第11章 証明の部屋
第11章「証明の部屋」では、ついに物語が「公式の場」での衝突に入ります。
前章で結鶴が放った“咆哮”は、
記録と契約に基づく戦いを、静かに、しかし決定的に前進させました。
だが、対するは“執行者”久我 悠臣。
論理と合法性において一切の抜けを許さない存在。
彼が立ちはだかるこの場は、単なる対話ではなく――裁定の間。
記録か制度か。
資格か資本か。
真に証明されるべきものとは何かが問われる、静かな決戦の始まりです。
理事会当日。
桐生会本部棟の12階、ガラス張りの役員会議室は、外の曇天をそのまま室内に引き込んだかのような、淡い緊張を漂わせていた。
革張りの長椅子がぐるりと囲む中央のオーバルテーブル。
その一角、議題用資料が配布される席の端に、私の名はなかった。
ただ、白紙の名札がひとつ――“傍聴者”として、空白のまま置かれていた。
「結鶴、こっちだ」
私に気づいた阿久根副部長が、小さく手で示す。
その隣、技術本部の末席に置かれた椅子が、今日の私の“居場所”だった。
「形式上は『補足説明者』として扱う。質問が飛んだ時のみ、答える権限がある。
ただし、想定以上に追及される可能性もあるから、覚悟を」
「はい。想定済みです」
私が持ち込んだのは、YUNO-βのミニ端末と、事前にまとめたプレゼン資料20ページ。
技術、契約、現場記録、そのすべてを図解し、専門用語の横に“人の言葉”で説明を添えた。
「肺を潰さないために、機械は何を見ているか」
「誰が“動かさないこと”を選び、誰が“見落とし”を許してしまうのか」
YUNOのログが語るのは、ただの数値ではない。
それは、静かに、だが確実に、命に近づく“兆しの証明”だった。
会議開始の時刻になると、重厚な扉が音を立てて閉じられ、室内が一気に静まった。
理事長・桐生清澄が、中心席に腰を下ろす。
隣には経営戦略室長・二瓶、財務担当理事、複数の医師理事、そして看護統括と技術本部の代表者。
外から見れば、それは何の変哲もない法人の会議体制だ。
だが、ここに揃っているのは、桐生会という“閉じた秩序”を守り続けてきた者たちだった。
「……本日、第6議題にて追加された“技術提言資料”について、技術本部から報告を受ける。
補足説明者として、同席者に発言を認める」
祖父の声は、淡々としていた。
その中に、私への“私情”は一切混じっていなかった。
「まずは、阿久根副部長より概要を」
「はい。今回、匿名にて提出された現場技術者からの提言資料は、
YUNOと呼ばれる予兆検知システムを用い、人工呼吸器の過去ログと契約上の保守不履行を照合したものです。
特に、久我メディカル社製の旧型機器において、保守義務違反の可能性が高い記録が複数存在しております」
会議資料が、一斉にめくられる音がした。
その中の数ページ――“温度ログの異常”と“PEEP圧の未設定履歴”の図が、全員の前に広げられている。
やがて、一人の医師理事が口を開いた。
「……これは、事故記録か?」
「未発生のものも含まれています。
ただし、機器が“正常と判断された状態”で使用された記録が、
結果として患者の呼吸不全と時間的に一致している例があります」
「なら、それは医師側の判断ミスでは?」
そう口を挟んだのは、別の理事――久我メディカルとの連携を進めてきた外科部長だった。
「なぜ機械のエラーを“契約構造”の問題にする必要がある?
