第8章 報復のレセプト
物語はいよいよ第8章「報復のレセプト」へ――
今回の章では、ついに“構造側の反撃”が本格的に始まります。
結鶴の訴えによって浮かび上がった歪み、
その是正ではなく“報復”という手段で応じる構造。
それはあくまで合法に、静かに、レセプトという“事務処理”を通して行われます。
表立った告発に対し、裏側からじわじわと追い詰めてくる“制度の復讐”。
結鶴が守ろうとした“現場”が、彼女の手からこぼれそうになる章です。
最初の異変は、小さな問い合わせメールだった。
件名は《レセプト記載に関する確認》。
差出人は、桐生総合病院の医事課主任――名もなじみ深い職員からの、何気ない文面。
「先日提出された遠隔モニタリング診療報告に関連し、
医療情報連携加算の記録タイミングについて再確認したく、ご連絡いたします」
何度も見てきた、よくある医事確認の文章。
けれど、そこには奇妙な違和感があった。
――なぜ“私宛”に?
YUNOによる診療補助データの提供は、正式には法人への技術供与であり、
レセプト処理は医事課と診療部門で完結するはずだった。
私の名前が、公式な提出書類のどこに記されているわけでもないのに。
私はすぐに、過去の報告書や加算申請の記録を確認した。
そこには確かに、「情報提供元:YUNO(技術監修:一之瀬結鶴)」の一文がある。
……そうか。
これは、名指しではない。でも“名前を入れてくる”ことで、責任の所在を曖昧に拡げようとする仕掛けだ。
「法的責任を取らせる段階ではない。でも、結鶴の名を医療事務側に残すことで、
関与の印象を“現場に広げる”」
私は資料を閉じ、背中を伸ばした。
“報復”は、いつも表からは始まらない。
制度と実務の隙間から、水のように忍び込んでくる。
その日の午後。医療技術本部の阿久根から、非公式の連絡が入った。
「君に関係する一部のモニタリングデータ、診療報酬側で“計上延期”になったらしい。
理由は、“技術的証明の再確認が必要”とのことだそうだ」
情報は、確実に仕掛けられていた。
これは、“名義”を使った静かな圧力。
結鶴を前面に出し、YUNOを制度上で“不安定な存在”に仕立て上げる意図。
――でも、それは想定の範囲だった。
私は立ち上がり、PCを開いた。
「なら、やるしかないわ。記録が記録として“診療価値”を持つことを、正式に証明する手続きを」
陽斗とのチームで構築した“YUNO使用下の診療証明フロー”――
その資料を、私は法人のレセプト監査部に向けて作り始めた。
法人本部のレセプト監査室。
灰色の棚に埋もれるように置かれたカンファレンスデスクの前で、私は資料を広げていた。
「YUNOによって記録された診療データは、あくまで“補助記録”ではなく、
臨床工学技士と医師の指示の下、連携して活用された“診療支援システム”です」
読み上げる声は穏やかだったが、心の中では強く踏み込んでいた。
これは、単なる記録の弁明ではない。
YUNOの存在を“制度的に正当化する”闘いだった。
「たとえば、透析患者の血圧波形異常がYUNOによって早期検出され、
事前にナトリウム濃度調整が行われたケース。
そのデータと指示記録をここに添付しています」
レセプト監査室の課長が、黙って資料をめくる。
その眼差しは冷静だが、何かを探るような揺らぎを含んでいた。
「本来、こうした情報提供は医師の“サマリー”に吸収されるものですが……」
「だからこそ、今まで曖昧にされていた部分を、
“記録者の責任”という視点で構造化すべきだと考えました」
YUNOは、情報を“読む”だけの機械ではない。
記録と解析のセットで“判断を補助する知的装置”なのだ。
「このタイムラインをご覧ください」
私はモニターを指差した。
「午前8時20分、YUNOが非定常な波形を検出。
8時23分、臨床工学技士が確認し、AI補正の提案に基づき機器設定を調整。
8時31分、医師が最終判断。
結果、血圧の急降下は未然に防止された」
沈黙が落ちた。
