「ねえ、聞いてるのカナタぁ! ワタシ、もうとっくに足が棒に……!」

「うるさいっ!」

 唐突にそう叫ぶと、カナタはその場に立ち止まった。あんまり唐突だったので、止まろうと言いだした張本人のはずのワタシが勢いあまってすっ転びそうになった。

「うるさいうるさいうるさいぃ!」

 しかしそんなことにはお構いなしに、カナタは地面に向かって「うるさい」を叩きつける。うつむいている顔をそれとなく覗いてみたワタシは、思わずゾッとしてしまった。その表情は固く、その視線は焦点が定まらずあちらこちらにさまよっていたからだ。

 いつもは神様のように自信に満ち溢れているカナタだけど、たまにこういう表情を浮かべるのだ。そんな時のカナタは、見えない敵と闘っているようでとても怖くて、見ていて不安な気持ちになってくる。

「ワタシだって分かってるのよ……このまま走り続けても、どこにだって辿りつけやしないんだって……!」

 顔を振り上げたカナタの瞳は、確かにワタシに向けられている。だけどその瞳はやっぱりボンヤリとしていて真っ黒だった。

「でも、じゃあ、どうしたらいいのよ? なんにもしないでジッとしてればよかったの? 学校に行ってくだらないことをされて家に帰る。そんなニセモノたちの中に生きればよかったの? あんな墓場のようなセカイで! ゾンビみたいなニセモノに囲まれて!」

 そんな瞳のままで、カナタの口から激しい言葉が止めどなく放たれる。

 気を抜くと言葉として聞き取れなくなるくらいに速く、痛々しいまでにカスれるくらいに高く、駄々をこねる幼稚園児みたいに幼く。

「あんな汚らしい場所に閉じこめられて、ゾンビみたいなニセモノになるくらいなら死んだほうがマシよ! あなただってそうでしょミサト? だからワタシについてきてくれたんでしょ? ねえ、なんか言いなさいよお!」

「…………」

「そんな目で見んじゃないわよ! だから分かってるって言ってるじゃない! そりゃあワタシたちは全然なんにも出来ない高校生よ! 墓場の底から逃げ出してきたところでアテもなければツテもない! ワタシたちの力だけで生きていくなんてもっての他!」

「…………」

「年をごまかしてまともに働いて生きてく? そんなの墓場にかかってる看板が変わるだけ! 男でも作って養ってもらう? そりゃあ生きていけるでしょうよ! ゾンビみたいな男たちに骨の髄までしゃぶられて、どっちがゾンビか分からないような醜態を晒して! それともなに? フーゾクにでも身体を売れっていうの? ……っざっけんなあ! 冗談! タチが悪い冗談! 墓場の底の底の底に住まうヘラヘラ笑いのニセモノどもより底の底の底のそのまた底の地べたを舐め回して生きてくしかないっていうのなら、今すぐこの場で頭を打ち砕いて死んでやるううう!」

「…………」

「こんなワタシたちが、たったの二人ぼっちで生きていくにはどうしたらいいって訳? 思いつきやしないでしょ? だったら走り続けるしかないじゃない! 走って走って走りまくって、くたばるまで走り続ける以外に、一体なにが出来るっていうのよお!」

 ようやく言葉を切ったカナタはゼエゼエと肩で息をする。喘息持ちの少年のようなカナタの姿は、悲しいくらいにちっぽけに見えた。

 なにも言えないままに立ち尽くすうちに、ワタシの胸に不安が広がってきた。思えばワタシは、自分が今、どこを走っていたのかすらちゃんと分かっていなかった。たった今、自分がとても高いところで綱渡りをしていたことを思い出したような気分だった。ワタシはキョロキョロと辺りを見渡す。

 闇夜に包まれ、人も車も通らず、虫の鳴き声すら皆無な住宅街の歩道は、まるで恐竜の胃袋の中にいるみたいに暗くて静かだ。そんな暗闇を照らす街灯や民家の光もあるにはあるのだが、あまりに数が少なくて心もとない。少し向こうにはコンビニがあって煌々と光り輝いているのだが、それを救いの光と呼ぶにはあまりにも人工的で白々しすぎた。

 ここは、ワタシの家から徒歩で三十分くらいの地点だ。

 ワタシたちは大体二時間くらいは走ったのだろうか。あるいは一時間、あるいは三十分全力で走っただけなのかもしれない。わざわざケータイを取りだして確かめる気にもなれなかった。

 いや、別に時間自体はどうでもいい。結局のところワタシたちは、走って走って走りまくって、それでもこんな場所にしか辿りつけなかったのだ。現実なんてこんなものだろうだなんて冷静に思考する一方で、やっぱりとてもショックで、ちょっとした絶望感すら感じてしまっていた。

 ワタシとカナタは(カナタは未だにゼイゼイと苦しそうにしながら)ただただ無力にその場に立ちつくすばかり。

 もし今のワタシたちをどこかの誰かが絵に描くのならば、きっとその人は『二人ぼっちのコドク』と名付けるに違いなかった。

 ワタシたちはどのくらいこの場に立ち尽くしていただろうか。冷たい北風が汗まみれのワタシたちを容赦なく冷やしていく。その間、一台の車が大通りに向かって猛スピードで走っていった。

 その車の、ほんの少しだけ残っていたエンジン音の余韻が消えようとしたその時だった。

 ふと、ワタシのコートの裾が引っ張られているのに気がついた。それは蝶が花びらを持ち上げようとするくらいに微かな力で、多分ワタシじゃなければ気がつけなかったと思う。

 そう、ミサトに対するワタシでなければ。

 振り返って、ワタシとカナタの瞳がかち合い、二つの視線が真っ直ぐな一本の線になる。

 その身の全てをワタシという名の祭壇に捧げようとしているような、無防備で潤んだ瞳。

 瞬間、ワタシの背筋はかつてない勢いで泡立った。背中から全身が泡になっていって、空高くどこまでもどこまで昇っていくんじゃないかという気さえしたくらいだった。

 喜びも悲しみも全て飲み込んでしまう、とびっきりのエクスタシー。ワタシはこれ以上の快感を知らないし、恐らくこれから先にも味わうことはないだろう。

 カナタは親友という言葉ですら表現しきれないくらいには大切な人なのだけれども、もはやそんな表現をすら超越してしまった。

 ワタシはカナタに必要とされたい――いや、カナタに必要とされる唯一の存在でありたい。

 カナタが、ワタシのヒーローである彼女がワタシに向けているこの瞳を独り占めにしたい。その潤んだ瞳に込められたたっぷりの依存心を一身に背負ってワタシなしで生きられなくしたい。

 その為なら、身も心も魂もなにもかも全てを捧げてみせる。そして、カナタのことを汚そうとする人間は、ワタシからカナタを奪いとろうとする人間は、ワタシがこの手で徹底的にぶち殺してやるのだ。その忌々しい魂の欠片すら残すものか。そうすることこそが、そうあることこそが、ワタシの存在意義に違いないのだ。

「……ミサト」

 ほんの少しの恐れが混じる震え声。

 きっとカナタは、これからワタシに対してなにかを望んでくるのだろう。そして、ワタシはカナタの望みを必ず叶えることだろう。

 たとえそれが、ワタシと一緒に死ぬことであったとしても。

 清らかで美しい敬愛なる魂とともに天国へと昇っていけるのであれば……いや、たとえ地獄に堕ちることになっても知ったことか。

 カナタの魂と共にこのセカイから抜けだすこと、それ以上の歓びがあってなるものか!

