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第10章 囮の咆哮

第10章「囮の咆哮」では、ついに結鶴が“反撃”の起点となる行動を起こします。

それは、守るためではなく、引きずり出すための咆哮ほうこう――

彼女が選んだのは、「囮になる」という強烈な決断でした。


攻めるための孤立。

守るための開示。

そして、証明のための挑発。


これは、沈黙の構造に対して放たれる、正面からの一撃です。

 YUNOの画面に、微かなノイズが走ったのは、午前0時を回った頃だった。

 ラボの灯りはほとんど落ち、蛍光灯の残光が薄く机上を照らしている。

 私はその揺らぎに即座に気づいた。

 それは、静かすぎるほどの“反応”だった。

「陽斗……囮ログ、誰かが食いついたわ」

 キーボードを叩く手を止めずに告げると、部屋の奥でスリープモードにしていたPCを開いていた陽斗が、わずかに顔を上げた。

「時刻は?」

「23時17分。桐生会のイントラから、しかも……管理者権限」

「誰か、見てるだけじゃない。構造まで突こうとしてるってことか」

 YUNOのログが指し示すのは、疑似的に改ざんを施した人工呼吸器の温度異常ログ――

 実際には実害のない擬似データだが、それを“証拠”と誤認させる仕掛けが施されている。

 目的はただ一つ。

 “誰が、何に焦っているか”を炙り出すための、静かな火種だった。

 

「端末IDは《M-STRATEGY-004》。経営戦略室の共有端末のひとつ。誰が使ったかの名指しは無理ね」

「でも、それってつまり……“誰かが所属部署の端末を使って、黙ってのぞいた”ってことだろ?」

「ええ。逆に言えば、これは“見てはいけないものにアクセスした履歴”として、記録に残る」

 私はモニターに表示されたアクセス履歴を別のログファイルに抽出し、署名付きで保存した。

 この情報は、いずれ誰かの“嘘”を引き裂く楔になるかもしれない。

 

 翌朝、研究棟に着いた私は、端末を立ち上げるよりも先に、メールボックスを開いた。

 一通のメールが目に留まる。

件名:来訪のお願い(非公式)

差出人:阿久根俊彦

本文:

「例の件、動きがあった。今日の18時、本部棟地下応接室にて。

詳細はそこで。念のため、データをすべて持参のこと」

 件名にも本文にも、名指しもキーワードもなかった。

 だが、“何を指しているのか”は、私たちの間で既に明確だった。

 

 その日一日、私はYUNOのログを再整理しながら、頭の片隅では“想定されうる反撃”の可能性を洗い出していた。

 誰が、いつ、どこで、何に手を伸ばすのか。

 その一手一手が、今後の戦場の形を決めていく。

 だが、あらゆる仮説を立ててもなお、ひとつだけはっきりしていたことがある。

 ──私たちは、既に“見つかって”いる。

 

 夕刻。

 私は本部棟の裏手にある地下応接室の扉を静かに開けた。

 簡素な家具と資料棚、密閉された空気。

 かつて、理事会の下書きが密かに交わされたこの部屋は、いまや“境界線”のような場所になっていた。

 先に到着していたのは、阿久根副部長。

 その隣には、一人の若い男性が座っていた。

「……紹介しよう。契約管理課の西田くん。

 例の“旧保守契約”のログ、そしてその更新記録の件を、私に持ち込んでくれた人物だ」

 

 西田、と名乗ったその青年は、二十代後半ほどの、地味で真面目そうな印象だった。

 ワイシャツの袖口が少しだけ擦れていたのが、かえって好感を呼んだ。

「初めまして。……あの、私、誰かに言わなきゃと思ってて……ずっと」

 西田は、手元のファイルをこちらに差し出した。

 それは、久我メディカルとの保守契約に関する過去8年間の文書ログ。

 その中には、次のような内容が並んでいた。

•点検日程が「報告済み」と記載されていながら、現場記録と一致しない

•契約更改時の文書に“電子署名なし”の項目が複数

•旧モデルの再利用に関する“口頭了承”の痕跡

「全部……“記録には残っていない”ことになってます。でも、現場には違和感が残ってて。

 特に、更新契約のタイミングで、“上と久我の営業が何か話してた”って証言が、技師課からも」

「その“上”って……?」

「経営戦略室の、二瓶室長です」

 阿久根がわずかに目を伏せた。

「……やはりな。久我の動きと、法人の発注タイミングがあまりに合致していた。

 西田くん、君が提供してくれたこのログは、決定的な“構造証明”になる」

 