「この記録には、誰の責任がどこにあるかが明確に記されています。
それは、“記録者の不在”が引き起こす混乱を防ぐ手続きでもあると、私は思っています」
課長は、しばらく黙っていた。
そして、小さくうなずいた。
「……なるほど。では、このモデル、
診療報酬上の“情報提供加算”の応用として、テスト申請してみましょうか」
私は静かに息をついた。
これは“突破”ではない。だが、“扉に手がかかった”瞬間だった。
翌日。
提出したモデルケースのテスト申請は、監査室内での確認フェーズに入った。
だが同じ日の午後、私のもとに届いた一通のメールが、空気を一変させた。
《YUNO支援患者に関する医療記録の管理について(要再確認)》
差出人は、法人顧問弁護士の一人。
タイトルには「要再確認」とあるが、内容は実質的な“牽制”だった。
> 「当該データの保存・活用は医療機関外部による関与を含む可能性があり、
> 一部の連携医療機関より“個人情報管理の明確化”を求める照会が来ております」
――なるほど。今度は“患者情報保護”を盾に来たか。
YUNOのデータは匿名化され、患者との個別照合は行っていない。
だが、解析と記録が“機械の判断”である以上、「誰がその責任を取るのか」という問いは常につきまとう。
私は即座に、陽斗に連絡を入れた。
「やっぱり、来たわ。今度は“情報管理の曖昧さ”を突いてきてる」
彼は沈黙のあと、小さく答えた。
「でも、YUNOは“匿名IDベースの診療支援”っていう建前は崩してない。
この流れで訴訟リスクを煽って、診療現場に導入を止めさせる気だな」
私は資料棚から、YUNO運用に関する社内手順書を引き出した。
すべてのログに、日時・操作者・目的・対象機器の記録が残るよう設計されている。
医師の判断に至る前段階で、AIは“助言”しかしていない――これは、法的にも重要な立場だった。
「この手口、久我側の動きね。内部だけじゃない。“外部の医療機関”という構図で攻めてきてる」
もしも、このまま“安全性への疑念”が拡がれば――
法人内部の“現場”がYUNOを拒む可能性がある。そうなれば、制度の扉が開いたところで意味を失う。
「だから、ここで証明する。YUNOは“人を補う”ものであり、
“人を置き換える”ものではないってことを」
私はもう一度、モニターに向き直った。
この記録が誰かの責任を奪うのではなく、誰かの判断を支える記録であることを、示さなければならない。
法人法務部と情報管理課の合同ミーティングルーム。
正面の壁には「個人情報保護と記録管理に関する統一見解協議」と題された資料が掲げられていた。
私はその席に、自ら出席した。
「このYUNOのログ記録には、患者氏名や病名といった個人情報は一切含まれていません。
匿名ID、機器コード、操作タイムスタンプ――そしてそれに基づく助言ログ。
すべては“補助記録”としての整合性を保ち、かつ可逆的ではない構造で保持されています」
淡々と、けれど一点の曇りもなく話す。
結鶴の言葉には、情報の流れを熟知した者ならではの構造的視点があった。
「問題は、“YUNOが判断を下しているように見える”という印象です」
情報課の担当者が口を開いた。
「AIが提案したパラメータ変更が、そのまま医師や技士に採用されていた場合、
記録上では“YUNOが操作した”と見なされかねません」
私は頷いたうえで、資料の一部を開示した。
「その誤認を防ぐために、YUNOの助言ログには必ず“操作者の最終確認チェック”が記録されます。
この欄は、技士が“助言を受理したか否か”を明示するもので、
すべての判断が“人の手”を経てなされたことを記録上に残す構造になっています」
情報課の担当者が静かにうなずいた。
法務側の顧問弁護士も、その点について記録構造の適正性を認める見解を示した。
だが――そこから先が問題だった。
「技術的には問題がないとしても、“連携機関からの疑義照会”が法人本部に届いているのは事実です」
法務担当が慎重に言葉を継ぐ。
