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第9章 影のカウンター

第9章「影のカウンター」では、表からは見えない“第2の戦場”が幕を開けます。


結鶴が正面から提示した「記録と契約の歪み」。

だが、組織という巨大な構造は、正面から潰しにはかかりません。


動き出すのは、“影”の存在たち。

匿名の報告書、操作された記録、封じ込めのための人事と噂――


正しさでは届かない場所で、

正しさが逆手に取られる状況に、結鶴はどう立ち向かうのか。


ここからは、“記録の闘い”が“情報の戦争”へと変貌します。

 カンファレンスから一週間後。

 桐生会内では静かに、だが確実に“空気”が変わり始めていた。

 

 医療技術本部のミーティングでは、YUNOに対する現場の評価が目に見えて前向きなものに変わってきている。

 「データで助かるなら使うべきだ」「責任の見える化って意味では助かる」という声も出始めた。

 

 だが、その裏で水面下の“異変”が始まっていた。

 

 最初の兆候は、法人顧問弁護士室からの連絡だった。

 “YUNOに関する技術的記録と特許構造を一時開示せよ”という、静かで重たい文面。

 

 (これは……仕掛けてきた)

 

 私は冷静にその意図を読み取った。

 

 久我メディカルは、YUNOの根幹――特に通信プロトコルの中核である“PCM”部分の特許構造に関心を持っていた。

 あのアクセス未遂の件も含め、彼らは“内部情報流出”を逆手に取って、こちらに法的圧力をかけようとしている。

 

 「記録が語り始めたなら、その“記録”そのものを問いに変える」

 

 これは、久我が得意とする手口だった。

 証拠がないときは情報の曖昧さを突き、証拠が揃い始めたときには“その出処”に疑義を刺してくる。

 

 「桐生技術顧問より、“外部開発者との技術連携に関する契約精査”も併せて実施するようにとの指示が出ています」

 阿久根からの連絡は、いっそう重いものだった。

 

 契約精査。

 つまり、“結鶴とYUNO”を構造から排除する口実を探す工程だ。

 

 私はPCを閉じ、机上のバインダーを手に取った。

 中には、技術開発履歴、開示記録、そしてすべての契約条項の写しが入っている。

 

 「いいわ。受けて立つ。

 私が書いてきた記録が、私自身を証明してくれる」

 

 影が動いた。だが、それは光が届いた証だった。

 そして結鶴は――光の届く場所で闘う覚悟を決めていた。

 

 「こちらが、YUNO関連技術の契約群と仕様履歴の写しになります」

 結鶴は契約精査の場として指定された小会議室に静かに入室した。

 テーブルの向かいには、法人顧問弁護士の一人と、経営企画室の担当者が座っていた。

 

 「本日は、主に“技術連携時における知的財産の帰属”と、

 “記録の保持主体に関する明示性”について確認を行います」

 

 丁寧な口調だが、明らかに“排除の伏線”を探る視線だった。

 

 結鶴は資料を丁寧に並べた。

 臨床工学技士としての活動時に交わした業務支援契約、大学研究機関との共同開発覚書、

 そしてYUNOに関する基幹技術仕様のライセンス明記条項。

 

 「本技術の中核たる通信プロトコル統合モジュール“PCM”は、私が個人で取得した知財権に基づいています。

 桐生会に提供されたのは“非独占的技術使用許諾”であり、著作権や実施権の譲渡は行っていません」

 

 顧問弁護士が書類に目を通しながら頷いた。

 だが、企画室側の担当者が静かに言葉を挟んだ。

 

 「……ですが、それが実際には“法人活動の一環として機能していた”のであれば、

 “実質的共同開発”とみなされる可能性もあるかと存じます」

 

 その一言に、結鶴の目がわずかに鋭く光った。

 

 「その理論は、“形式より実態”を優先する場合のものであり、

 それが成立するには“組織命令系統下にあった”という明示的な証拠が必要です」

 

 “誰の指揮のもとに、どのような立場で動いていたか”――

 それを記録が物語る。

 

 「私は臨床工学技士としての契約時においても、

 “自己裁量に基づいた開発活動については個人責任にて行う”との覚書を交わしています。

 この条項は法人側にも交付済みです」

 

 顧問弁護士が小さく咳払いをした。

 

 「結論としては、“YUNOの基幹技術における主導権”を桐生会が保持しているとは断定できません」

 「……むしろ現段階では、提供されたライセンスの範囲に留まる可能性が高いと考えます」

 

 室内の空気が一段沈む。

 静かに、それでも確実に、結鶴は一手ずつ“契約”の地雷原を踏み抜いていった。

 

