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第12章 応酬の法廷

第12章「応酬の法廷」では、ついに結鶴と久我 悠臣が真正面から制度と記録を巡ってぶつかる場面が描かれます。


これは、感情や信念だけの戦いではありません。

契約、証拠、記録、発言、立場――

すべてが正当性を競い合う、“公的な論戦”です。


どちらがより倫理的か。

どちらがより制度を理解しているか。

そして、どちらの視点が未来を照らすのか。


一言一言が重いこの章、ぜひご注目ください。

 報告会の開会を知らせるチャイムは、意外なほど軽やかだった。

 まるで、今日の場が“通常業務の延長”であるかのように錯覚させる響き。

 だが実際には、この会議室に集められた約30名は、誰ひとりとして「いつも通り」を期待してなどいなかった。

 桐生会が法人内外に向けて開いた初の技術評価報告会。

 しかも、議題の中心に据えられているのは、“記録に残らないエラー”と、“責任が漂白された契約構造”だ。

 

 会場中央の発表台に、陽斗が立っていた。

 白いワイシャツにネイビーのスラックス。

 緊張で手が少しだけ震えているのが、前列からも見てとれる。

「……今回、人工呼吸器の点検記録と実使用ログを突き合わせた結果、

 一部機器において、“オフ設定状態での加湿作動”が繰り返されていたことが判明しました。

 これは、本来ならば検知・警告されるべき事象であり、しかし実際の運用記録上では、“正常作動”として処理されていたものです」

 スライドが、YUNOによる分析グラフに切り替わる。

 緩やかに右上がりの温度曲線と、真横に停滞したPEEP値――明らかに異常な組み合わせ。

 会場の一部から、低く息を呑む音が聞こえた。

 

 陽斗は、次のスライドへ進みながら言葉を続けた。

「……この記録は、“誰のミス”でもありません。

 けれど、“誰も気づかなかった”まま、使われ続けていた。

 そのこと自体が、“構造の欠落”だと考えています」

 

 報告が終わり、拍手はなかった。

 だが、それは否定ではなく、“静かな咀嚼”の時間だった。

 

 司会が合図を送り、次の登壇者が紹介される。

「続いて、久我メディカル 営業本部 統括部長、久我 悠臣様より、

 本件に関する補足見解をいただきます」

 

 登壇した男は、よく通る声で名乗った。

「久我です。

 本日は、当社製品に関するご意見・ご指摘を受けての補足説明の機会をいただき、感謝申し上げます」

 その声は滑らかで、表情には“営業”の仮面が貼り付けられていた。

 

 「……まず、当社の人工呼吸器は、日本国内200を超える医療法人で継続使用されております。

 技術安全基準、構造耐久性、検査通過率、いずれも法定基準を大きく上回っております。

 また、保守契約におけるオプション設定に関しては、すべて“法人様の選択に基づく”形で行っており、

 強制的な契約誘導、いわゆる“バンドル条項”等の指摘は一切当たりません」

 

 数値と資格を盾に、久我悠臣は語る。

 それはまさに、“正しいことだけを語る言葉”だった。

 

 「……なお、報告資料にて提示されたログ構造、およびアルゴリズム記述につきましては、

 当社保有特許群との類似性が一部認められるとの社内指摘があり、現在精査中です。

 こちらに関しては、後日、法人の法務担当様と個別にご相談させていただければと考えております」

 

 その言葉に、会場の温度がわずかに下がった。

 “合法的な調査中”という仮面をつけながら、確かに“矛先”を振るっている。

 YUNO、そして私に向けて。

 

 彼のスライドは出なかった。

 彼はただ、“言葉の構造”だけで、場を支配しようとしていた。

 

「……最後に、これは個人的な感想ですが」

 不意に、久我悠臣が目線を上げる。

 その視線が、まっすぐにこちらを射抜いた。

「かつて、ある人に“技術にだけ興味があるのね”と笑われたことがあります。

 そのとき、私は“どれほど技術が尊くても、人の手を離れた瞬間にそれは独りになる”と気づきました。

 私は、機械を作って売る側です。けれど、信じているのは、“人に届く言葉”です。

 ――そして、それが今、足りていないのではないかと、私は感じています」

 

