第3章① 法と契約の隙間で
ご覧いただきありがとうございます。
第3章に突入しました。
タイトルは「静かな封殺」。
今回の第3章①「法と契約の隙間で」では、理事会で一時的に勝利を得た主人公・結鶴が、“その後”に直面する現実と向き合います。
組織は直接的な弾圧をしません。
ただ静かに、無言で、結鶴の居場所を削っていきます。
それでも、彼女が信じる“記録”の力、“資格”の重みが、小さな波紋を広げていく──
そんな回です。ぜひご一読ください。
第3章 静かな封殺
桐生会本部に資料を提出してから、三日。
何も起きていないように見えた。
だが、“何も起きていない”という静寂こそが、最大の異変だった。
その日、市立病院に向かうと、受付の事務員が曖昧な笑みを浮かべながら、こう告げた。
「桐生さん、技術部の方々、今ちょっとバタバタしてまして……現場の視察は、また改めて……」
“現場の視察”など頼んだ覚えはない。
だが、それは事実上の“立ち入り拒否”だった。
そのまま正面を通らず、裏口のスタッフ通用口から回り込む。
私は、かつて自分がYUNOの実証実験で出入りしていた臨床工学室へと足を運んだ。
扉を開けた瞬間、空気が一変した。
以前は挨拶を返してくれたスタッフたちが、一様に目をそらし、モニターに視線を落とす。
工具を手にした若手技士の一人が、つぶやいた。
「また、来たんだ……」
そこにいたのは、主任技士の沢村修平。
30代後半、無駄な言葉を嫌う実務派。
彼は機械を前にしているときだけ、目が生きるタイプの男だった。
「……桐生さん」
彼の呼び方が、“結鶴さん”から変わっていた。
その一音が、距離のすべてを物語っていた。
「YUNOの件、法人本部から“操作履歴に不備あり”って報告来てる。
“裏で何かやってる”って印象を持たれてるよ」
私は一瞬だけ言葉を飲み込み、それでも言った。
「ログは改ざんされてた。私たちの操作じゃない。久我側が無断で侵入して、設定を変更した痕跡がある」
「でも、それを“証明”できるか? 証明できなければ、ここじゃ“うるさい外部”としか見なされない」
その言葉に、胸の奥がきしんだ。
彼らは技術者だ。
私と同じ臨床工学技士の資格を持ち、命の傍で機械と向き合っている。
けれど、組織に生きる以上、その意見は常に“上の機嫌”の中でしか発言できない。
内部の告発は、“迷惑”にもなる。
「結鶴さん、あなたの資料は正しいかもしれない。
でもな、俺たちの現場が今、どれだけ微妙なバランスで保たれてるか分かるか?」
沢村の声は、怒りではなく、苦渋だった。
「一人でも現場が疑われたら、全体が“監視対象”になる。
技士の誰かがミスしたと見られたら、次の契約更新で機器メーカーに口を出す権限すら失う」
それは、沈黙の代償だった。
私は拳を握りしめた。
「それでも、“言うべきこと”を飲み込んだら、何も変わらない。
私たちが、“技術屋”で終わるだけなら、それでいい。でも私は――“見えないもの”まで、照らしたい」
沢村は沈黙した。
その視線の奥に、微かな迷いが走ったのを私は見逃さなかった。
部屋を出るとき、ふと後ろから声がかかった。
「――俺は、信じてるわけじゃない。
でも、あんたが“間違ってない”とも、まだ言い切れないとは思ってる」
その言葉だけが、かすかな救いだった。
封殺は、誰かに責められるわけではない。
ただ、誰にも何も“されなくなる”ことで、始まる。
その静寂の中で、私は自分の存在が“組織にとって都合の悪い光”になってきたことを、痛感していた。
その午後、市立病院の臨床工学室に緊急のページが飛び込んだ。
「ICU、人工呼吸器トラブル。直ちに確認を」
YUNOが遮断されて以降、久我メディカル製の代替ユニットが導入されていた。
だが現場の導入作業は急ぎ過ぎた。配線は仮設、初期設定も不完全。
当然、引き継ぎは不十分だった。
ICUに駆けつけると、機器の前で医師と看護師が声を荒げていた。
「なぜリモートアラートが出なかった! PEEPが急落してたはずだ!」
「記録ログに異常が残っていません!」
「患者のSpO₂(経皮的酸素飽和度)が80を切ってたんだぞ! 何が“正常”だ!」