 契約精査が一段落した数日後、桐生会技術支援本部に一本の通達が回った。

 

 《YUNO支援使用における記録責任体制の明確化について》

 《補助装置使用時の臨床判断記録方式の統一指針(試行)》

 

 内容は平たく言えば、「YUNOを使用する際、診療判断への影響を必ず明記せよ」というものだった。

 そして、“明記”には責任が伴う――それは、現場にとって明らかな重荷だった。

 

 「これ、要するに“使うな”って意味じゃないの?」

 CE室で高峰梨沙がこぼす。

 

 「YUNOの助言に従うたびに、“理由”を書いて“誰の判断か”を明記しろって……」

 「使えば使うほど、“責任が増える”。誰も触らなくなるに決まってる」

 

 この指針の裏にある意図は明白だった。

 

 制度や契約で結鶴を排除できないなら、

 “現場の手”を縛ってしまえばよい。

 

 YUNOは記録装置だ。

 ならばその記録が“重荷”になるようにすれば、使われなくなる。

 

 「現場を、責任の矢面に立たせる構造……それこそが、“カウンター”」

 結鶴は、PC画面を睨みながら呟いた。

 

 だが同時に、それはもう一つの証でもある。

 

 「これだけ揺さぶるということは……YUNOが、“本当に届いている”ってこと」

 

 陽斗が静かに言った。

 

 「逆手に取れる。“なぜ記録が怖がられるのか”って問いに、

 今度は“現場から”答えてもらうチャンスになるかもしれない」

 

 そう。今、必要なのは――

 現場が“語る番”をつくること。

 

 「こういうのって、出すだけじゃダメなんですよね。

 “誰がどう使ったか”まで書かないと、“記録”として認められないんですよね?」

 

 その声は、高峰梨沙からだった。

 CE室の昼休み、端末越しに送られてきたチャットメッセージには、短く、だが確かな“現場の声”が込められていた。

 

 「YUNOを使って助かった症例、たくさんあります。

 でも、それを報告書にする余裕なんてない。

 だから結局、“何もなかった”ことになる」

 

 私は思わず、画面を見つめる指を止めた。

 

 ――そうか。

 記録は“残すこと”と、“使われること”の両方で成り立つ。

 

 「じゃあ、簡単な“現場目線の記録テンプレート”、作ってみるわ」

 そう返すと、梨沙からすぐに返信が来た。

 

 > 「それ、助かります!

 > データって、見る人によって全然価値変わるから……

 > 現場が“見た”って証明できる形、欲しかったんです」

 

 現場が“記録されること”に慣れていなかったのではない。

 記録が“現場の言葉”になっていなかっただけなのだ。

 

 私はすぐに設計に取り掛かった。

 技術者の視点から、簡易的に判断理由や確認手順を入力できるフォーム。

 名前を記録するのではなく、“判断の経緯”を選択肢で残せる仕組み。

 

 名を残すより、意図を残す。

 

 その小さな仕組みが、“現場が語る”という意味を、

 構造そのものに投げかける一石になるかもしれない。

 

簡易テンプレートは、思いのほか早く現場に浸透し始めた。

 わずか三項目。判断の参考としたデータ、確認者、そして“最終判断が人であること”のチェック欄。

 それだけで、記録は“責任”ではなく“証明”に変わった。

 

 「……これなら、日誌と変わらない」

 ある技士がぽつりと漏らした言葉は、静かな安堵だった。

 

 やがて、フォームを通じて記録されたログが陽斗の手元に集まり始めた。

 ICU、透析室、手術部門。それぞれの現場で、記録は確かに残されていた。

 

 「結鶴、これ……YUNOが診療に役立ったっていうより、

 “現場がYUNOを判断に使ってる”っていう、構造そのものの証拠になる」

 

 陽斗の言葉に、私は小さく頷く。

 

 “使われた”という事実ではなく、

 “使うという選択がなされた”という意思の記録。

 

 それこそが、“記録”が初めて社会的価値を持つ瞬間なのだ。

 

 陽斗が構築した記録インターフェースは、予想以上の反響を生んだ。

 それは、“記録すること”を「義務」ではなく、「語る手段」へと変える工夫だった。

 

 「この記録テンプレ、すごくいいですね」

 ある夜勤明けのCE技士がつぶやく。

 

 「今まで、YUNOの“判断支援”って曖昧だったけど……

 こうして誰がどう見て、どの助言を参考にしたか、

 “流れ”として残せるの、現場としてすごく助かるんです」

 

 ICUの看護師からも、“呼吸変化に早く気づけた”との報告が上がった。

 形式は簡素だが、現場の判断の輪郭を浮かび上がらせる仕組みが、

 記録の“重荷”を“支え”へと変えていった。

 

