長安、暁の席次 ー大伴古麻呂列伝ー
本作は、筆者個人の主義や思想を表明する目的ではなく、あくまで歴史的事象をモチーフとした完全な創作作品です。登場人物や出来事は史実と一致することを必ずしも意図しておらず、あくまで物語の雰囲気やドラマ性を高めるためのフィクションとしてお楽しみいただくものです。
天平勝宝四年(七五二年)の晩秋、東シナ海の荒波を乗り越え、第十二次遣唐使船団は唐土の岸辺にたどり着いた。大使・藤原清河、副使・大伴古麻呂、そして博識で知られる吉備真備らが率いる一行の使命は多岐にわたる。玄宗皇帝への拝謁、先進文化の吸収、そして何より、東海の日の本たる日本の国威を、世界の中心たるこの長安に示すこと。それは、船旅で命を落とした多くの同胞たちの想いも背負った、重い任務であった。
年が明け、七五三年。一行はついに長安の土を踏む。西市・東市の喧騒は世界の縮図であり、大路を行き交う人々の多様な衣装や言語は、この都の国際性を物語る。北に鎮座する大明宮の威容は、古麻呂の胸に深い感銘を刻むと同時に、これから始まるであろう外交という名の静かな戦いへの覚悟を新たにさせた。
「古麻呂殿、いよいよですな」
宿坊の一室。吉備真備が、落ち着いた中にも確かな光を宿した瞳で古麻呂に語りかける。かつて阿倍仲麻呂と共に唐で学び、今再びこの地を踏んだ碩学は、長安の空気とその意味を誰よりも深く理解していた。
「うむ、真備殿。この地を踏むことが叶わず、海の藻屑と消えた者たちのことを思えば、我らの双肩にかかる責務の重さを改めて感じる。日本の名を、決して辱めるわけにはいかぬ」
古麻呂の言葉には、大伴の血に流れる武人の誇りと、文人としての知性が滲んでいた。
今回の遣唐使の主要な目的の一つに、元日の朝賀の儀への参列があった。諸外国の使節が一堂に会し、皇帝に新年の賀を奉るこの儀式は、それぞれの国が唐王朝からどのような序列で遇されているかを内外に示す、いわば国際的な格付けの場であった。序列は、そのまま国威に繋がる。
「やはり、新羅の動きが気になります。彼らは毎年欠かさず朝貢し、唐の歓心を買うことに余念がないと聞きますゆえ」
真備が懸念を口にする。新羅は唐の忠実な属国として振る舞い、その見返りに半島での覇権を確立してきた。それに対し、日本の遣唐使は十数年から二十年に一度。唐の役人たちの心証が、どちらに傾くかは自明の理に思えた。
「案ずることはない、真備殿。策は練ってある」
古麻呂は静かに応じたが、その声には微かな自信が宿っていた。実は前年、七五二年(天平勝宝四年)、新羅王子・金泰廉ら七百余名が、日本の難波津に来着し、聖武上皇に拝謁、朝貢の礼をとったという重大な事実があったのだ。この一件は、新羅側が意図的に唐へ報告を上げていないか、あるいは軽微な友好使節として矮小化している可能性が高く、長安ではまだ広く知られていないはずだった。古麻呂はこの事実を、来るべき外交戦の切り札として、深く胸に秘めていた。
元日の払暁。東の空が乳白色に染まり始めると、長安の街は厳粛な熱気に包まれた。諸国の使節団は、華麗な民族衣装や規定の朝服に身を包み、大明宮の正殿たる含元殿へと向かう。雪を薄く纏った含元殿は、朝日に照らされ、天上の宮殿のごとき威容を誇っていた。
古麻呂ら日本使節団も、日本の朝服を凛と着こなし、静々とした足取りで列に加わる。しかし、殿内で席次が記された名簿を渡された瞬間、日本使節団の間に凍りついたような緊張が走った。
「こ、これは……! 何という仕打ち!」
若い書記官が、声を抑えきれずに呻く。日本の席次が、あろうことか新羅使節団の下に記されていたのだ。
