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4階から飛び降りたと漏れ聞こえた。きっと天使みたいに綺麗だったのだろう。澄んだ青空だったから。
他愛ないことを考えながら真ん中より3列後ろの席に座ったら、ニキビ面のゴリラみたいな男が隣に来た。安藤だ。僕は眉を顰めて、一個横にずれる。男が開いた席を詰めた。
「何?」
もうすぐ講義が始まる。分厚いテキストを机に置きながらそっけなく訊いた。外の乾燥した冷たい空気から一転、むわっとした熱気が講義室を満たしていた。マスクをすればよかったと少しだけ後悔する。今日は応用コンピュータ概論で興味がなかったが、必須科目だから嫌でも履修しないといけない。安藤は眉間に皺を寄せて僕を睨んでいた。これは怒りという記号だ。
「お前、貴之に何したんだよ」
「何もしてないけど」
「そんなわけあるかよ!」
ダン、と男が拳を机に振り下ろしたので、シャープペンシルが転がった。僕は慌ててキャッチする。一瞬だけ安藤にみんなの視線が集まった。
「本当に知らない。接点もないし、話したこともない。興味すらない。授業が始まるんだ。あっち行けよ」
この男と仲良く肩を並べて講義など受けたくない。むさ苦しい。ほとんど話したこともない人物に絡まれて、僕は苛立ちを隠さなかった。トントンと人差し指で机を叩き、安藤が何秒で立ち去るかをカウントしはじめた。
「お前……、佐伯」
チャイムがなった。13秒か。安藤は舌打ちし、自分の席に戻った。
西川貴之は、男共しかいない工学部のアイドルとも言える存在だった。中性的な顔立ちで、ほっそりとしている。シミもシワも一つない。毛穴なんてないような肌をしている。脱色した髪がさらさらとして、一部で王子と呼ばれていた。写真で見せられたらきっと合成か何かだろうと勘違いするような完璧な姿だった。いつも取り巻きに囲まれて困ったように笑っている印象がある。西川を中心に群がる男たちの姿は、一種の宗教にも似て不気味だった。安藤は特に酷くて金魚の糞みたいに西川に取り付いていて、いつも周囲に睨みをきかせていた。西川にひたすら媚を売る、あれは何の記号だろうか。
僕は、巻き込まれたくないので、常に彼らの存在は無視していた。正直、男を男が取り囲むなど気持ち悪かった。工学部にも僅かながら女性がいるのに、見向きもせずに西川を王子と言って騒ぎ立てるのは、どうしても理解できない。そんな状況を許している西川も。
僕はなるべく西川を避けていたが、授業が重なって、否応なしに西川とその一派を目にする。我慢して我慢して、ここ数日姿をみないなと思ったらさっきの出来事だ。
西川が、昨日自宅マンションの4階から落下した。取り巻きたちが携帯電話を片手に騒いでいたので、僕の耳まで届いた。自殺なのか事故なのかは分からない。4階という中途半端な階層に微妙だという感想を抱いただけだ。そして西川はまだ死んでおらず、意識不明の重体で中途半端に生死の境をさまよっているらしかった。
その西川絡みで、安藤が僕に声をかける要素は全くないはずだった。僕はシャープペンシルを動かしながら、安藤の台詞を頭の中で再生した。
「オマエ、タカユキニナニシタンダヨ」
西川が4階から飛び降りたのに、僕が関係あるんだろうか……。
講義が終わって、改めてノートを見れば、書いてあるのは意味不明な文字の羅列だった。僕はため息をついてノートを閉じる。単位だけの無意味な時間だから、これはこれでいい。今日受講している残りの講義は次の次で、空いた1コマの時間潰しが気だるかった。腰をあげると、手首を捕まれた。汗がぬるりとして気持ち悪い。思いっきり振り払うと、また安藤だった。
僕は手首をしきりにハンドタオルで擦る。
「何だよ」
不機嫌な記号をまき散らしていた時とは一転して、安藤は引きつった笑みを浮かべていた。
「さっきはすまなかった」
「別にいいよ」
鞄を肩に掛けて、僕は安藤に背を向けた。と、一歩踏み出して、急に肩を引かれた。
「一緒に食事でもどうだ? 奢るぞ!」
とりあえず、思いっきり安藤の腕を鞄で叩き落とした。向き直ると、安藤が僕を凝視している。彼の出す記号が何なのか分からなくて、一瞬僕は安藤を見返してしまった。
「食事、行くぞ!」
「はぁ?」