 カナタはなにも言うことなくうつむくと、ワタシの体をそっと引き寄せる。それからカナタはとても遠慮がちにワタシの胸に顔をうずめた。Bカップと言い張るのも苦しいくらいのワタシの胸が、カナタの小ぶりな顔を包み込む。カナタの胸に比べて、というか他の女子と比べても物寂しい方で、ちょっとしたコンプレックスになっていたりもするのだけれども、それでもこうしてカナタの救いになっていることを思うと、それはとっても素晴らしかった。

 ワタシに身体を預けながら、カナタはとても、とても、小さな声で言った。

「お願いだから、ワタシを見捨てないで」

 その声はとても小さくて、そしてこれはその声と同じくらいに小さくてささやかな願いだった。ワタシは少しだけキョトンとしてから、バカだなあと苦く笑った。よりにもよって、一体なんだってこのワタシがカナタのことを見捨てるというのだろうか。ワタシはカナタを守るためなら、この命だってちっとも惜しくないと思っているのに。

 ワタシはカナタのことをそっと抱きしめる。カナタの身体は温かくて微かに震えている。

 このセカイでワタシを導ける人間がただ一人カナタしかいないのと同じように、このセカイでカナタの震えを止めてあげられるのはワタシ以外にいやしない。

 そのことが本当に嬉しくて、誇らしかった。

「カナタ、今のワタシたちに必要なのは、ここだっていうちゃんとしたゴール地点なんだと思うよ」

 顔をあげたカナタは、潤んだ瞳をワタシに向けた。意味を咀嚼しかねた時に浮かべるような戸惑いの瞳。愛らしい気持ちになりながらも、ワタシは幼い子どもに言い聞かせるように囁いた。

「ここから……大体一時間くらいかな? ほら、この先の交差点を右に歩くとちょっとした丘があるじゃない? 展望台があって、景色がとってもキレイなところ。取りあえず、そこを目指してみようよ、ね?」

 ニッコリと微笑んで言葉を締める。これはいささか、無理に浮かべた笑みでもあった。

 もちろんこの提案によって、なにかが根本的に解決されることは決してないだろう。そんなところに辿り着いてもニセモノから逃れられる訳ではないからだ。たとえ展望台に辿りついたとしても、そこもまたニセモノのセカイの一部であると思い知らされるのだろう。

 だけどワタシは思うのだ。ワタシたちの向かおうとしている場所が、辛くて逃げ出したくなるようなニセモノのセカイと地続きであること。それ自体は問題ではないのだと。

 ニセモノのセカイと地続きになっている場所にカナタと一緒に行き、そしてそこにあるなにかをカナタと一緒に確かめること。そう、カナタと一緒であることがなにより重要なのだ。たとえそれによって、そんなところには何もないのだと思い知らされたとしても、その隣にカナタがいてくれるのならそれでいい。

 やがてカナタは頷くと、ワタシの左手を握った。その表情に少しづついつもの色が戻りつつあった。

「……そうなると、ミサトがワタシを先導する形になるのかしら?」

 カナタの浮かべる笑顔にはぎこちなさが残っている。まるで気まずい空気の中で精一杯に考えた冗談を言う時に浮かべるような笑顔だ。ワタシは思わず苦笑いをした。

 まったく。なんだってカナタは、よりによってこのワタシにそんな笑顔を向けるのか。

「なーに言ってんのカナタ!」

 だからワタシはカラカラと笑って陽気に言う。

「カナタが前でワタシは後ろ。そんなの当たり前のことじゃん?」

「……そうだったかしら?」

「そうなの。だから、今ここでもそうなんだよ。展望台の場所は知ってるよね?」

「うん……」

「なら、カナタはいつものように、ワタシを引っ張ってズンズンと歩いていけばいいの。ワタシたちの間には、それ以外のなにかなんてなにもいらないの。ワタシたちはたったのそれだけで、ドコにだっていけるんだからさ」

 そう、それ以外にはなにもいらないのだ。

 ワタシはなにも、カナタに何か特別なものを期待している訳じゃない。

 カナタが前でワタシは後ろ。

 カナタが導きワタシは従う。

 カナタがヒーローでワタシはヒロイン。

 それさえあればなにもいらないのだ。たとえなにからなにまで全部ニセモノでも、カナタさえ本物であればそれでいい。

 ワタシはワタシでなくてはならず、カナタはカナタでなくてはならない。

 もし何か一つワタシたちの関係に特別な何かを見出そうとするのであれば、それ以外にはまるでなにも考えられなかった。

「……しょうがないわね、ミサトったら」

 それは、お腹の底から聞こえてきたカナタの声、カナタの声そのもの。

 二度、三度、自分の心に大切な何かを刻み込むように頷いてから発した言葉、そして笑顔。それはまさに、このセカイでただ一人だけ、ワタシのことを導ける人間のみが放つことのできるカリスマだった。

「ミサトったら、ワタシがいなきゃ一人でお散歩も出来ないのかしら?」

「だからカナタがエスコートするんじゃん。まあ、お姫様はカナタでワタシは付き人なんだけどね」

「守る相手のお姫様に振り回されるなんて、とんだナイトもあったものね?」

「だってしょうがないじゃん。お姫様の命令は絶対だもん。カナタがここから逃げ出したいっていうのなら、ワタシはただそれに従うだけ。お姫様には、ワタシのような下々の者を導く義務があるんだから」

「ええ、その通りよ」

「だからお姫様、どうかこのワタシを、あなたの隣においてくださいませ」

 そういって、ワタシは恭しく跪いて手のひらにキスまでしてみせる。もちろんあくまでこの一連のやり取りはポーズなのだが、それでもこういうことが自然に出来るくらいには、ワタシはカナタに心酔している。

 しかし流石にカナタも恥ずかしかったのだろうか、「もう、なにやらせんのよ、バカ」なんていいながら撫でるようなチョップをチョコンと一発。ワタシはわざとらしく「えへへー」と笑いながら舌をちょこっと出して、大業にウインクまでした。

 それでもカナタは、「もう、ホンットにバカなんだから」なんて言いながらワタシの頭を撫でる。その時のちょっと浮ついた声と、ほんのり赤く染まったほっぺたが、とても愛らしかった。

 どちらからともなく、ワタシたちは手を繋ぎなおす。先ほどまでビショビショだったその掌は、冬の寒空の下におかれてすっかり冷たくなっていた。ワタシはこういう心地のいい冷たさが、決して嫌いじゃない。

 ミサト。

 それから数歩前に出たカナタから声が聞こえた、気がした。ミサトに対するワタシでなければ気づけないくらいに微かな声。ワタシはとぼけるように「なあに?」と問い返した。

「……ありがとう」

 チラリとコチラに振り返りながらいかにも気恥ずかしそうにそういうカナタ。

 もう、本当に可愛いんだから。

 ワタシはクフフッ、と抑えきれなかった笑い声をもらして、「どういたしまして、お姫様」と頭を撫でた。しばらくカナタは顔を真っ赤にしながらなすがままにされていたが、しばらくしてハッと我に返った様子でくるっと前に向きかえった。あ、泣きそうだったのをごまかしたんだな、と勘づき、ますます愛おしくなった。

「……行きましょう」

「うん」

 それだけのやり取りの後、ワタシたちはどちらともなく走り始めた。

 ワタシたちの息遣い以外には何も聞こえない、静かで寒い夜に


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 五分後には聴いてたことも忘れてそうだね。

 もしワタシが学校という場を舐めくさって考えてるようなマヌケだったら、そんな感想で一蹴してしまいそうな曲だった。だけど、「ね? ね? この曲ヤバくない? マジヤバくない?」なんて興奮しながらまくし立ててくる友人と、手放しでそれに同調している集団の中にあって、そんなことを口走る程の恐れ知らずでもなかった。