「静まれ」
古麻呂は低く鋭い声で制し、表情を変えぬまま、近くにいた唐の礼部の役人に歩み寄った。
「恐れながら、この席次、何かの手違いではござりませぬか? 我ら日本の席が、新羅の下とは、到底承服いたしかねまする」
古麻呂の抗議は、穏やかながらも断固たる響きを持っていた。役人は眉をひそめ、いぶかしげな表情を浮かべたが、その時、長身痩躯の新羅の正使、金義忠が悠然と進み出た。齢五十ほど、怜悧な眼差しには自信と侮りが浮かんでいる。
「これはこれは、日本の大伴殿。席次は長年の慣例と、天子様への忠誠の度合いを鑑み、礼部が公正に定められたものと拝察いたします。貴国がこの席次に不満を抱かれる謂れは、どこにもないはず。我ら新羅は、毎年欠かさず天子様に朝貢の礼を尽くし、忠誠を示しております。貴国のように、十数年に一度の遣使とは、その意味合いが異なりますのでな」
金義忠は、丁寧な言葉遣いの裏に、日本を見下す棘を隠していた。
周囲の唐の役人たちは、明らかに新羅の主張に分があるという顔つきで頷き合っている。朝貢の頻度は、彼らにとって分かりやすい序列の基準なのだ。
「毎年朝貢しておれば席次が上、と。なれば、国の成り立ちや、その国の持つ本来の格においては、我が日本が新羅に劣るとお考えか」
古麻呂は一歩も引かず、静かに問い返す。
「国の格などという曖昧なものではなく、天子様への貢献の度合いこそが重要。ここは中華の都、唐の礼法に従っていただくのが筋でございましょう」
金義忠は冷ややかに言い放ち、そっと口元に笑みを浮かべた。
含元殿の前庭では、この小競り合いに諸国の使節たちが気付き始め、好奇の視線を向けている。日本側は、完全に不利な状況に追い込まれた。大使の藤原清河も、苦虫を噛み潰したような表情で古麻呂の背中を見守っている。朝賀の儀式が始まる時刻は、刻一刻と迫っていた。
朝賀の儀は、席次問題が解決を見ぬまま、一時保留という異例の事態となった。各国使節は一旦それぞれの宿坊へと引き上げさせられ、日本と新羅の使節は、礼部で改めて事情を聴取されることとなった。
礼部の庁舎の一室。古麻呂と金義忠は、唐の礼部侍郎(次官)を前に、再び火花を散らすことになった。
「両国の言い分は理解した。しかしながら、新羅が長年にわたり朝貢を続け、我が朝廷に忠誠を示してきたのは、誰もが知る紛れもない事実。一方、日本国は、遣使の頻度も少なく……」
礼部侍郎の言葉は、遠回しながらも日本の非を指摘するものだった。
金義忠は、ここぞとばかりに畳み掛ける。
「侍郎様、ご賢察、痛み入ります。そもそも日本は、かつて我が新羅が大唐の天子様と共に百済を平らげた後、かの滅びた百済の残党に与し、あろうことか天子様の軍勢に弓を引いたという、忘れることのできぬ過去がございます。そのような国が、常に天子様への忠誠を誓う我が新羅の上席を望むなど、あまりに厚顔無恥と申さざるを得ませぬ」
新羅側の主張は、歴史的な経緯や朝貢の頻度といった、唐の役人にとって分かりやすく、かつ日本に不利な論拠に基づいていた。
一方、古麻呂は粘り強く反論を試みた。
「侍郎様。我が国は、貴国・大唐の広大なる徳を慕い、敬意を表して定期的に使節を派遣しております。しかしそれは、貴国の冊封を受け、内臣として完全に服属し、貴国の年号を国内で用い、官爵まで授かる新羅の立場とは根本的に異なります。我が国は古来より独自の暦と年号を用い、天皇を戴く独立した国であり続けております。かの隋の時代、煬帝に奉った国書に『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや云々』と記しましたのも、その精神の表れに他なりません。国の成り立ち、そして貴国との関わり方において、新羅と同列に扱われることは、到底承服いたしかねる次第でございます」