「いいから来てくれ!」
必死、そう、この記号は必死だ。安藤は真剣な表情で、僕を食事に誘った。ぞわぞわとした不安が僕の背中から這い上がって、なのに気がついたら、僕は頷いていた。
大学から徒歩五分ほど歩いたところにある、こじんまりとした喫茶店、アトミックカフェ。デミグラスソースの芳しい香りが漂うトロトロのオムライスを前に、僕は安藤の存在を忘れた。艶やかな明るいオレンジ色に、ブラウンのソースがかかっていて、真っ白なクリームが白い円を描いていた。オムライスを一口、たまごがデミグラスソースと絡んで僕の口の中で溶けていく。弱くもしつこくもないトマト風味のライスがよく調和していた。
「そんなにおいしいか?」
愚かな安藤は、愚かにも注文したチキンの竜田揚げランチを待ちながら、愚かな質問を僕にした。チキン竜田も悪くはないが、オムライスの足元にも及ばない。
「人生で食べた中で、ここが一番うまい」
僕はもう一口頬張る。絶品だ。せっかく奢ってもらえるというのだから、僕は迷わずこの喫茶店を目指した。たった680円ながら、普段は学食さえ食べない僕にとっては立派なご馳走だ。
安藤は頬杖をついて、そんな僕を見た。眉を八の字にしている。
「佐伯っていっつもどこで食べてるんだ?」
「さぁ」
「昼は一人なのか?」
「昼だけじゃなくて、終始一人だよ。人間は煩わしい」
納得したのかしていないのか、安藤は「そうか」といって口を詰むんだ。僕は友人は欲しない。家族とのコミュニケーションですら苦痛だ。大学に通うのも、単なる経歴の欲しさだけだった。入学して早8ヶ月が経過しても、知人以上の間柄ができないのは、僕のそうした対人関係の忌避に由来している。安藤の怒りが消えたのは、普段の僕を思い出したからかもしれない。
「意外だよな、佐伯がオムライス好きとか」
そういって、安藤はやっと目の前に置かれたチキン竜田を一個箸でつまみ、一口で食べた。
でかい身体をしているだけあって、安藤の前のプレートは恐ろしい早さで減っていく。うまいと連呼するわりには絶対味わっていないと思われる喰いっぷりだ。あれがチキン竜田揚げランチではなくてオムライスだったら、僕は今頃安藤の頭に水を掛けていただろう。僕の皿が綺麗になるころに、安藤も「あー喰った」と箸を置いた。ふっと緩めていた顔が一瞬真顔になり、また緩めた顔を僕に向けて安藤が口を開いた。
「佐伯さ、4コマ目の授業とってるだろ」
「それが?」
「課題、どうしてるんだ? 一人だとできないだろう」
安藤が言っているのはプログラミングの講義だった。数人のチームで、先生の出した条件を組み込んだツールを作成しないといけない。締切りは年始の1月8日だったが、始めてプログラミングをする学生が多くて、苦労しているようだった。先生が毎時間アルゴリズムの何たるかやコーディングの仕方を懇切丁寧に教えていたが、授業が終わって聞こえるのはいつも難しいという声だった。そんな講義の課題で、さらにはチームでの課題作成なので、安藤は僕を気遣ったのかもしれない。要らぬ世話だが。
「僕は田中と組んでる」
夏休み以後姿を見かけない同級生の名前を出した。西川しか興味がなかった安藤は、目を斜め上に向けて「そうか」と言った。田中が誰か記憶を探っているのだろう。実はとっくにその難しいらしい課題も終わっているのだが、口には出さなかった。講義には単位のためだけに顔を出している状況だ。
安藤が押し黙ったので、僕は十分にタイミングをはかって鞄に手を伸ばした。
「佐伯って変わってるよな」
ふいに、安藤がつぶやいた。
「どこが?」
すっかり店を出る気でいた僕は、鞄を引き寄せて安藤を見た。安藤は帰り支度をせずに、僕の顔を覗き込んだ。
「独特だよな。自分の時間で生きている感じがする」
「そうかもね」
「西川を見ても何も反応しないし」
「普通だろ」
「違うな。俺の知っている限りでは、貴之を見ると二通りの反応しかしない」
安藤はピースサインを作って僕に示す。ピースサインは喜びの記号だ。何がそんなにうれしいのだろうか。
「引き込まれるか、あからさまに避けるかだ」
安藤は真顔で言った。僕は記号を取り違えていることに気づいた。
「佐伯はそのどちらでもないだろう」
「西川は確かに均整が整ってて綺麗だと思う。だけど、それだけだよ」
