表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

19/26

第8章 報復のレセプト

物語はいよいよ第8章「報復のレセプト」へ――

今回の章では、ついに“構造側の反撃”が本格的に始まります。


結鶴の訴えによって浮かび上がった歪み、

その是正ではなく“報復”という手段で応じる構造。

それはあくまで合法に、静かに、レセプトという“事務処理”を通して行われます。


表立った告発に対し、裏側からじわじわと追い詰めてくる“制度の復讐”。

結鶴が守ろうとした“現場”が、彼女の手からこぼれそうになる章です。

 最初の異変は、小さな問い合わせメールだった。

 件名は《レセプト記載に関する確認》。

 差出人は、桐生総合病院の医事課主任――名もなじみ深い職員からの、何気ない文面。

 

 「先日提出された遠隔モニタリング診療報告に関連し、

 医療情報連携加算の記録タイミングについて再確認したく、ご連絡いたします」

 

 何度も見てきた、よくある医事確認の文章。

 けれど、そこには奇妙な違和感があった。

 

 ――なぜ“私宛”に?

 

 YUNOによる診療補助データの提供は、正式には法人への技術供与であり、

 レセプト処理は医事課と診療部門で完結するはずだった。

 私の名前が、公式な提出書類のどこに記されているわけでもないのに。

 

 私はすぐに、過去の報告書や加算申請の記録を確認した。

 そこには確かに、「情報提供元:YUNO(技術監修:一之瀬結鶴)」の一文がある。

 

 ……そうか。

 これは、名指しではない。でも“名前を入れてくる”ことで、責任の所在を曖昧に拡げようとする仕掛けだ。

 

 「法的責任を取らせる段階ではない。でも、結鶴の名を医療事務側に残すことで、

 関与の印象を“現場に広げる”」

 

 私は資料を閉じ、背中を伸ばした。

 “報復”は、いつも表からは始まらない。

 制度と実務の隙間から、水のように忍び込んでくる。

 

 その日の午後。医療技術本部の阿久根から、非公式の連絡が入った。

 

 「君に関係する一部のモニタリングデータ、診療報酬側で“計上延期”になったらしい。

 理由は、“技術的証明の再確認が必要”とのことだそうだ」

 

 情報は、確実に仕掛けられていた。

 これは、“名義”を使った静かな圧力。

 結鶴を前面に出し、YUNOを制度上で“不安定な存在”に仕立て上げる意図。

 

 ――でも、それは想定の範囲だった。

 私は立ち上がり、PCを開いた。

 

 「なら、やるしかないわ。記録が記録として“診療価値”を持つことを、正式に証明する手続きを」

 

 陽斗とのチームで構築した“YUNO使用下の診療証明フロー”――

 その資料を、私は法人のレセプト監査部に向けて作り始めた。

 

 法人本部のレセプト監査室。

 灰色の棚に埋もれるように置かれたカンファレンスデスクの前で、私は資料を広げていた。

 

 「YUNOによって記録された診療データは、あくまで“補助記録”ではなく、

 臨床工学技士と医師の指示の下、連携して活用された“診療支援システム”です」

 

 読み上げる声は穏やかだったが、心の中では強く踏み込んでいた。

 これは、単なる記録の弁明ではない。

 YUNOの存在を“制度的に正当化する”闘いだった。

 

 「たとえば、透析患者の血圧波形異常がYUNOによって早期検出され、

 事前にナトリウム濃度調整が行われたケース。

 そのデータと指示記録をここに添付しています」

 

 レセプト監査室の課長が、黙って資料をめくる。

 その眼差しは冷静だが、何かを探るような揺らぎを含んでいた。

 

 「本来、こうした情報提供は医師の“サマリー”に吸収されるものですが……」

「だからこそ、今まで曖昧にされていた部分を、

 “記録者の責任”という視点で構造化すべきだと考えました」

 

 YUNOは、情報を“読む”だけの機械ではない。

 記録と解析のセットで“判断を補助する知的装置”なのだ。

 

 「このタイムラインをご覧ください」

 私はモニターを指差した。

 