 会場が静まった。

 発言に名指しはなかった。だが、そこには“過去を知る者にしか使えない語彙”があった。

 

 私は、表情を変えずに席を立った。

 この応酬は、始まったばかりだ。

 

 私は、音もなく壇上に上がった。

 マイクの前に立つと、背後のプロジェクターが自動で明転する。

 YUNOのロゴが、控えめに中央に浮かび上がる。

「桐生結鶴です。

 本日は、現場ログと構造分析に基づき、補足を申し上げます」

 

 会場は静まり返っていた。

 誰も咳払いすらしない。

 久我悠臣の言葉が、まだ空間のどこかに残響のように漂っている。

 

「まず、私は久我メディカル様が開発されてきた人工呼吸器の技術力を、否定するものではありません。

 多数の臨床現場で、その信頼性が支えとなってきた事実は、評価に値します」

 一礼してから、私はスライドを一枚めくった。

「ただし、信頼という言葉は、“無謬性の代名詞”ではありません。

 信頼とは、“改善され続ける仕組み”にこそ宿るべきだと、私は考えています」

 

 スライドには、先日提示されたログのグラフ。

 その下に、設計仕様書の一節が表示されていた。

『当該異常は、サブモジュール処理の範囲外であり、記録対象には含まれない』

〔KGM-Resp 220型 仕様書・附属細則 4-2〕

「こちらは、実際に報告された事象に関連する製品の仕様文です。

 つまり、“予兆とされるデータ”は、そもそも記録の対象になっていない。

 これは、“見逃された”のではなく、“見えない構造に置かれていた”ということです」

 

 会場の数人が、資料に視線を落とした。

 先ほどまでの“発言の空中戦”が、いま、“紙と線”の世界に引き戻されている。

 

「次に、契約構造です」

 画面が切り替わり、契約条項の一節が表示された。

『補助モニタリング機能に基づく診断データは、法人側判断により管理責任を持つ』

『当社は出力ログに異常値が存在しない場合、予測損害に関する責任を負わない』

「これは、先ほどの“法人様の選択”という表現と、実質的に同義です。

 ですが実際の現場では、“この補助機能があることすら伝えられていない”という証言が複数あります。

 選べない選択肢は、“選択”とは呼べません」

 

 私は一呼吸おいて、スライドを閉じた。

 

「YUNOは、誰かを責めるための装置ではありません。

 “何が起きていたかを遡る道具”であり、

 “これから同じことが起きないために、何を見えるようにするか”を考えるための設計です」

 

 そこでふと、久我悠臣が小さく笑みを浮かべた。

「……なるほど。

 ただ、あなたの語る“透明性”は、あまりに理想的すぎるようにも感じますね。

 我々のように、数百法人を相手にする場合、どれほど丁寧な構造も、最後はコストと効率の中で決まってしまう」

 

 その言葉は、正論の仮面をかぶった“鈍刀”だった。

 実際に現場で日々機器を扱っている者にとって、それは“現実”の名を借りた拒絶と同義だ。

 

「それは、“効率”と“命”を同じ尺度で測るということですか?」

 私の声が、少しだけ硬くなる。

 久我が答える前に、私は続けた。

「現場が必要としているのは、“疑いをかけるための証拠”ではなく、“ためらいを消すための記録”です。

 YUNOの導入で“判断が早くなった”“責任の押しつけ合いが減った”という報告が、既に複数上がっています」

 

 久我の笑みが、少しだけ揺れた。

 感情ではなく、“反論の手札が崩れかけた”時に現れる僅かなほころび。

 