それは医療者が、現場で判断しきれなかっただけだ」
私は、立ち上がった。
ここで、黙っていては何も変わらない。
「失礼します。
このシステムは、あらかじめ“患者の呼吸抵抗”と“装置側の熱制御”を突き合わせ、
異常な組み合わせ――たとえば、呼気圧ゼロでの加湿作動――を、統計的に予測するものです。
つまり、起きる前に、“起きうる操作”を示すためのものです」
会議室の空気が、ぴたりと止まった。
私の声は小さい。
だが、“技術”と“法”の両側から組まれた言葉には、揺るぎがなかった。
会議室の空気が、わずかにざわめいた。
私の声が発された瞬間、目線を上げた者、伏せたまま資料を指でなぞる者、そして、明らかに表情を曇らせた者――そのどれもが、“予想していた名”と私の姿を重ねようとしていた。
「……君は、桐生結鶴か?」
二瓶室長が、無表情のまま尋ねた。
声には驚きも怒りもなかった。むしろ、“確かめるだけ”の淡白な確認だった。
「はい。今回の資料は私が構成し、YUNOというシステムと、臨床工学技士としての経験を元に整理したものです。
保守契約の実務と、実際のログの不一致は、技術的にも法的にも重大な懸念を生じさせます」
私は、そう静かに答えた。
「だが、君は医師ではない。何をもって“危険”と判断しているのかね?」
今度は、法人顧問弁護士の小柄な男性が口を開いた。
その声には、“場違いな存在”に対する警戒と侮りがあった。
「私は、臨床工学技士として人工呼吸器・透析・人工心肺装置の保守管理に従事してきました。
さらに、法科大学院にて医事法・契約法を学び、司法書士の資格を有しています。
つまり、“医療機器の構造”と“それを囲む契約の文言”を、両方の視点から照合できる立場です」
その言葉が放たれた瞬間、会議室にまた小さな波紋が走った。
一部の理事が目を上げ、資料に目を戻し、何かを見直すような素振りを見せた。
「技士にして法学有資格者……それは確かに珍しい経歴だ。
だが、久我メディカルの製品は、国内外で高い実績を上げている。
仮に一部の機器に“経年劣化”があったとして、それを法人全体の契約判断に結びつけるのは、やや乱暴ではないかね?」
静かに、だが明確な反論が続いた。
言葉の主は、理事のひとり、総務理事の御園だった。
彼は企業出身で、数字と損益で語ることを好むタイプだ。
「御園理事のご指摘、もっともです」
私は一礼し、プロジェクターのページをめくった。
画面に表示されたのは、YUNOが検出した“3日前の予兆データ”。
心拍数の変動と換気量の相関から、PEEP未設定時に温度が上昇した事例を示したものだった。
「このログは、ある市立病院で実際に使用された久我製装置の稼働記録です。
加湿モード起動時にPEEPがゼロのまま放置され、温度は通常域を越えて上昇。
患者のSpO₂は93→89→85%と、低下を始めていました。
ですが、点検記録には“異常なし”と記されています。なぜなら、“異常を検知する仕組み”が契約上、オプション設定になっていたからです」
プロジェクターが切り替わり、契約書のスキャン画像が表示される。
「第4条:点検義務は年2回とする。異常発見時は速やかに報告。ただし、オプションモニタリング装置に未加入の場合は、当該責任を負わない」
御園理事の目が細まった。
「つまり……“見落とした”のではなく、“見なくてよかった”とされていた?」
「はい。“仕組みの構造”として、そう設計されていた可能性があります」
資料のページをめくる音が、再び室内に満ちた。
誰も、軽口を叩かなくなっていた。
そのとき、久我メディカル側の出席者が初めて口を開いた。
「当社は、本法人との契約内容に基づき、適切な機器納入とサポートを行ってまいりました。
本日提示されたログについては、当社の記録上、同一機器の使用とは確認できておりません」
「それでは、製造番号をご確認いただけますか?」
私は、資料の末尾に記したシリアルナンバーを指し示した。
久我の担当者の目が、わずかに揺れる。
「こちらは、……確かに弊社の旧型シリーズですが、当時の点検内容については、担当支社での確認が必要です」
「では、確認が済み次第、ログ記録と照合可能かどうか、正式な返答をお願いできますか?」
「……善処します」
“善処”――
その言葉が意味するのは、すなわち、“すぐには認めない”という意思表示だった。
だが、十分だった。
“逃げの言葉”が出るまで、ここまで辿り着けたのだ。
理事会の中央、祖父は依然として沈黙を保っていた。
だがその瞳は、数分前よりわずかに深く、資料を見つめていた。
「静かに進めてください」