「これは、外部がYUNOの“制度的位置づけ”に不安を抱いていることを意味します。
その背景には、結鶴さん自身が“法人における正式な責任者”でないという立場が、影響していると見られます」
――名義。ここに来て再び、それが障壁となる。
制度と実務がねじれた構造。
そこでは、記録の正当性よりも、“誰が署名したか”が優先されてしまう。
「……なら、私は署名します。
YUNOの記録補助責任者として、法人外協力者の立場から」
その場が静まり返った。
だが、私は逃げるつもりはなかった。
記録は、記録であり続けるために、
誰かが“責任の名前”を記さなければならないのだと、私は知っていた。
数日後、署名付きの補足資料は正式に受理された。
情報管理課と法務部も「外部技術者による支援記録」としてYUNOログの立場を一旦容認。
監査室内での“計上対象選定”の再検討が始まることになった。
小さな突破口。けれど、それは確実に前進だった。
――だが、その反応は思わぬ形で現れた。
陽斗が研究室に飛び込んできたのは、昼休みの終わり頃だった。
手にはタブレット、その画面には新着の法人内通知が表示されていた。
「これ、見てくれ」
表示されていたのは、“法人職務範囲における外部関与者の位置づけ再検討に関する通達”。
副題にはこう書かれていた。
《外部技術提供者による署名・記録類の法人内影響に関する指針策定について》
私は瞬時に読み取った。
これは――私の署名を“前例化”し、制度側から縛るつもりだ。
「“法人外の者が記録に署名する場合、その責任の範囲と影響評価を事前に審査する”……」
陽斗が読み上げる。
結鶴は静かに頷いた。
「つまり、今後の記録は“許可された外部者”だけが扱える。
しかも、その“許可”は内部部門の裁量で決まる。……YUNOの記録が再び制度外にされる可能性がある」
“名を記す”という選択が、今度は構造による規制の理由として利用されようとしている。
私は、乾いた笑みを浮かべた。
「やっぱり来たわね。
“責任の証拠”は、時として“排除の口実”にもなる」
だが、それでも後悔はなかった。
名を記したからこそ、記録は“私の責任のもとにある”と証明できたのだから。
「だったら、こっちも前例を作る。
法人のルールより前に、社会に証明すればいい――YUNOが診療に資する装置だと」
陽斗がすぐに応えた。
「医療技術カンファレンス。今月末、登壇者まだ一枠空いてる。
出よう。“記録が命を支えた”そのデータで」
私は頷いた。
いよいよ、“内側”だけでは戦えない。
公に、記録を語らせる時が来たのだ。
カンファレンス登壇の準備は、静かに、だが着実に進んでいた。
陽斗が技術パートの資料を整え、私は使用症例の選定に時間をかけた。
“何を語るべきか”ではなく、“何を語らせるべきか”。
結鶴にとって、これは単なる発表ではなかった。
YUNOがなぜ必要か。記録は何を支えているのか。
それを“言葉”ではなく、“事実”で示さなければならないからだ。
症例選定の中で、彼女が選んだのは――
ICUで早期に換気管理の逸脱を検出し、再挿管を防げた一例だった。
波形の異常をYUNOが拾い、
臨床工学技士がすぐに換気設定の不具合に気づき、
医師が現場で再評価を下した。
救われた命があった。
「……記録が命を守った。でも、それは誰か一人の力じゃない」
そう結鶴は呟いた。
記録は人の判断を支える。だが、それは誰かの手によって“読む”ことで初めて価値を持つ。
それを“誰が読んだか”“どう使われたか”――その履歴を残すことこそが、YUNOの核だった。
そんな中、ひとつのメッセージが研究室のメールに届く。
差出人は、高峰梨沙。CE室の仲間であり、現場を知る技士のひとりだった。
> 「記録って、確かに曖昧な存在だった。でもYUNOのデータは違った。
> “見えてなかったもの”を見せてくれるツールだって、私は信じてる。
> 登壇、頑張って。現場の声、背負ってくれてありがとう」
その言葉に、胸が熱くなる。
私は、この声のために立つのだ。