「……うん、聴いてて気持ちのいい曲だね」

 心地よく聞き流すのにはうってつけの曲だと思う。半分くらいは皮肉抜きで。

「でしょでしょ? ヤッパめっちゃカンドーするよねー!」

「うんうん! 何回聴いてもぶっちゃけめっちゃ泣けるわ!」

「言えてるー! なんて言ってもここのマツジュンが……!」

 以下、テキトーに聞き流す。

 彼女たちは自分たちの思うがままにおしゃべりを続け、そのおしゃべりの一つ一つに同調しては甲高い笑い声をあげた。

 喋ったり、笑ったり、手を叩いたり、相手の肩をパシパシと叩いたり、ペットボトルの紅茶を飲んだり、その紅茶を褒めてみたり。

 同調が同調を呼んで同調に同調を重ねつつも同調へと同調していく様は傍から見ていると圧巻だ。

 そんなただ中にあってせめてワタシに出来ることと言えば、彼女たちの営みを邪魔しないようにただただ無難な愛想笑いを浮かべながら相槌を打つことくらいだった。

 だけどそのうちかりそめの同調にも飽きてきて、ぼんやりとした意識はいつしか、教室のちょっと離れたところで談笑をする男子三人組に向けられていた。別に特別彼らを眺めたかった訳じゃない。たまたま視界に入ったからぼんやりと見つめたという感じだ。

 その三人組はまるで風采の上がらない印象の、要するにオタクな感じの集まりだ。


「なんといっても妹というタームの神聖さは断じてその無邪気さにこそ求められる。妹というそれだけでは単なる血縁関係を表すに過ぎないタームに無邪気という要素を取り入れた時、言葉は我々の想像を凌駕する神聖さが付加された永遠の探求物へと一変するのである。

 寝坊助なお兄ちゃんに馬乗りになり「もーお兄ちゃん朝だよ!」と起こそうとする時、お兄ちゃんと一緒になってみていたホラー映画が怖くて一人でトイレに行けず、涙目になって「お兄ちゃん、一緒にトイレに行こうようっ!」と訴える時。ふとしたはずみで言った「俺がお嫁にもらってやるから」という言葉に、はちきれんばかりの喜びを湛えながら「えへへー、お兄ちゃん大好き!」と抱きついてくる時。その無邪気さは我々お兄ちゃんにとって最大級に理想的な形で発露される。

 妹というテーゼはまさに、お兄ちゃんに対する純粋なる愛の発露という形で探求されるべき対象であるのだ!」


「しかし少し待って欲しい。そのように妹というテーゼを一義的に捉えることは、妹の在り方をいささか狭隘なものにはしないだろうか。たとえば普段、「お兄ちゃんキモイから近寄らないでよ」と冷淡な言葉を発する妹にとって、妹というテーゼにおける神聖さとは完全に無縁なものとすべきであるのだろうか。

 そこで我々が想定すべき仮定はこうだ。すなわち、哀れなお兄ちゃんが片思いの女の子への告白にこっ酷く失敗し、魂の抜け殻のような状態で帰宅した後の場面である。部屋に引きこもり、どんよりと落ち込んでいるところに控え目なノックが響く。開かれた扉の先にはむっつりとした表情の妹がいて、「こ、これ、お兄ちゃんの大好物だったよね、食べなよ」といってお兄ちゃんの大好きなシュークリームを手渡してくるのだ。そこでお礼を言ったりすると「べ、別にたまたま気まぐれで買ってきただけなんだから勘違いしないでよね!」と物凄い剣幕でまくし立ててくるのだ。そして去り際、顔を赤らめながら「ど、どうせお兄ちゃん、すぐにいい人が見つかると思うよ……お兄ちゃん、黙ってれば顔は……わ、割と……い、イケてるし」と言って、言ったなり早足に去っていくのである。

 いかがであろうか。このように、普段は決して純粋な愛を醸しだしておらずとも、照れ隠しという心的要因を導入することによってむしろ平素から純粋性を醸し出している妹の神聖さを上回りうるということである!」


「そうは言っても、やはり現実的な恋愛対象として妹を想定する時、我々が真に見据えるべきはやはり義妹」

「この異教徒め!」

「堕落主義に堕ちし醜悪なる豚よ、生姜焼きにしておいしく頂いてくれるわ!」

 なにがなんだかよく分からない話(恐らく女子にとっては不愉快な類)をしていたと思ったら、突然二人が血相を変えて残りの一人に向かって飛びかかっていた。

 しかしその際に彼らの内の一人がカバンに蹴つまづいて転び、机を思い切り倒してしまった。その机はガッシャーン! と暴力的な音を立てて倒れ、クラス中の視線を集めることになってしまった。彼ら自身もこんな大事にするつもりはなかったのだろう(彼らの一連の振る舞いは大袈裟で芝居がかっていた)、彼らに向けられている胡乱な視線にギョッとしているようだった。

 その視線には当然ワタシたちのグループのものも含まれている。彼らが真っ先にかち合った視線がまさにワタシたちのそれで、彼らはワタシたちの冷ややかな視線に硬直した。

 そして、あろうことかワタシは彼らのうちの一人と視線が重なってしまう。眉をハの字にして呆然とした彼の表情は、先ほどまでの勇ましい調子とはうって変わって、情けなくて頭の悪そうな風に歪んでいた。

「でもさーホントオタクってキモいよねー」

 ワタシたちのグループの一人がそんなことを言い放つ。容赦なんて欠片もない声色に、気まずそうに席についた三人組はビクッと肩を震わせた。

「そーそー、実際キモチワルイよねー! なんか変なヤツらで固まってアニメばっかり見てて、コソコソしてる感じがキモチワルイっつーか!」

「ホントさー、アニメとかゲームとかばっかに逃げてんじゃねーっつーの! それ以外のことはなんにも出来ないクセに無駄に高い声でえばってんじゃねーっつーの!」

「つーかさ、仲間内ばっかでデカい態度取りまくってるけど、結局そっから一歩でも離れたらなんにも出来ないヘタレじゃん。この前チョーどうでもいい用事で話しかけただけでめっちゃキョドってんの! マジウケるっつーか、ありえなくない?」

「マジでー! チョーウケるー!」

 キャハハハハハ!

 聞いているこっちがゾッとするような笑い声。三人組は何も言い返すことなく、肩を震わせながら縮こまっていた。言ってみればちょっと仲間内で騒いでいてハメを外してしまったというだけなのに、それに対する天罰としては残酷に思えた。

 しかし彼女たちにはきっと、彼ら三人を責めているという意識すらなくて、実際は彼らのことなんてどうでもいいに違いない。言ってみれば、ちょっと話題が尽きかけてた頃に火種になりそうなものが転がってきたに過ぎないのだ。むしろ意図的にやっているより残酷に思えるのはワタシだけだろうか。

 そうは言ってもわざわざ三人組を擁護する理由もないので、ワタシはただなにも言うことなく彼女たちに同調して笑い声をあげる。別に罪悪感はもたないが、やっぱりちょっと可哀想くらいには思ってる。雨風に晒されて弱りきっている臭くて汚らしい野良犬に対して向けるそれと同じ程度には。

「そんなことよりさー! この前チョーカワイイクレープ屋見つけたんだけど、今日帰りによってかない?」

「マジー? でも、私最近ダイエットやってるんだよねー」

「なーにいってんの! ミッちゃんダイエットしなくてもウチよりカワイイんだからべっつにいいじゃん!」

「えー? でも最近弟に「ネーちゃん最近太った?」なーんて言われちゃってさー!」

「そんなの気にしない気にしない! それともミッちゃんクレープ食べたくないのー?」

「そーだよミッちゃん! ワタシたちと一緒に太ろうよ! ね? クレープの為なら太ったって構いやしないって!」

 そして彼女たちは、すっかりさっきの話を忘れてしまっていた。そういうワタシ自身もまた、クレープと聞いて目を輝かせ、ダイエットなんて言って渋ってるミッちゃんに文句を垂れたりする。