 そしてそのログ群が、陽斗の手を通して統計化された。

 YUNOが提示した助言に対し、どの部門で、どのように判断され、

 結果としてどんな対応がとられたか――その可視化が可能になったのだ。

 

 「これが、“使用状況”じゃなくて、“判断の証拠”になる」

 

 陽斗がまとめたスライドを見て、私は息を呑んだ。

 それは、まるで医療法人の中に、“もうひとつの判断系統”が可視化されたような感覚だった。

 

 現場は決して、AIに任せきったわけではない。

 人が見て、人が考えて、人が判断した――その全てがログに映っている。

 

 この記録が、公に提出されたとき。

 単なる“装置使用実績”ではなく、

 “構造としての責任の見える化”そのものになると、私は確信した。

 

 「この統計、法人の内部監査チームに提出しましょう。

 “補助装置使用における責任所在”の再定義として」

 

 私はモニターを閉じ、立ち上がる。

 

 記録は、もう“結鶴が残すもの”ではなくなっていた。

 現場が、自らの意思で語るための言葉として、動き出していたのだ。

 

 統計化された記録ログは、正式に医療法人の内部監査チームに提出された。

 “判断支援装置における使用責任の視覚化モデル”――それが、陽斗が添えた提出名だった。

 

 その週の定例経営会議。

 会議資料の末尾に、ひっそりと差し込まれたその報告が、想像以上の波紋を呼んだ。

 

 「YUNO使用時、意思決定の明確化が現場で運用されている?……それ、正式導入前提での稼働に近い扱いでは?」

 

 「責任構造が明示されているなら、評価すべきでは――いや、“制度上の承認を経ていない”点が問題か」

 

 意見は分かれたが、無視はできなかった。

 記録が“意思”を伴って可視化されている――

 それはもはや、構造にとって“透明な不在”では済まされない事実だった。

 

 その直後、久我メディカルから法人法務部に照会が入る。

 

 《YUNO装置の使用実態に関する“適応承認プロセス”と、

 “対外説明責任”の体制整備について情報提供を求める》

 

 結鶴はその文面を見て、薄く笑った。

 

 「やっぱり、“制度外の実績”は、久我にとって最も恐れる要素だったのね」

 

 規格、手順、承認プロセス。

 すべての“形”で縛ってくる。形式上の瑕疵を探し、

 制度の中に“正しくない使用”という印象を植え付けようとする。

 

 ――でも、それはつまり、

 記録の力が、“制度”を揺らし始めた証でもある。

 

 法人法務部への久我メディカルからの照会が入った翌日。

 私は、監査室と医療機器評価委員会の担当者を招き、正式な申請の意向を伝えた。

 

 「YUNOを、法人内の診療補助装置として正式に位置付けたいのです」

 「現場の記録は、そのまま実績であり、制度への要請でもあります」

 

 会議室の空気が、わずかに揺れた。

 

 今までは非公式な“試験的使用”という曖昧な立場だった。

 だがこの申請が通れば、YUNOは正式に“制度内の技術”となり、

 逆にその責任と監査の網の目にさらされることになる。

 

 「……承知しました。ただし、機器認可だけでは済みません。

 連携研究機関との契約条項、記録保存期間、情報開示ポリシーすべて再整理が必要です」

 

 「その準備は、すでに始めています」

 私は迷いなく答えた。

 

 記録を語るなら、その正当性もまた“制度”の言葉で証明しなければならない。

 私自身の資格、YUNOの技術構造、そして現場の声――すべてが、その根拠になる。

 

 陽斗からは、すでに外部の医療評価コンサルタントとの連携報告が届いていた。

 臨床工学技士協会の技術支援部門からも、「独立評価の協力」を申し出る連絡が入っている。

 

 私の選んだこの戦いは、もはや“法人内の抵抗”ではない。

 制度と、社会と、そして正当性をめぐる“領域の争い”だ。

 

 ――法の狭間にこそ、記録の居場所をつくる。

 

 その決意を胸に、私は申請書に署名した。


最後までお読みいただきありがとうございました!


第9章では、結鶴が公式な訴えを通して掴んだはずの“信頼”が、

見えない力によってじわじわと侵食されていく様子を描きました。


記録を操作することはできなくても、

記録の“受け止め方”は、いくらでも誘導できてしまう。


この章は、真実そのものではなく、

“真実の印象”が操作される恐ろしさに焦点を当てています。


それでも、結鶴は沈まない。

なぜなら、彼女の“武器”は記録そのものではなく、

それを読み解き、つなぎ直す“意思”だから。


次章、ついに彼女は――反撃へ。

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