理事長の一言が、会議室にわずかに乱れかけた空気を抑えた。
その声は抑揚がなく、あくまで“議事進行”としてのものだったが、重さを孕んでいた。
私は席に戻り、YUNO端末を膝の上に置いたまま、深く息をついた。
この“証明の部屋”では、感情は不要だ。
必要なのは、根拠と構造――事実を、冷静に、正しく伝えること。
だが、静かに広がる視線の重みは、どこか肌を刺すような感覚を残していた。
「……私から、一つだけいいですか」
意外な声が、背後から響いた。
看護部長・三島里絵。
かつて臨床工学部と対立したこともある厳格な人物だ。
しかしその声音には、いつもの棘ではなく、柔らかい警戒が含まれていた。
「PEEPの設定ミスが継続していたという記録……現場の看護師は、その兆候に気づけたと、あなたはお考えですか?」
私は、わずかに間をおいて応えた。
「現場単独では、厳しいと思います。
換気設定は医師と工学技士が担当し、看護師はそこに触れる権限を持ちません。
YUNOは、こうした“職域の断絶”によって取りこぼされる情報を、再び統合するためのものです」
三島部長は、ほんの一瞬、目を細めた。
「……患者の声を、機械で拾う、ということね。
なら、その“声”を拾わなかったのは、私たち全員かもしれない」
会議室の一角に、わずかな波が広がった。
だが誰も、それを打ち消すことはできなかった。
「そもそも、現場はYUNOの存在をどう受け止めているのか」
今度は医師理事のひとりが問う。
若手外科系の理事で、これまでほとんど発言をしていなかった人物だった。
「名前を伏せたまま、過去に実施した院内検証では、呼吸器管理部門で“異常察知”のログ出力精度が93%という結果が得られています。
また、現場技師からは、“ログを見返すだけでも自分の癖に気づけた”という声もありました」
「つまり、技師教育の補助にもなる」
「はい。“監視する機械”ではなく、“記録し、共に振り返る装置”として機能するよう設計しています」
短い沈黙のあと、何人かの理事が互いに目を交わし合った。
私の資料ではなく、いま私が発した言葉にこそ、彼らは反応していた。
「……一つだけ確認したい」
祖父がようやく、視線をまっすぐに私へ向けた。
「君は、今回の提言によって、“誰かを処分させたい”のか。
それとも、“仕組みを変えたい”のか」
その問いは、答えを急ぐものではなかった。
だが、“どちらに寄ればこの者は危険か”を試すような、見極める問いだった。
私は、一度ゆっくりと息を吐き、言葉を整えた。
「私は、“仕組みの穴”に責任を押しつけることで、個人を断罪するつもりはありません。
けれど、その構造をこのまま維持することは、“次の犠牲”を容認することになる。
ならば私は、構造を問います。再発防止とは、“誰の責任か”ではなく、“どう防ぐか”にかかっているからです」
祖父は、何も言わなかった。
ただ、軽く砂時計を回し、その砂が静かに落ち始めた。
時間は、わずかに動き始めた。
会議室の空気は、言葉を追いかけながら、徐々に形を変えつつあった。
明確な同意や賛同ではない。
だがそこには、少なくとも「一度、立ち止まって考える」という空白が生まれ始めていた。
しかしその刹那、それを断ち切るかのような声が飛ぶ。
「だが、我々は“現場の感覚”では動けない。
あくまで“数値”と“実害”がなければ、契約見直しには応じられない」
発言者は、外部理事であり、久我メディカルとの取引窓口にあたる調達統括の梅沢だった。
彼の肩書は“中立”だが、その実、ここ数年の大型契約において“久我との調和”を旗印に動いていた人物だ。
「提案には耳を傾けるが、これは“事故”ではない。“予兆”だ。
もしもこれが正当な判断材料となるなら、あらゆる製品は排除されてしまう」
理事席に、再び緊張が走る。
「そうだ」という目線と、「そこまで言うか」という揺れが混じり合う。
私は、席から再び立ち上がった。
「梅沢理事のご意見は、もっともです。
ただし、私たちが示しているのは、“機器の不備”ではなく、“責任の所在が希薄になる構造”そのものです」
プロジェクターの画面が、最後のスライドに切り替わった。
タイトルは、たった一行。
『責任の名前が消える契約書』
スライドには、ある契約文の断片が表示されていた。
『本契約は委託形式とするため、納入後の装置稼働に関する責任は原則として法人側が負うものとする。
ただし、装置の不具合が記録上確認されない場合には、当社は責任を免れるものとする。』
「この契約条文は、7年前に桐生会と久我メディカルが交わした文書の一部です。
“記録がなければ責任を負わない”。
では、その“記録”を誰が残すのか?