呼気終末陽圧――PEEPが意図せず0(ゼロ)に設定されていた。
これは、人工呼吸器における致命的ミス。
PEEPは、肺が完全に潰れてしまわないよう、息を吐いたあとも一定の圧を保つ設定で、これがないと、肺胞が虚脱するリスクが跳ね上がる。
看護師が手を震わせながら、ログを再生しようとする。
「記録が……飛んでる……!」
「まさか、操作履歴が消されてる? 自動保存が働いてないのか?」
その瞬間だった。
ICUの入り口に、現場の若手技士・高峰梨沙が駆け込んできた。
「主任、すぐにこれ見てください!」
彼女のタブレットには、YUNOのオフラインローカルログが映し出されていた。
「私……あのあと、こっそり旧端末を残してたんです。YUNOのセンサだけは、バックアップ用にICUに残してあって……!」
そのデータには、呼吸器ユニットの内部ヒーター温度、PEEPゼロへの自動移行履歴、さらには操作時刻とユーザー名が明確に記録されていた。
「これ、久我メディカルの初期設定が“誤作動防止オフ”になってます。
しかも、担当技士がチェック印つけたまま手続き通したことになってる……」
室内が静まり返る。
そこにいた全員が、YUNOの記録がなければ“責任の所在”が闇に消えることを理解していた。
沢村主任が唇を噛んだまま、声を震わせて言った。
「YUNOがなかったら、これ……現場のせいにされてたかもしれない」
梨沙が、躊躇いながらも言葉を継ぐ。
「……結鶴さんのシステム、やっぱり必要です。
“何が起きていたか”を残せる機械が、いまこの病院には他にない」
私は一言も口を出していなかった。
ただ、データの意味が静かに理解されていくのを、じっと見ていた。
その夜、沢村主任から一通のメールが届いた。
> 「桐生さん、次の点検、正式に立ち会ってくれないか」
> 「内部は複雑だが、あんたの“記録”だけは、必要なものになりつつある」
誰かが叫ばなくても、
“事実”は、やがて人を動かす。
それは、技術が声を持った瞬間だった。
ICUでのPEEPゼロ事件から数日。
YUNOは再び注目を集めた。だがその評価は、全面的な賞賛ではなかった。
――むしろ、反作用が始まっていた。
「またCEが出しゃばってるらしいな」
「うちのME、最近なんか尖ってない? “契約までわかってます”みたいな空気出してる」
「例の桐生の子だろ? 令嬢が現場かき回して何がしたいんだか」
そんな声が、病棟のナースステーションや医局の片隅で、静かに囁かれるようになった。
“正しい”だけでは守られない。
それは、私が資格を取った頃から感じていた現実だった。
臨床工学室――通称、CE室では、一部の若手があの件を契機に結鶴へ協力的になりはじめていた。
だが、技士長クラスや保守業者との関係が深い一部の技士たちは、明らかに牽制するような態度に変わっていた。
「YUNOのログ? まあ、見ても結局、院内ルールで正式採用されてないシステムなんでね」
「運用記録の提出は一元化してるし、“独自ログ”は混乱の元になるから」
それは、“お前たちの記録は、公式には価値がない”という明確なメッセージだった。
私は歯を食いしばった。
YUNOは医療機器ではない。法的には“参考データ”扱い。
正確であっても、正式ルートでなければ、記録としての力はない。
それが、この世界の壁だった。
そんな中、ある日、大学院の教授室に呼び出された。
「桐生さん……あなたの研究、少し“調整”が必要かもしれませんね」
恩師である教授は、申し訳なさそうな顔をしていた。
「実は、桐生会本部から“研究範囲と情報流通に関する問い合わせ”が届いていてね。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
理事会で提携が保留され、いよいよ変化が生まれるかと思いきや、待っていたのは“何も起きない”という封殺でした。
表面的には平穏。だが、その裏でじわじわと追い詰められていく静かな圧力。
それでも、記録という“事実”は消せない。
言葉より、機械が語った“異常”が、現場の意識を少しずつ変え始めます。
結鶴の戦いは、ますます複雑に、そして重くなっていきます。
次回もぜひ、お付き合いください!