僕は感動という概念を知らない。綺麗だとは感じても、心は動かされない。0はいくら掛けても0で、空虚なままだった。
「僕は見たまんましか認知できないんだ。正三角形を綺麗だと思わないのと同じ」
安藤の眉がへの字に曲がった。右目が大きくて、左目が半眼だ。この記号は、怪訝、だろうか。
僕はノートを取り出した。適当な空白に、二等辺三角形と、両角が底角である底辺の中点から垂直に直線を書いた。
「これ、何に見える?」
「木……?」
僕はため息をつく。
「僕は、木を書いたわけじゃない」
例えば、円を描いて、中を赤色に塗り、てっぺんに短い棒をつける。その紙を見せて「これは何だ」と尋ねる。それはもしかしたら赤いボールに釘がささったものなのかもしれないし、赤い皿に爪楊枝が端に乗っかっているものかもしれない。だけど、大抵の人はさも当然のように、「りんご」と答える。僕にはそれが不思議でならなかった。それがりんごにはどうしても見えなかったから。僕にとってのりんごは円ではないし、艶やかで、芯もそんなに出ていない。これはただの赤く塗りつぶした記号だ。
僕の認知能力が人とは違うのだということは、だいぶ前から薄々感じていた。比喩表現を比喩とは思わない。他人の考えていることが分からない。表情の動きから、直感的に感情が読み取れない。誰かに恋をするということも、恋しているという状況も、全然理解できなかった。彼らは僕にとって紙に書いた赤い円と同じで、ただの記号だった。それが直接僕に理解されることはない。人の顔の動きや動作を記号として受け取って、僕が記憶してきた感情の記号と見比べる。記号同士が一致して、始めて人の感情が分かる。曖昧な記号の解読は、僕にはあまりに難解だった。
「見たまんま、三角形に棒。それ以上でもそれ以下でもない」
何度見たって木だとは思えない。
コンピュータのほうが規則的で、明瞭で、ずっと僕には馴染んでいた。
「僕にとっては、西川もこの図形も同じだよ。西川は均整のとれた姿だし、顔もシンメトリックだ。だけど、そのことは僕にとって何の意味もなさない」
「……何だかよくわからないが。変わってるな」
僕はため息をついた。諦めた。僕の感覚を説明しようとしても、うまくできない。もういいよ、「変わってる」で。
「で、本題なんだが」
おもむろに安藤が口を開いた。
「は?」
僕はまじまじとにきびの浮き出た顔を見た。
「食事はもう終わったろ」
安藤のチキン竜田揚げランチも僕のオムライスもすっかりなくなっている。安藤は目がおかしいのだろうか。
「お前……、なんのために食事に誘ったと思ってるんだよ」
「食べるためだろ。奢るといったからついてきた」
「じゃあ、何のために俺が佐伯を食事に誘ったと思うんだ? しかも奢ってまで」
「さぁ。僕に言いがかりつけたお詫びとか」
安藤は額を抑えた。深く息を吐き出す。知るか。僕はエスパーじゃないから、人の考えていることなどわからない。安藤は声のトーンをやや落とした。僕の十八番、呆れというやつだ。
「確かにそれもあるけどな……。まぁ、食事代のバイトだと思って聞けよ」
僕は財布の中身を思い出して、浮かしかけた腰をどかりと落とした。
「貴之が昨日自宅のマンションから落ちたって話は知ってるだろう」
ゆっくりと安藤が話だした。
「ああ、らしいね」
僕は軽く相槌をうった。一瞬安藤の眉がピクリと動いた。
「木がクッションになっていたのか、全身打撲と小さな擦り傷ぐらいなんだが、頭を強く打ったらしく、貴之は今意識不明の重体だ」
知っている。取り巻きたちの声は騒音もかくやというほどで、耳をふさいでも、否応なしに聞こえてきた。安藤はその気持ち悪い顔を僕にぐいっと近づけたので、僕は椅子を引いた。
「うと、とたまにうわ言を言うんだ」
「へぇ」
「佐伯の名前、うとって読み方であってるんだろう」
「それ、唸ってただけじゃないか? 聞き間違えとか」
「ないな。何度も言っていた。俺の他にもはっきり聞いたヤツがいる」
「へぇ……」
僕はデミグラスソースに汚された皿を見た。
「うと」はっきりとそう言ったならそうなんだろう。「烏兎」なんて珍しい名前はそうない。自分の変な名前が大嫌いだったが、光宙と名づけられなかっただけマシだと常日頃思っていた。ピカチュウ……。