残されなければ、“壊れていても壊れていない”ことになる。
これは、患者の命に関わる機器において、決して許されてはならない構造です」
スライドを切り替える。
そこには、人工呼吸器のエラー発生直前のログ――
PEEP圧ゼロ・加湿ON・温度上昇、という組み合わせの折れ線グラフが示されていた。
「このログが示すのは、“問題を記録しない仕組み”の中で、何が起きていたか。
そして、誰もそれを“見ないまま進んでしまった”という事実です」
会議室に、再び沈黙が落ちた。
今度は、誰もページをめくろうとしなかった。
「記録がなければ、誰も責任を問われない。
けれど、患者は“呼吸できなかった”という結果だけを残す。
だから私は、YUNOを提案したのです。
“過去の証拠”ではなく、“未来の予告”として、ログを残すために」
遠くで、砂時計の最後の粒が、静かに落ちた音がした。
そして――
「説明、以上です」
私は、画面を閉じた。
どこかから、深い息をつく気配があった。
理事たちの何人かは、手元の資料を伏せ、椅子に身を預けている。
目の奥に、さまざまな思いが交差しているのが見えた。
“変える”という言葉は、どこにもなかった。
だが、“考えさせる”という力は、少しだけ届いたように思えた。
会議は、予定された時間を十五分ほど超えて、静かに閉じられた。
議決はなかった。ただ、「資料の再検討」「第三者評価の導入可能性の検討」などの言葉が議事録に加えられただけだ。
だが、その曖昧な結びこそが、この会議が“後戻りできない地点”に差しかかったことの証だった。
私は、YUNO-βをバッグに収め、誰よりも早く会議室を後にした。
最後まで理事たちの顔を見なかった。
礼を述べる必要も、勝ち取るような拍手も、私には必要なかった。
本部棟を出て、冷たい風が頬を撫でたとき、私はようやく浅く息を吐いた。
背中がわずかに汗ばんでいたことに、そのとき初めて気づいた。
「……終わった」
けれど、それは終わりではなく、“始まりの地点”だった。
スマートフォンを取り出し、YUNOと同期されたバックアップを確認していると、ふいに通知が一つ、浮かび上がる。
差出人:剛志
件名:(なし)
本文:
「今日の発表、見てた。
一度、話せるか?」
私は、しばらくその短い文章を見つめていた。
剛志が私に直接連絡をしてくるのは、いつ以来だろう。
ここ数年は、挨拶も交わさず、視線すら合わない日々が続いていた。
彼は、家に忠実で、医師としても組織の中でのし上がっていくことを選んだ。
その彼が、“このタイミング”で何を語ろうとしているのか。
私は「はい」とも「いいえ」とも返さず、一行の返信を書いた。
「今から、研究棟のラボに戻ります。
もし話す気があるなら、そちらに来て」
送信してから端末を伏せる。
返事が来る保証はなかった。
だが、この章のなかでたった一度だけ、“家族”が扉をノックしてくれる気がした。
数時間後。
ラボの扉が、小さくノックされた。
私は振り返らなかった。ただ、言葉を投げる。
「開いてるよ」
入ってきた足音は、よく知っている音だった。
重すぎず、速すぎず、少しだけ不器用な歩幅。
「……鍵、かけてないのか?」
「ここは、何かを隠す場所じゃないから」
背後で、扉がそっと閉じられる音。
そして、彼の声が静かに落ちた。
「……父さんも、姉さんも、あんたのこと、もう止められないと思ってるよ」
私は振り返り、剛志の顔を見た。
そこには、いつもの無表情ではなく、どこか疲れたような、曇った表情が浮かんでいた。
その目の奥に、ごくわずかな“迷い”が見えた。
「今日の話、……全部が正しいとは、俺にはまだ言えない。
けど、見過ごせる話でもなかった。
俺が現場で見てきた症例と、君の出したログ、いくつかが一致してた」
私は、言葉を挟まなかった。
彼が何を言おうとしているのか、それを待つべきだと思った。
「次の理事会、出席できる立場にしてやる。
“家族枠”じゃなく、“現場医師”として、資料提出を通して。
条件は……まだあるけど、俺も、ちゃんと向き合う」
それは、兄・桐生剛志から差し出された、最初の“歩み寄り”だった。
それが信頼かどうかは、まだ分からない。
けれど確かに、彼は“耳を傾ける人間”の側に、一歩足を踏み入れたのだ。
「ありがとう。
でも、次に私が話すのは、“仕組み”だけじゃない。
“誰がその仕組みに沈んでいたか”――そこも、言うつもり」
「……分かってる」
言葉が少なくてもいい。
この夜に交わされた静かな会話が、きっと、次の動きの火種になる。
翌日午前。
研究棟のロビーに設置された掲示モニターに、法人広報部の更新情報が静かに表示された。
【お知らせ】