古麻呂は、日本の独立性と、新羅との明確な差異を理路整然と述べた。
しかし、礼部侍郎は冷ややかに鼻を鳴らした。
「大伴殿、貴国の言い分は理解できなくもない。だが、言葉を飾ろうとも、貴国もまた我が朝廷に『朝貢』の使者を送り、貢物を献上してきているではないか。それを『独立』と言い切るのは、いささか貴国に都合の良い解釈ではないかな? 新羅とて、形は違えど我が朝廷に忠誠を尽くしておるのだ」
侍郎の指摘は的を射ている部分もあり、周囲の唐の役人たちも頷いている。だが、古麻呂はここで怯むわけにはいかなかった。
古麻呂は一瞬目を閉じ、息を整えた。その顔には、侍郎の痛烈な指摘に対する反駁の熱だけでなく、この国の代表として譲れない一線を守り抜こうとする、鋼のような決意が浮かんでいた。彼は再び口を開いた。その声は、先程よりも一層落ち着きを払い、しかし、言葉の端々には確固たる力が込められていた。
「侍郎様。確かに、我が国も貴国に使者を遣わし、礼を尽くしております。その形式を『朝貢』と呼ばれますならば、甘んじてお受けいたしましょう。しかし、先ほど申し上げました通り、我が国は冊封を受けず、独自の君主を戴く独立した立場にございます。その我が国が、なぜ貴国に敬意を表し、遠路はるばる使者を送るのか。その真意をご理解いただきたいのです。」
古麻呂は侍郎の顔を真っすぐと見据えた。
「我が国の遣使は、貴国への深い敬意と、その輝かしい文化・制度に対する真摯な学びの心からでございます。それは、国のありようそのものを貴国に倣い、内政の隅々にまで指示を仰ぎ、国王の任免すら貴国に委ねる新羅の立場とは、目指すところも、その実質も、根本的に異なるのでございます。」
「東海の果て、日出ずる処に国を構え、我ら独自の風土の中で独自の文化を育み、独立した国家としての道を懸命に切り拓いております。その微力ながらも真摯な営みは、あるいは侍郎様のお耳にも幾らかは届いておりましょうかと、愚考いたす次第でございます」
侍郎は黙って聞いている。その表情からは真意を読み取ることは難しい。古麻呂は、さらに言葉を重ねた。
「そのような我が国にとりまして、この度の席次は、単なる儀礼上の順列の問題ではございません。それは、貴国が我が日本を、その歴史と民の営みを、そして何よりもその矜持を、どのようにご覧になり、どのように遇してくださるのかという…いわば試金石そのものなのでございます」
彼の声に、熱がこもる。
「この席次を、我が国の民に、そして我らが戴く天皇に対し、いかなる言葉で説明すれば、彼らの納得を得られるのでございましょうか」
古麻呂は、問いかけるように、しかし切実な響きを込めて言った。
「どうか、侍郎様にはその点をご賢察いただきたいのです。そして、席次というものが、単なる力関係の表明ではなく、両国の永きにわたる友好と相互の尊重を育み、それを内外に示す、かけがえのない証となるべきものであるということを、ご再考願えればと、伏してお願い申し上げます」
古麻呂は、深く頭を垂れた。
古麻呂は言葉を切ると、深く頭を下げたが、その背筋はまっすぐに伸びていた。彼の言葉は、単なる弁明ではなく、日本の国家としての矜持と、唐に対する対等な関係への強い希求を、礼を尽くしつつも明確に表明するものであった。礼部侍郎は、古麻呂の言葉を黙って聞いていたが、その表情は先程よりも幾分か険しさを増したようにも、あるいは何か考え込むような色を帯びたようにも見えた。