 私は、手元のYUNO端末を開き、昨日の囮ログアクセス履歴を提示した。

 そこには、《M-STRATEGY-004》からの深夜アクセス記録が、はっきりと表示されている。

「西田さん、これが示すのは、経営戦略室の誰かが、“何かを恐れていた”という証です。

 つまり、こちらの“材料”が届いているということ。もう、対局は始まってるんです」

 

 西田は一瞬だけ目を閉じ、そしてゆっくりと頷いた。

「……僕は、たぶん、もうすぐ異動になります。

 でも、知ってしまった以上、黙っているわけにはいかなかった。

 誰かが現場の声を……“機械の異常”じゃなく、“仕組みの異常”を伝えなきゃいけないと思ったんです」

 

 私は小さく微笑んだ。

 “声”が、また一つ、届いた。

 

 夜。

 自室に戻った私は、YUNO端末の充電を確認しながら、ふとスマートフォンに目をやった。

 そこに、一件のメッセージが届いていた。

 差出人は、祖父の秘書室。

 本文は、ただ一行。

『理事長が、明日10時。お時間をいただきたいとのことです』

 

 私は数秒、その文面を眺めてから、静かにスマートフォンを伏せた。

 ──これは、招待ではない。

 ──通告だ。

 だが、それでも構わない。

 私は再び、YUNOの起動画面に視線を戻す。

 そこには、昨日と同じ鼓動のようなランプが、確かに灯っていた。

 

 明日、私は“あの場所”に行く。

 桐生家の応接間。

 再び、あの裁きの席に。

 だが今の私は、“ただの異端”ではない。

 この手には、技術がある。証拠がある。そして、声がある。

 

 ──もう、黙る理由はない。


翌朝──“審問”の間

 午前9時45分。

 桐生家の本邸に足を踏み入れると、廊下の空気が肌に張り付くようだった。

 応接間への道は、無音だった。

 使用人はひとりも姿を見せず、ただ時計の針の音だけが、家の静けさを計っていた。

「こちらへどうぞ。理事長はお待ちです」

 祖父の秘書が、いつもの無機質な声で案内する。

 開かれた扉の先に、祖父──桐生清澄が、深く腰を下ろしていた。

 机の上には、いつかと同じ、銀の砂時計と分厚い理事会資料。

 ただ、今その視線が向けられているのは、私だった。

 

「……座れ」

 その一言には、説明も、挨拶もなかった。

 私は黙って椅子に腰を下ろす。

 沈黙が、まず最初の“言葉”だった。

 

「お前の名前が……法人内でささやかれている。

 YUNOというシステム、契約上の異常を追う調査資料、そして――“匿名資料”」

 祖父の目は、怒気を含まぬまま、冷ややかに私を見据えていた。

「事実か?」

「……はい。資料は私が作成し、現場データを用いて組み立てました。

 医療技術と契約の構造、どちらにも明確な問題がありましたので」

 言い切った声は、わずかに乾いていた。

 だが揺れはない。

 

「理事会は、君の主観や“理想”では動かない。

 我々が見ているのは、経営の合理と、制度の維持だ」

「合理の下で黙殺されるものがあるなら、それは制度ではなく“隠蔽”です」

 

 応接間の空気が、わずかに動いた。

 それは祖父の指が、砂時計をゆっくりと回したときの風だった。

「……お前の考えは、桐生家の“思想”とは相容れない。

 だが、理解不能とは思わない」

 

 一瞬、祖父の瞳の奥に、言葉にしない何かが灯ったように見えた。

 それは、かすかな“懐疑”か、“期待”か――あるいは、“諦念”か。

「……理事会には、正式に抗弁の機会を与えよう。

 ただし、“その言葉”に責任を持つ者として、出席せよ。

 逃げ場はないぞ、結鶴」

 

「──逃げる気は、最初からありません」

 私は、まっすぐにそう答えた。

 

 帰宅後。

 屋根裏の自室に戻ると、YUNO端末にログイン通知が複数届いていた。

 ひとつは市立病院の機器稼働ログ。

 もうひとつは、桐生会の内部システムを監視するセキュリティ通知。

 だが、3通目は異質だった。

差出人:不明

件名:身の程をわきまえろ

本文:

「これ以上、首を突っ込むな。

これは“お前”の領域じゃない。

どんな資格を持っていようが、

お前は、医師じゃないんだよ」

 

 発信元は匿名。

 だが文体には、どこか“内輪”の気配があった。

「……内部か、それとも久我側か」

 私はメッセージを削除せず、証拠として保存した。

 “言葉”は、時に証明より鋭く人の本音を暴く。

 