 会場の温度が、静かに傾き始めていた。


 壇上から降りた久我悠臣に代わり、

 会場後方からひとりの男がゆっくりと歩み出てきた。

 細身のスーツ、低く抑えた声、そして感情の起伏を抑えた、整いすぎた物腰。

「久我メディカル顧問、村井と申します」

 その名は、法人内でも噂に聞く存在だった。

 医療機器メーカー法務に特化した弁護士。

 数々の係争案件を“提訴前和解”で収めてきた調整型の交渉人。

 彼の登場により、空気が一段階締まった。

 それは、対話ではなく、“証明の応酬”に移る合図だった。

 

「本日提示されたログ資料と機器仕様の照合分析、大変興味深く拝見いたしました。

 ただ、法的視点から申し上げるならば、以下の2点について慎重な検証が必要かと考えております」

 村井は、指を2本立ててから、淡々と続ける。

「第一に、提出されたログ記録は、法人管理端末および機器から個人が抽出・解析したものと伺っています。

 この場合、“データの真正性”と“改ざんの可能性”を担保する立場が不明です」

 会場に、一瞬だけざわめきが走った。

 それは、“内部者の証言”に潜む脆さを突く言葉だった。

「第二に、機器構造に基づく予兆検知ロジックに関して、現時点で国の医療機器認証制度に準拠した形での評価はなされておらず、

 したがって、“判断補助ツール”としての法的位置づけは、極めて限定的であると考えられます」

 

 私は、声を発する前に、息を整えた。

 この種の論法は、“中身の正否”ではなく、“語る資格”を削るための刃だ。

 

「……村井先生のご指摘、拝聴しました。

 まず一点目、“ログの真正性”に関してですが、

 当該データには日付・端末ID・内部時刻・圧力変動値の連動記録が含まれ、

 いずれもYUNO開発当初から設計された形式で、原本データと改ざん履歴なしのハッシュ記録が一致しています。

 また、第三者検証機関への提出もすでに申請中です」

 

 村井の眉が、わずかに動いた。

 “予想よりも準備されている”という表情。

「二点目、認証の有無についてはご指摘の通りです。

 しかし、YUNOは“診断装置”ではなく、“記録補助システム”として稼働しており、

 既存機器の代替を目的とした設計ではありません。

 “人が行っていた振り返り作業”を、“見える形”で支援するに過ぎません」

 

「なるほど。……ですが、“見える”というのは極めて重い責任を伴います。

 誤解を与えるデータが、現場に混乱をもたらした場合、その責任はどこに帰属しますか?」

 

 私は、言葉を選んだ。

「YUNOの導入ガイドラインには、“ログは診断を補完するものであり、判断そのものではない”と明記しています。

 そして責任の所在は、“意思決定を行った者”にあります。

 けれど――“意思決定の前に、何が見えていたか”を残す責任は、全員にあります」

 

 その一言に、場の空気がわずかに揺れた。

 村井は無言で頷き、席に戻った。

 弁護士としての反論はそこまでだったが、それは「退いた」のではなく、「次の矢を待つ」という沈黙だった。

 

 私は、自席へ戻る途中、ふと感じた。

 今の一連の応酬は、“事実”に対してではない。

 “語る私”を試すために、投げられた問いだった。

 

 証拠も、構造も、意味を成さない場面がある。

 それは、“言葉の重さ”を試される瞬間。

 私は、その重さに耐えられる存在でなければならなかった。


 会場に沈黙が流れていた。

 久我悠臣の冷笑。

 顧問弁護士・村井の論点ずらし。

 そして、結鶴の冷静な反論。

 その応酬がもたらしたのは、“正しい言葉”が交錯しながらも、

 「この場で誰がどこまで踏み込むか」を全員が測っているような、張り詰めた静寂だった。

 

 その中で、静かに立ち上がる人物がいた。

 医療技術本部副部長――阿久根俊彦。

「……僭越ながら、私からも一言、補足させていただきます」

 

 彼の声は、熱を帯びていなかった。

 だが、その落ち着いた調子の中に、“個人の意思”として話していることがはっきりと感じられた。

「私は、技術本部としてYUNOの初期ログを検証した立場にあります。

 今回提示された予兆データについて、当初は疑念もありました。

 しかし、運用記録、端末認証、デバイスログの照合において、改ざんや不整合の痕跡はなく、

 複数の現場技師から“思い当たる節”として証言も得られています」

 