 結局、今いるこのグループの居心地は悪くはないのだ。ただ、時折心にチクッとくるような違和感を覚えるだけで。

 ちょっとした不満を四六時中吐き出す程には愚かではなくて、その不満を感じないように生きられる程には賢くない。ワタシって奴は、その程度には小さな人間だ。

 だからもちろん、オシャレとか芸能人のこと以外はなんにも知らなくて、仲間同士だけでなくそれ以外の連中にもワガママで気まぐれな(そのくせ自分好みの男にはキャピキャピとカワイイ子ぶって振る舞う二重人格ときたものだ)態度をとる彼女たちに心の底では愛想が尽きている、なんていうつもりも毛頭ない。ワタシだってそんなことを偉そうに言える程に立派な人間じゃない。

 ただ、なんていうか、なんで自分が理解出来るものにしか目を向けようとしないんだろうとはいつもなんとなく思っている。仮に目は向けないにしても、そういうものもあるのだという風に思えないんだろうって。彼女たちにしても、さっきのオタク達にしても。

 ふとワタシは教室をぐるりと見渡した。教室にはクラスメイト達と雑談の声に満ち満ちている。四十人きっかりの彼らは、それぞれ雑談をしたり、なにかしらの遊びに興じていたり、一人で眠っていたりしていた。

 ワタシにはこの光景が、遠く遠く離れた同士の群島のように思えた。


 さて、なんでヤブから棒にこんな話を始めたのかというと、要するにこの日にワタシとカナタが出会ったからだ。

 まあ出会ったといっても元々クラスメイト同士ではあったんだけども、ワタシがカナタについて知っていたことと言えば名前と表面的なウワサくらいだった訳で、出会ったって表現しても別に間違いじゃないと思う。

 こうしてカナタと出会う前の出来事を細かく思い出せるように、カナタとの出会った時のことははっきりと思い出すことが出来る。

 きっとワタシはこれから先、これ以上に劇的な出会いを体験することはないに違いない。


 放課後。

 約束通りに友人たちとクレープ屋に向かおうとしたところ、教室にケータイを置き忘れていたことに気づいたワタシは、友人たちに断って教室へと駆け戻った。

 電気が消え、西日が差し込む薄暗い教室。

 誰もいないだろうと思いながら扉を開けると、窓際の席に一人の女子がうつ伏せて眠っているのを見つけた。

 彼女の寝姿はとにかくキレイで、寝息すら聞こえないくらいに静かだった。その姿は、ワタシに芸術的な銅像をすら思わせた。

 しばらく見惚れていたけれど、やっぱり起こした方がいいだろうと思い直したその時、彼女が出し抜けに身体を起こしたのだ。

 控えめにノビをして、顔にかかった前髪を悠然とかき上げつつ、真っ直ぐにこちらを見据える。

 ワタシは思いもよらずゾクリとしていた。その一連の挙措は西日の差し込む教室に恐ろしいくらいによく映えたのだ。それにこのタイミングの良さ。まるでワタシがここに来ることを分かっていたみたいだ。

 正直ワタシは、少し怯えていた。

「ホヅカミサトね」

 それは質問ではなく断定だった。

 にわかに突きつけられた言葉に、身体をビシッと硬直させながら「え、は、はいっ!」と応える。

 クラスメイト相手にこの反応。一目惚れの王子様にはにかむ乙女じゃあるまいし、ワタシはとても恥ずかしくなってきた。当の王子様である彼女は、それこそ乙女の可愛い所を見つけたと言わんばかりの上品な笑みを口元に浮かべていた。

 ミトリカナタ。

 先にも述べたように、この時点でワタシは彼女のことに関しては名前と表面的なウワサくらいしか知らなかった。

 根暗で無口、クラスメイトの誰とも関わろうとせず、休み時間には一人ででっかいヘッドフォンを身につけて過ごしている。

 そんな調子なものだから、一部の女子連中から軽いイジメを受けている。そしてその一環として、貞子を彷彿とさせるブサイクってことになっている、けれども……。

 ――こんなの、どう考えたってチョー美人じゃんか……!

 彼女はめちゃくちゃに、下手したら学校内でも見たことがない程に美しい女の子だった。

 その肌は白くてきめ細やかだし、ツリ目気味ながらもパッチリと開いた瞳は挑発的なネコのように蠱惑的だ。なにより、その立ち振る舞いにははちきれんばかりの自信がみなぎっていて、それが色香となってオーラのように全身に漂っていた。

 一部の女子たちは彼女の黒く長い髪を揶揄して貞子と呼んでいる訳だけれども、実際対面するとそれがいかにマヌケな評価であるかがよく分かる。

 真っ直ぐ流れるように腰まで伸びたその艶やかな黒髪は、賞賛こそされども嘲笑される云われなど全くない。こんなにも素晴らしいものを貞子なんて呼んでバカにするなんて、同じ女性としてどうかしている。

 ワタシだって街とかテレビとかでモデルをやってるような女性なんかも何度も見てきた。

 だけど、これ程までの美しさを湛え、それをあますことなく叩きつけてくる女性に、ワタシは生まれて始めて出会ったのだった。

「ねえ、いつまでもそこに突っ立ってないで入ってきたら?」

 その一言でワタシはハッと我に返る。

「え? ……え?」

 どうやら彼女に見惚れていたらしいと気がつき、ワタシはアタフタと狼狽える。

「忘れ物、取りに来たんじゃないの?」

 しかし、当のカナタはイタズラっぽく微笑みながらそんなことを言うばかり。

 ワタシはなんだかフワフワとした心地のまま、カナタの言葉に従って教室に入った。

 数分くらい机の中を探ってみたが、ケータイは見つからない。

 おかしいな、おかしいな、と焦りながら探っても一向に見つからない。

 ひょっとしたらどこかで落としたのかもしれない。だとしたら先生が拾っていて、没収されちゃったかもしれない。でも、そしたら先生もホームルームの時間とかに説教とかするだろうし……いや、ひょっとして、変な奴とかに拾われてなにかロクでもないことをされているかもしれない。

 ヤバイどうしよう……このまま見つからなかったら最悪買い替え……

「ねえ、まだ見つからないの?」

「えひゃあ!」

 ワタシは思わず真横に飛び退いた。

「ちょ、ちょっと! なにすんのあんた!」

「なにって、心配になったから、ただちょっと声を掛けただけじゃない」

 心臓をバクバクいわせて喘ぐワタシを尻目にしれっとそんなことを言うカナタ。

 さっきまで自分の席で優雅に微笑みながらワタシを眺めていたのに、いつのまにかワタシの耳元へやってきて囁いてきたのだ。なんとも心臓に悪い瞬間移動である。カナタはワタシを見下ろしながらクスクスと笑っている。カナタのささやき声が耳元に残り、ゾワゾワと背筋が泡立ってきた。

「い、いや、そうじゃなくて! 突然真横から声をかけてくるとかマジないから!」

「あら、単純にミサトが探し物に没頭しすぎてただけじゃないの?」

「は、はあ?」

「でもあなたって意外とパニックになるタイプよね。さっきの反応といい、さっきからずっと同じところばっかり探してたところといい、もうちょっと落ち着いた行動を心がけることをオススメしたいわね」

