古い記憶と新しい記憶と
恋愛により近いものですが、主テーマが違ったのでその他にしました。
本当に小さい頃の記憶は、殆ど残っていなくて、
ただ断片的に流れてくるこの映像を何と言葉で表すのか分からない。
目映い光と差し出された大きな手
暖かくて低い声、私の名前を呼ぶ声
この記憶を他人に話したことはない。
私の意識の中で覚えていられる年齢から今に至るまで、この映像の夢を幾度となく見る。
だが、このところこの夢の続きを見るようになった。
黒い車に乗る、見たことのない景色
古びた家、散らばった空のコンビニ弁当
ただただ広がる陰の世界。
恐ろしくなって叫ぶ。
「明日香?大丈夫か??」
突然声をかけられて目を覚ます。
ぼんやりと声をかけた顔を見つめていくと、見慣れた陸の顔があった。
ここは…うちか…
「すげーうなされてたぞ。怖い夢でも見たか?」
心配そうに陸は私の顔を覗き込んだ。
私は汗びっしょりで、異様に熱っぽかった。
「大丈夫。汗かいちゃった。シャワー浴びてくるね。」
慌てて微笑んで見せた。
「ほんと平気か?心配だから俺もついて行く。」
私は陸のその不安げな顔が愛しくて、
可愛いと思ってしまって、笑いながら言った。
「陸は汗かいてないでしょう?変にシャワーを浴びると風邪ひくよ。」
「じゃあ…俺も汗かく。」
そう言って立ち上がっていた私をまたベッドの中に引き戻した。
シャワーを浴びた後の二回目の眠りは、もう怖かった夢のことは忘れていた。
汗をかいた疲れと、陸が隣にいるという安心感からかぐっすりと眠れた。
朝目が覚めると陸はもういなかった。
「仕事かぁ…当たり前か。」
部屋の中でひとりで呟いて、その声が妙に大きく感じて恥ずかしくなった。
久しぶりに実家に帰ろうか…
ふと頭の中でよぎった。
偶然的であるとこの時は思っていたが、あとから考えるとこれも必然的であったのかもしれない。
鍵をかけて家を出る。
いつものように喫茶店でのアルバイト。
その日の夕方に仕事が早く終わったからと言って、
陸が外で待っていた。
バイトが終わって裏から出ると、陸の目の前で子供が転んでいた。
陸は驚いていたが、立たせてあげてその子と話していた。
その様子を見て、なぜか胸がズキンと痛んだ。
足が前に進まなくなって、放心していると、
陸がこちらに気がついてやってきた。
「何ボケッと突っ立ってるんだよ。帰るぞ。」
陸が冷たい言葉なのに、暖かく言うので
その言葉が『前へ進め』の号令のように私の足は自然と動いた。
茜色の帰り道で、久しぶりに実家に顔を出すためにしばらく出かけたいと伝えた。
突然の思いつきっぷりに笑っていたが、
私の性格を把握しきっている陸は当然のように許してくれた。
住宅街の緩やかな坂を登っている途中、
突然視界が低くなったと思ったら私は転んでいた。
「お前は小さい子供かよ。ほら。」
そう言って陸は私に手を差し出した。
大きな夕陽が陸を照らして、目映く光り、
目の前に大きな手があった。
ふいに蠢きはじめる記憶。
既視感だろうか。
その後に広がるものは…
「…っや!」
私が頭を抱えると、
「明日香?」
暖かくて低い声、私の名前を呼ぶ声。
この手を掴んだらはじまるかもしれない陰の世界がとてつもなく恐ろしかった。
陸の手を掴むことができず、戸惑い、自分で立ち上がった。
「どうした?」
「ううん。何でもない。」
顔が強張っていたかもしれない。
頬は赤く高揚していたかもしれない。
陸の顔を見ることが出来ずに歩みを進めた。
次の日私は実家へ帰るために、陸が起きる前に出かけた。
本当は陸が起きてから出かけても良かったんだけど、
昨日のことがちゃんと話せなくて気まずく思ってこっそり出かけた。
実家に帰る途中で電話を入れたが、もう出かけた後だったようで留守電だった。
久しぶりに帰った実家は何も変わっておらず、私の部屋までそのままで驚いた。
娘が突然帰ってきて上機嫌なのか、夜には少しお酒のを飲み過ぎた父が昔話を始めた。
私は笑いながらたくさん聞いてあげるふりをしていたが、
酔っぱらいの戯言を八割近く聞き流していた。
ただ最後に
私の全く知らなかった話を聞かされた。
「お前はな、小さい時に一回だけ誘拐されかかったことがあるんだ。」
眠気と戦いながらぼんやりと聞いていたが、あまりのショックに眼ははっきりと覚め、口をポカンと開けて聞き入った。
「どこか連れ去られたらしいんだが、
いつも帰ってくる時間にお前が帰ってこなくてな、お父さん探しに行ったら、泣きながら前からお前が歩いてくるんだ。
話を聞いたら知らない人に車に乗せられて、知らないところに連れて行かされたって。
なんでか分からないけど、お前は普通に帰ってきたから良かったが…」
最初はたどたどしかった父の口調が最後にははっきりとしてきて、
そのくせ話が終わったら突然その場でそのまま寝始めた。
だからこれ以上詳しいことが分からなかった。
あぁ、私の中の記憶はこれだったのか。
あの光の中で手を差し伸べたのは父か。
誘拐犯ではないと思った。
父である。
泣けるほどそう思った。
そうしたら妙に落ち着いてきた。
小さい頃もそうだった。
おばけとか正体が分かると安心するように、
怖い夢も原因が分かると落ち着いてきた。
そして
陸の元へすぐ帰りたくなった。
すべて話そう。
信じてくれなくてもいい。
あの人だけには話そう。
翌日、また突然帰ると言い出した私を父は苦笑しながらも見送ってくれた。
その父を見て、陸と似ている、と思った。
あの手も、暖かい声も。
私はそういう人を選んだんだ。
父に似た人、を。
家の鍵を実家に忘れたので、陸が帰ってくるまで玄関で待つことにした。
寒くて縮こまってしゃがんでいると、ひとつ足音が近づいてきた。
陸だ、と確信して声をかけた。
「ただいま。」
「うぉ、びっくりした。もう帰ってきたのかよ。」
「うん。」
笑顔で手を出して、立たせてもらうことにした。
もう怖くはなかった。
陸は片手でコンビニの袋を持っていて、もう一方の手で私の手をつかみ引っ張った。
「それコンビニ弁当?ちゃんとしたもの食べてよ。」
あの記憶の中のコンビニ弁当が脳裏を横切ったが、理解した今は笑って言えた。
ご飯を食べながらすべてを話した。
夢のこと。誘拐のこと。
陸は私の真剣な眼に疑いを持たずに耳を傾けてくれた。
そして私を精一杯ギュッと抱き締めてくれた。
暖かかった。
どうして私はこの人の手をとることができなかったのだろう。
なぜ恐ろしい記憶と重ね合わせてしまったのだろう。
私はあの恐ろしい記憶の部分の上に
今この瞬間を上から重ねて消し去った。
もう二度と思い出すことはないように。
そしてこの瞬間を忘れることはないように。
あの日の父の手と、今の陸の手を信じつつ…
どうぞ評価をよろしくお願いします。