表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

27/28

スピンオフ『イノセント・デバイス - After Record: その手の温度』前編

本編「イノセント・デバイス」のその後を描くスピンオフです。

博士課程に進んだ結鶴と、陽斗との関係が少しずつ変わっていく物語になります。

本編を読んでいなくてもおおまかにお楽しみいただけますが、先に本編をご覧いただけるとより深く味わっていただけると思います。

第1節 春はまだ遠く

 研究棟の廊下を歩く足音が、遠くまで響いていた。


 四月。

 桐生会を離れて半年。

 一之瀬結鶴は、博士課程の研究室に席を置いていた。


 


 彼女が選んだテーマは、「医療技術の判断負担の可視化」。

 言葉にすれば整って聞こえるけれど、実際はまだ霧の中にいる。

 何を研究にするのか。

 どこまで社会に還元するのか。

 そして――どこまで、自分の過去と向き合うのか。


 


 研究室の鍵を開け、灯りをつける。

 白い壁、無機質な机。

 そのどれもが、あの喧噪の現場よりも静かで、どこか冷たい。


 


 デスクの端に置かれた差出人不明の封筒に気づいた。

 中には、たった一枚のメモ。


「君が次に何を選ぶのか、知りたいと思ってる人は、ここにもいます。」


 


 差出人の名前はなかったが、結鶴には分かっていた。

 陽斗。

 あのときYUNOを共に作り、桐生会と向き合った人。


 


 研究室を歩いてきた助手が声をかける。


「先週、倉科さんが来られましたよ。共同研究の話だそうです。」


 倉科。

 陽斗の名字。

 結鶴は少しだけ胸が痛んだ。


 


 関係は、曖昧なままだった。

 あの夜、確かに「一緒にやろう」と言ったはずなのに。

 桐生会を去ってから、連絡はお互いに途切れがちだった。


 


 きっと、どちらも踏み出せなかったのだ。

 「私たち」と呼ぶには、まだ何かが足りなかった。


 


 けれど春は、ゆっくりでもやってくる。


 結鶴は窓の外を見た。

 遠くに桜の枝が揺れている。


 それを眺めながら、小さく呟いた。


「……あの人に会わなきゃ、きっと何も始まらない」


 


 まだ冷たい風が頬を撫でた。

 それでも、心の奥に小さな熱が残っていた。



第2節 再会の距離

 研究棟の窓をノックするように、春の風が吹き抜けた。


 結鶴は論文検索を中断し、マグカップを片手に深呼吸する。

 まだ少し慣れない新しい机。

 何度も座り直しながら、空っぽのノートを眺めていた。


 


 扉を叩く音がした。


 研究室に来客があるのは珍しい。

 彼女は椅子を引き、そっとドアを開けた。


 


 そこに立っていたのは、倉科陽斗だった。


 


「……お久しぶりです」


「久しぶり、だな」


 


 声に、かすかな笑みが混じった。

 けれど視線は一度も、正面から交わらなかった。


 


「急に来てごめん。ここの先生に呼ばれて、共同研究の話を少し」


「ああ……あのメモは、あなた?」


「うん。手紙の書き方、ちょっと古くさかったかも」


 


 ふたりのあいだに、沈黙が落ちた。


 あの理事会の夜から、結局きちんと話せていない。

 会えばきっと、言葉はすぐに戻るはずだと――

 どちらも思っていた。

 でも、そう簡単にはいかなかった。


 


「研究、うまくいってる?」


「まだ手探り。でも……こうして始められたことだけは、ちゃんと嬉しい」


「そっか」


 


 ふと、陽斗が視線を落とした。

 彼の左手には、見慣れた青いUSBメモリ。


「これ、YUNOの拡張モジュール。

 あのとき話してた“判断負担のスケール化”の試作品だ。

 ……君が使うかどうかは分からないけど」


 


 結鶴は一歩だけ近づき、手を伸ばした。


「ありがとう。受け取る。

 私もまだ、この研究がどこに行くのか分からない。

 でも、たぶん……」


 言いかけて、言葉を止めた。


 


 “たぶん、あなたと一緒に考えたい”――

 そう言うには、少し勇気が足りなかった。


 


「……ごめん、何でもない」


 


 陽斗は小さく笑った。


「いいよ。まだ急がなくていい」


 


 言葉はそれだけだった。

 でも、ふたりの間に張り詰めていた薄い壁が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。


 


 春の光が、机の上に伸びてくる。

 あのUSBメモリが、やけにきらきらして見えた。



第3節 プロジェクトのはじまり

 共同研究プロジェクトの概要説明は、大学本館の第2会議室で行われた。


 窓の外には満開の桜が揺れていて、

 その白い花びらが、どこか現実感を遠ざけていた。


 