 ……なんだか、だんだんとバカにされてる気分になってきた。

「……あのさ。ワタシ、探し物してんだから邪魔しないでくれるかな?」

「そうだったわね、ごめんなさい」

「ホントにそう思ってんの?」

「ええ、本当よ。早くあなたのケータイが見つかればいいなって思ってるわ」

 戯言めいた調子にため息をついたその時、ワタシはカナタの言葉に違和感を覚えた。

「ミトリさん? なんでワタシがケータイを……」

「ああそういえばこんなものがミサトの机の中に入ってたんだけど、ひょっとして探し物はこれだったかしら?」

 そう言うカナタの右手にあるのはピンクカラーのガラケー。ワタシのケータイだった。

 そもそも、さっき「忘れ物、取りに来たんじゃないの?」なんて聞いてきた時点でおかしいと思うべきだったのだ。

「……あんた、ワタシの机、勝手にあさったの?」

「それにしてもミサトのケータイってなーんのストラップもついてないのね? 待ち受けもデフォルトの奴だし、案外つまんないオンナノコよね。飾り気がないっていうか」

 ワタシは無言でカナタの側まで歩み寄るとカナタからケータイを奪い返した。ついでにぶん殴ってやろうかとも思ったけれども思いとどまって、その代わりに普段は親父とかムカツク男子くらいにしか向けないような視線を手加減なしでぶつけた。

 親父とか男子とかなら一秒ももたずにサッと視線を逸らしてくるのだが、肝心のカナタはむしろ不敵な笑顔を深めるばかりだ。

「……見られて困る中身もないくせに」

「次、こんな下らないことしたらぶっ殺すから」

「あら怖い。そんなこと言われちゃうとワタシ濡れちゃうわ」

 ワタシは毒々しく舌打ちをした。

「……あんた、自分がみんなになんて思われてるか分かってる?」

「あら、あなたはワタシがあなたのことをどう思ってるか知ってるのかしら?」

「知らねえよ。知りたくもねえし」

「本当? でも、もしそれを知ったら、きっとミサトは喜ぶと思うんだけどなあ」

「ねえ、はっきり言われなきゃ分かんない? ウザくてキモいからさっさと消え失せろっつってんだけど? さっきからふざけたことばかり言ってるけど、自分のやってることを客観的に理解することとか出来ないの?」

「……じゃあ、代わりにワタシがミサトのことを当てちゃおうかな? たとえば、


 あなたが普段、みんなのことをどう思ってるのか、とか」


 頭の中が真っ赤な血の色に染まる。

 マジでぶん殴ってやることにした。

 そのいけ好かないキレイな顔をぶん殴ってやるべく、右腕を振り上げたその時、

「一度叩けば全部がおしまい」

 まるで詩を諳んじるかのような美しい調子。それに気を散らしたワタシはその拍子にカナタと目が合ってしまう。カナタの瞳はワタシの視線を真っ直ぐに受け止めていた。

 殴ればいいんじゃない? ワタシはそれでも別に構わないわよ。

 カナタの頭の中を覗いたら、きっとそんな感じの忌々しい思考が廻っているに違いない。

「暴力を振るえばぜーんぶ終わる。たった一発分の暴力と拒絶と満足を得て、ミサトはこっち側に来れなくなっちゃう」

 バカバカしい文句と分かっているのに、ワタシはどうしてもこの右手を振るうことが出来ない。

「……そっち側とやらはブッ飛んだ会話が飛び交ってそうで楽しそうだよね。楽しすぎてこっち側にも分かるような日本語が喋れなくなっちゃったのかな?」

「つーまーり。ここでミサトが殴っちゃうと、ワタシとお友達になれなくなっちゃうってことよ……あなたが本当に望むセカイを知ってる大切な友人、と」

 そして何を言い出すかと思えば、実に頭のイカれた電波だ。

 もしこれが彼女のバカでかいヘッドフォンの奏でる音楽の受け売りなら、とんだロックンロールもあったものだ。ロックンロールな薬でもやってるか、元から脳みそがロックンロールなことになっているかのどちらかだろう。

「誰と誰が友達になるですって?」

「もちろんワタシとアナタがよ……むしろそれ以上になっちゃうかも知れない」

「ねえあんた、それ本気で言ってる? 虫唾が走るんだけど」

「当たり前じゃない。ワタシの心はいつだって自分に正直で本気よ」

「あんたがまともに人語を介さない宇宙人なのははっきり分かったけど、人類とファーストコンタクトを取りたいなら別の人間を当たってくんない? 精神病院なんかに行けばふさわしい人がたくさんいるんじゃない?」

「いいえ、あなたとワタシじゃなきゃダメよ」

「はあ? なに言って……」

「だってワタシたち……」

 ワタシの言葉に被せるようにそう言いかけたカナタの表情に妖しい笑みが射し込む。

 その表情に気を取られたワタシは、カナタがワタシの頬に伸ばした手に気づかなかった。

 ワタシの左頬に触れた心地よく冷たいなにか。カナタの顔が徐々にこちらに寄って来ていることに気がつくと同時に、それがカナタの右手だと気がついた。

 瞬間、ワタシは見事な脊椎反射を用いて背後に飛び退いた。

 そのまま逃げ出したかったけれど背後はロッカーで、カナタに詰め寄られた形のワタシはどこにも逃げ出すことが出来なかった。

「だ、だから、なに考えてんのあんた!」

「あなたこそ、なにを考えたのかしら?」

「な、なにって……!」

「ひょっとして、キスでもされちゃうと思っちゃったのかしら?」

「っっっ!」

 頭の中で、カナタがワタシに顔を寄せてくる光景がグルグルグルグルと回っている。

「大丈夫? 顔が真っ赤よ?」

「うっさい黙れ! こっちに寄るな気持ち悪い!」

「ふふっ、そんなに恥ずかしがっちゃって、ホントかわいいわね。ひょっとしてキスとかしたことないんじゃない?」

「黙れっつってんでしょ! ホントぶん殴るよあんた!」

「ちなみワタシもしたことないの……あはっ、ミサトちゃんになら捧げてもいいかな、ワタシのファーストキス」

「ざけんな! ありがた迷惑にも程があるわっ!」

「むしろこれ以上ないくらいに尊重してるじゃない、ツンデレちゃん」

「だ、誰が……!」

「そう……ツンデレで口の悪いミサトは、その実、コロコロ感情が入れ替わるくらいに多感で、ポンポンと奔放な言葉が出てくるくらいに聡明なオンナノコなの」

 カナタは唐突に言葉を言い放つ。

 乙女を色仕掛け風にからかう調子から、大切な恋人に語りける穏やかな調子へ。

 著しい豹変に頭が追いつかず、カナタの言葉が心地の良い音楽のように耳から脳へと流れていく。

「ワタシ、ミサトのことはよーく見てるからよーく分かる。ミサトはね、こんな日常っていう鎖なんかじゃつなぎ止めてらんないくらいには、非凡で魅力的なオンナノコなのよ」

 こんな恥ずかしい台詞、生まれてこの方誰にも言われたことない。

 普段だったら鼻で笑って聞き流すに違いないのに、カナタが口にするのを聞くと何故か胸が心地よく高鳴ってくる。

 そう感じるのはカナタの豹変からくる錯覚だって、頭ではちゃんと見抜いているはずなのに、ワタシの中に溢れ出る快楽を伴った感情を抑えることが出来ない。

「だからあなたは普段、一緒につるんでる女子たちの中で上手く立ち回っているけど、本当は彼女たちのしょうもない頭の悪さにいら立っている。かといって、彼女たち以外の誰かがあなたに共感してくれるとも思えない」

 ねえそうでしょと言わんばかりのカナタの笑み。

 さっきまでなら電波の思い込みで終わりにしていたに違いないのに、今こうしてカナタに語りかけられるとその言葉が素直にワタシの中に入りこんでくる。

 ――そして同時に、ワタシの心に居心地の悪いざわめきが起こるのを感じた。

「どーでもいい世間話にどーでもいいアイドルの話。自分たちを棚上げした、冴えない男子連中とか、違う派閥の女子たちとかへの悪口。そういうものぜーんぶになにか「違う」って感じてる。ねえ、合ってるわよね? いつも作り笑いで遠い目をしてる変人ちゃん?」

