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第13章 静寂の攻囲

いつもご覧いただきありがとうございます。


第13章「静寂の攻囲」では、これまでの論戦や法的攻防が一段落した後、

結鶴が向き合うのは、“何も起こらない”という異常な静寂です。


評価も非難もなく、反論も称賛もない。

それは「反応がない」のではなく、**組織全体が“見ないようにしている”**から。


目を逸らされる記録。

形式だけが残る協議。

やがて結鶴は、「声なき包囲網」の存在に気づいていきます。


ここに描かれるのは、制度という名の“沈黙の暴力”です。

 月曜の朝。

 メールボックスには、未読の件名が静かに並んでいた。

件名:【通知】記録支援システム「YUNO」に関する使用停止要請

差出人:久我メディカル 法務・知財管理部

本文:

「貴殿開発の記録支援システム『YUNO』につき、当社特許構造との競合の可能性および、

現行保守契約との整合性を理由に、全稼働中端末の使用一時停止を要請いたします。

本件は争訟を前提としない“任意協議”であり、段階的合意の構築を期待します」

 

 穏やかに装った文面だった。

 だがそれは、“このまま黙っていればすべてを止める”という無言の包囲だった。

 

 私は、画面を閉じることなく、そっとYUNOの起動画面に目をやる。

 システムは、いつものように心電波形を模したログラインをゆっくりと描き出していた。

 誰にも見えないその裏側で、医療現場の息遣いを記録しているこの装置に、

 いま“動くな”と命じる圧力が加えられている。

 

 スマートフォンが震える。

 陽斗からだった。

「通知、来てるよな。……大丈夫?」

 

 私の手は、ほんの一瞬だけ止まった。

 “そう聞いてくれること”が、今いちばん欲しかった言葉だったのかもしれない。

 

 

 その夜、研究室には静かな空気が流れていた。

 外の自販機で買ったコーヒーの缶を片手に戻ると、

 仮眠用の小ソファの上に、陽斗が無言で座っていた。

 

「来ると思った」

「缶、2本買った。苦いやつと、甘いやつ。……今日はどっち?」

 私は迷わず、甘い方を手に取った。

 その選択に、陽斗は何も言わなかった。

 ただ、どこかやわらかく息をついただけだった。

 

「……YUNO、止めるつもりはないわ」

「だろうね。君、絶対止まらない人だもん」

「……でも、今日、ちょっとだけ“止まりたい”と思った。

 一瞬だけだけど。あれを見たとき」

 

 私が“あれ”と呼んだのは、もちろん久我からの通知だった。

「止まってもいいよ。……俺は、再起動の手伝いくらいできる」

 それは陽斗らしい言葉だった。

 戦おうとか、勝とうとかじゃない。

 でも、“隣に立つ”ことは惜しまない。

 

 私は缶のプルタブを開けた。

 炭酸の抜けた甘さが、どこか救われる味だった。

 

「私は、記録を守るために記録を作ってきた。

 でも今は、“記録されるべき人”を守らなきゃいけない段階なのかもしれない」

 

 陽斗は小さく笑った。

「それ、いい言葉。どこかに刻んどいた方がいい」

 

 ふたりの間に沈黙が落ちた。

 けれど、それは苦痛ではなかった。

 “静かに呼吸する時間”のようなものだった。

 

 その夜、私はYUNOの管理端末に一文だけメモを残した。

「記録とは、失わないために残すものではなく、

人が逃げ出さずに済むように残すもの」

 

 守るべきものは、今この手の中にある。

 だから私は、止まらない。


 YUNOの使用停止通知が届いて、現場に混乱が出るまでに、さして時間はかからなかった。

 通知の内容そのものは“任意協議中”とされていたが、

 桐生会の一部病棟では、すでに「使用差し控え」の通達が看護部を通じて出されていた。

 

 午前9時。

 南棟の人工呼吸器管理ユニットにいた技師・古橋が、少し苛立った様子で陽斗に声をかけてきた。

「昨日の患者、深夜2時にSpO₂がじわじわ下がってきてたんだけどさ。

 YUNOの自動ログ見られないから、どこまで加湿続いてたか、今朝になっても分からないのよ。

 見回り時の“主観”に頼るしかないって、どうかしてるでしょ」

 

 陽斗は、頷くだけで反論しなかった。

 すでに、こうした“見えない”ことへの不安が、複数の部署で口にされ始めていた。

 

