水が怖い
近世に近い、王政貴族制の残る国の話。
「水が怖い」
ある場所で男が言った。
「水が怖いの」
また別の場所で女が言った。
気が付けば、国の内外を問わず、世界中にそう口にする人間が至る所に次々と現れる。
王侯貴族も平民も、富豪からスラムの貧民に至るまで。男も女も。身分や立場、性別に関係なく、ある意味平等に。
それがいつから、どうやって広まったのかは分からない。そして、いつ収束するかも。
エルンストは頭を抱えていた。彼の仕事は貴族名鑑の作成である。しかしここ数か月で、あちこちの貴族家からの死亡届が止まらない。だがこの分だと、来年発行する貴族名鑑はずいぶんと変更を余儀なくされるだろう。
「一体、何が起こっているというんだ」
疫病ではない。殺人でもない。あえて言うならば自殺が近い。何故ならば、「水が怖い」と言い出した人間は、一切の水分摂取を拒絶するからだ。
飲み物は勿論のこと、料理にだって水は使われる。主食であるパンだって、水を使って捏ねるものだから。作り方を知らないはずの人物でも、水が使われていると言い出す。では肉を焼けば良いだろうと思うかもしれないが、レアであれば滴る血も、焼いた断面から溢れる肉汁すら水だと、彼らは拒むのだ。野菜や果物に含まれる水気や果汁もまた、水なのだそうだ。
それらすべて、水分を含んだ飲食物を受け付けようとしなくなる人々。結果は見えている。僅か三日で、人は水を摂取できなければ死に至る。
家族が無理やり水を含ませようとすると、彼らは激しく暴れ、時には窓から飛び降りてそのまま死去するような例もあった。縛り付けて無理やり水を含ませて、決して吐き出さないよう抑え込んだ場合、命は一旦長らえるものの、正気と生気が失われ、結局はゆるゆると死に向かう。
水恐怖症になった人物の言い分は、体内に入った水分からの殺意を感じるからだと。すべての水は毒にも等しいと。しかし、あらゆる水分を拒絶した先にもまた、死しかない。
そう。「水が怖い」と言い出した人を救う手立ては今のところないのだ。
エルンストが向き合っているのは貴族家だけではあるが、使用人や出入りの商人など、平民にも被害が出ているのは目を向ければ分かる。性別も職業も関係なく、ある日、いきなり「水が怖い」と言い出しては死んで行く。全員が同時に、ではない。時間も場所もまちまちに、しかし唐突に恐怖は襲う。
「伝染性はないんだよな?」
同僚のアーネストが、目の下の隈が濃い顔で問いかけて来る。
「伝染性があったら、まず身近な家族が移るはず。何故だか一家族で発症するのは必ず一人だけのようだから、その可能性は低いと思う」
病気ではないが、「水が怖い」と口に出す者のことをいつしか「発症した」「発症者」と言うようになった。通常であれば閑職に近いこの部署でさえ振り回されている事態に、当然、国でも動いて調査もされている。
「他国でも同じようだな」
アーネストが机上の新聞を弾く。一面を飾るのは国からの公式発表。それをちらりと見やったエルンストはため息をついた。
「他国までとなると、本当に原因の見当が付かない。規模が大きすぎる。今、分かっているのは、発症者に共通するのが成人した男女だというくらいか」
この国の成人は十八歳。他国でも成人とされる年齢に大きく差はない。そして十八歳以上としか言えない発症年齢の幅広さ。つまり、大人は誰でもいつ自分が発症するかもと戦々恐々としているのが現状。身内の不幸を望むわけではないが、家族に被害が出ていなければ安全は保障されない。明日は我が身である。
「個人的な見解を付け加えるなら、俺とお前は大丈夫だと思うぞ。あとこの部署なら―――」
アーネストは他に何名かの名を挙げる。
「根拠は?」
「俺のとこ、兄貴が発症したんだ。新婚だったんだよ。まだ結婚して二か月」
「未婚だと発症しないと?」
「近い。子供がいないと発症しない」
「待て。お前の兄貴、新婚ならまだ子供がいないだろ? それとも兄嫁の妊娠がもう分かったのか?」