 きっとワタシはカナタになにかを言うべきだし、なにかをするべきなのだ。

「でも変人ちゃんは怖がりちゃんでもあるから、そんな連中に対して絶縁状を叩きつけてやることも出来ない。そんなことをしたら大変なことになっちゃうし、その大変なことに立ち向かうだけの知恵も度胸もない。だから表面上は愛想笑いで受け入れた振りをする。こうやってバカどもに同調出来ちゃうワタシはこんなにも大人ですよって、上から見下ろしてちっぽけな安心感を得る」

 具体的には、知ったような口を黙らせるなにかを言うべきだし、彼女を拒絶するために彼女を殴るべきなのだ。赤の他人のアンタが、一体ワタシのなにを知ってるんだと。

 ワタシはいつしか拳を固く握りしめていた。だけどそれでも、ワタシは硬い表情のままで黙っていることしか出来なかった。

 いや、ワタシは恐らく、その気になればなにかを言うことが出来るしなにかをすることが出来るのだ。ただしそれらの言動はきっと、まともな論理に則らない、ワタシの感情の暴発にしかなないだろう。

 そんなみっともない姿を誰かに、特にこんな奴に見られるくらいなら死んだほうがマシだ。

「ミサトみたいな人がそんな風に生きてて楽しい?」

「……れ」

「ミサトみたいな人が退屈な周りの連中に合わせて生きてて生きてるって言える?」

「……だまれ」

「ねえ――あなたはなんのために生きて……」

「黙れって言ってんでしょ!」

 しかしワタシは叫んでいた。みっともなく、感情の赴くままに。

 よりにもよってこんなオンナなんかに、自分一人だけ、この息苦しい教室って空間を見て見ぬふりを決め込んでのうのうと生きているオンナなんかに、知ったようにワタシのことを語られたくなんかない。

「あんた、あんたなんかに、ワタシのなにが分かるっていうの! ええっ? 休み時間につるむ友達もいないような奴が、そういうことから目を逸らして一人ぼっちで過ごしてる貞子が、ワタシのことそうやってえらっそーに上から語ってんじゃねえよ!」

 みっともないって分かってる。

 こんな奴にこんな醜態を晒すくらいなら、さっさと一発ぶん殴ってそれでおしまいにした方がよっぽど建設的だって分かってる。そもそも普段ならきっとそうしてる。

 だけどそれでも、何故かこいつに、カナタという人間にこういうことを言われた時、ワタシはこうせずにはいられなかったのだ。

「ワタシがなんのために生きてんのかって? そんなもんちっとも考えたくなんかない! だっていくら考えたって分かりっこないじゃん! ワタシも友達も目の前のことばっかに目がいって、生きる意味とかそんな誰も真面目に考えてないようなこと考えてたらあっという間にみんなからずれるんだ! 生きてる意味なんか知らなくたって、死んだような目に合うことが死ぬことより惨めなことは誰だって分かってんだよ! だからワタシはあんたと違って友達に合わせるんだ! 下らない会話に合わせるし下らない音楽だって聴いてやる! だってその方が、つまらないワタシに向き合うよりよっぽど楽だから!」

 カナタはただ黙ってワタシの言葉を聞いている。その全てを見透かしているような目。

「なんだよ、その目は……!」

 カナタはきっと、ワタシの生き方が愚かで滑稽なものに思えるに違いない。

 だけどだからって、カナタにワタシのことを見下すような権利なんてある訳がない。

 だってそれが普通だから。

 そんな風などうしようもない凡俗な普通さを抱えることこそが、ワタシのようなつまらない人間のあり方だから。

「そんなにワタシが、ワタシたちがバカみたいに見えるんだったら、あんたなんて別に学校に来なければいいじゃん! みんなだってそう思ってんだよ! そうやって毎日毎日ヘッドフォン被って一人で過ごして周りを見下してるくらいなら、最初っからこういう場に来んなよ! だからお前は嫌われるんだよ! 見たくない聞きたくない、誰だってそうなんだ! それなのにあんたは、そういう場から逃げ出して、逃げてるクセに賢い人間を気取って……!」

 ワタシの言葉を受け止めるカナタは超然と佇んでいる。むしろ、その表情にはどこか嬉しそうな様子さえ感じられた。

「……っ!」

 ワタシはそんなカナタが恐ろしく思えてきた。思わず目を逸らしそうになったけれども、そんな逃げ出すような真似はしたくなかった。そんなことをしたらワタシはきっとおしまいだと思った。

 だからワタシは言ってやったのだ。

 言った――叫んだ。

 目の前にぼんやりと佇む亡霊に、思いっきり拳を叩きつけてやるように――その行為の不毛さをはっきりと自覚しながら。

「あんたなんて、殺したい程に、大嫌いだ!」

 ワタシは叫んだ勢いのままにカナタのことを睨みつける。出来ることならこの視線だけでカナタを殺してやりたいくらいだった。

 だけどそんなことは出来る訳がなかった。むしろ、こうして対峙すればするほどにカナタがなにかとても巨大で恐ろしい存在に思えてくるくらいだったのだから。

 せめて敗北感に心がやられてしまわないうちに、ワタシは早足でカナタに背を向けて去ろうとする。

 しかしカナタは、そんなワタシの前に不敵な笑顔で立ちふさがった。

 いけ好かないオンナが進路の邪魔をするという、ただそれだけのことがワタシにはとても絶望的に思えた。

「ねえ、ミサトにとってワタシは見たくもないし聞きたくもないものなの?」

「どいてよ」

「殺したいほどに大っ嫌いって、それは本気で言ってるの?」

「どいてったら」

「ねえ変人ちゃんな怖がりちゃん。ワタシはアナタのことが好きよ。大好き。あなたのその心の奥の、あんまりにも不器用で、あんまりにも真っ直ぐな心が」

「どけっつってんだろうがよおおおおお!」

 カナタの胸倉をつかんだワタシは、思いっきり後ろのロッカーに叩きつける。

 最早ぶっ殺してやりたいなんてレベルじゃない。ぶっ殺す。この目で、この口で、このクソッたれオンナのことを殺して殺して殺し尽くしてやる。

「なんなの! なんなんだよあんた! 一体あんたはなにがしたいんだよ! いきなり初対面で意味分からないことばっかり言ってきてワタシのことをズケズケズケズケ!」

「……もう一度だけ言うわ。それは、ワタシが、あなたを、大好きだからよ」

「黙れ黙れ黙れ! 次それを言ったらあんたを本気で殺す! 殺す殺す殺す!」

「それともう一度だけ聞くわ。ミサトはワタシのことを殺したい程に嫌いなの? 見たくもなければ聞きたくもないってこと?」

「殺す! あんただけは! あんたみたいなクソッたれだけは……!」

「じゃあなんでワタシのことを殴らないの?」

 ワタシはその一言で固まる。

「一度叩けば全部がおしまい……確かワタシはそう言ったはず」

「な、なにを言って……」

「要するに一発ワタシを殴っちゃえばこの問題は全部解決するってことよ。そもそもの話、その怖い目や汚い口だけじゃあ決してワタシのことは殺せないし、そもそも拒絶することだって出来ない……そんなことくらい、ミサトにだって分かってるでしょ?」

「うっさい! ワタシはアンタを……!」

「だったらさっさと殴りなさいよ。宇宙人代表としてあなたにも分かる人語ではっきりと言ってあげるけど、いくらミサトがなにを言おうともワタシはそれを拒絶とは受け取らないから……響かないんだもん、あなたのそのキョゼツとやらは」