 「午前8時20分、YUNOが非定常な波形を検出。

 8時23分、臨床工学技士が確認し、AI補正の提案に基づき機器設定を調整。

 8時31分、医師が最終判断。

 結果、血圧の急降下は未然に防止された」

 

 沈黙が落ちた。

 

 「この記録には、誰の責任がどこにあるかが明確に記されています。

 それは、“記録者の不在”が引き起こす混乱を防ぐ手続きでもあると、私は思っています」

 

 課長は、しばらく黙っていた。

 そして、小さくうなずいた。

 

 「……なるほど。では、このモデル、

 診療報酬上の“情報提供加算”の応用として、テスト申請してみましょうか」

 

 私は静かに息をついた。

 これは“突破”ではない。だが、“扉に手がかかった”瞬間だった。

 

 翌日。

 提出したモデルケースのテスト申請は、監査室内での確認フェーズに入った。

 だが同じ日の午後、私のもとに届いた一通のメールが、空気を一変させた。

 

 《YUNO支援患者に関する医療記録の管理について(要再確認)》

 

 差出人は、法人顧問弁護士の一人。

 タイトルには「要再確認」とあるが、内容は実質的な“牽制”だった。

 

 > 「当該データの保存・活用は医療機関外部による関与を含む可能性があり、

 > 一部の連携医療機関より“個人情報管理の明確化”を求める照会が来ております」

 

 ――なるほど。今度は“患者情報保護”を盾に来たか。

 

 YUNOのデータは匿名化され、患者との個別照合は行っていない。

 だが、解析と記録が“機械の判断”である以上、「誰がその責任を取るのか」という問いは常につきまとう。

 

 私は即座に、陽斗に連絡を入れた。

 

 「やっぱり、来たわ。今度は“情報管理の曖昧さ”を突いてきてる」

 

 彼は沈黙のあと、小さく答えた。

 

 「でも、YUNOは“匿名IDベースの診療支援”っていう建前は崩してない。

 この流れで訴訟リスクを煽って、診療現場に導入を止めさせる気だな」

 

 私は資料棚から、YUNO運用に関する社内手順書を引き出した。

 すべてのログに、日時・操作者・目的・対象機器の記録が残るよう設計されている。

 医師の判断に至る前段階で、AIは“助言”しかしていない――これは、法的にも重要な立場だった。

 

 「この手口、久我側の動きね。内部だけじゃない。“外部の医療機関”という構図で攻めてきてる」

 

 もしも、このまま“安全性への疑念”が拡がれば――

 法人内部の“現場”がYUNOを拒む可能性がある。そうなれば、制度の扉が開いたところで意味を失う。

 

 「だから、ここで証明する。YUNOは“人を補う”ものであり、

 “人を置き換える”ものではないってことを」

 

 私はもう一度、モニターに向き直った。

 この記録が誰かの責任を奪うのではなく、誰かの判断を支える記録であることを、示さなければならない。

 

 法人法務部と情報管理課の合同ミーティングルーム。

 正面の壁には「個人情報保護と記録管理に関する統一見解協議」と題された資料が掲げられていた。

 

 私はその席に、自ら出席した。

 

 「このYUNOのログ記録には、患者氏名や病名といった個人情報は一切含まれていません。

 匿名ID、機器コード、操作タイムスタンプ――そしてそれに基づく助言ログ。

 すべては“補助記録”としての整合性を保ち、かつ可逆的ではない構造で保持されています」

 

 淡々と、けれど一点の曇りもなく話す。

 結鶴の言葉には、情報の流れを熟知した者ならではの構造的視点があった。

 

 「問題は、“YUNOが判断を下しているように見える”という印象です」

 情報課の担当者が口を開いた。

 

 「AIが提案したパラメータ変更が、そのまま医師や技士に採用されていた場合、

 記録上では“YUNOが操作した”と見なされかねません」

 

 私は頷いたうえで、資料の一部を開示した。

 

