第1章 忘れられた席③ 静かな爆弾
閲覧ありがとうございます。
第1章の第3話「静かな爆弾」では、ついに主人公・結鶴の行動が、巨大組織《桐生会》の内部に波紋を呼びます。
法と技術、そして覚悟を持って投じた“警告”が、組織の中で何を揺るがし、誰の目を覚ますのか――
物語が静かに、しかし確かに動き始める転機です。
ぜひ最後まで、お付き合いください。
「……やるよ。
久我メディカルの不備も、提携の問題点も、全部“文書”で叩く。
法の力で、戦う」
陽斗は満足そうに頷き、私にコーヒーを差し出した。
「だったら、まずは一杯、落ち着いてからだな」
その手の温かさに、私はほんの少しだけ、笑みをこぼした。
午後、私は大学院のラボにこもり、久我メディカルと複数病院との契約文面を可能な限り収集・照合した。医療機関の調達情報、公開契約資料、そして業界紙のバックナンバー記事――調べれば調べるほど、同社が“囲い込み型契約”を各所で展開してきたことが明らかになった。
中でも決定的だったのは、地方の中核病院で採用されたシステム導入契約書の一文だった。
「導入後24ヶ月間、外部接続を行う場合は事前に当社の承諾を必要とする」
「つまり、YUNOみたいな新規システムは、事実上“拒否”されるってことね……」
契約上はあくまで「承諾制」だが、現実には一度も許可された前例がないらしい。
“システムの自由”ではなく、“契約による支配”。
それが、久我メディカルのやり方だった。
夜。ラボに陽斗と二人きり。
私は集めた資料をまとめながら、沈黙の中で作業を続けた。
「……で、どうする? これ、公開して波風立てるつもり?」
陽斗の声には警戒もあったが、同時に覚悟も感じられた。
「今はまだ動かない。理事会の正式な議決前なら、情報を握る立場にいる人間が、慎重に動くべき」
「じゃあ、どうやって内部に楔を打つ?」
「提携によって“現場に生じる実害”を示す。それが一番効果的」
私はそう言って、YUNOの現在運用中のログ分析をモニターに表示した。
――市立病院のデータ。
複数の故障予兆検出、業者への未通告、保守点検の形骸化。それらを一覧にまとめた表は、第三者が見ても明らかな「実害の可視化」となっていた。
「これ、匿名報告資料にして内部に提出する。桐生会の中に、まだ技術を正しく評価する人がいれば、少しは揺さぶれるかもしれない」
「……理事長には?」
「直接は渡さない。今、私が何をしてるか知られたら、即座に排除される。家族内の信頼なんて、とっくに崩れてるから」
陽斗は小さく息を吐いた。
「分かった。俺も手伝う。君がどこまでやる気か見せてくれたしな」
「ありがとう。でも……無理だけはしないで。これは“敵”を選ぶ戦いになる」
そう、相手はただの企業ではない。
医療業界という保守的かつ閉鎖的な構造全体だ。
私は、その中に一石を投じようとしている。
その代償が何であれ、自分の意志で。
“桐生家の末娘”としてではなく、
“YUNOの開発者”、桐生結鶴として。
モニターに表示されたYUNOのロゴが、静かに脈打っていた。
まるで、それが新しい命の鼓動であるかのように。
数日後、私は作成した匿名資料を法人内の内部監査部宛に送付した。差出人欄には名前も所属も記さず、YUNOのロゴも消した。ただ、現場で実際に使われている機器のログと、契約上の不備、そして久我メディカルとの提携によって生じ得るリスクの一覧を添付した。
それは、“訴え”というより、“警告”だった。
誰かが目を開いてくれることを信じて、私は資料を送った。
だが、返事が返ってくることは期待していなかった。
──だが、その翌日。
思いがけず、一本の電話がかかってきた。
「……桐生結鶴さんでいらっしゃいますか? 私、桐生会の法務室に所属しております、杉原と申します」
硬い口調の男の声に、私は一瞬息を呑んだ。
「突然のご連絡をお詫び申し上げます。実は、先日、監査部に届いた資料について、内容精査の段階で、あなたの研究テーマや文体、論点構成からして……あなたの関与が疑われております」
私の背筋が凍った。
まさか、そこまで読み取られるとは。
「もちろん、憶測の域を出ません。ただ、もし仮にご本人であれば……ご相談させていただきたい案件があります。内部的に、この提携には懸念を持っている立場の人間もおります」
声のトーンが、わずかに柔らかくなった。
「一度、非公式にお話しできませんか?」
私はしばらく沈黙した後、小さく答えた。
「……分かりました。日時と場所を、教えてください」
通話を切ったあとも、心臓の鼓動が止まらなかった。
夜、屋根裏の自室でYUNOのデータログを眺めながら、私は一人考えていた。
この動きは、チャンスであると同時に、極めて危険な賭けでもある。
もしこれが、内部的な誘導尋問だったら?