「響かない? い、意味分かんない!」

「だってその拒絶の仕方、ただの駄々っ子のそれにしか見えないんだもん」

「――っ! このおぉ!」

 ワタシは右手を振るって威嚇をする。

 だけど、その振るった右腕には全く力が入らず、その拳は全く固まることはなかった。

 そんなワタシを見透かしたかのように、カナタの表情はピクリとも反応を見せない。

「殴ってやる……絶対に殴ってやる!」

「どうぞ」

「殴る……! 殴るって言ってるじゃん! 少しはビビりなさいよ! あんた曲がりなりにも女でしょ? そのキレイな顔を傷つけてやるっつってんだよ! ほら、ビビりなさいよ! ビビりなさいよお!」

「別にいいわよ。傷つけてくるのがカナタなら、それもまた本望って奴だわ」

 でも一つだけ残念なのはね、とカナタが首を横に振りながら言う。

「その一発で、ワタシとアナタが永遠に友達になれなくなっちゃうって、そのことかな」

「――っ!」

 だから、ワタシは、それを望んでるんだ!

 心の表層に浮かんでくるその思考以外の全てに見て見ぬふりをして、ワタシは振り上げた右手でカナタのことを殴った。

 殴った。

 いや、こんなものは殴ったうちに入らない。

 ワタシは「ああ……うう……」なんて情けない声をあげながら、ヘナヘナとその右手をカナタの左頬に振り下ろす。

 拳はカナタの左頬を打ち……いや触れると、そのまま撫でるように頬を流れダランと垂れ落ちた。

「……今のは、地球人流の殴打かしら?」

「…………」

「そうだとしたら、お望み通り、ワタシは今すぐミサトの前から消えるし、二度とカナタとは関わらないわ」

「…………」

「ハイかイイエか、五秒以内に応えなさい。応えなきゃ、殴ったものと見なすわ」

「…………」

 ワタシは口を開くことなく、首を横に振った。こんな情けないものを殴ったと見なされるなんて、ワタシにはとても耐えられない。

 俯いたワタシはぼやけた視界で、ワタシの右手がだらしなく開かれているのを捉える。その手に、とてもじゃないけど力はこめられそうになかった。

 沈黙がおりてからしばらくして、ワタシはとても心地のいいものに包まれていた。

 柔らかくて、温かくて、いい匂いがする。

 ワタシがカナタに抱きしめられているということを把握するのにそう時間はかからなかったし、そうと分かったからと言ってもはやカナタから離れようとも思わなかった。

「ごめんなさい」

 カナタはワタシの頭を優しく撫でる。情けないことに、ワタシは今にも泣きそうだった。

「本当は単純にミサトとお友達になりたかっただけなの。ケータイを隠したのもミサトとお話をする機会が欲しかっただけだし、こんな風に意地悪なことを言ったりしたりしたのも、あなたの本物の言葉が聞きたかったから」

 なんとなく察しがつく。少なくとも友達になりたがっていたことくらいは分かる。

 でもだからって、こんなのは酷すぎる。なんでワタシがこんなことを言われたりされたりこんな思いをしたりしなきゃいけないのか。

 なんで他の誰かじゃ駄目だったのだろうか。ワタシくらいしかこんな風にバカみたいに取り乱す奴がいないからだろうか。

「……傷つけてしまってごめんなさい。でも本当は、ミサトはちっとも傷つくことなんてないの。だってミサトは、こんな風にワタシの言葉を真っ直ぐに受け止めてくれるとっても特別なオンナノコなんだから」

「とくべつ……?」

「こうして始めてお話する人相手の言葉を、そんな真っ直ぐに受け止めて傷つくことが出来るのは、あなたが本当は強くて、賢くて、優しいオンナノコである証明なのよ」

 ワタシがオズオズと顔を上げると、そこには優しく微笑むカナタがいる。

 ずるい。あんな風にされた後にこんな風に優しくされたら、そんなのなんにも考えられなくなっちゃうに決まっている。

「ワタシは、そんなカナタとお友達になりたいな。本物の音楽を一緒に聴いて、嘘っぱちな愛想笑いなんてなに一つなく楽しいお喋りをし合う、正真正銘の親友同士に」

 ただでさえ結界寸前のワタシの涙腺がますます決壊しそうになる。

 あともうちょっとでこらえ切れなくなりそうだったところで、カナタは「ちょっと待ってて」と囁いてからワタシから離れた。

 カナタは自分のカバンをゴソゴソとあさり、そこからIPODと一緒にバカに大きなヘッドフォンを取りだした。

 カナタが休み時間にいつもしているヘッドフォンである。

「……それを、ワタシに聴いて欲しいの?」

「別に嫌ならいいのよ。見たくない聞きたくない、そんなものから目を背け耳を塞ぎ背中を向けてサヨナラすればそれでオシマイ」

 この期に及んで、そんな意地悪を言う必要なんてないじゃんか。

 そんな風に情けない気分になりながら、渡されたIPODとヘッドフォンを眺める。

 何の変哲もないIPODとデカくて無骨でいかにも高そうなヘッドフォン。しかし何やら、その間を仲介するように繋がってる小さな機械のようなものがある。

「……あんた、アンプまで持ってるの?」

 この手のアンプは確か、いい奴を買おうとすれば普通に数万円はするはずだ。

 そのいかにも金がかかってそうなヘッドフォンといい、アイドルのCDを買うのにさえ渋る自分には気が遠くなるようなゼータク。

 家が金持ちなのか、コツコツと貯金して買ったのか――どっちにしてもカナタの雰囲気的に違和感がなく、なんとも読めない感じだ。

「言ったでしょ? ワタシが欲しいのは「本物の音楽」。それを手に入れる為ならどんな金も手間も惜しむつもりはないわ」

 ちょうどこうして、あなたと仲良くなるためにこんなことをしているみたいにね。

 そんなカナタの生暖かい言葉と視線から逃れるようにそそくさとヘッドフォンを身につけた。

「あはっ、やっぱりミサト、ヘッドフォン被ってる姿すっごい似合う!」

 そんなワタシを見てカナタが無邪気に笑う。

 褒められること自体はやぶさかではないけれど、ヘッドフォンのデザインを考えるとちょっと素直に喜べない。

 デザイン性よりも機能性重視といった感じのこのヘッドフォンは、ブサイクではないけれどお世辞にもおしゃれとは言い難い。少なくとも、かわいいオンナノコが身につけるようなものではまずないだろう。

 ワタシがちょっと不満げにそのことを言うと、カナタは「いやいや」と屈託なく、

「その媚びてない感じがいいんじゃない。うん、やっぱりワタシの見込んだ通りね。グッと魅力的なオンナノコになったわね」

「……なんかバカにされてる気がする」

「いいえ、自分のセカイを持ってるオンナノコってことよ」

「人に勧められた曲を聴こうとしてるのに?」

「ミサトならきっとそれを自分の言葉で賞賛出来るわ。もしワタシの言葉が皮肉に聞こえるなら、今日を機に自分の言葉を持ちなさい」

 それでもなお不満が胸に渦巻くワタシに、カナタは「大丈夫よ」と声をかける。

「ミサトならきっと、自分の言葉を見つけることが出来るわ」

「……なんでそう断言出来るのよ?」

「なんで? そんなの決まってるわ。なんてったってミサトは――」

 ――ミサトはワタシが見込んだ本物のオンナノコだもの。

 しかしカナタは本当に、恥ずかしいくらいに真っ直ぐな賞賛を惜しみなくしてくるんだなと思う。その分、誰かを非難する時はゾッとするくらいに冷淡な言葉を平気で発するんだろうなとも思った。