 「医療判断負担のスケール化に関する研究」

 プロジェクト名だけは立派で、壁面のスライドにも整然と文字が並ぶ。


 けれどその目的はとても単純だ。


 ――医療者が“どうしてその判断を選んだか”を、

 できるだけ誰にでも理解できる形に可視化すること。


 


 それはきっと、YUNOの延長にある。


 でも、YUNOよりもずっとやわらかく、曖昧で、

 人間的な領域に踏み込む仕組みだ。


 


 「一之瀬さん、今回の研究では“判断経路の言語化”を主軸にしてもらえれば」


 教授が声をかける。


「具体的には、YUNOのタイムスタンプログと、

 医療者の主観的判断記録を突き合わせてスケールを抽出する形です」


 


 結鶴はうなずいた。


「……はい。

 ただ、判断記録は主観の影響が強いので、

 運用の段階で抵抗感が出ると思います」


「そのときは、君自身が先行事例として示せばいい」


 


 その一言は、軽いようでいて、

 とても大きな責任を含んでいた。


 


 会議室を出ると、陽斗が待っていた。

 黒いノートPCを小脇に抱えて、どこか居心地悪そうに立っている。


 


「……話、終わった?」


「うん。

 共同研究、正式に始まるって」


「そっか」


 


 ふたりはしばらく黙ったまま、廊下に立っていた。


 廊下の奥では、新入生らしき学生たちが談笑している。

 あのころの自分には想像もできなかった。

 “技術を作る”ことが、こんなに人と人の距離を変えるものだなんて。


 


「……君はさ」


 陽斗が、珍しく言葉を選ぶように口を開いた。


「もう少し肩の力を抜いてもいいと思う」


「どういう意味?」


「責任の取り方を、全部一人で考えなくていいってこと」


 


 彼は視線を合わせなかった。


 けれど、その声は不思議なくらい優しかった。


 


「君がYUNOを作ったときもそうだった。

 全部背負うつもりで動いて、

 周りが支えようとするたびに距離を置く」


「……それは」


「別に責めてるんじゃない。

 ただ、今度は――一緒に背負わせてほしいだけ」


 


 言葉の温度が、胸の奥に染みていく。


 簡単に「ありがとう」と返せるようなことじゃなかった。

 けれど、無言で立っているのも違う気がして、

 結鶴はゆっくりと息を吐いた。


 


「分かった。

 でも……たぶん私は、簡単に“任せる”って言えない」


「いいよ。

 最初からそうだって分かってる」


 


 ふたりのあいだに、少しだけ笑いがこぼれた。


 きっとそれが、はじまりの合図だった。


 


 同じ研究室、同じプロジェクト。

 それでも、以前の“共闘”とは少しだけ違う。


 今度は、“どう支えるか”を探す旅だ。


 


 桜の花が、風に揺れた。


 その花びらが廊下にひらりと舞い落ちるのを、

 結鶴は、ずっと目で追っていた。



第4節 揺れる焦点

 共同研究が正式に動き出してから、一か月が過ぎた。


 研究テーマは明確だ。

 「医療判断の負担を言語化し、数値スケールとして提示する」。


 しかし、その過程は想像以上に複雑だった。


 


 結鶴の机の上には、毎日新しい症例記録が届く。

 YUNOログと、現場で記入された主観的な“判断理由シート”。

 それらを突き合わせ、パターンと傾向を抽出するのが彼女の役割だ。


 


 一方で、陽斗はシステムのプロトタイプ開発に没頭していた。

 判断負担を自動解析するための新しいアルゴリズム。

 処理速度を高めるためのコードの最適化。

 その作業に集中する彼の背中は、どこか別世界の人のように見える瞬間があった。


 


 「これ、確認してもらえる?」


 陽斗が、ノートPCを差し出す。

 画面には仮運用中の解析モジュールのログが表示されていた。


 


「精度は?」


「70%台。でも、判断理由の記載が曖昧なケースはスコアが揺れる。

 そこを補正するには、もっと定型化したシートが必要かもしれない」


 


 結鶴は画面を見つめながら、しばらく言葉を探した。


「……それは、現場の人たちにとって負担になる。

 判断を定型化するのは、結果的に“記録を怖がらせる”仕組みになるかもしれない」


 


 陽斗の表情が、わずかに曇った。


「でも、データを扱う以上、ある程度の規格は必要だろ」


「分かってる。

 でも、全部を数字に置き換える必要があるの?」


「じゃあ、どうやって判断の重みを見える形にするんだ」


 


 声の調子が、少しだけ鋭くなった。


 


