第1章② 敵は契約に潜む
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今回は、第1章の中盤「敵は契約に潜む」です。
臨床工学技士と司法書士という二つの資格を武器に、主人公・結鶴が“見えない不正”に気づき、初めて「法の刃」を抜く回になります。
物語はまだ静かですが、水面下で何かが少しずつ動き始めています。
結鶴の小さな行動が、どんな波紋を呼ぶのか──ぜひ見守っていただけたら嬉しいです。
「不具合発見時は」とは書いてあっても、「発見できなかった場合の責任」には言及されていない。
「つまり、点検して“気づかなかった”と言えば、免責される可能性があるわけね……」
私は小さく呟いた。
これは偶然ではない。機器メーカー側が、自らにとって都合の良い“曖昧さ”を織り込んでいる。
それに気づける人が現場にいなければ、誰もその罠に気づけないままになる。
──これを、“普通”と見過ごすか。
──それとも、“構造的な不正”と見抜くか。
答えは決まっていた。
その夜、私はYUNOの分析結果と契約上の不備を合わせたレポートを作成した。臨床工学技士の視点から見た異常、そして司法書士の視点から見た条項の不備。
二つの目で見たからこそ、浮かび上がった“真実”がそこにあった。
メールの宛先は、院内で技術責任者を務める臨床工学課の主任と、病院内の契約管理室。
「このまま無視してはいけない」
そう思った瞬間には、もう送信ボタンを押していた。
翌朝。私のスマートフォンに一件の返信が届いていた。差出人は、病院契約室の事務主任。
《貴重なご指摘ありがとうございます。機器担当部署と共有の上、メーカー側への確認を進めます》
それだけだった。事務的な返信、だが拒絶ではない。
私は、静かに画面を閉じた。
「……まずは一歩」
昼頃、研究室に顔を出すと、陽斗がノートPCを抱えてソファに座っていた。
「結鶴、あの件、契約室が動くって」
「見た。小さな前進だけど、放っておくよりはずっといい」
「ほんと、君は理事長の孫って肩書きが全然似合わないよな」
「……どういう意味?」
「いい意味だよ。普通なら“桐生家の令嬢”ってことで、何もしなくても道が開ける。でも君は、自分で“技士と司法書士”っていう異物の武器を選んだ。今じゃ、俺の知る限り唯一の存在だよ」
その言葉に、私は言葉を返せなかった。
けれど胸の奥が、じわりと温かくなった。
「ありがと。でも、まだ“戦い”は始まってもいないよ」
「そのときは、俺もいるよ。あんたの“武器”は、俺が信じてる」
私は小さく頷いた。
陽斗がそう言ってくれることが、今は何よりの力になった。
帰宅は夜九時を過ぎていた。玄関に灯る明かりの下、いつも通り無人の廊下を歩きながら、私はつい苦笑してしまう。
この家には「帰りを待つ」という概念が、もはや存在しない。
兄も姉も夜勤や学会で不在が多く、両親は祖父の付き添いで病院に詰めている。家族でありながら、家の中で顔を合わせることのほうが稀だった。
靴を脱ぎ、階段を静かに上がる。
目的は屋根裏の“自室”、あるいは“小さな実験室”。
扉を開けると、昼間に出力していたYUNOのログ画面がまだ点灯していた。バッテリー残量は7%。ノートPCに電源ケーブルを差し込みながら、私は椅子に腰を下ろす。
ふと、机の片隅に積まれた分厚い封筒に目をやった。
“桐生会医療機構 理事会資料 在中”
先週、祖父の秘書から「目を通しておけ」と渡されたものだ。私はまだ開封していなかった。
「……どうせ、私には関係ない話だもの」
そう思いながらも、私は封筒を手に取り、中身を引き出した。
予算案、役員人事、施設統廃合、そして──新規事業に関する提案資料。
ページを繰った瞬間、ある文言に目が止まった。
「医療IoT技術の導入検討および外部企業との提携」
私は息を飲んだ。
読み進めると、そこにはYUNOが構想したのとほぼ同等のリモートモニタリング技術の説明があり、提携候補の企業名として、某大手医療機器メーカーの名前が記されていた。
「……うちの法人が、IoTに手を出す気?」
複雑な感情が胸に押し寄せる。
やっと時代が追いついたのか──いや、それだけではない。