 会場に、また別の種類の沈黙が落ちた。

 それは、“情報”ではなく“人の言葉”が届いたことへの反応だった。

 

「一之瀬結鶴――いや、旧姓桐生結鶴氏は、

 医療法人の外部に立ちながら、契約・技術・記録の接点を示した。

 私たち内部の人間が、それに向き合わずして、何が“構造”を語れるだろうか」

 

 その言葉に、結鶴の背筋がほんのわずか、動いた。

 その直後だった。

 

「……では、私もひとつだけ、発言を許されますか」

 

 その声は、はっきりと、会場の空気を裂いた。

 登壇したのは、診療統括部長――桐生剛志。

 結鶴の兄であり、組織の“中枢に最も近い現場”に立つ医師。

 

「本日報告された人工呼吸器ログ、

 私が担当した急性呼吸障害の症例とも一致する部分がいくつかありました」

 会場の視線が一斉に剛志に集中する。

「PEEP未設定下での加湿作動による温度上昇――

 確かに“気づけなかった”。

 でも、それを“なかったことにする”のは、もっと罪深いと思う」

 

 剛志の言葉は、結鶴に向けられていなかった。

 だが、その背中が語っていた。

 「お前の出した記録が、現場に届いている」と。

 

「私は、このシステムが“完璧”だとは思っていません。

 でも、“間違えなかったふり”を続けるよりも、

 “間違えたことを記録できる仕組み”を選びたい」

 

 その一言は、報告会という“構造の舞台”に投じられた、

 医師という立場からの小さくも重い異議申立てだった。

 

 結鶴は、剛志の背中を見つめながら、何も言わなかった。

 だが、その目には確かに、“信頼”が一滴だけ宿っていた。

 

 剛志の発言が終わると、会場はしばらくの間、沈黙を保っていた。

 その沈黙は、誰かが「次の言葉」を口にするのを、待っているようだった。

 空気が緩やかに動き出していた。

 “正論の場”から、“選択の場”へと。

 

 私は、ゆっくりと手元のスライドリモコンを握り直した。

 再び前へ出ると、最後の資料に画面が切り替わる。

 スライドには、一枚の写真が表示されていた。

 ICUの人工呼吸器の画面。

 そこに映る数字と、モニターの端に貼られた小さなメモ。

 〈夜間 PEEP 設定、朝確認済〉という手書きの走り書きだった。

 

「これは、ある病院で実際に使用されていた機器と、その“記録”です」

 私はそう語りながら、少しだけ呼吸を整えた。

「このメモを書いた看護師は、

 “何かが起きたとき、自分の責任になるかもしれない”と考え、

 あえて残したのだそうです。

 でも実際には、システム上、このメモの存在はどこにも残りません。

 誰がいつ、どの設定を確認したか――それは“記憶”にしか残らない」

 

 スライドが切り替わる。

 YUNOのデモ画面。

 メモではなく、操作と判断の履歴がタイムスタンプ付きで記録されている。

「YUNOが記録するのは、“手”の動きと、“思考の痕跡”です。

 それを、“責任追及のため”ではなく、“継承のため”に使いたい」

 

 結鶴の声は、淡々としていた。

 けれどその淡さが、逆に、芯の強さを浮き彫りにしていた。

「医療における“記録”とは、

 何かが起きたあとに使われるものではなく、

 “起きる前に備えるため”に必要なものだと、私は信じています」

 

 ゆっくりと視線を巡らせると、

 誰もが、資料やスライドから目を逸らしていなかった。

 

「“責任”という言葉が、誰かを縛る鎖ではなく、

 “安心して判断するための盾”になるように――

 YUNOは、そういう仕組みとして設計されています」

 

 誰かが、小さく咳払いをした。

 それだけで、空気が揺れた。

 

 「以上で、報告と提言を終わります。

 本日は、ありがとうございました」

 