 「その誤認を防ぐために、YUNOの助言ログには必ず“操作者の最終確認チェック”が記録されます。

 この欄は、技士が“助言を受理したか否か”を明示するもので、

 すべての判断が“人の手”を経てなされたことを記録上に残す構造になっています」

 

 情報課の担当者が静かにうなずいた。

 法務側の顧問弁護士も、その点について記録構造の適正性を認める見解を示した。

 

 だが――そこから先が問題だった。

 

 「技術的には問題がないとしても、“連携機関からの疑義照会”が法人本部に届いているのは事実です」

 法務担当が慎重に言葉を継ぐ。

 

 「これは、外部がYUNOの“制度的位置づけ”に不安を抱いていることを意味します。

 その背景には、結鶴さん自身が“法人における正式な責任者”でないという立場が、影響していると見られます」

 

 ――名義。ここに来て再び、それが障壁となる。

 

 制度と実務がねじれた構造。

 そこでは、記録の正当性よりも、“誰が署名したか”が優先されてしまう。

 

 「……なら、私は署名します。

 YUNOの記録補助責任者として、法人外協力者の立場から」

 

 その場が静まり返った。

 だが、私は逃げるつもりはなかった。

 

 記録は、記録であり続けるために、

 誰かが“責任の名前”を記さなければならないのだと、私は知っていた。

 

 数日後、署名付きの補足資料は正式に受理された。

 情報管理課と法務部も「外部技術者による支援記録」としてYUNOログの立場を一旦容認。

 監査室内での“計上対象選定”の再検討が始まることになった。

 

 小さな突破口。けれど、それは確実に前進だった。

 

 ――だが、その反応は思わぬ形で現れた。

 

 陽斗が研究室に飛び込んできたのは、昼休みの終わり頃だった。

 手にはタブレット、その画面には新着の法人内通知が表示されていた。

 

 「これ、見てくれ」

 

 表示されていたのは、“法人職務範囲における外部関与者の位置づけ再検討に関する通達”。

 副題にはこう書かれていた。

 

 《外部技術提供者による署名・記録類の法人内影響に関する指針策定について》

 

 私は瞬時に読み取った。

 これは――私の署名を“前例化”し、制度側から縛るつもりだ。

 

 「“法人外の者が記録に署名する場合、その責任の範囲と影響評価を事前に審査する”……」

 陽斗が読み上げる。

 

 結鶴は静かに頷いた。

 

 「つまり、今後の記録は“許可された外部者”だけが扱える。

 しかも、その“許可”は内部部門の裁量で決まる。……YUNOの記録が再び制度外にされる可能性がある」

 

 “名を記す”という選択が、今度は構造による規制の理由として利用されようとしている。

 私は、乾いた笑みを浮かべた。

 

 「やっぱり来たわね。

 “責任の証拠”は、時として“排除の口実”にもなる」

 

 だが、それでも後悔はなかった。

 名を記したからこそ、記録は“私の責任のもとにある”と証明できたのだから。

 

 「だったら、こっちも前例を作る。

 法人のルールより前に、社会に証明すればいい――YUNOが診療に資する装置だと」

 

 陽斗がすぐに応えた。

 

 「医療技術カンファレンス。今月末、登壇者まだ一枠空いてる。

 出よう。“記録が命を支えた”そのデータで」

 

 私は頷いた。

 いよいよ、“内側”だけでは戦えない。

 公に、記録を語らせる時が来たのだ。

 

 カンファレンス登壇の準備は、静かに、だが着実に進んでいた。

 陽斗が技術パートの資料を整え、私は使用症例の選定に時間をかけた。

 

 “何を語るべきか”ではなく、“何を語らせるべきか”。

 

 結鶴にとって、これは単なる発表ではなかった。

 YUNOがなぜ必要か。記録は何を支えているのか。

 それを“言葉”ではなく、“事実”で示さなければならないからだ。

 

 症例選定の中で、彼女が選んだのは――

 ICUで早期に換気管理の逸脱を検出し、再挿管を防げた一例だった。

 

 波形の異常をYUNOが拾い、

 臨床工学技士がすぐに換気設定の不具合に気づき、

 医師が現場で再評価を下した。

 