この動きが、私のYUNOと正面からぶつかる可能性を示していた。
この資料は、私に「意見を求めた」わけではない。ただ、形式的に「目を通させた」だけだ。
そこには、私という存在が「考慮されていない」という明確なメッセージがあった。
「でも、無関係ではいられない」
私は思わず声に出した。
なぜなら、もしこの提携が進めば、YUNOの技術は不利な立場に立たされるかもしれない。そして、大手企業が主導する体制の中で、“現場”が置き去りにされる未来がまた繰り返される──。
思考が加速する。
──相手企業の過去の実績、談合の噂、桐生会との癒着の有無。
──提携文案に含まれる危険な条項、YUNOとの競合リスク、法的回避手段。
この状況、見過ごすわけにはいかない。
私はペンを取った。
誰にも頼まれなくても、誰かに期待されなくても。
私はこの不条理に、知識と技術で立ち向かう。
“桐生の末娘”ではなく、“桐生結鶴”として。
翌朝、私は理事会資料を封筒に戻し、大学へと向かった。心の奥に小さな緊張が渦巻いていた。
昨日見た“提携予定企業”の名前が、脳裏を離れない。
──久我メディカルシステムズ。
業界では名の知れた大手で、主に中〜大型病院向けに医療機器を供給している。AI連携型の診断補助ソフトを売りにしており、同時に過去にはいくつかの談合疑惑で名前が挙がったこともある。だが不思議なことに、どれも立件されていない。
「何かがある」
その確信だけが、私を突き動かしていた。
研究棟の自席に着くなり、私はネットワーク経由で契約情報公開サイトを検索した。久我メディカルが過去に結んだ病院との契約内容は、部分的に公開されているものがある。
──なるほど。
ある文書の一節が目に止まった。
「使用状況に応じたAI評価機能は、提携ソフトウェア以外との併用を禁止する」
つまり、病院が導入するモニタリング技術は、久我社のものと“排他的”に契約される仕組みになっていた。YUNOのような独立系IoTシステムは、この一文によって実質的に締め出される。
「これは……技術じゃない、“契約”で潰されるってことか」
私は唇を噛んだ。
相手は技術で競う気はない。書類の文言で、戦わずして市場を囲い込もうとしている。
そして、桐生会のような大規模医療法人が相手であれば、それは“医療界の標準”にさえなりかねない。
私のYUNOが、産声を上げたばかりのこの事業が、
業界全体の“構造”によって押し潰される──そんな未来が、目前に迫っている。
「結鶴、顔色悪いけど大丈夫?」
背後からの声に振り返ると、陽斗がコーヒー片手に立っていた。彼の表情は、私の異変にすぐ気づいたようだった。
「久我メディカルが、桐生会と提携検討に入ったって……理事会資料に出てた」
私がそう言うと、陽斗の眉がピクリと動いた。
「……あそこ、うちの旧製品を使い回してるって話、前から聞いてた。相性最悪だよ。ログ共有もろくに対応してないし、クラウドも独自プロトコルで囲ってる」
「うん、それが狙いなの。YUNOみたいな外部システムは“非互換”扱いされて、排除される」
「じゃあ、法人の中から変えるしかないな」
彼は当たり前のように言った。私は一瞬、言葉を失った。
「……簡単に言うけど、それがどれだけ難しいか、わかってる?」
「わかってる。でも、結鶴、お前がやらなきゃ誰がやるの?」
陽斗の言葉に、胸がじんと熱くなる。
「お前には、その力があるだろ? 臨床も、法も、経営もわかる。全部わかってる人間、他にいないんだよ」
私は、しばらく無言でコーヒーの香りに目を閉じた。
でも、もう腹は決まっていた。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
医療現場の「当たり前」に潜む“契約の罠”と、それを読み解こうとする結鶴の姿を描きました。
目立たずとも、確かな意志で動く彼女が、やがて大きな構造に挑んでいく。その第一歩がここにあります。
そして次回──彼女の動きが“家”に知られてしまうことで、いよいよ物語が動き出します。
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