記録が誰かの正義ではなく、誰かの“行動の証明”になるために。
カンファレンス当日。
大学附属ホールの一室には、白衣とスーツが入り混じるように集まっていた。
テーマは「次世代医療支援技術の倫理と実装」。
発表者は技術開発者や医療現場の責任者たち。
結鶴の登壇は、予定された最後から二番目の枠だった。
――息を吸い、視線を上げる。
「一之瀬結鶴と申します。
本日は、現場における“記録の価値”と、それを支える技術のあり方について、
一例をご紹介させていただきます」
スクリーンには、ひとつの症例が映し出される。
人工呼吸器の設定異常により、危機的状況に陥る寸前だった患者。
YUNOが示した“逸脱予兆”が、それを未然に防いだ。
「このデータをご覧ください。
波形変動、設定履歴、助言ログ、操作者記録――
すべては、ひとつの判断につながる“前提”を記録していました」
誰が、何を見て、どう動いたのか。
その“手続き”が記録に残ることで、初めて“判断”は説明可能なものとなる。
「YUNOは判断を下しません。
ですが、判断の土台を支える“根拠”を記録します。
そしてその根拠は、誰かの命を支えるための――
“証明”として機能することがあるのです」
ホールの空気が、じっと耳を傾けていた。
「現場では、“記録されていないこと”は、“存在しなかったこと”になります。
だからこそ、記録はただの履歴ではなく、
人が“行動したという事実”そのものになると、私は信じています」
スクリーンの最後に映し出されたのは、たった一行の助言ログだった。
> 「パターン逸脱波形を検出。モード切替の再評価を推奨」
そのログの直後に、CE技士の再確認、医師の介入が続いている。
「記録は誰かを裁くためではなく、
“誰かが判断した”という証として存在すべきです」
その言葉に、壇上の空気が一瞬止まった。
そして――拍手が広がる。
まばらだった音が、やがて確かな連なりとなって、会場を包んだ。
結鶴は静かに一礼した。
この日、記録は“命を語るデータ”となった。
カンファレンス翌朝。
医療技術本部の掲示板に、ひとつの匿名メモが貼られていた。
> 「あの時、YUNOのアラートがなかったら、俺は患者を見落としてた」
> 「名前が記録されるって、最初は嫌だった。でも“誰が守ったか”が分かるのって、悪くない」
手書きではない。おそらく、現場技士の誰かが印刷して貼ったのだろう。
署名も日付もないが、そこには確かに、“声”があった。
その日の夕方。
法人経営会議で、一つの話題が正式に議題として取り上げられる。
《技術補助による診療支援記録の制度内評価について》
誰が提案したのかは明らかにされなかった。
だが、結鶴にはわかっていた。
――これは、現場が“語り返してくれた”結果なのだと。
そして同じ頃、久我メディカル側の代理人弁護士が、水面下で動き始めていた。
「YUNOに関する特許情報を調査せよ。
特に、プロトコル統合技術とその通信手順。
万が一、桐生会からの漏洩が認められれば――法的措置を示唆することも辞さない」
沈黙の中に潜む圧力。
それは、結鶴の発信が“外”に届いたことの証明でもあった。
だが、彼女は揺るがない。
記録は嘘をつかない。
人が語れない時、語ってくれる。
人が忘れても、憶えてくれている。
だから――
「私は、記録で闘う」
その一言は、誰に聞かせるでもなく、
自分の中に静かに刻み込まれた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
第8章「報復のレセプト」は、この物語における“逆風の極地”ともいえる展開でした。
真実を語ることの代償。
誰かのために動いたことが、誰かを傷つけてしまう現実。
そして、“制度”がどれほど静かに、合法的に、非情に人を潰していくかという描写は、
結鶴にとっても、読者の皆さまにとっても重く映ったことと思います。
それでも、彼女は立ち止まりません。
この章を経て、彼女が見出す“次の一手”にどうかご注目ください。