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スピンオフ『イノセント・デバイス - After Record: その手の温度』後編(終)

「イノセント・デバイス」のスピンオフ、後半に入ります。

博士課程の研究が進む中で、結鶴と陽斗が少しずつ言葉を交わし、関係を選び直していく過程を描いています。

ここからは、気持ちの変化が物語の中心になっていきます。

第6節 それぞれの孤独

 週末の研究棟は、いつも以上に静かだった。


 廊下に誰の足音もなく、空調の低い音が耳に残る。


 結鶴は一人でデータ整理をしていた。

 陽斗とぶつかってから、連絡は途絶えたままだった。


 


 YUNOのプロトタイプログ。

 判断理由シートの曖昧な記述。

 どれも大事なピースなのに、組み合わせ方を決める覚悟が足りなかった。


 


 モニターに映るデータの行が滲む。

 どうしてだろう。

 数字と記録の間に、自分自身が置いていかれる気がしていた。


 


 ——これ以上、完璧を装えない。


 胸の奥が鈍く痛む。

 それは、誰かのために正しいものを作るはずが、

 どこかで「間違うことすら許されない自分」を演じてしまった痛みだった。


 


 結鶴は手を止め、そっと目を閉じた。


 白衣の袖を握りしめる。

 何度も何度も、問いかけた。


 


 「本当に、誰を守りたい?」


 


 遠くで、夜風が窓を叩いた。


 


***


 


 一方、陽斗も同じ夜を過ごしていた。


 自宅の作業部屋。

 机には、完成度90%の解析モジュールが立ち上がっている。


 


 いつもなら、この進捗が嬉しかった。


 けれど今日は違った。

 “研究が進むたび、結鶴の表情が遠くなる”

 そんな幻のような光景が頭を離れなかった。


 


 「結局、俺はまた……」


 


 言葉にならない独白が、喉の奥で消えた。


 昔、彼は研究所を追われた。

 技術を“誰かのため”ではなく“成果のため”に使ったことを、ずっと悔やんでいた。


 


 だからこそ、結鶴と一緒にやりたかった。


 彼女のためなら、数字の先にいる人を思い出せると信じていた。


 


 でも、それだけじゃ足りなかった。


 


 「……待つだけじゃ、何も変わらないんだな」


 


 陽斗は小さく息を吐き、画面を閉じた。


 心のどこかで、ずっと怯えていた。


 ——結鶴に拒絶されることが、怖い。


 けれど、もう一度言葉にしなければ何も進まない。


 


 「……明日、話そう」


 


 自分の声が、少しだけ震えていた。


 


***


 


 同じ夜、別々の場所で。


 ふたりはようやく、

 “正しさ”ではなく“気持ち”と向き合い始めていた。



第7節 言葉にしないもの

 研究棟の共有会議室は、春の昼下がりの光で満ちていた。


 翌週に控えた共同研究の進捗発表を前に、

 結鶴は机の上に広げたスライド原稿を見つめていた。


 


 YUNOを応用した「判断負担スケール」。

 解析精度は改善され、理論的な説明も揃った。

 でも、本当にこれでいいのかと自問すると、

 胸の奥に小さなしこりが残った。


 


 「本当に、これが人を救うのか」


 


 声に出すと、思った以上に脆い問いに聞こえた。


 


 ——そのとき、背後でドアが開いた。


 陽斗だった。


 


 互いに言葉を探すように視線が揺れた。


 先に口を開いたのは陽斗だった。


 


 「……スライド、見せてくれる?」


「……いいよ」


 


 結鶴は手元の資料をそっと差し出した。

 指先が少しだけ触れる。

 それだけで、心臓が跳ねた。


 


 陽斗は無言で数ページめくり、

 最後のスライドを閉じた。


 


 「……これ、君の中では、まだ不十分だと思ってるんだろ?」


「……分かる?」


「分かるよ。

 君は、こうやって数字が揃ったとき、いつも“まだ足りない”って顔をする」


 


 結鶴は視線を伏せた。


 「足りない」と思うのは、完成度ではなく自分自身だった。

 誰もが納得する説明を用意しないと、

 共に歩いてもらう資格がない気がしていた。


 


 陽斗は、そっと資料を置いた。


 


 「俺も、正直に言う。

 ……怖いんだ」


「何が?」


「君が、この研究も、俺のことも、全部手放すんじゃないかって」


 


 心臓が一瞬止まったような感覚があった。


 


 「俺はさ、ずっと数字の中に答えがあると思ってた。

 でも、君が隣にいると、それだけじゃ足りない気がするんだ」


「……」


「だから余計に、何を言えばいいのか分からなくなる」


 


 陽斗の声は少しだけ震えていた。


 


 「君にとって、俺はただの技術屋か?