古麻呂の言葉には、切実な響きと、揺るがぬ覚悟が込められていた。礼部侍郎は、古麻呂の眼光の鋭さに一瞬たじろいだが、それでも容易には首を縦に振ろうとはしなかった。
「……ふむ。日本の言い分、一応は預かっておこう。しかし、席次の決定は、あくまで我が朝廷の礼法と慣例に従うことになる」
侍郎はそう言って、議論を打ち切った。
交渉は数日に及んだ。古麻呂は吉備真備と共に、様々な文献を引き、日本の国としての格の高さを訴え続けた。阿倍仲麻呂が唐朝で高官に登った事実や、日本の文化水準の高さをアピールすることも忘れなかった。
しかし、新羅側も巧みに応酬し、唐の役人たちの心証はなかなか覆らない。それどころか、新羅は「日本は僻遠の蛮夷であり、中華の礼を知らぬ」といった悪意ある噂を長安市中に流布させ、日本使節団の立場をさらに悪化させようと画策していた。
「古麻呂殿、このままでは、我々の主張は……」
宿坊に戻ると、若い使節団員たちは日に日に不安の色を濃くしていく。
「諦めるな。我らが諦めた瞬間、それこそが日本の真の敗北となるのだ」
古麻呂は彼らを励ますが、内心では焦燥感が渦巻いていた。切り札を出すタイミングを慎重に見極めなければならない。早すぎれば効果が薄れ、遅すぎれば手遅れになる。
そんな中、吉備真備が古麻呂にそっと耳打ちした。
「古麻呂殿、新羅の金義忠殿ですが、どうやら本国から『何としても日本の上席を確保せよ』との厳命を受けている様子。彼の焦りもまた、相当なものかと。さきほど、彼の宿坊の近くで、部下を激しく叱責する声が漏れ聞こえてまいりました」
真備は長安の知己を通じて、新羅側の内情を探っていたのだ。
「そうか……。彼もまた、背負うものが大きいということか」
古麻呂は、敵将たる金義忠の立場に、一瞬ではあるが、同じ外交官としての共感を覚えた。しかし、だからといって譲るわけにはいかない。これは国家の威信を賭けた戦いなのだ。
交渉は平行線を辿ったまま、数日が徒に過ぎた。業を煮やした唐の朝廷は、ついに日本使節団に対し、非公式ながら最後通牒に近い内示を伝えてきた。礼部侍郎が、苦渋の表情で告げた。
「これ以上の議論は、朝廷の貴重な時間を浪費するのみである。新羅の長年の忠勤には確かなものがあり、席次変更は認められぬ。速やかに現状の席次を受け入れ、朝賀の儀に臨むようにとのご意向である」
その言葉は、日本使節団にとって、冷酷な宣告に等しかった。
宿坊は、まるで葬儀の場のような重苦しい空気に包まれた。
「もはや、これまでか……。我らの力及ばず、聖上(天皇)に申し訳が立たぬ…」
大使の藤原清河が、絞り出すように力なく呟く。他の者たちも、悔しさと無力感に打ちひしがれ、言葉もなく俯いていた。
古麻呂は唇を固く噛み締め、窓の外の曇った長安の空を睨みつけていた。このまま引き下がれば、日本の国威は地に堕ちる。天皇の御威光にも泥を塗ることになる。それだけは、絶対に避けねばならなかった。
「古麻呂殿、何か、何か手立ては……もう、ないのでしょうか…」
吉備真備が、最後の望みを託すように古麻呂の顔を覗き込む。
古麻呂はゆっくりと顔を上げた。その瞳の奥には、絶望の淵にあってもなお消えぬ、蒼白い闘志の炎が静かに揺らめいていた。
「……まだだ。まだ、終わってはおらぬ。我らが日本の矜持を、このまま長安の土に埋めてなるものか」
その夜、古麻呂は一人、宿坊の庭で冷たい夜気に身を晒していた。故国の空も、この月を見ているだろうか。父・旅人、そして遠い祖先たちが築き上げてきた大伴の誇り。今こそ、それを賭して戦う時だ。