 静かに頭を下げたとき、会場のあちこちからわずかに拍手が起こった。

 それは決して大きな音ではない。

 だが、どこか“了解”にも似た音だった。

 誰かが何かを受け取ったときの音。

 今すぐには動けないが、否定できないときの音。

 

 拍手の中、私は壇上からゆっくりと降りた。

 

 報告会は、終了に向かっていた。

 だが、“決着”は、まだついていない。

 

 報告会の締めは、理事会広報担当の短い挨拶だった。

 形式的な礼辞が読み上げられ、資料の回収が始まる。

 だが、その動作のひとつひとつが、どこかいつもより慎重に見えた。

 誰もが、この会が“ただの形式”で終わらなかったことを、薄々感じていた。

 

 私は資料をまとめ、席を立とうとした。

 そのときだった。

「……君って、本当に変わらないんだな」

 声が背後から落ちた。

 聞き慣れた、しかし滅多に“素”を見せない声。

 久我悠臣。

 

 私は振り返らなかった。

 けれど、その足音が私の隣で止まる気配がした。

「昔、あの話が流れたとき。

 僕は、多少なりとも“技術の人間同士”なら分かり合えると思ってた。

 でも、君は最初から――“構造そのもの”にしか興味がなかった」

 

 言葉に棘はなかった。

 むしろ、どこか脱力した呟きに近かった。

 

「“結婚じゃなくて記録に興味があるの”――君、そう言ったよな。

 あの時は笑ったけど、いま思えば……あれが君の“本音”だったんだろうな」

 

 私は、静かに息を吸い、言葉を返した。

「“構造にしか興味がない”わけじゃない。

 でも、“構造に嘘があるまま”で、誰かと関係を結ぶのは、私にはできない」

 

 それは、かつての自分への答えでもあった。

 当時、誰にも言葉にできなかった本心を、

 いまようやく、声に出せるようになったのだ。

 

「……だから、あの時点で正しかったんだな、断られて」

 久我の声が、一瞬だけ素の響きを帯びた。

 

 私はそこで初めて彼の方に向き直った。

 真っ直ぐではなく、半身で。

「私は、“誰かに勝ちたくて”戦ってるんじゃない。

 ただ、“誰にも負けない記録”を残したいだけ」

 

 久我悠臣は、ほんの一瞬だけ眉を動かした。

 それは、悔しさか、納得か、それとも、記憶の中の何かだったのか。

 そのまま彼は言葉を継がず、足音も立てずに会場を後にした。

 

 残された私は、誰もいなくなった壇上のプロジェクターを見上げていた。

 薄く残るYUNOの画面は、もう消えかけていた。

 だが、それでもなお、静かに光を帯びていた。

 

 報告会が終わってから三日。

 桐生会内部の空気は、目に見えないところで大きく揺れ始めていた。

 法人内イントラネットには、

 《技術報告会の資料閲覧申請件数:157件》という数字が並ぶ。

 これまで、こうした技術関連の報告書が

 一度の週末で三桁を超えて閲覧されたことなど、なかった。

 

 阿久根から届いたメッセージは、静かにその事実を伝えていた。

件名:理事会協議動きあり

本文:

「“技術再評価委員会”の臨時設置が、来週の理事会で審議に入る。

YUNO含む『非正規記録技術』の法人内活用可否を、正式に検討対象とする流れ。

情報はまだ流さず。広報の動き次第で、こちらから連絡する」

 

 私は、研究室でその文面を読み、

 YUNO-βの起動画面をじっと見つめた。

 波形は、安定していた。

 まるで、心臓のように淡々と動いていた。

 

 さらにその夜、杉原からも連絡が入った。

 法務室の冷静な男は、珍しく絵文字なしの文面で端的にこう記した。

「“一之瀬”の資料は、契約見直し時の議案資料セット候補として選定済。

理事長に正式進言される流れが生まれた。

久我側からの反論書式は、まだ出ていない」

 

 すなわち――

 今、桐生会内部で「構造」が初めて“語られるに足る対象”とされ始めているということだった。

 