僕と西川の接点はほとんどない。たまたま同じ工学部で、たまたま授業が重なっていた。西川が僕の名前を知っていたという話もあまり信じられない程度だ。だが、話したことがないというのは、嘘だったことを思い出した。
僕は一度だけ西川と会話したことがある。大学の二次試験で、席が隣同士だった。試験日の朝、その学生は真っ青の顔をしていて、僕がちらりと見ると、机の上には鉛筆と時計しか出ていなかった。僕は無言で、自分の消しゴムをカッターナイフで切る。真っ二つにした片割れを、そっと隣に差し出したら、目を見開いて僕を見た。
「ありがとう」という小さなつぶやきに、「別にいいよ」と軽く返す。西川はそれきり俯向いて、試験が始まった。ライバルを助けるのもな、と思わないでもなかった。だけど、僕は他の私立も受けていたし、絶対入りたいという大学でもなかったから、僕にとって消しゴムの欠片を与えることは、どうでもいいことの延長だった。すぐにその出来事は記憶の片隅に追いやられた。あの頃の西川は黒髪だったし、分厚いレンズの眼鏡を掛けていて、地味な印象しか持たなかったせいもある。
大学に入って、西川があの時の学生だと気づくのに3ヶ月かかった。深夜に一回だけコンビニで眼鏡をかけた西川を見て、やっと思い出した程度だ。西川と接触したのはあれ以前も以後もなく、平穏な日々を僕は送っていた。一回消しゴムを分け与えただけの関係で、あれからもう10ヶ月以上経っている。西川もそのことを忘れてしまっているかもしれない。
僕は何度も頭の中で西川を描いては消して、ぐるぐると自分との相関図を描こうとしたが、どうやっても、僕と西川との間に線が引けなかった。
そう、意識不明の重体患者が知人以下の名前をつぶやくのはおかしい。
「人名じゃないかもよ」
「何だと思う?」
僕は口を接ぐんだ。
「俺は最初佐伯が貴之のことを突き落としたのだと思った」
「ありえない」
「ああ。すまなかった」
改めて深々と頭を下げられた。僕は油の浮いた安藤の頭を見る。どこまでも油っぽい男だな、と僕はしみじみと感じた。西川は一日中纏わりつかれてよく耐えていた。単純に鈍感だったのかもしれない。僕が無言でいると、安藤がいきなり頭をあげた。手のひらをしっかりとテーブルにつけている。額にはぬらぬらと汗が浮いていて、眉間に皺ができていた。
「頼む! 空いている時間でいいから、何があったのか調べてくれないか?」
「何を?」
「貴之が落下したことについてだよ!」
僕は水を口に含んで、ゆっくり嚥下した。
「事故だったら間抜けだと思うし、自殺だったら中途半端だし。だけど、そのどちらかしかないだろ」
「違う。あそこのベランダはよっぽど乗り上げないと落ちないようになっているし、貴之は自殺するやつじゃない。普段と何もかわらなかったし、思いつめているようにもみえなかった」
「へぇ」
「事件なんだよ!」
僕は思わずまわりを見回した。新聞を持っていた中年のサラリーマンはさっと目を逸らした。
「思い込みかもしれないだろ」
「ありえない! 頼むよ、佐伯。中村も斉藤も、みんな事故と言い張る。警察までもだ。俺はそう思えない」
警察がそういうのなら事故なのだろう。僕の醸し出している空気を察したのか、安藤の両手がぬっとのびてきたので、僕はさらに椅子を引いた。僕の肩をつかもうとしていた手は空を切って、テーブルに握りこぶしの形で着地する。安藤の形相が僕には不気味に思えて仕方なかった。
「西川が起きてから聞いたらいいだろ」
「重体だぞ! そもそも目が覚めるのかどうか……」
安藤の目が潤んできたので、僕はうんざりしてきた。
「何で僕なわけ?」
「貴之が佐伯の名前を呼んでいたから」
「そんなの関係ないだろ」
「あるだろ! 貴之は佐伯を頼ってるんだ!」
僕は頭が痛くなってきた。妄想、妄想だ。いくら西川が「うと」とつぶやいていてからって、考えが飛躍している。僕が口を開こうとしたとき、安藤は言った。
「調査してくれたら食事を奢る」
「毎日」
「毎日な」
「フリュティエやマイマイや喜良久亭もいきたい」
「フリュティエ? マイマイ、喜良久亭も奢る」
「江戸屋も」
「江戸屋もな」
僕は頷いていた。
人間が一生に食べられる食事の回数は決まっている。故に、一食一食を拘るべきなのだ。