 それとも、ただの共同研究者か?」


 


 結鶴は答えられなかった。


 それはずっと、自分が言葉にするのを避けていた問いだった。


 


 「……まだ、分からない」


「分からなくていい。

 でも、いつかは答えてくれ」


 


 結鶴は小さく頷いた。


 


 「……君がいなければ、ここまで来られなかった。

 でも、それを“特別なこと”として言葉にするのが怖い」


「なんで?」


「認めたら、きっと戻れなくなるから」


 


 陽斗は小さく笑った。

 それは、どこか安心したようでもあり、苦い諦めにも似ていた。


 


 「それでもいい。

 君が迷ってるなら、待つ」


「……ありがとう」


 


 言葉にすると、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。


 


 会議室には、まだ昼の光が満ちていた。


 互いに不器用なままで、それでも同じ場所に立っていた。


 


 「今日、このあと……時間ある?」


「……少しなら」


「じゃあ、資料のすり合わせをしよう。

 無理に決めなくていい。

 君がどうしたいのか、話を聞きたいだけだから」


 


 結鶴は小さく息を吐いた。


 


 「分かった」


 


 たったそれだけの会話が、

 少しだけ救いになった。


 


 きっと、正しさだけで進めるものじゃない。


 研究も、関係も、そういうものなのだと思えた。



第8節 言葉の重さ

 研究発表当日の朝、結鶴はいつもより早く研究棟に入った。


 外はまだ薄暗く、春の気配よりも冬の残響のほうが強い。

 けれど、手の中に抱えた資料の重みは、確かに今の自分が選んだものだった。


 


 会場は大学本館のホールだった。

 小規模ながら、各研究室の関係者と外部評価者が集まっている。

 白衣をまとった人々のざわめきが、どこか遠くで響いていた。


 


 スライドを映すモニターを確認し、パソコンの接続を試す。

 隣に立つ陽斗は、今日は一切口を挟まなかった。


 


 それが余計に、胸を苦しくさせた。


 


 「……結鶴」


「なに?」


「もし、何か言葉に詰まったら、俺が続けるから」


 


 短いその一言が、どれほど救いだったか。


 それをすぐには伝えられなかった。


 


***


 


 時間になり、会場の照明が少し落とされた。


 司会進行役が淡々と研究の趣旨を紹介する。


 


 「それでは、共同研究プロジェクト“医療判断負担スケール化モデル”の進捗報告に移ります。

 一之瀬結鶴さん、倉科陽斗さん、お願いします。」


 


 マイクを持ったとき、指がかすかに震えた。


 


 スライドの一枚目を映し、結鶴は深く息を吸った。


 


 「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。

 この研究は、医療現場における判断負担を定量化し、

 その負荷を共有可能な記録とすることを目指しています。」


 


 声が自分のものではないように感じた。


 それでも、次の言葉を探した。


 


 「……ただ、数字がすべてではないと、私たちは考えています。

 判断の重みは、条件や状況だけでなく、

 その人が抱える背景や思いによって変わるからです。」


 


 陽斗が横でうなずいた。


 その仕草を見て、少しだけ肩の力が抜けた。


 


 「ですから、今回のモデルでは、数値化だけに依存しないアプローチを採用しました。

 定性的な記述と定量的解析の両方を、記録の一部として扱います。」


 


 客席の数人が頷いた。


 声を出すたび、自分の中の曖昧さが少しずつ輪郭を持っていく気がした。


 


 陽斗が隣でマイクを持つ。


 


 「……正直に言うと、僕は数値化にこだわってきました。

 でも、それだけでは判断の責任を共有できないと知りました。

 それは、一之瀬さんの問いかけに何度も気づかされました。」


 


 陽斗は一度、結鶴を見た。

 目が合った。


 逃げる必要はなかった。


 


 「この研究はまだ途中です。

 完成形は見えていません。

 でも、だからこそ“次に何を記録すべきか”を問い続けたいと思っています。」


 