「上は“予防的措置”だって言ってたけどさ……現場にしたら、

 “必要な目を閉じさせられてる”みたいなもんだよ。

 YUNOが完全じゃないのは分かってる。でも、“なにもない”よりは、はるかにましだよ」

 

 その言葉が、陽斗の心に残った。

“なにもないよりは、まし”

 それは、システムを礼賛するわけでもなく、

 ただ“現場が持ちたい最低限の武器”としてYUNOを評価していた。

 

 陽斗は、その足でデータ室に向かい、ノートPCを立ち上げた。

 過去の使用記録、現場の要望メモ、点検時の技師コメント――

 すべてを一枚のシートに落とし込み、分類を始める。

 

「記録の喪失によって発生した“予兆未検出”の可能性」

「判断に迷いが生じた症例の概要」

「看護スタッフによる不安報告の数」

「“YUNOがあったらよかった”という自由記述」……

 

 彼はひとつずつ、静かに可視化していった。

 それは報告書ではなく、“声”だった。

 誰かが現場で呟いた、小さな、でも確かな重みのある声。

 

 午後、結鶴が研究室に戻ると、ホワイトボードに貼られたシートが視界に入った。

 ひと目で分かった。

 これは、数字ではなく、“理由”を集めた資料だ。

「……これ、全部?」

「まだ途中。でも、集まるたびに重くなる。

 “どんなに完璧でも、要らないものは要らない”。

 でも、“不完全でも必要なもの”って、あるよなって思った」

 

 結鶴は、その言葉に少しだけ目を伏せた。

「YUNOは“代替医療”にはなれない。

 でも、“目の数を増やす装置”にはなれる。

 それを、今こそ説明しなきゃいけないわね」

 

 陽斗は静かに頷いた。

 ふたりの間に、戦うべき理由が再確認された瞬間だった。


 木曜午前、法人法務課に一通の連絡が届いた。

差出:第三者評価機関(医療技術透明性委員会・MTEC)

件名:協議対象技術に関するヒアリングのご案内

本文:

「記録支援装置“YUNO”について、構造的中立性およびログ信頼性の検証を目的とし、

開発者・運用責任者に対する事情聴取を実施いたします。

同席希望者および資料持参の可否について、ご一報ください」

 

 “事情聴取”という言葉の響きは、あからさまな敵意ではない。

 だが、それは“尋ねる”より“詰める”という意図を秘めていた。

 

 通達を読んだ杉原が、即座に結鶴に連絡を寄越した。

「このタイミングでのMTECの動き、明らかに久我側の要請に連動してる。

 ただし、公式には“中立の外部評価”って名目。

 正面から拒否すれば、不誠実のレッテルを貼られる」

 

「行きます。資料、用意します」

 結鶴の答えは、即答だった。

「……答えるのか? 向こうは“言質を取る場”にしたがってる」

「言葉で答えるつもりはありません。

 “記録で答える”。それだけです」

 

 その午後、研究室に戻った結鶴は、YUNOのアーカイブログにアクセスした。

 彼女の指先が選んだのは、あの夜――

 PEEPが未設定のまま加湿が作動し続けた、市立病院での予兆ログだった。

 そこには、患者のSpO₂が90%を割る寸前、

 “異常とは呼べない異変”が静かに蓄積されていく記録が残っていた。

 

 結鶴は、そのログと合わせて、現場記録ノートのスキャン、

 夜勤看護師が残した紙のメモ、温湿度センサーの日付連動グラフを一枚にまとめた。

「人が書き残した記録」と

「機械が黙って残した記録」が

同じ事実を語っている。

 

 その一枚の資料は、誰の声でもなく、“出来事そのもの”の言葉だった。

 

 夕刻、陽斗が訪れた研究室で、その資料を見てぽつりと呟いた。

「これ……もう、証言とかいらないよな。

 ちゃんと、全部書いてある」

 

「でも、誰かが“見る”って決めなければ、ただの数字」

 結鶴は微笑みながら、画面を閉じた。

「だから私は、“見せる”ことを選ぶ。

 私が語るんじゃない。記録が語る。

 それを、誰かが“読める”ようにするのが、今の私の役目」

 

 その言葉に、陽斗は小さくうなずいた。

 戦う覚悟とは、口を開くことではない。

 “沈黙に意味を与える構造”を、提示することなのだと。

 

 翌日、結鶴は一枚の封筒を持ってMTECへ向かう。

 その中には、たった数ページの資料。

 けれどそれは、数千時間の“現場の息遣い”が詰まった記録だった。

 