「いや、隠し子っていうか、庶子がいたことが発覚した。兄貴の葬式に以前うちで侍女やってた女が兄貴の子だと言って連れて押しかけて来たんだ。子供を見たら、見事に兄貴の顔そっくり。あれは間違いないだろう。おかげで実家が修羅場になってる」
アーネストの目の下の隈の理由が分かった気がした。
「確かに、うちで発症したのも祖父で、子供どころか俺みたいな孫までいるな」
祖父を見送ってまだ三月にもならない。厳しくも可愛がってくれた祖父を思い出すと、エルンストの眉間に皺が寄る。
「そ。我らが貴族名鑑を見れば、一発で子供の有無は分かるだろ? だから発症者と比べてみれば、ほとんどが該当したってわけだ」
「ほとんどっていうのは?」
「だから、兄貴みたいに公にできない子供がいるんじゃないかと、俺は睨んでいるね」
貴族ともなれば、結婚は政略だ。必ずしも愛情が育まれるわけでもなく、愛人を持つものもまた多い。女の場合はすぐに分かるが、男の場合、本人が隠したり気付かないこともあるだろう。単なる行き擦りの遊びだってある。
「もし、お前の推測が本当だったとしたら」
エルンストもアーネストも、貴族の生まれとは言え、下級貴族の次男三男だ。どちらも家を継ぐ宛も婿入り先も見つからなかった口。なんとか王宮の下っ端官吏に滑り込んでいるが、親が死ねば貴族籍は失われて平民になる身の上。結婚するならば、むしろ平民になってからの方が可能性もありそうだと思っていた。庶民から見れば、下っ端でも官吏の稼ぎはいいから嫁の来てもあるだろうと。だがアーネストの推測が的を射ているとすれば。
「誰もが結婚しなくなって、子供を作らなくなるんじゃないか?」
近年、文明の発達と共に食料事情が好転した。医療も発展した結果、出産時、乳幼児の死亡件数は大幅に減り、また寿命も延びている。つまり、人口も増えた。爆発的に。国は増えた人出を工場に回して生産性を上げ、不毛の地の開拓も進んで、国力もまた大幅に上がっている。未開の土地なぞきっとなくなる日も近い。
「やっと、子供が飢えない国になったと思ったんですがねえ」
それまで口を閉ざしていた室長がぽつりと零す。貴族とは名ばかりの貧乏な家に生まれて、苦労した彼は先日、孫が生まれたばかりだ。まだ、彼の家には発症者がいない。つまり、家族の誰かが発症する可能性が高い。彼か妻か。息子か嫁か。
「我が子や可愛い孫のためならば、我が身が犠牲になることで守れるならばというのは本心ではありますが、置いて行かれるのとどちらが辛くないのでしょうね」
室長の言葉に、誰も返事はできなかった。誰しも我が身が可愛いものだ。死にたくはない。子を持たねば確実に生き延びられるとしたら。誰もがそう確信した場合。きっと子供が生まれなくなる。
「怖いのは本当は水ではないのでは?」
呪いのように世界に蔓延していく恐怖。子供という未来が失われれば、いずれ国も世界も終わる時が来る。それはゆっくりと人類の牙城を崩し、滅びへと向かわせる悪意によるのではと、エルンストには感じられた。
◇◆◇
或る時、世界は思った。
「人が増えすぎている。調整しなければ」
世界には養える制限がある。それを越える勢いの人類をこのままにはしておけない。
だが、せっかくここまで育った人類への慈悲もまたあった。全てを滅ぼすのは憐れだと。
「己が種を残そうとするのも生き物の本能。成し遂げたものは役割を終えたと看做して、人の時間で一年間だけ間引くこととしよう」
滅びの因子を水に託して世界は結果を待つ。
だが人は。世界の定めた期間を知る由もなく。発症者がいなくなっても、そのまま子供を持つことが忌避されるような風潮となり、自ら滅びへと舵を切ったのだ。
やがてこの世界は、人以外の動植物のみが生きるものとなるだろう。
滑り込みでもう一本。
「水」がテーマのホラーを私が考えると、「どうしてこうなった?」なものになるのは何故。