第1章 忘れられた席①
閲覧ありがとうございます。
本作は「医師ではない令嬢」が、技術と法律を武器に医療の構造に挑む物語です。
舞台は現代。けれど、医療の現場にはまだ“声なき問題”が数多く残っています。
第1章では、主人公・桐生結鶴が、自らの居場所のなさと、それでもなお医療を支えたいという静かな決意を描いています。
どうぞ最後までお楽しみいただければ幸いです。
桐生家の朝は、いつも完璧な秩序のもとに始まる。百年以上続く医療一族、その総本山《桐生会》の理事長を務める祖父・清澄が座する円卓に、家族は一定の順序と態度をもって着席する。遅れや私語は無作法とされ、必要最低限の会話と、新聞をめくる音、カトラリーのわずかな擦れが空間を支配する。
私は今日も、右奥の端の席へ静かに腰を下ろした。そこはいつからか、自然に私の「居場所」になっていた。兄の剛志は左側、姉の詩織は右前。ふたりとも白衣を羽織ったまま、仕事帰りのままのようだった。
「剛志、お前の昨日の症例、大学病院で話題になっていたそうだな。腸間膜腫瘍の摘出が迅速だったと」
祖父の声には、いつも医療という名の偏愛が滲む。朝食の席であっても話題は病理、手術成績、臨床指標。彼にとって「価値」は、白衣をまとう者にのみ与えられるものだった。
「ありがとうございます、お爺様。救急搬送から二時間で摘出できました。CT画像が典型的だったのも幸いでした」
「そうか。詩織、お前は今週からドイツ研修だったな?」
「はい。ドイツの小児移植患者管理プログラムに、国際チームの一員として参加します」
ふたりが誉められ、認められ、未来を期待されるのはいつものことだった。けれど、私の前には、いつものように何も話題は降ってこなかった。コーヒーの湯気が消えかけたころ、ようやく祖父が私のほうをちらと見た。
「結鶴、お前は……まだ院生だったか」
「はい、来春には修士課程を修了します」
それだけ。話は、すぐに医局人事の話題へと移った。
──ここに私の名が出る余地はない。
私が医師ではないから。桐生家に生まれ、医師を志さないことは異端であり、甘えであり、時に背信とまで受け取られる。兄も姉も、そうは言わないまでも、瞳に時折その色を宿す。
けれど、私は医療を捨てたわけではない。ただ、違う切り口からこの世界に関わりたいと、そう思っただけだった。
朝食の後、私はそっとダイニングを抜け出し、自室に戻った。そこは家の最上階、物置を改装して作った私専用の作業スペースだ。天井が斜めに落ちる小さな屋根裏部屋。けれど、ここだけは私が私の意志で動ける場所だった。
白衣も、手術器具も、診療報酬点数表も、この部屋にはない。あるのは、法令集、工学書、回路設計図、そして──小さな端末。
その名は、《YUNO-β》。私が開発した医療用IoTプロトタイプの第一号。
「今日も、おはよう」
誰に聞かせるでもない言葉が、部屋にひっそりと響いた。
私は“桐生の異端”としてこの家に育った。けれど、“結鶴としての価値”は、この場所で生まれていく。
大学院では「医療機器と法的責任」についての研究に没頭している。これは表向きのテーマだ。だが本当のところ、私は、司法書士の資格と、臨床工学技士としての技術修得を両立させることを目的に、このテーマを選んだ。
巨大な医療法人の中で、医師だけが権限を持つこの構造に、どこか異常さを感じていた。現場を支える技術者の声がかき消され、法的整備も遅れている。
それを正面から変えるには──私は、“法”と“工学”を両手に持つ必要があった。
PCを開き、YUNOの最新データを確認する。βユニットが接続された市立病院の機器情報が、リアルタイムで転送されてきていた。酸素濃度センサに不規則なノイズが混じっている。これは、おそらく加湿器ユニットのフィルタが劣化している証拠だ。
「交換前提の保守契約に切り替えれば、事故も防げるし、コストも抑えられる」
私はその場で、契約書の草案に修正を加え、依頼主の病院へデータを送った。
この“作業”に、医師免許はいらない。だが、それが患者を救うこともある。
私は、医師ではない。
だけど、それが何だというのだ。
午後、大学院の研究棟に到着すると、私は端末を開いたまま、静かな講義室の一角に腰を下ろした。ほとんどの学生は臨床や実験で席を外しており、室内は機器の稼働音と、蛍光灯のかすかな唸りだけが支配していた。
YUNOの端末から流れてくるログに目を通しながら、私は先ほどの酸素濃度異常の再確認を行う。加湿ユニットの稼働時間と内部温度の相関を見ると、明らかに異常な熱暴走の兆候があった。
現場では気づかれない。けれど、これは「予知できる故障」だ。
私は数式を組み直し、フィルタ交換の推奨タイミングを自動算出するスクリプトを走らせた。画面上に現れた数値は、ちょうど三日前──ある特定の操作後にフィルタ温度が上昇していることを示していた。
「……やっぱり。PEEPがオフのまま加湿モードに移行してた?」
人工呼吸器のPEEP(Positive End-Expiratory Pressure:呼気終末陽圧)が機能していない状態での加湿モード。これは、呼吸状態が不安定な患者にとっては危険になりかねない操作だ。
YUNOが拾ったのは、現場では見過ごされた“人為的ミス”の痕跡。
だが──現場にそれをどう伝える?
