滅亡は嫌なので隣国の皇帝を善良に育てる……つもりが間違えました
「アリシア様!」
少年が庭園を横切って駆けてくる。
「お帰りなさい」
「ただいま、ジョシュア。良い子にしてた?」
「はい! さっきまで魔術の練習をしていました!」
「偉いわ」
抱きついてきたのを受け止め、ふわふわの黒髪を撫でてやった。
アリシアを見上げたジョシュアはメガネをかけている。その奥の瞳は赤く、鋭い眼光と嫌な記憶を思い出しそうになった。
大丈夫。こんなにかわいい子が、将来この国を攻め落とす皇帝になるはずがない。
アリシアはジョシュアの手を握って玄関へと向かいながら、一生懸命に今日の出来事を話すジョシュアに笑顔を向けた。
* * * * *
かつて、皇帝に胸を剣で刺されて死んだはずのアリシアは、なぜか時間を十年遡った。
そして、王国が滅亡するのを阻止するため、皇帝を善良に育てることを決意する。
というのも、皇帝は幼い頃に誘拐されたのだが、その場所が王国だったのではという噂があったからだ。つらい幼少期を過ごしたのなら、帝位についた途端に王国を攻め滅ぼそうとしたのもうなずける。
必死に探し回ったアリシアは、闇競売にかけられた未来の皇帝を見つけ出した。
皇帝の血縁であることも、魔術で証明済みである。
すでに何度か持ち主が変わっていた彼は、痩せ細りボロボロになっており、誘拐される前の記憶を失っていた。
少年を買い取ったアリシアは、未来の皇帝が生まれ変わることを期待して、あえて皇帝の本名であるケイドンではなく、ジョシュアと名付けた。
衰弱していたジョシュアは引き取られた後に高熱を出し、それが原因で視力が下がった。結果、現在メガネをしている。
未来の皇帝はメガネをかけていなかったから、少し歴史が変わったことになる。
そして皇帝は剣が得意だったはずなのだが、教育を受けているジョシュアは魔法が得意になった。
こういった些細な歴史改変を積み重ねていけば、帝国がジョシュアを見つけ出し、いずれ皇帝となった時にも、王国を攻め滅ぼすことにはならないだろうと思っている。
アリシアは、祈るような気持ちで、ジョシュアが帝国に戻る日を待っていた。
* * * * *
――が、待てど暮らせど帝国はジョシュアを見つけに来なかった。
未来ではそろそろ皇帝が変わり、王国に宣戦布告する頃だ。とっくにジョシュアは帝国に戻っているはずだった。
もしかしたら、ジョシュアが皇帝になる未来さえも変わってしまったのかもしれない。アリシアが保護をしているのだから、帝国側が見つけられないのもうなずけた。このまま時が過ぎれば、王国滅亡の未来を阻止できる――。
そう思っていたある日、帝位簒奪のニュースが飛び込んできた。
幼い頃に誘拐された皇子が戻り、皇帝を殺してその地位を奪ったのだ。
新しい皇帝の名は、ケイドン。
報せを聞いたアリシアは訓練場へと走った。
ちょうど魔術師たちは訓練の合間に休憩を取っていたところだった。
「アリシア様? どうかしましたか?」
飛び込んできたアリシアを見て、ジョシュアがすぐに駆け寄ってくる。
「ジョシュア……」
「はい」
十年の歳月を経て成長したジョシュアは、もう痩せっぽちの少年ではない。背丈はとうにアリシアを越えていて、ローブの中の肉体ががっしりとしているのを、アリシアは知っている。魔術師としての実力は王国随一だ。
アリシアはジョシュアのメガネの奥の赤い瞳をのぞき込んだ。
黒い髪と赤い目は、間違いなくあの時の皇帝と同じものだ。何より、前皇帝の血筋であることは確認済みだというのに。
「どうして……」
「アリシア様?」
ジョシュアがここにいるのに、ケイドンが現れた。
つまり、ジョシュアはケイドンではなかったのだ。
どくん、どくん、と心臓が嫌な音を立てている。
王国の滅亡を阻止するためにケイドンを保護したつもりだったのに、それが別人だった。
鑑定は確かだろうから、おそらく、このジョシュアも前皇帝の血を引いているのだろう。誘拐されたのは一人ではなかったということになる。
アリシアは間違えたのだ。
未来を変えることに失敗した。皇帝はこの国を恨んだままだ。やがて宣戦布告されるだろう。
「ああ……」
アリシアの視界が絶望の色に染まっていった。
ぐらりと体が傾く。
「アリシア様!? アリシア様!!」
* * * * *
気を失ったアリシアは、目が覚めた後、ジョシュアに全てを話すことにした。