彼は懐から、一枚の書状の写しを慎重に取り出した。それは、昨年、新羅王子・金泰廉が難波津に来着し、日本の天皇に朝貢した際の詳細な記録であった。この事実を、どのように、そしていつ突きつけるか。それが勝敗を分ける。
翌朝、古麻呂は藤原清河大使に固い決意を告げ、許しを得て、単身で宰相・李林甫の邸宅へと向かった。李林甫は、玄宗皇帝の絶対的な信任を得て、長年政権の中枢に君臨する実力者である。礼部レベルで埒が明かぬのならば、直接最高権力者に訴え出るしかない。それは危険な賭けであったが、もはや他に道はなかった。
李林甫の壮麗な邸宅の一室。通された古麻呂は、床に額がつくほど深々と頭を下げた。
「日本国副使、大伴古麻呂と申します。本日は、席次の一件につき、宰相様に伏してご判断を仰ぎたく、罷り越しました次第にございます」
李林甫は、年の頃六十を過ぎているであろうか、狐のように細い目に老獪な光を宿し、古麻呂を値踏みするように見つめた。その視線は、人の心の奥底まで見透かすかのようだ。
「礼部より報告は受けておる。日本の言い分も分からぬではないが、新羅の長年の忠勤もまた無視できぬ。事を荒立てず、穏便に収めるのが賢明というものよ。小国の意地もあろうが、大局を見誤ってはならぬぞ」
李林甫の言葉は、柔らかな物腰とは裏腹に、暗に日本の譲歩を強く促すものだった。
古麻呂は、ここで引き下がっては全てが終わると覚悟を決めた。
「宰相様。我が国がどうしても新羅の下位に甘んじることができぬ、まことに重大なる理由がござりまする」
古麻呂は、静かな、しかし揺るぎない口調で切り出した。
「ほう、重大な理由とな? 申してみよ」
李林甫がわずかに身を乗り出し、興味深げな色を瞳に浮かべた。
古麻呂は懐から、例の書状の写しを両手で捧げ持ち、恭しく李林甫に差し出した。
「恐れながら、これに目を通していただければ、我が国の真情、ご理解いただけるものと信じております」
李林甫は怪訝な表情で書状を受け取り、ゆっくりと目を通し始めた。その表情が、読み進むにつれて、次第に驚愕の色に変わっていく。書状の羊皮紙を繰る指が、微かに震えているように見えた。
書状には、こう記されていた。
「天平勝宝四年七月、新羅国王子金泰廉ら七百余人、船九艘を連ねて我が国の難波津に来着。十一月、一行は恭しく京に入り、聖武上皇に拝謁。新羅王の命により、黄金二百両、白銀千両、上質の絹織物五百匹、高麗人参、その他貴重なる薬種多数を献上し、臣下の礼をとり、我が国の徳を讃え、永年の友好を誓った……」
李林甫は顔を上げ、信じられないといった表情で古麻呂を凝視した。
「これは……まことか? 新羅の王子が、日本に、それもこれほどの規模で朝貢したと申すのか? なぜこの儀が、今まで我が朝廷に正式に報告されておらなんだ?」
「紛れもない事実でございます。この記録は、我が国の史官が記した正式なものであり、何ら偽りはございません。新羅国が、我が日本に対し臣下の礼をとった。これが何を意味するか、賢明なる宰相様にはお分かりのはず。新羅側がこの事実を貴国にどのように報告したか、あるいはしなかったかは存じませぬが」
古麻呂の声は、静かながらも、有無を言わせぬ確信に満ちていた。
「……新羅め、近頃は少々鼻につきおったからのぅ。この東方の島国、使いようによっては面白い駒やもしれぬわ…」李林甫は古麻呂には聞こえぬほどの小声で呟くと、腕を組み、深く考え込んだ。新羅が唐の忠実な属国であることは論を俟たない。しかし、その新羅が、唐のあずかり知らぬところで日本に朝貢していたとなれば、話は全く別次元のものとなる。これは唐の国際秩序観、いわゆる華夷秩序をも揺るがしかねない一大事であり、新羅の二枚舌を天下に晒すことにもなりかねない。