 ただし、それは承認ではない。

 まだ、正式な評価すら下されていない。

 だが、“否定できなかった”という事実が、何より重い。

 

 その翌日。

 法人本部の理事会控室に、祖父・清澄の秘書が資料を運ぶ姿があった。

 差し出されたファイルの表紙には、

 《再評価対象技術一覧》の項目の中に、小さくこう書かれていた。

【記録支援装置YUNO】:参考資料提出者 一之瀬結鶴

 

 その名を見たとき、祖父は資料を開くこともせず、ただ指を組んで言った。

「……あの子が、構造を問いに来るとはな」

 その声に、感情の色はなかった。

 だが、そこにはもう“他人行儀な評価者”の声音はなかった。

 

「構造の問いは、“異端”ではない。

 それを、彼らにどう伝えるか――

 我々の側の試練かもしれんな」

 

 祖父の背中は、静かに椅子に沈んだ。

 まるで“あるべき言葉”を選ぼうとしているように。

 

 その夜、結鶴は研究室で一人、

 次に備える資料の整理を終え、端末を閉じた。

 YUNOのロゴが消える直前、画面に一瞬だけ浮かんだ小さなメッセージ。

「更新ログ:共有対象:技術再評価委員会」

 

 記録が、ようやく“語られる場”へ届き始めていた。


 週末、研究室には人の気配がなかった。

 実証実験に使用していた旧型YUNO端末が、片隅で静かに眠っている。

 波形は止まり、ログは凍結されている。

 だがその中には、報告会で提示した記録がそのまま封じられていた。

 

 私の手元にある小さな封筒。

 そこには、名刺が数枚だけ収められていた。

 一之瀬結鶴。

 司法書士、臨床工学技士。

 そして、新たに加えられた一行。

医療記録・契約技術顧問(桐生会再評価委員会 提出協力者)

 

 名刺の肩書きが、私自身を変えるわけではない。

 けれど、“誰に何を語る立場か”を外に示すには、時に言葉より強い。

 

 「その肩書き、けっこう重いんだろ?」

 振り返ると、陽斗がカップを片手に立っていた。

 ミルク入りの安い缶コーヒー。研究室で彼が選ぶのは、いつもこれだった。

「……覚悟がいるのは、たぶんこれから」

「じゃあ、今までのは?」

「“逃げない”って決めたところまで」

 

 陽斗は微笑むと、冷蔵庫の音にまぎれて一言だけ呟いた。

「そっか。それなら、逃げなかったね。ちゃんと」

 

 私は、少しだけ黙ってから言葉を返した。

「私、何かを“信じた”のは、今回が初めてだった。

 データでも、人でもなく、“構造が変わるかもしれない”っていう可能性を」

 

 研究室の空気が、ゆっくりと呼吸をするように動いた。

 

「……一之瀬さん」

 陽斗が、ふいに名前で呼んだ。

「この肩書き、俺は“あなたにしか似合わない”と思う。

 でも、いつか、“もっと別の肩書き”も名刺に入れてみてほしいな」

 

 その言葉には、説明のない“可能性”が含まれていた。

 それが何かを、私はまだ聞き返さなかった。

 

 ただ、名刺を一枚、そっとデスクの隅に置いた。

 そこに灯る三つの肩書きが、今日の私の輪郭だった。

 

 物語は、まだ終わっていない。

 けれど、少なくともこの一章は――戦い抜いた。

 

 次の扉を叩く準備は、もうできている。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


第12章「応酬の法廷」は、主人公・結鶴が資格と記録を武器に法的な場で戦うという、彼女の核心部分が試される章でした。


対する久我は、制度を完璧に把握し、

あくまで“正しさ”ではなく“維持と秩序”を選ぶ者。


この章の本質は、どちらが悪いかではなく――

どちらが社会を動かす「力」として選ばれるか、という問いです。


結鶴の言葉が誰に届き、何を動かすのか。

次回、いよいよ裁定が下されます。

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