 MTECによるヒアリングは、外見上は整然と進んでいた。

 専門家委員三名。

 いずれも「データ処理」「医療技術管理」「法的リスク評価」の立場から配置された構成で、

 形式的には「意見聴取」だったが、質問の多くは“意図”や“妥当性”に踏み込むものだった。

 

 結鶴は、終始“記録”で応じた。

 口頭での弁明を最小限にとどめ、提出資料とログタイムスタンプに基づく説明のみを貫いた。

 

 ヒアリングの最後、委員長格の人物が一言つぶやいた。

「こういう記録は、“正しく使われれば”武器になりますね。

 でも、“疑われれば”とことん脆い。……皮肉なものです」

 

 その言葉が意味するものを、帰りの電車内で反芻する暇もないうちに、事態は動いた。

 

 夜、杉原から届いた緊急連絡。

件名:注意

本文:

「今日提出された“事例No.5”のログに、“タイムスタンプの連続性が一部途切れている”との指摘がMTEC側内部から出た模様。

久我が情報を意図的に漏らした可能性あり。“ログ改ざんの疑い”として社内に流れている。

広報、理事、関係現場に波及する前に、こちらで裏取りに入る」

 

 “改ざん”――その言葉は、一瞬であらゆる信頼を食いつくす。

 

 研究室に戻った結鶴は、バックアップデータを即座に起動し、事例No.5のログを再検証した。

 センサ群の記録、処理モジュールの出力履歴、タイムコード……

 すべては整合している。だが――

 ひとつだけ、ログが0.2秒だけ欠落した空白があった。

 

 それは、機器の再起動時にありがちな“バッファフリーズ”によるもので、

 事前にも設計仕様として明記していた“許容誤差”の範囲内。

 だが、文脈を知らない者にとっては、

 それは“ログが不自然に切れている”という“疑惑の起点”になり得る。

 

 陽斗が背後からそっと覗き込んだ。

「これ、ちゃんと説明すれば大丈夫だよな?」

「……説明じゃ足りない。“印象”で崩される」

 結鶴の声は落ち着いていたが、その奥にある緊張は隠せなかった。

 

「技術は、数字で作る。

 でも、信用は“言葉の流れ”で決まる。

 一行の切り取りが、百の構造を壊すこともある」

 

 そのとき、研究室の電話が鳴った。

 応答に出た結鶴の表情が、わずかに固まる。

 

「……はい。

 はい……承知しました。

 明朝、そちらへ参ります」

 

 通話を終えた結鶴は、少しだけ静かに息を吐いた。

「桐生会の倫理委員会から、“自主説明”を求められたわ」

 

 波は、一気に押し寄せていた。

 記録そのものが問われる局面。

 技術だけでは越えられない、“信用の審問”が始まろうとしていた。


 翌朝、結鶴が桐生会の倫理委員会室に入ると、すでに資料の束が積まれていた。

 委員の顔ぶれは、かつて臨床指導で顔を合わせた者もいれば、初対面の者もいた。

 だが共通していたのは、“何かを疑っている者の眼”だった。

 

 「一部記録に不連続があるという指摘を受けています」

 「データ処理の責任は、開発者にあると認識してよろしいか」

 「意図的な加工がないと証明する手段を、どう講じていますか」

 

 結鶴は、そのひとつひとつに、静かに答えた。

 主張ではなく、根拠と記録で。

 

 その頃、別室では杉原が応接端末を通じて動いていた。

 ログ監査システムのタイムスタンプ整合性、改版履歴、

 クラウド側サーバのアクセス記録――

 「もし人為的な手が加わっていれば、痕跡が残る」という前提で、第三者証明の取得に奔走していた。

 

 阿久根は、技術本部の副責任者として、

 旧YUNO試作機のデバイスログを物理的に読み出す作業に取りかかっていた。

 そこには、自動でミラー保存されたログが“生ログ”として残っている。

 

「削除も書き換えもされていない。

 物理メモリそのものに、欠損がないってことが、何よりの証明だ」

 

 そして、剛志。

 彼は臨床責任者として、記録事例No.5の患者カルテと当直記録を突き合わせ、

 “機械的な切断ではなく、生体変化に沿った時間軸”が成り立っていることを整理した。

 

 午後、三者の資料が一本に統合され、

 結鶴の元へ届けられた。

 