「この事実、新羅側は何と申すであろうな」
「おそらく、彼らはこの事実を矮小化し、あるいは単なる友好使節であったと強弁するでしょう。しかし、事実は事実。我が国の記録は揺るぎませぬ。必要であれば、詳細な証人も立てられまする」
古麻呂は毅然として答えた。
李林甫はしばらく沈黙した後、重々しく口を開いた。その瞳には、もはや古麻呂を単なる小国の使者と見る色はなかった。
「……分かった。この件、我が手で改めて玄宗陛下にご報告し、ご聖断を仰ぐこととしよう。結果が出るまで、しばし待たれよ。日本の誠意、しかと受け取った」
古麻呂は深々と頭を下げた。その額には汗が滲んでいた。
「ご高配、痛み入りまする。日本の命運、宰相様にお預けいたします」
最後の賭けは、打たれた。あとは天命を待つのみである。彼の背中には、日本の未来が重くのしかかっていた。
数日後、大明宮の紫宸殿に、日本と新羅の使節団、そして唐の重臣たちが再び召集された。張り詰めた空気は、まるで薄い氷のようだ。玉座に座すのは玄宗皇帝ではなく、病身の皇帝に代わり政務を代行することも多い皇太子・李亨(後の粛宗)であった。その傍らには、宰相・李林甫が静かに控えている。
まず、礼部尚書がこれまでの経緯を、やや緊張した面持ちで説明した。そして、日本側から提出された「新羅王子朝貢」の記録について言及すると、新羅の正使・金義忠の顔色がさっと変わった。その額には、脂汗が玉のように浮かんでいる。
「そ、それは全くの誤解でございます! 我が国の王子が日本へ赴いたのは事実でございますが、それは朝貢などというものではなく、あくまで両国の友好を深めるための使節派遣にすぎませぬ! 日本側が一方的にそう解釈しておるだけのこと!」
金義忠は必死に、声を震わせながら反論する。その様は、傍目にも狼狽を隠せないものだった。
「ほう、友好のための使節が、他国の天皇に臣下の礼をとり、黄金や白銀を含む莫大な貢物を献上するというのか? それが新羅の礼法であると?」
古麻呂が冷静に、しかし鋭く問い返す。その声は、静まり返った紫宸殿によく響いた。
「それは……言葉の綾でございます! 記録の解釈の違いにございます! 我が新羅が、日本ごときに朝貢するなど、天地がひっくり返ってもあり得ませぬ!」
金義忠の声は上擦り、もはや弁明というよりは絶叫に近い。彼の足元がおぼつかないように見えたのは、古麻呂の気のせいではなかっただろう。
古麻呂は畳み掛ける。
「では、新羅国は、王子が我が国の天皇に拝謁し、数々の貴重な品々を献上したという事実そのものを否定されるのか? 我が国には、その際の詳細な記録、献上品目録、さらには新羅王子が述べた言葉まで、正確に残っておりますが」
金義忠は言葉に窮し、顔面蒼白となった。事実を完全に否定すれば、日本側からさらなる証拠を突きつけられ、嘘が露見する危険がある。しかし、認めれば朝貢の事実を追認することになりかねない。彼は、ただ「うう…」と呻くばかりで、もはや反論の言葉も出てこないようだった。
風の音すら止んだかのような静寂が、紫宸殿を支配した。古麻呂は、己の心臓の鼓動が、まるで隣に立つ真備の耳にも届くのではないかと錯覚するほどだった。皆が固唾を飲んで皇太子の言葉を待った。
李林甫が皇太子に何事か小声で耳打ちする。皇太子は深く頷くと、一同を見渡し、厳かな声で宣言した。