桐生会医療技術本部は、現在稼働中の各種医療機器に関して、
点検データと契約仕様に基づく検証作業を継続中です。
現段階では、使用中機器に重大な欠陥は報告されておりません。
ご理解とご協力をお願いいたします。
淡々とした文面。
一見、中立を装ったその言葉には、ある種の“牽制”の色が滲んでいた。
「……対応、早いな」
陽斗が、YUNOの更新作業をしながらぼそりと呟いた。
「“報告されておりません”って便利な言い方だよな。報告しなければ、何もなかったことになる」
「構造そのものを問うとき、最初に出てくるのがこういう“文面”よ。
内部向けに外面を整えるだけで、“対応してます”って顔ができる」
私は、淡く笑った。
だがその笑みは、冷たいものだった。
その日の昼過ぎ。
大学院の個人メールボックスに、一通の封筒が届いた。
差出人は、久我メディカル。
その社名だけで、少しだけ指先が冷える。
封を開けると、中には内容証明の写しが入っていた。
件名:照会および事前通知
本文:
貴殿が開発・使用されている“YUNO”と称されるプログラムシステムについて、
当社既存特許群との類似性に関し、技術的照会および確認の場を求めます。
必要に応じて、当社知財管理部より正式な協議依頼を行う場合がございます。
なお、本件は現時点において“侵害申立て”を目的とするものではありません。
文面は丁寧だった。
だが、その行間は明らかだった。
「これは……“黙ってろ”ってことか」
私は独り言のように呟いた。
この種の文書は、法的拘束力を持たない。
けれど、“訴訟に発展させることもできる”という含みが込められている。
それは、攻撃ではなく、“射程に入っているぞ”という警告だった。
私はYUNOの設計ログを呼び出し、時刻印入りの構成図を順に確認した。
予兆検知のアルゴリズムは、機器固有のエラーコードとは無関係に、
センサー群の相関パターンを自動解析する構造を持つ。
“似ている”という印象があったとしても、それは外見の話に過ぎない。
「……どこを突かれても、大丈夫な構成にしてある。
訴えてくるなら、受けて立つ。
だけど、これは――時間を奪う戦法」
陽斗が、手を止めてこちらを見た。
「つまり、“進めさせないための遅延”ってことか」
「ええ。理事会で空気が動いた直後のタイミング。偶然じゃないわ」
沈黙が、部屋を満たした。
久我メディカルは、動いた。
正面から反論するのではなく、“周縁”からじわじわと締めてくる。
数時間後。
再びスマートフォンに通知が届いた。
差出人:阿久根
件名:要注意
本文:
「久我が、外部監査法人経由で『匿名資料の信頼性調査』を依頼したという噂がある。
君の関与は、もう完全に前提とされている。
今後、大学の法務部門にも影響が出るかもしれない。対応準備を」
私は、短く返した。
「ありがとうございます。
情報公開の準備は整っています。
次は、“証拠”の信頼性を、私自身で示します」
逃げない。沈まない。
そう決めた日から、私はすでに“当事者”なのだ。
久我メディカルからの照会状が届いて三日後。
私は、大学院の技術移転オフィス――通称TLOに足を運んでいた。
そこは、研究者たちが開発した技術や知的財産を、
社会へ“移す”ための窓口だった。
そして、いまの私にとっては、守るための“防壁”でもある。
「YUNOの構造に関しては、既に設計ログ・プロトタイプ実装・試験記録を提出済みです。
今回の通知書にある“既存特許との類似”という主張には、技術的な実体がありません。
その点、専門弁理士の検証も終わっています」
向かいの席に座る担当者が、うなずく。
「確認しました。特許性と独自性の証明性は十分に高いです。
むしろ、あちらが何を“似ている”と主張するつもりなのか、まだはっきりしない。
圧力と見ていいでしょう」
私は、資料一式を整理しながら、もう一枚の提出書類を取り出した。
「こちらが、本題です。
YUNOの“臨床ログ評価”と“現場使用報告”を、大学名義で公的に発信します。
市立病院と市内2クリニックでの運用記録をまとめ、技術論文としてプレ公開する申請です」
「……思い切りましたね。
公式化すれば、匿名性はほぼ保てません。
大学の所属研究者として、矢面に立つことになります」
「その覚悟は、できています」
その日、YUNOは“内部ツール”から、“学術発表対象”へと姿を変えた。
静かに、だが確実に、“誰にも奪えない場所”へ進もうとしていた。
翌週。
医療技術本部内に貼り出された一枚の通知が、思わぬ波紋を呼んだ。
【機器再評価報告会のお知らせ】
法人内で使用中の人工呼吸器に関する実地評価報告会を下記日程にて開催します。
実例報告者:臨床技師・看護師・医師より各1名
