第3章 静かな封殺② 踏み込む勇気
今回もご覧いただきありがとうございます。
第3章②「踏み込む勇気」では、静かに続いていた“封殺”の空気の中で、
ついに主人公・結鶴が「司法書士としての矜持」で対抗策に出ます。
そして今回は、彼女だけでなく――
ある一人の若手技士が、“証言”という名の勇気を手に立ち上がります。
これは、見えない構造の圧力と戦う者たちの物語。
資格だけでなく、“踏み込む覚悟”を持った人間の物語です。
「教授、私は大学の研究者としても、企業経営者としても、正規の申請を出しています。
倫理審査も通過済みですし、病院との契約も、当該機関での了承を得ています」
「それは分かってる。だが、桐生会という存在の圧力は……それだけで空気を変えてしまう」
会話が終わるころには、教授は私に一つの封筒を差し出していた。
中には、次年度の学術発表会への推薦見送り通知が入っていた。
“静かな封殺”が始まった。
それは大声で非難されるのではなく、機会を奪われることから始まる。
場を失わせ、孤立させ、記録を無効化し、存在を曖昧にする。
正義を正義として扱わせない、それが“構造の力”のやり方だった。
その夜、陽斗がコンビニ袋を提げて研究棟にやってきた。
「……アイス買ってきた。“構造に封じられた者に捧ぐ”、ってやつ」
私は、小さく笑った。
「アイスで正義が救えるなら、冷凍庫ごと持ってくるべきだったわね」
「じゃあ、今度はドライアイスで反撃だな」
あの時の二人の笑いだけが、妙に温かかった。
だが、私は知っている。
本当に冷たいのは、笑われることではなく――
“声を失うこと”だということを。
研究棟のラボに戻ると、私はデスク奥の鍵付き引き出しから一冊のバインダーを取り出した。
それは、YUNOの設立当初から収集していた――“契約書類とその周辺データ”の整理台帳だった。
法人との契約内容。
医療機器メーカーとの提携時の納入仕様書。
保守業者との業務委託条件。
すべて、抜け落ちているようで、ある一点を示していた。
「責任の所在」が、誰にも定まらないように作られている。
私はペンを取り、手元の司法書士業務用記録ノートに新たなページを開いた。
見出しには、こう書いた。
《医療機器の情報支配に関する優越的地位乱用の可能性について》
――これは、“法”の領域だった。
臨床工学技士として現場に立っても、封じ込められた。
だからこそ、私はもう一つの資格を使う。
「優越的地位の乱用」とは、本来、独占禁止法に基づく不公正取引行為の一種である。
つまり、力関係を背景に、
取引相手に対して不利益な契約や選択を強制した場合、
“民間であっても”、違法となり得る。
医療法人の契約書を改めて読み解く。
久我メディカルの納入条件には、以下の記述があった。
> 「機器に接続する外部ソフトウェアは、当社承認済みの製品に限る」
> 「院内での不具合報告に関して、当社の事前検閲を経て報告内容を調整する場合がある」
この文言は、一般的な医療機器取扱契約としては“異例”だ。
つまり、機器の挙動も、トラブルの表現も、“メーカーが書き換える権限を持つ”ということ。
これが、もし“病院側が不当に従わされている”のであれば、
法的には「情報支配による優越的支配の形成」とみなせる可能性がある。
「もしこれを、公正取引委員会に提出できれば……」
私は思わず口にした。
しかし、その道は簡単ではない。
証拠が必要だ。
そして何より――“被害者”が名乗り出ることが前提となる。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
表示されたのは、あのときICUで勇気を見せたCE――高峰梨沙だった。
「結鶴さん、今……少し、話せますか?」
その声の震えに、私は直感した。
彼女は、何かを見た。
そして今、“声を上げようとしている”。
私はすぐに答えた。
「もちろん。私も、ちょうど話したいことがあったところ」
封殺の壁に、一つ、小さな風穴が開きかけていた。
法と記録。
それは静かだが、確実に構造を揺るがす“声”になり始めていた。