 その一瞬、二人の視線がぶつかった。

 議論ではなく、問いと問いが正面から衝突する感覚。


 


「……ごめん。言い方がきつかった」


「私も。言葉にするのが遅かった」


 


 小さな沈黙。


 それは、研究のための緊張ではなく、

 どこか個人的な焦りに似ていた。


 


「陽斗」


「何」


「……私、あなたと一緒に研究したかった。

 でも、もしどちらかが先に走りすぎるなら、

 無理に同じスピードで進まなくてもいいと思う」


 


 その言葉を、陽斗はすぐには受け止められなかった。


「……それは、同じゴールに行けないって意味?」


「違う。ただ、今はまだ答えを急ぎたくない」


 


 陽斗は短く息を吐いた。


「分かった。

 でも、俺は俺でできるところまでやる。

 ……君が追いつくのを待つつもりはないよ」


 


 その言い方が、どこか寂しげに聞こえた。


 けれど結鶴も、それ以上は何も言えなかった。


 


 夜、研究棟を出たとき、まだ風は冷たかった。


 ビルの窓に映る自分の姿が、妙に遠い他人に見えた。


 研究も、気持ちも、まだ同じ場所にはいられない。

 でも、だからこそ手放したくない。


 


 結鶴は、胸の奥にその小さな痛みを閉じ込めた。


 きっと、焦る必要はない。

 けれど、同じくらい不安も消えなかった。



第5節 初めての衝突

 プロジェクトの進行は、予定以上の速さで加速していた。


 共同研究の進捗報告会は、月に一度。

 その日も、陽斗は新しい解析アルゴリズムを完成させ、成果をデータで示してみせた。


 


 「これが、先月のスコアより15%精度を改善したモデル。

 ここまでくれば、現場での運用テストも視野に入るはずだ」


 


 会議室のモニターに、スライドが淡々と切り替わる。


 周囲の研究員たちは頷き、拍手すら送った。

 その場にいた誰もが、これが一つの成果だと理解していた。


 


 けれど結鶴だけは、うまく拍手できなかった。


 


 会議が終わり、廊下に出た瞬間、陽斗が振り返った。


 


「……何か、ある?」


「ある。

 でも、こんなところで言う話じゃない」


 


 少しだけ、言葉が冷たくなった。


 


 夜になり、研究棟のラウンジに二人だけが残った。

 自販機の明かりが床に長い影を落としている。


 


「……言って。はっきり」


 陽斗が先に声を上げた。


 


「あなたはいつも“精度”ばかりを見てる。

 でも、それは数字が人を救うことの証明にはならない」


「じゃあ何だ。

 どこまで感情に合わせれば気が済む?」


「感情じゃない。

 判断の重みは、あくまで人間のものだって言ってるだけ」


 


 声が震えた。

 それは悔しさでも苛立ちでもなく、

 言葉にするたび、自分の正しさが揺らぐ怖さだった。


 


「……俺だって、分かってる。

 でも、何もかも曖昧にしていたら、

 結局誰も守れないんじゃないのか」


「それでも、私は……

 数字だけを先に走らせたくない」


 


 陽斗は一歩だけ近づいた。

 でも、距離を詰めたのは歩幅だけで、心じゃなかった。


 


「君が見てるのは、現場の痛みだけだ。

 俺が見てるのは、その痛みを減らすための技術だ」


「……あなたは、そうやって“優しいこと”をしているつもりなんだろうね」


 


 言ったあとで、結鶴は息を呑んだ。

 それが、ひどく残酷な言葉だと自覚した。


 


「……ごめん」


「いや、いい。

 もう今日は話せない」


 


 陽斗はそれだけ言って、資料を手にラウンジを出て行った。

 扉が閉まる音が、やけに遠くに聞こえた。


 


 結鶴はしばらく動けなかった。

 自分が望んでいたのは、何だったのか。


 


 研究を進めたかった。

 一緒に未来を作りたかった。

 でも、どこかで「正しさを共有する覚悟」をまだ選べない自分がいた。


 


 胸の奥に、小さな空洞が生まれた気がした。


 


 それでも、明日はまた来る。

 どれだけ痛みを残しても、研究は止まらない。


 


 結鶴は俯いたまま、

 白衣の袖をぎゅっと掴んだ。




ここまでお読みくださって、ありがとうございます!

本作は、研究や技術だけでは埋められない「人と人の距離」を描いてみたいと思って書き始めました。


第5節までで一度区切りとなりますが、まだ続きます。

この先、結鶴と陽斗がどんな選択をするのか、ぜひ見守っていただけると嬉しいです。


感想などお気軽にお寄せください!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