 研究室でそれを開いた結鶴は、ページをめくりながら静かに頷いた。

「記録が語るには、“誰かが繋ぐ手”がいる。

 私一人じゃ、これには届かなかった」

 

 陽斗がコーヒーを机に置きながら言った。

「でも、君が“記録に責任を持つ”って決めたから、

 その先に立つ人たちも、“一緒に責任を引き受ける”って決めたんだよ」

 

 その言葉に、結鶴は小さく微笑んだ。

 戦い方が変わったのだ。

 “守るもの”が、いつの間にか“共に守ってくれる存在”に変わっていた。

 

 その夜、杉原から追加の連絡が届いた。

件名:反証準備完了

本文:

「“改ざんの疑い”に関する反論書式、

明朝、理事会への正式提出予定。

専門第三者評価機関との整合性確認済。

――証拠は揃った。

あとは、“信じさせる言葉”を託すだけだ」

 

 データは無言だ。

 だが、信頼は“誰かの声”で届くもの。

 次に語るのは、結鶴の番だった。


 理事会技術評価セッションは、通常の理事会とは異なり、

 専門職と管理職、外部監査担当者が同席する“技術・制度の境界線”に立つ場だった。

 結鶴はその中心に、たった一人で立っていた。

 

「一之瀬結鶴です。

 本日は、記録支援システム“YUNO”に関する運用経緯と、

 改ざん疑惑への反証、そして私たちが設計に込めた“倫理的意図”について、ご報告いたします」

 

 冒頭、静かな声から始まったプレゼンテーション。

 まずは、技術的整合性に関する反証を淡々と提示していく。

 

 バックアップサーバのアクセス履歴。

 物理デバイスからの未改変ログ。

 カルテとの時系列一致。

 そして、第三者による一致確認証明。

 

 それらが重なった資料に、誰一人として反論はなかった。

 だが、それは“正しさ”に対する納得でしかない。

 本当に変えたいのは、“記録の位置づけ”そのものだ。

 

 結鶴は、次のスライドを提示した。

 画面には、シンプルな図が一枚だけ。

 医師、看護師、技師――その間にある楕円形の空間。

 そこに「YUNO」と小さく書かれている。

 

「この図は、“誰が正しかったか”を示すものではありません。

 “誰が何を見ていたか”を可視化するために設計された概念図です」

 

 結鶴は、プロジェクターから視線を戻し、会場を見渡した。

「現場において、“判断”はいつも孤独です。

 誰かの判断が後から疑われるとき、

 私たちは“もっと記録しておけばよかった”と呟きます。

 けれど、記録とは“過去を正すもの”ではなく、

 “未来の責任を共有する構造”であるべきだと、私は思っています」

 

 言葉に、微かなざわめきが走った。

 

「YUNOは、技術ではありません。

 これは“責任を一人にしない”ための構造そのものです。

 だから私は、これを“装置”ではなく、“倫理設計”と呼びます」

 

 スライドが切り替わり、現場の看護記録とYUNOログが並んで表示される。

 日付、手書きの一言、ログの温度変化、吸気圧。

 それらがぴたりと一致している。

「これは、誰かが正しかったという証拠ではありません。

 でも、“誰かが確かにそこにいた”という証明にはなります。

 そのことが、記録の最も深い意味だと、私は信じています」

 

 最後のスライドに、YUNOの起動画面が静かに表示された。

 それは、もはや波形ではなかった。

 心音でもなく、数字でもない。

 “沈黙が語る装置”として、確かにそこにあった。

 

「――以上です」

 

 質疑応答は少なかった。

 だが、誰の目も逸れていなかった。

 評価は、今この場では下らない。

 けれど、“判断の前提”は確かに更新された。

 

 YUNOは、“証拠”から“構造”へと、ひとつ、意味を変えようとしていた。


 技術評価セッションから二日後。

 理事会定例報告の末尾に、ひとつの議題が静かに読み上げられた。

「議案第五:記録支援装置“YUNO”の現場再導入に関する試験的稼働承認について」

「本議案は、医療現場における判断支援技術の試行導入として、

限定病棟・特定使用者のもとで記録評価を目的に実施する。

本格導入および法人契約化については、次回委員会審議を継続するものとする」

 

 その場にいた誰もが、声を上げることはなかった。

 だが、形式ばった議事文の中に、明確な“合意のしるし”が宿っていた。

 YUNOは、戻ってくる。

 まだ“完全な承認”ではない。

 だが、少なくとも「使ってみるに値する」と判断された。

 