高峰梨沙が指定してきた場所は、病院から少し離れた小さな図書館の閲覧室だった。
誰にも聞かれず、それでも閉塞感のない場所を――彼女なりに考えたのだろう。
私が到着すると、彼女はすでに席についていた。
制服の上着を脱ぎ、白衣ではなく私服に着替えていたのは、“業務外”であるという明確な意思表示。
「……結鶴さん、私、記録を持ってます」
彼女の切り出しは、思いのほかストレートだった。
「この前の呼吸器の件、久我メディカルの担当者が設定変更をした後に、
それを“最初からそうなっていた”と報告書に記載しようとしていたのを見ました」
「ログか何か……?」
「いえ、紙です。報告書の下書き。
“初期設定段階でエラーなし”と明記されていたけど、私、その場にいたんです。
本当は一度PEEPが異常値になって、担当者が慌てて再起動してたの、見てます」
私は息を呑んだ。
記録は、“何が起きたか”を語る。
しかし、“誰が何を見ていたか”を語れるのは、人だけだ。
「でも、証言したら……私は技士になってまだ3年目です。
これを言ったら、配属替えになるかもしれないし、契約の更新も外されるかもしれない。
でも、それでも……何も言わなかったら、また誰かが責任を取らされる」
その目に浮かんだ涙は、悔しさだった。
正義ではない。
ただ、“自分の見たものを歪められる痛み”が、彼女の中にあった。
「私の証言、使ってください。
名前は出さなくていい。でも、事実として提出してください。
……お願いです、結鶴さん。あなたは、それができる人だから」
私は頷いた。
“声を持たない人の代わりに、言葉を持つ”。
それが司法書士としての私のもう一つの仕事だった。
私は梨沙から証言を聴取し、文面を整える。
改ざんされた報告書のコピー。
当日残されていたログの断片的なスクリーンショット。
それらを整理し、法的に効力を持たせる文書として形にした。
タイトルは――
《臨床現場における情報操作と責任の分岐点に関する一報》
副題に、こう添えた。
“一人の臨床工学技士が見た記録されない真実”
これは、私の言葉ではない。
彼女の目で見た“現場”を、私が“法”の言葉で翻訳する。
それが、異端の資格者として、私に託された“もう一つの責任”だった。
梨沙の証言を元にまとめた文書は、内部監査室へ正式提出された。
形式は「参考報告」扱い。だが、そこに記された詳細な時系列と操作手順、そして担当者名は――明確な“現場の証拠”だった。
そして提出から二日後、私に一通のメールが届いた。
> 件名:非公式面談に関するご案内
> 差出人:桐生会 経営統括補佐室 室長補佐 鷹谷 航
その名前を見た瞬間、私の背中に冷たいものが走った。
鷹谷航――
桐生会の中でも、法務・契約・渉外を裏で一手に握る男。
組織内部では“理事長の影”と呼ばれ、特にメーカーとの提携交渉に強く関与してきた人物だ。
そして、久我メディカルとの“つながり”を最も疑われている存在でもあった。
メールにはこう書かれていた。
> 「ご提出いただいた証言文書、興味深く拝見しました。
> つきましては、いくつか確認させていただきたい点がございます。
> あくまで非公式、友好的な確認として、お時間をいただけますと幸いです」
――友好的。
その言葉ほど、敵意の予告に聞こえるものはない。
私はその日の夕方、指定された会議室へと足を運んだ。
薄暗い照明。最小限の椅子。
まるで、私という“変数”を静かに囲い込むような空間だった。
「桐生結鶴さん。ようこそ。お噂はかねがね」
鷹谷は、笑っていた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
今回は、YUNOの技術に加えて、「言葉を法に変える」結鶴の司法書士としての力が、静かに効いてくる回でした。
特に、高峰梨沙の“声を上げる”決断は、物語全体にとって非常に大きな意味を持ちます。
力のない者が、事実を語る。
その言葉を、資格を持った者が“武器”にする。
そうした連携こそが、この物語の根幹でもあります。
そして、現れた新たな敵――“影の交渉人”鷹谷。
物語は、次の段階へと進みます。