 言葉が途切れた。


 


 会場は静かだった。

 やがて司会が小さく拍手を始め、それがゆっくり広がった。


 


 結鶴は深く頭を下げた。


 マイクを置く手が、ほんの少し震えていた。


 


***


 


 発表が終わり、ホールの外に出た。


 外の光がまぶしかった。


 


 「……お疲れさま」


 陽斗の声は低く落ち着いていた。


 


 「あなたも」


「……あの、さ」


「なに?」


「さっき言ったこと、嘘じゃない。

 君が問いをくれたから、ここまでこれた。」


 


 陽斗が、わずかに視線を逸らした。


 


 「でも、君にとって俺は……」


「……まだ答えは出せない」


 


 それでも、もう逃げる気はなかった。


 


 「だけど、今日みたいに同じ言葉を選べるのは、嬉しい」


 


 陽斗は少し笑った。


 その笑顔は、ずっと見たかったものだった。


 


 「それでいい。

 また一緒にやろう」


 


 結鶴はゆっくり頷いた。


 


 まだ、何も決まっていない。

 でも、たった今、確かに同じ場所に立てた気がした。


 


 光の中で、二人の影がひとつに重なった。




第9節 選ぶ言葉

 研究発表の翌日、結鶴は早朝から研究棟にいた。


 昨夜はほとんど眠れなかった。

 緊張ではない。

 言葉にしてしまった感情が、胸の奥でずっと熱を持っていた。


 


 机の上には、陽斗が渡してくれた解析アルゴリズムの新しい改良案が置かれていた。

 数字と文章の境界をどこに引くか。

 その一行一行が、これから進む道を決める。


 


 それを読みながら、ふと気づく。

 自分が資料を「怖い」と感じなくなっていた。


 


 かつては数字に背を向け、

 陽斗は感情に距離を置いた。

 それでも一緒に歩こうとして、何度も衝突した。


 


 ——それを、ようやく「同じ選択」と呼べる気がした。


 


 午前九時。

 扉をノックする音がして、陽斗が顔を出した。


 


 「早いな」


「あなたこそ」


「……眠れなかった」


「私も」


 


 小さな沈黙が落ちた。

 でも、今はもうそれが怖くなかった。


 


 「改良案、読んだ。

 私も考えたけど、この仕様なら“判断の言葉”を残す部分をもっと自由にできる」


「……やっぱり、そっちを優先したい?」


「うん。

 数字は大事。

 でも、私はどうしても“余白”を残したい」


 


 陽斗は深く息を吐いた。


 


 「君らしいな」


「……嫌?」


「逆だ。

 それが君だから、一緒にやりたいって思った」


 


 結鶴は視線を落とした。


 


 「……本当は、ずっと怖かった」


「何が?」


「あなたにとって私は、ただの理想論を言う人間だと思われてるんじゃないかって」


「……そう思わせてたなら、俺のせいだ」


 


 陽斗は一歩だけ近づいた。

 机越しに、そっと手を置く。


 


 「でももう、分かってる。

 君が言ってるのはただの理想じゃない。

 人が人でいられるために必要なことだ」


 


 声が震えた。


 


 「……俺は、君が隣にいるから、この仕事をやれてる」


 


 言葉が、心臓を深く突いた。


 


 「……そうやって簡単に言わないで」


「簡単じゃない。

 ずっと言えなかった」


 


 結鶴は、しばらく目を閉じた。


 胸が苦しかった。

 でもそれは、後悔や不安の苦しさではなかった。


 


 「私も……同じ気持ちだと思う。

 あなたが隣にいるから、ここまで来られた」


 


 陽斗が、そっと机越しに手を伸ばした。

 結鶴も、ためらいながら指先を重ねた。


 


 「これからも、一緒に作っていける?」


「……うん」


 


 言葉にすると、静かな温かさが胸に広がった。


 


 「一緒に、何を作るかは分からない。

 でも、それを考え続けることなら、できる」


「それでいい」


 


 ほんの一瞬、二人は笑い合った。


 


 資料の山はまだ手つかずで、

 研究のゴールは遠い。


 それでも今、この部屋に同じ意志があった。


 


 結鶴は深く息を吐いた。


 


 「……今日だけは、研究の話をしないでいい?」


「いいよ」


「少しだけ、ここにいて」


 