 その夜、結鶴は研究室で端末に向かっていた。

 通知がひとつ、画面に表示される。

【再稼働承認済:試験導入バージョン】

運用開始対象:桐生会 医療センター南3病棟

登録ID:藤枝陽斗 ほか3名

稼働期間:4週間(再評価後更新予定)

 

 結鶴は、端末の横にある初期型YUNOのカバーを外した。

 あの日、最初に組み上げた試作機――

 その中に組み込まれていた処理モジュールが、今も変わらず動作している。

 

 扉が開き、陽斗がそっと顔をのぞかせた。

「戻ってくるって、正式通知きたよ。

 ……“仮採用”だけど」

「“仮”は、“まだ見ている途中”って意味。

 それだけでも、今は十分よ」

 

 結鶴の声は、静かに揺れていた。

 押し込めていた緊張が、わずかに緩む音だった。

 

 陽斗は缶コーヒーを二本差し出す。

 苦いやつと、甘いやつ。

「……今日はどっち?」

「甘いやつ。今日は許す」

 

 二人は笑い合った。

 その笑いに、戦いの勝利ではない、“守りきった人の安堵”があった。

 

 記録が、また現場に戻る。

 それは小さな一歩。

 けれど、“誰かの言葉を失わないため”の、一番大きな一歩だった。


 外部講師として招かれた日、私は白衣ではなく、

 シンプルなグレイのジャケットを選んだ。

 場所は、都内の医療技術大学。

 講義名は「記録と責任―医療現場における構造設計と倫理」。

 

 教室には、臨床工学技士志望の学生たちが50名ほど座っていた。

 未来の医療現場に立つ、まだ名もない彼らに、私は何を残せるのか――

 少しだけ息を整え、マイクを手に取った。

 

「こんにちは。私は一之瀬結鶴といいます。

 臨床工学技士と、司法書士の資格を持っています。

 そして、もうひとつ――“記録を設計する人”でもあります」

 

 学生たちがノートを構える音が小さく響いた。

「今日は、ある医療現場で起きた“見えない出来事”の話をします。

 誰も気づかなかった異変。誰のせいでもないまま蓄積されたリスク。

 そして、それを“記録”することで初めて“気づけたこと”について」

 

 私はスライドを一枚ずつ進めながら、言葉を選んで語っていった。

 機械が黙って残す、沈黙の記録。

 人が誰かを責めるためではなく、自分を守るために残すメモ。

 そして、それらが重なったとき、初めて“責任のかたち”が見えるということ。

 

 中盤、ある学生が挙手した。

「記録って、“何かあったときに残す”ものじゃないんですか?」

 

 私は一拍だけ間を置いて、頷いた。

「そうですね。でも私は、こう考えています。

 “何かが起きないために記録する”。

 あるいは、“起きたあとに、誰かが独りにならないために記録する”。

 それが“構造としての記録”です」

 

 その答えに、教室の空気がわずかに変わった。

 何人かの学生が、そっとペンを走らせるのが見えた。

 

 講義の最後、私はこう締めくくった。

「私が皆さんに伝えたかったのは、

 “何を記録するか”ではなく、“なぜ記録するのか”です。

 それを考えることが、医療という“選択の連続”の中で、

 唯一、自分を支えてくれる構造になると、私は信じています」

 

 拍手が、少しだけ時間差で起きた。

 それはまだ遠慮がちで、けれど確かに届いた音だった。

 

 講義後、学生のひとりが声をかけてきた。

「先生の話、録音してもよかったですか?

 ……“記録”に残したいって、初めて思いました」

 

 私は笑って頷いた。

「もちろん。いい記録は、人を守ります。

 それは、始まりですから」

 

 廊下に出ると、陽の光が差していた。

 記録は、過去に向かって残すものではない。

 未来に繋げるものだ。

 そう思えた日だった。


最後までお読みいただきありがとうございました。


第13章では、結鶴がかつてないほどに「孤立の現実」と直面する姿を描きました。


それは誰かに否定されることよりも、ずっと残酷なもの――

“無視”と“黙認”によって構造が再び自壊を始める、その瞬間です。


周囲はもう語らない。

彼女に「正しい」と言った人々も、そっと目を閉じていく。


この章は、制度の中にいる者の「恐れ」と「疲弊」、

そして結鶴の「信じ続ける強さ」を、静かに浮かび上がらせる一篇となりました。


次回、ついに結鶴は“内部からの突破”を試みます。

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