一部の報告には、匿名協力者によるログ分析データを含みます。
報告内容は、今後の契約見直しおよび運用指針の基礎資料とします。
通知の下、すでに記名されていた発表者一覧。
その技師欄に、見慣れた名が記されていた。
【臨床技師】:藤枝陽斗(市立南医療センター)
私は、廊下でその名を見たとき、一瞬だけ立ち止まった。
だが、すぐに歩き出す。
その夜、研究室のドアを開けると、陽斗が何事もなかったように装置のメンテナンスをしていた。
「通知、見たわ」
「うん。ついに名前、出しちゃった」
「……大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ。胃、ずっと痛い。
でもね、誰かが“名前を出す”って、そういうことだろ?」
陽斗の声は、どこか冗談めいていた。
けれどその表情は、どこまでも静かで、揺れていなかった。
「俺さ、あんたがあの理事会で言った言葉、たぶん忘れない。
“仕組みの穴に責任を押しつけない”ってやつ」
「……ありがとう」
「俺は、自分が“どの穴の上に立ってたか”、やっと分かった気がするんだ」
YUNOの画面に、小さく起動の波形が灯る。
それはまるで、沈黙していた装置が、初めて“言葉”を発しようとするかのようだった。
その日、YUNOのデータベースには、新しいログが追加された。
発表に向けての“正規使用例No.001”。
記録者:藤枝陽斗。対象装置:KGM-Resp 220型。
小さな灯が、いま確かに、誰かの手でともされた。
報告会の前日。
夕刻を越えた頃、研究室に一本の電話がかかってきた。
表示された発信者名を見たとき、私は一瞬、受話器を取る手を止めた。
──桐生本邸・秘書室。
「……はい、桐生です」
《理事長が、お時間を作られるそうです。
今夜八時、本邸応接間にて》
返事はしなかった。
ただ、黙って通話を終えた。
夜八時。
私は再び、あの静かな部屋にいた。
砂時計と革張りの椅子。
あの日と同じ空気に、今日だけはわずかに湿り気が混じっていた。
祖父――桐生清澄は、以前と変わらぬ姿勢で腰を下ろし、私を見ていた。
だが、その目は、少しだけ“個人”の色を帯びていた。
「……YUNOの資料、一通り目を通した」
私はうなずいた。
「理事たちの何人かは、君の“やり方”には納得していない。
が、“仕組みそのものを見直すべきだ”という声も、出始めている」
「……はい」
「君は、桐生家の一員として動いているのか?」
唐突な問いだった。
だが、避けることはできない問いでもあった。
私は数秒だけ間を置いたのち、答えた。
「私は、桐生家の名前を使って戦ってはいません。
けれど、“桐生”という家が守ってきた現場と制度のすべてを、見てきた者として動いています」
「それは、“否定”ではなく、“継承”と見なしていいのか?」
「……桐生という名前のまま、私は構造を問い、再構築を提案します。
それが、私の答えです」
祖父の指が、静かに砂時計を回した。
白い粒が、音もなく落ちていく。
「明日の報告会、出席する」
その一言は、承認でも、支持でもなかった。
だが、明確な“責任”の言葉だった。
「君が何を語るか、それを聞かせてもらおう。
ただし――その言葉が、組織に耐えうるだけの重さを持っているか、見極めるのは私たちだ」
「……承知しています」
それだけを残し、祖父は立ち上がった。
私もそれに倣い、軽く頭を下げた。
その夜、屋根裏の自室に戻った私は、YUNOの起動画面を眺めていた。
薄い液晶の奥で、ゆっくりと波形が明滅している。
それはどこか、私自身の心音に似ていた。
“証明”という言葉が、誰かを傷つけることがある。
けれど、“証明しないまま”では、誰も救えないこともある。
明日、私は話す。
医師でも、経営者でもない、“一技士”として。
そして、桐生結鶴として。
静かに、目を閉じた。
YUNOの心音が、すぐそばで呼吸していた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
第11章「証明の部屋」は、これまでの“沈黙と告発の構図”に対し、
公式な論証と対論の場が設けられることで、物語がまさに制度の中核を問う段階へと移行した章です。
結鶴が提出した記録と知識は、
もはや“内部通報”ではなく“再構築のための根拠”となり始めています。
一方で久我は、制度と契約を守る者として、彼女を「外」に向かわせる力を強めていく。
この二人の対峙は、やがて理事会だけでなく、法人のあり方そのものに波及していきます。
物語は次章、いよいよ理事長との直接対話へ――
その前夜としての「証明の場」、どうかお見届けいただけましたら幸いです。