自分は皇帝に殺されて回帰したこと、その未来を変えるために幼い皇帝を保護しようとしたこと、皇帝がジョシュアだと思っていたのに、間違っていたこと。
「黙っていてごめんなさい。あなたを保護したことを後悔はしていないわ。いたいだけここにいていい。だけど、ここにいれば侵略戦争に巻き込まれるわ。帝国に戻るという選択肢もある。あなたが皇帝の血筋であることは確かなのだから」
アリシアの説明を聞いて、ジョシュアは口元を手で覆い、うつむいた。
「少し……考えさせて下さい」
「ええ、よく考えて」
話をした翌日、ジョシュアは帝国へと旅立った。
アリシアは開戦に向けての準備を始めた。元々、万が一未来が変わらなかった時のために準備を進めていたから、あとはその仕上げをするだけだ。
だが、宣戦布告されると明言することもできないため、やれることは限られていた。
騎士をすぐに動かせるようにしたり、備蓄していた物資をすぐに使えるようにしたり、領民をなるべく国外に出したりが精々だった。
他領地に働きかけることも、大々的に動くこともできない。
アリシアは、いつ開戦の知らせがくるかと、毎日気が気ではなかった。
果たして、宣戦布告は三日後に出た。
王国内は大混乱に陥った。同盟国からの一方的な破棄と同時の宣戦布告なのだから当然である。国力の差は歴然で、戦えば確実に負ける。
ひとまず使者を立て、話し合いの場を持てないかと交渉することになった。
そして得られたのは、なんと、宣戦布告を撤回してもよいが和平の証としてアリシアを花嫁として寄越せ、という言葉だった。
無茶苦茶な要求である。
だが、王族に適齢期の独身女性はいない。誰かを嫁がせるのであれば、公女であるアリシアは妥当だった。
国王からの命令を受けたアリシアは、ジョシュアが皇帝を説得してくれたのだろうと考えた。国の滅亡を阻止できるのであれば、自分が嫁ぐくらい、安いものだ。たとえそれが、かつて自分を殺した残忍な皇帝であったとしても。
渋る父親を宥め、アリシアは花嫁となることを決めた。
* * * * *
長く馬車に揺られ、アリシアは帝国の首都にある宮殿へと赴いた。
従者とは引き離され、一人謁見の間に通されたアリシアは、目を伏せたまま玉座に座る皇帝の前へと進み出る。
「面を上げよ」
ジョシュアに似た、しかし彼からは聞いたこともない硬質な声。
顔を上げたアリシアはびくりと固まった。
「ジョ――」
皇帝の顔はジョシュアにそっくりだった。思わず声を出してしまい、慌てて口を噤む。
しかし改めて見直してみれば、やはりジョシュアとは異なっていた。髪型も違うし、メガネもしていないし、そして何より、ジョシュアはこんな冷たい目をしない。
「遠路はるばるご苦労だった、我が花嫁。まずは旅の疲れを癒されよ。夕食の後に時間をとろう」
「はい」
それだけ告げると、皇帝はアリシアの退室を促すよりも先に自ら奥の出口から部屋を出て行った。
* * * * *
私室に通され、これからアリシアの世話をするという侍女との顔合わせが終わった。連れてきた侍女たちは帰さなければならないかと思ったが、アリシア付きのまま残っていいとのことだ。
一人にして欲しいと告げ、侍女たちには下がってもらった。
夕食も一人で食べ、皇帝からの呼び出しを待った。
随分と夜が更けてから、使用人が呼びにきた。
案内されたのは皇帝の私室だった。
夫婦となるのだから、何も問題はない。だが、それはそれ、これはこれである。
深夜に男性の部屋に入ることに、アリシアはひどく緊張していた。
「どうぞ陛下の向かいにお座りください」
使用人に促され、寛いだ服装でソファに座っている皇帝の正面の席に座る。
使用人が静かに出て行き、アリシアは緊張のあまりに伏せていた目をそろそろと上げた。
皇帝と目が合った瞬間――。
「申し訳ありません!」
――皇帝は勢いよく立ち上がると、深く頭を下げた。
「一度してしまった宣戦布告を取り消すのは容易ではなく、婚姻により和平を結ぶのは古今東西ありふれた方法で、ですが多分に私情を挟みました! アリシア様の意向を確認することなく進めてしまったこと、心からお詫び申し上げます!」
「え、あ、え? ジョ、ジョシュア……?」
驚いたアリシアは、ジョシュアの名を口にした。
話し方も声もジョシュアそっくりだ。
しかし、先ほど使用人は「陛下」と言っていなかったか。