 その夜、陽斗が静かに言った。

「これ、もう後戻りできないとこまで来てるな。

 あんたの名前、もう会議資料に入ってるらしい」

「……覚悟はしてた。でもやっぱり、冷えるね」

「なあ、俺から言わせてもらうけどさ。

 あんたが医師じゃないってこと、逆に今の状況では、強みだよ」

「どういう意味?」

「医療界の外側から“見える構造”がある。

 あんたは、その外から切り込める数少ない存在なんだよ、結鶴」

 

 言葉は静かだったが、どこか熱があった。

 私はその温度を、心の奥にそっと置いた。

 

 深夜、ふたたびYUNOの端末を開く。

 “囮”のために改変したログとは別に、私はずっと気にかかっていた記録があった。

 ――あれは、昨年。

 桐生会の関連病院で発生した人工呼吸器の一時停止事故。

 表向きは「一時的なセンサー誤作動」として処理されたが、YUNOには、その病院に搬入されていた旧モデルの稼働データが残っていた。

 私は、それを改めて開いた。

 数値のゆらぎ。

 作動温度の異常上昇。

 使用者IDの未記録領域――

 「これ、明らかに“兆候”が出てる……三日前から。

 しかも、PEEPの初期化ログがない。手動オフのまま使い続けられてた……」

 つまり、事故は“起きる前に見えていた”。

 だがそれは、誰にも拾われなかった。

 あるいは――「拾わない」という選択が、そこにあった。

 

「機械が壊したんじゃない。

 仕組みが、患者の命を見落としたんだ」

 小さく呟いた言葉は、YUNOのスピーカーにも届かないまま、静かに部屋の壁に吸い込まれていった。

 

 翌朝。

 家のダイニングでは、いつも通り“朝の儀式”が行われていた。

 祖父は新聞を広げ、兄は症例報告書を片手にコーヒーをすすっている。

 私は、自分の席に無言で座った。

 姉の詩織は、いつもと違って、医局の白衣を脱いでいた。

 代わりに着ていたのは、淡い灰色のニット――どこか、感情を隠すような色だった。

「結鶴」

 不意に、姉が声をかけてきた。

 朝食の場で、彼女が私に話しかけること自体、珍しかった。

「……昨日の、契約提言資料。あれ、見たわよ。

 “書き方”に、なんとなく見覚えがあった」

 

 私は答えなかった。

 否定も肯定もせず、ただパンをちぎる指に力を込めた。

「文章が、技術寄りなのに妙に法律的で……説得力があって、正直、ちょっと腹が立った。

 ……悔しかったのかも。

 私たちが見ていなかったものを、あんたは“先に”見ていたから」

 

 一瞬、空気が揺れた。

 でも、姉はそれ以上何も言わなかった。

 そのまま、静かに立ち上がり、新聞を手に部屋を出ていった。

 言葉の残滓だけが、私の胸の奥に小さな痕を残していた。

 

 午後、研究棟の一室。

 阿久根から連絡が入った。

「資料、正式に受理された。

“現場技術者からの匿名提言”という形で、理事会に上程されることが決まった」

 私は深く息をついた。

 ここまで積み重ねてきた記録、証拠、ログ、全てが一つの“文書”として法人の中枢に届いたということだ。

「提出者の名前は?」

「伏せる。だが……中身を読めば、賢い者ならすぐに察する。

 結鶴、君の名前は、もう完全には隠せない」

「……分かってます。隠すつもりも、もうありません」

 その声に、私はようやく、自分の中の“恐れ”が薄れてきていることを知った。

 

 その日の夜。

 屋根裏の自室に戻ると、メールの着信が一件、届いていた。

件名:【理事会資料通知】

内容:

「次回理事会議題に『YUNO稼働実証と契約構造分析に関する公開説明』を追加しました。

提出者本人の出席が求められます。

出席可否については、医療技術本部経由でお知らせください」

 

 ついに――その場が、開かれた。

 

 私はメールをそっと閉じ、机の上に置いてあったYUNOのプロトタイプ端末《YUNO-β》を手に取った。

 小さな起動画面が、まるで心電図のように、静かに明滅している。

「次は、私の声で――伝える」

 小さな呟きは、夜の研究棟の静寂に、確かに届いていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回、結鶴は“守る立場”から一歩踏み出し、

自らを危険に晒す「囮」となることで、構造側に証明を強いた形となりました。


咆哮とは、怒りではなく、覚悟の音。

組織の表と裏を一気に揺さぶるための、計算された破裂。


そしてその裏では、久我、鷹谷、理事長らが次の一手を読み合いながら動き出します。

彼女の“叫び”は、もはや一人のものではない。

現場も理事会も、誰もが次の展開から逃れられない段階に入ってきました。


次回、記録が公の証言となる舞台が、ついに整います。

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