臨床工学技士としては、責任の所在を問われない形で提案するのが最善だ。だが私は、“資格者”ではあるが正式な職務を持たない立場。それでも、見つけてしまった以上は無視できない。
私はメールの文面を整えながら、同時に一つの仮説を頭の中で描いていた。
──この装置の使用ログ、意図的に誰かが書き換えているのでは?
「結鶴さん、また何か拾ったの?」
背後から軽快な声がして振り向くと、倉科陽斗が手をポケットに突っ込んだまま、こちらを覗き込んでいた。
「うん。人工呼吸器の加湿ユニット、オペレータミスかと思ったけど……ログが不自然で」
「またか。あそこの病院、去年もヒーターエラーを報告してきたやつでしょ?」
「でも、ログの一部がデータベース上で連番になってない。何か書き換えられてるか、消されてる可能性がある」
陽斗は目を細めた。臨床現場で10年近く働き、今はYUNOの技術協力者として開発にも関わってくれている。
「機器業者のリース切り直しが迫ってるはず。もし故障報告が多いと、更新契約が不利になる。それで隠したのかもしれないな」
「そう考えると……悪質だよね」
「でも、証拠がなければ言えない。契約のどの条項に引っかかるか、見てみるか?」
私は無言で頷いた。司法書士試験に向けて蓄えてきた契約法の知識を、こうして使える場面は思ったよりも早く、そして鋭く訪れた。
夜、研究棟の窓からは、大学病院のタワー棟が闇に浮かび上がっていた。
その中で起きている“現実”を、どれだけの人が理解しているのだろう。
「私は、ただの院生でも、ただの理事長の孫でもない」
そう呟いて、私はメールに添付した報告ファイルに最後の署名を加えた。
司法書士・臨床工学技士
桐生結鶴
この肩書きが、ただの飾りで終わるか。
それとも──新しい秩序の“起点”となるか。
午後十時。研究棟の窓の外に映る大学病院の明かりは、まるで都市の心電図のように絶えず明滅していた。
私はYUNOのログを見つめながら、陽斗が送ってくれた契約書のPDFを開いた。市立病院と医療機器メーカーとの間で結ばれた保守契約書。その第4条、定期点検義務の文言が目に留まる。
──「年2回以上の定期点検を義務とし、不具合発見時は直ちに記録・通告すること」
私はスクロールを止め、深く息を吸った。
今回の故障、メーカーが定期点検を怠っていたことを、ログが示している。
でもこの契約条項、実は巧妙に“責任回避”の余地がある。
お読みいただきありがとうございました!
この第1章では、名門医療一族の中で「異端」とされる主人公が、どのように自分の立ち位置を選び取っていくかの“始まり”を描いています。
医師ではなく、臨床工学技士・司法書士として。
そして、誰にも期待されずとも、自ら信じる医療の形を追い求める姿を、これからもじっくりと描いていきます。
もし気になる点やご感想などありましたら、ぜひコメントやレビューでお知らせください。
次回もどうぞよろしくお願いいたします!