「はい」
顔を上げた皇帝は、もはやジョシュアにしか見えなかった。
髪型が違う。メガネをかけていない。だが、叱られた時のように眉を下げ、アリシアをじっと見ている目はジョシュアのものだった。
「ジョシュア? ケイドン陛下ではないの? 私は陛下に呼ばれて――」
「ケイドンは死にました。今は俺が皇帝です」
「え!?」
「アリシア様に求婚したのも俺です」
「何を言っているの……?」
混乱しているアリシアに、ジョシュアはこれまでの出来事を掻い摘まんで話した。
説得しようとケイドンに会ったが、説得に応じず最後はキレて斬りかかってきたこと。メガネを吹っ飛ばされ踏み潰されたので、ムカついて魔法をぶちかましたら殺してしまったこと。事態の収拾のために皇帝になったこと。宣戦布告を取り消すためにアリシアに求婚したこと。
「なんてこと……」
アリシアは茫然としていた。
「アリシア様に頂いた大切なメガネだったんです」
そこじゃない。
アリシアはジョシュアをじっと見つめた。
「あなた、メガネがなくても見えてるの?」
「唐突ですね。見えてますよ。身体強化魔法を使っているので、視力は並以上にあります。もうずっと素通しのレンズでした」
「じゃあ、どうして外さなかったの?」
「アリシア様に頂いたものだからです。アリシア様が俺の世界を変えてくれました。その最初が、メガネを掛けて見える景色が変わったことだったので、俺にとってはただの視力を補うための道具ではなかったんです」
「そう……」
それにしたって、帝国の皇帝を殺害する動機にしてはあまりにもアレではないか。
「アリシア様は未来の皇帝を保護して、王国滅亡の未来を変えたんです。予定通りですよ」
「そう、かしら?」
「そうです。アリシア様はやり遂げたんです」
事実としては、その通りだった。とにかく王国滅亡の危機は去ったのだ。
「だけど、そのためには、ジョシュアと結婚しなければならないのよね?」
「え……やっぱり嫌ですか……?」
アリシアは首を捻った。
嫌かと自問すれば、別に嫌ではない。ジョシュアはいずれ帝国に戻るのだと思っていたから、そういう対象として見ていなかっただけで。
他に想う人がいるわけではなく、というか正直今世は恋愛どころではなく、今後はどのみち家のために誰かと結婚しなければならない。
であれば、別に相手がジョシュアであってもよいのではないだろうか。
「でも私、皇妃になる教育なんて、受けてないわ」
「大丈夫です。俺も皇帝になる教育は受けてません」
それはそうだ。アリシアもよく知っていた。
「ならなおさら、きちんとした教育を受けた人と結婚するべきじゃない?」
「そうですか。なら仕方ないですね。俺は皇帝を降ります」
「え!?」
皇帝とは、そんな簡単に辞められるものだったか。
「俺が皇帝であることが原因でアリシア様と結婚できないなら、辞めるしかないんで。他の血縁はケイドンが皆殺しにしちゃったらしいですけど関係ないですよね。血迷って王国に攻めてくるようであれば、軍隊吹き飛ばすだけです」
「軍隊を吹き飛ばすって……」
「そのくらいの実力はありますよ、俺。今回だって、穏便に済ませられるならと思って説得を試みましたけど、応じなければ迎え撃って叩き潰す気でいましたから。心配なら、ここで先に潰しておきますか?」
「いいえ!」
冗談とも本気ともつかないような軽い物言いだったが、これまでジョシュアは嘘を言ったことも自己を過大評価したこともない。ジョシュアができると言うのなら、できてしまうのだろう。
「アリシア様はどうしたいですか? アリシア様が決めていいですよ。俺はアリシア様についていくだけなんで」
「少し……考えさせてちょうだい」
「いくらでも、と言いたいところですが、現状維持するなら、婚礼を急がなきゃなりません。他国にも宣戦布告は伝わっていますから」
はぁ、とアリシアは溜め息をついた。
覚悟を決めるしかない。
どうせ元々そのつもりでここに来たのだ。
だが、このまますんなりと頷くのもなんだか悔しかった。
ちらっとジョシュアの顔を見る。
どうせなら、ちゃんとしたプロポーズが欲しかった。
少しくらい焦らしてもいいのではないか。
「今すぐには決められないわ。二、三日くらい待てるでしょう?」
アリシアはそう言って、ジョシュアの部屋を後にした。
次の日からジョシュアの熱烈な求婚に翻弄されることになるとも知らずに。