 陽斗は頷いた。


 それだけで、すべてが許された気がした。


 


 外はまだ午前の光。


 研究棟の窓越しに、少し冷たい風が吹いていた。


 


 けれど、手に残る温もりだけは、確かだった。




第10節 記録に残らない約束

 夏の終わりを思わせる、湿った風が廊下を抜けていった。


 研究棟の最上階、会議室の窓は全開にされていて、

 熱気と光が交互に差し込む。


 


 結鶴は机に積まれた最終報告書の束に目を落としていた。


 半年かけた研究は、ひとまず形になった。


 YUNOの拡張モジュールは、現場の看護師や技士の判断を

 “言葉と数字のあいだ”で記録するシステムに進化した。


 


 その仕組みがどこまで浸透するかは、まだ分からない。


 それでも、今の自分はこれ以上ないほど正直に作ったと思えた。


 


 「お疲れさま」


 


 背後から、陽斗の声が届いた。


 振り返ると、少しだけ陽に焼けた顔があった。


 


 「研究室の連中、あれで満足してた?」


「うん。

 “こんなに柔らかいシステムは初めて見た”って言われた」


「……褒め言葉だよな」


「褒め言葉だと思う」


 


 笑い合ったあと、言葉が途切れた。


 


 「……あのさ」


「うん?」


「今度は、君が最初に何を考えたい?」


 


 陽斗の問いに、結鶴はしばらく考えた。


 これまでのように、正解を探そうとする自分を少しだけ手放す。


 


 「……判断の記録が増えたら、

 その先に“何を許すのか”を考えたい」


「許す?」


「判断には、どうしても間違いが生まれる。

 それを許せる構造も一緒に作らなきゃ、意味がない気がする」


 


 陽斗は少し目を細めた。


 


 「君らしいな」


「……またそれ?」


「褒め言葉だって」


 


 笑いが消えたあと、

 二人は同時に視線を逸らした。


 


 「……研究以外のことも、考えてる」


「どんな?」


「たとえば、君と一緒にいる未来のこと」


 


 言葉にすると、胸が苦しくなる。


 


 「……一緒にいるって、研究だけの話じゃない?」


「分かってる。

 でも、全部切り分けては考えられないんだ」


 


 陽斗はゆっくり息を吐いた。


 


 「俺は、君が一緒に研究してくれるだけで十分だと思ってた。

 でも、それだけじゃ足りなくなってる」


 


 結鶴は視線を落とした。


 どれだけ強い自分を演じても、

 誰かに頼ることを全部拒むことはできなかった。


 


 「……それでも、私はまだ怖いよ」


「何が?」


「何かを選ぶことで、何かを失うのが」


 


 陽斗は一歩近づいた。


 ゆっくりと、机に置かれた結鶴の手に触れる。


 


 「大丈夫だよ」


「どうしてそう言い切れるの」


「だって、君は一人でここまで来たんだ。

 その強さを知ってるから」


 


 視界が滲んだ。


 


 「泣かせるのは、ずるい」


「泣いてもいい。

 でも、そのときも隣にいさせてほしい」


 


 言葉が、胸の奥に溶けていく。


 


 「……ずっと一緒にいてくれる?」


「当たり前だろ」


 


 それは、研究計画書には記されない約束。


 どんな記録にも残らない、小さな選択。


 


 けれど、たったひとつの言葉で、

 この半年間の孤独が報われた気がした。


 


 結鶴は、そっと目を閉じた。


 


 風が頬を撫でる。


 机の上に積まれた報告書の山が、

 これから先も“問い続ける”証になる。


 


 その隣に、この人がいる。


 


 ——それでいい。


 


 そっと目を開いたとき、

 視界は春の光で満たされていた。


 


 何も決めきらなくていい。

 正しさも、強さも、問いの途中で構わない。


 


 それでも、この場所から歩き出せる。


 


 その手の温度が、

 これから先の未来の道標になると、思えた。


 完


最後までお読みいただき、ありがとうございました!

このスピンオフでは「研究と感情はどこで重なるのか」をテーマに書きました。


本編とは少し違う温度感の結鶴と陽斗を、楽しんでいただけていたら嬉しいです。

ご感想やレビューなども大歓迎です。


また機会があれば、別のかたちで続きを描きたいと思っています。

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