 それじゃあ、始めるわよ。

 そう言ってカナタは音楽を再生した。

 なんとなく洋楽のような気がしていたワタシの予想と違い、それは邦楽のロックだった。それも、メジャーとは言い難い聴いたことのない奴。

 だけど一度聴いてしまったが最後。

 ワタシはこれから一生、このメロディを忘れることはないだろう。

 刻まれてしまったのだ。

 ワタシにとっての本物のビートを。

 メロディアスで躍動感に溢れる曲想、挑発的でありながら率直な疾走感を帯びた曲調、なんとも表現し難いくらいに特徴的で中毒性を呼び起こす歌声。

 ……いや、こんな言葉なんかでこの曲を表現出来るなんて思えない。

 まさしくこれはセカイだった。

 貪欲なまでに正直で、無償なまでに真摯な、全く見たことも聞いたこともない世界観を包括するなにからなにまで全く新しくて素晴らしいセカイ。

 力強い情熱を伴ったマグマのようななにかが、まるで無抵抗なワタシの心を侵略し、蹂躙し、同化して、それはもう二度と二つに分かれることがなくなった。

 曲が終わってしばらく経っても、ワタシはなにも言うことが出来なかった。

 やがて「どうだった?」とカナタが尋ねて来たところでやっと我に返り、言葉を探してみても、とても言葉が見つかりそうにない。

「こんなの、なんて言ったらいいか……」

「素直に、自分の思った通りのことを言えばいいの。大丈夫、なんでもいいから、思ったことを言ってごらん?」

 そんなことを期待されても、ワタシはますます困ってしまう。

 なにを言ってもズレてるようで、どこを探しても答えなんて見つかりそうもなくて……。

「じゃあシンプルに聞くわ。この曲、良かった? 悪かった?」

 そんなのは聞かれるまでもない。

「良かった。うん、すごく良かった」

「どの辺りが?」

「なんていうか……こんなの今まで聴いたことなくって、言葉なんかじゃとても言い表せないって感じで……」

「でも、すごいとは感じるんだ?」

「うん……だって、こんなの始めてだから。今まで聴いてたようなアイドルの曲も別に嫌いじゃないんだけど、なんていうか、どこにでも転がってそうっていうか、聴いて五分もしないうちに埋もれちゃうような感じで……だけど、この曲はそういうのとはなんだか全然違ってて……どこまでも、どこまでも、ワタシの心の中に入ってくるっていうか……」

 こんな風にワタシが言葉を紡げば紡ぐほど、カナタは嬉しそうに表情を緩めていく。

「ただ単純に、耳障りのいい音って感じじゃないんだよ。単純に気持ちよくなってもらうための曲じゃないっていうか、その曲が」

「その曲が、まるで一つのセカイを持ってるみたいだった?」

 ご馳走を目の前にしてついに辛抱ならなくなって、といった調子でカナタが問いかける。

「うん……この曲が持ってるセカイを、一生懸命に、ものすごく真摯に伝えようとしてるみたい」

「そのセカイに、ドキドキした?」

「ドキドキした。今も、ちょっと胸が苦しい」

「メロディがあなたの心に刻まれた?」

「キレイで速くて胸が踊って……こんなの、ワタシ全然聴いたことない」

「一度聴いちゃうともう忘れられないでしょう?」

「忘れらんない……むしろ忘れたくない」

 こんなにもすごいメロディを忘れるなんて、ワタシの心への冒涜だ。

 ワタシの頭の中では、未だにあのメロディが風のように駆け巡り止むことはない。

 まだだ、まだ足りない。

 この曲はまだまだこの程度の言葉ではとても語り尽くせやしない。さっきまでは言葉なんて見つからないと思ってたのに、今となってはむしろいくら言葉を紡いでも足りないような気がしてくる。

 もっと、もっとこの曲を語りたい。ここには気を使わなくてはならない友人も空気も存在しない。ここにはただ、この言葉を聞いてくれる相手と気兼ねなく言葉を紡ぐことを許してくれる空間、それだけがあるのだから。

「これは……これはきっとセカイなんだ! 聴いて五分もしたら忘れちゃうような曲なんかじゃなくって、一生、その人の心の中に残るようにって、そんな風にあって欲しいって、そんな思いを込めて作り出された曲なんだ!」

 ワタシは今、きっととても小っ恥ずかしいことを言っている。普段のワタシだったら鼻で笑っているに違いないことを言っている。

 しかし今は不思議と全然恥ずかしくない。

 まるで心の奥にしまいこんだ感情が一気にワタシの口から飛び出しているようだ。

 ワタシの感情のおもむくままになにかを語ること、そしてそれを聞いてくれる人間がいてくれるということが、こんなに気持ちいいものだなんて知らなかった。

「だから、この曲のメロディはホントにすごいんだよ! すごくて、すごくて、すごすぎて、この人たちのセカイがワタシの心に入ってくるみたいで、刻みつけてくるみたいで! だから……これはホントに、運命的なくらいに、セカイそのものなんだよ!」

「素晴らしい!」

 カナタは弾けるように叫ぶと、ワタシを思いっきり抱きしめた。

 固く、とても固く、固すぎるくらいにハードな抱擁。人生最大級に重たい愛を一身に受けたワタシは流石に普通に戸惑っていた。

「素晴らしい素晴らしい素晴らしい! ……すごいすごいすごいすごいすっっっっごおおおおい!」

 戸惑うワタシを尻目にカナタは一心不乱に喜びの雄叫びをあげる。万年最下位のスポーツチームが日本一になった時の熱狂的ファンでさえ、これほどの狂喜を見せることはないに違いない。

「ちょっと! 落ち着いて、落ち着いてってば!」

「これが、こんなのが落ち着いてなんていられるもんですか!」

 カナタはワタシの肩に手を置き、正面からワタシの顔を覗き込む。

 その屈託のなさすぎる破顔にワタシは一気に恥ずかしくなってくる。ワタシの胸もドキドキと高鳴っていた。でも、その恥ずかしさも胸の高鳴りも全然不快ではなかった。

「今、ミサトのその言葉で、ワタシたちのセカイが重なったのよ! ワタシと、アナタと、別々だったセカイが、一つの音楽の下に重なり合ったの! その音楽も、決してその辺りに満ち満ちてる下らないニセモノのそれなんかじゃなくって、正真正銘の本物の音楽! 本物のリズム! ……ねえ、これを喜ばないなんて、一体これからの人生でなにに喜べばいいっていうのよ!」

 まるで水を得た魚のように語る語る語る。

 カナタは持て余す感情を、一切のてらいもなく思いっきりワタシにぶつけた。

 荒かった鼻息が穏やかになっていき、やがてカナタは温かい微笑みを浮かべるとワタシの手を取り、そして瞳を輝かせながらワタシの目を真っ直ぐに見つめた。

 カナタの手にこもった体温が、感染するようにワタシの手に伝わってくる。カナタの熱気がワタシの体温と溶けあって一つになったように思えた。

「ねえ……ワタシたち、これから、サイコーなまでに本物の親友同士になるのよ」

 カナタのその言葉には全く迷いがなかった。そこには穏やかでいて情熱的な確信があった。

「ワタシたちの間にニセモノなものなんて一切入ってこなくて……本物を一緒に共有して嘘偽りのない言葉を交わし合う……ワタシたちは、必ず、そんな関係になれるのよ」

 これらのカナタの言葉の数々に一抹の心のざわめき――カナタのある種の盲目を感じなかったといえば嘘になる。

 だけどそれ以上に、カナタとこうしていることにときめきを感じなかったなんて言ったら、それこそ嘘に違いなかった。

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