私の正体を突き止め、潰すための罠だったら?
けれど、どんなに頭をひねっても、もう後戻りはできなかった。
私は、動いた。
そして、それに対して反応が返ってきた。
──これは、始まりだ。
ようやく、最初の駒が動いた。
ずっと静止していた巨大な水面が、ほんのわずかに揺れ始めた。
私はその揺れを、確かに感じていた。
約束の日。私は指定された場所へ向かった。
都内のホテルのカフェラウンジ。上質なカーテンが光を和らげ、会話の漏れを計算しつくした空間は、言葉に重さを持たせるようだった。
約束の時間ぴったりに、男が現れた。
「お待たせいたしました。桐生結鶴さん……いや、“YUNO-Tech”のCEOとして、お迎えするべきでしょうか?」
目の前の男――杉原達人は、静かながらも鋭い目をしていた。
彼の一言で、私は内心の警戒を一気に引き上げた。
「……その名前は出していないはずですが?」
「当然です。だからこそ、敬意を払って参りました」
彼は淡々と、しかし確かな言葉で続けた。
「私はあなたの資料から、“ただの大学院生”では到底ありえない視点と構造理解を感じました。契約構文の読解、医療現場における非対称性の指摘、そしてYUNOと酷似したシステム図──無関係とは考えにくい」
逃げ場のない問いだった。
けれど私は、逃げないことを選んだ。
「……そうです。私はその資料の作成者です。そしてYUNOの開発責任者でもあります」
杉原はゆっくりと頷いた。
「隠す必要はありません。むしろ私は、あなたのような存在を待っていました」
言葉に嘘はなかった。
彼は、久我メディカルとの提携に疑問を抱く、数少ない内部の“良心”の一人だった。
「理事長はすでに提携を“承認前提”で動いています。ですが、まだ理事会での最終承認は下りていません。今なら、巻き戻せる可能性があります」
「……どうやって?」
「“証拠”です。久我メディカルが過去に行ってきた囲い込み型契約の、明確な実害。できれば、法人内部の意思決定プロセスとの“癒着”の形跡もあれば完璧です」
「……それはつまり、桐生会の中にある“黒”を暴けということ?」
「ええ。その覚悟があなたにあるなら、我々は、あなたの側につきます」
私は静かに頷いた。
そして、その瞬間だった。
バッグの中のスマートフォンが振動した。画面に表示された差出人を見て、私は一瞬、息を呑んだ。
《祖父――桐生清澄》
本文は一行だけ。
『今日の行動について、説明してもらおうか』
──誰かが、動いた。
私の動きは、すでに“家族の中枢”に伝わっていた。
これまで、桐生家の中で“見えない存在”だった私の行動が、ついに“警告”として認識された。
これから先は、もう「静かな反抗」では済まない。
私は戦う。
巨大な医療法人という壁に、真正面から挑む。
法の力で。技術の力で。私という存在のすべてで。
──そして、その戦いは、次の扉を開ける。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
今回は、結鶴が初めて“自らの意思”で巨大な壁に対して一石を投じた回でした。
勇気と冷静さの間で揺れる彼女の姿から、“異端”であることの痛みと強さを感じ取っていただけたら嬉しいです。
次回からは、波紋の先にある“反応”が描かれていきます。
物語は新たなステージへと進みますので、引き続きどうぞよろしくお願いします!