「双方の言い分、そして提出された証左、しかと聞き届けた。熟慮の結果、朕は日本の主張に理ありと認める!」
その瞬間、日本使節団の間に、抑えきれないどよめきが起こった。安堵の溜息、小さな嗚咽、そして互いの顔を見合わせる喜びの表情。
「よって、元日の朝賀における席次は、日本を上位とし、新羅をその次に置くこととする! これは、天子様のご聖慮を経た最終決定である! 異論は一切認めぬ!」
金義忠はその場にへなへなと崩れ落ちんばかりに項垂れた。その顔には、もはや色というものがなく、ただ深い絶望と屈辱が刻まれているだけだった。一方、古麻呂は、込み上げる万感の思いを必死に抑え、皇太子に対し深々と頭を垂れた。大使の藤原清河は感極まった表情で古麻呂の肩を強く叩き、吉備真備もまた、目元を濡らしながら静かに頷いた。
日本の、そして大伴古麻呂の不屈の魂と緻密な戦略が、ついに世界の中心たる長安の宮廷を動かしたのである。
朝賀の儀は、数日後に改めて執り行われた。含元殿の席次は、疑いようもなく、日本の使節団が新羅の上に位置していた。諸外国の使節たちが、驚きと、そして少なからぬ称賛の目で日本の一行を見つめる中、古麻呂は胸を張り、堂々と皇帝への拝賀の礼を行った。その姿は、東海の日の本の国威を、余すところなく示していた。朝日が、彼の誇らしげな横顔を金色に照らし出していた。
席次争いの一件が落着し、長安の街にも穏やかな日常が戻ったある日、古麻呂は西市の雑踏の中で偶然、新羅の正使・金義忠と顔を合わせた。金義忠は、以前の傲然とした態度は見る影もなく消え、どこかやつれ、影が薄くなったように見えた。
「大伴殿……貴殿の、見事な手腕であった。完敗だ」
絞り出すような、力ない声で、金義忠が言った。
「金殿こそ、貴国のために最後まで力を尽くされた。我らはそれぞれの国を背負う立場。この一件に、個人的な遺恨はございませぬ」
古麻呂は静かに応じた。二人の間に、私的な憎悪はない。ただ、国家の威信を賭けた外交という戦場で、それぞれの使命を果たそうとしただけだった。
「我が新羅は、大国・唐との関係を生命線としておる。今回の件で、我が国の国際的な立場は……計り知れぬ打撃を受けた…」
金義忠の言葉には、深い憂慮と、故国への申し訳なさが滲んでいた。
「しかし、いつまでも大国の庇護に寄りかかるだけでは、真の国の姿は見えてこまい。我が日本は、困難は承知の上で、独自の道を歩む覚悟でおります。貴国もまた、いつかその道を見出されることを願っております」
古麻呂の言葉に、金義忠は複雑な表情で黙って頷き、力なく雑踏の中へと消えていった。
遣唐使一行は、その後も長安に滞在し、仏典の収集や最新技術の視察、文化交流など、所期の目的を精力的にこなした。そして、帰国の途に就く日、古麻呂は長安の宏大な城門を振り返り、高く澄み渡ったこの国際都市の空を仰いだ。
今回の席次争いは、日本が国際社会で確固たる地位を築くための、小さな、しかし極めて重要な一歩であった。だが、本当の戦いはこれからだ。持ち帰った文化や知識をいかに国づくりに活かすか、そして、常に変化し続ける東アジアの厳しい国際情勢の中で、日本がいかにして独立と繁栄を維持し、独自の文化を花開かせていくか。
古麻呂の胸には、使命を果たした達成感とともに、日本の未来への新たな、そして重い決意が満ちていた。長安の風が、彼の黒髪を優しく撫でていく。その風は、やがて東の海を渡り、故国・日本へと、新たな時代の到来を告げる力強い息吹となるのであろう。
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