 救われた命があった。

 

 「……記録が命を守った。でも、それは誰か一人の力じゃない」

 そう結鶴は呟いた。

 

 記録は人の判断を支える。だが、それは誰かの手によって“読む”ことで初めて価値を持つ。

 それを“誰が読んだか”“どう使われたか”――その履歴を残すことこそが、YUNOの核だった。

 

 そんな中、ひとつのメッセージが研究室のメールに届く。

 差出人は、高峰梨沙。CE室の仲間であり、現場を知る技士のひとりだった。

 

 > 「記録って、確かに曖昧な存在だった。でもYUNOのデータは違った。

 > “見えてなかったもの”を見せてくれるツールだって、私は信じてる。

 > 登壇、頑張って。現場の声、背負ってくれてありがとう」

 

 その言葉に、胸が熱くなる。

 

 私は、この声のために立つのだ。

 記録が誰かの正義ではなく、誰かの“行動の証明”になるために。

 

 カンファレンス当日。

 大学附属ホールの一室には、白衣とスーツが入り混じるように集まっていた。

 

 テーマは「次世代医療支援技術の倫理と実装」。

 発表者は技術開発者や医療現場の責任者たち。

 結鶴の登壇は、予定された最後から二番目の枠だった。

 

 ――息を吸い、視線を上げる。

 

 「一之瀬結鶴と申します。

 本日は、現場における“記録の価値”と、それを支える技術のあり方について、

 一例をご紹介させていただきます」

 

 スクリーンには、ひとつの症例が映し出される。

 人工呼吸器の設定異常により、危機的状況に陥る寸前だった患者。

 YUNOが示した“逸脱予兆”が、それを未然に防いだ。

 

 「このデータをご覧ください。

 波形変動、設定履歴、助言ログ、操作者記録――

 すべては、ひとつの判断につながる“前提”を記録していました」

 

 誰が、何を見て、どう動いたのか。

 その“手続き”が記録に残ることで、初めて“判断”は説明可能なものとなる。

 

 「YUNOは判断を下しません。

 ですが、判断の土台を支える“根拠”を記録します。

 そしてその根拠は、誰かの命を支えるための――

 “証明”として機能することがあるのです」

 

 ホールの空気が、じっと耳を傾けていた。

 

 「現場では、“記録されていないこと”は、“存在しなかったこと”になります。

 だからこそ、記録はただの履歴ではなく、

 人が“行動したという事実”そのものになると、私は信じています」

 

 スクリーンの最後に映し出されたのは、たった一行の助言ログだった。

 

 > 「パターン逸脱波形を検出。モード切替の再評価を推奨」

 

 そのログの直後に、CE技士の再確認、医師の介入が続いている。

 

 「記録は誰かを裁くためではなく、

 “誰かが判断した”という証として存在すべきです」

 

 その言葉に、壇上の空気が一瞬止まった。

 

 そして――拍手が広がる。

 まばらだった音が、やがて確かな連なりとなって、会場を包んだ。

 

 結鶴は静かに一礼した。

 この日、記録は“命を語るデータ”となった。

 

 カンファレンス翌朝。

 医療技術本部の掲示板に、ひとつの匿名メモが貼られていた。

 

 > 「あの時、YUNOのアラートがなかったら、俺は患者を見落としてた」

 > 「名前が記録されるって、最初は嫌だった。でも“誰が守ったか”が分かるのって、悪くない」

 

 手書きではない。おそらく、現場技士の誰かが印刷して貼ったのだろう。

 署名も日付もないが、そこには確かに、“声”があった。

 

 その日の夕方。

 法人経営会議で、一つの話題が正式に議題として取り上げられる。

 

 《技術補助による診療支援記録の制度内評価について》

 

 誰が提案したのかは明らかにされなかった。

 だが、結鶴にはわかっていた。

 ――これは、現場が“語り返してくれた”結果なのだと。

 

 そして同じ頃、久我メディカル側の代理人弁護士が、水面下で動き始めていた。

 

 「YUNOに関する特許情報を調査せよ。

 特に、プロトコル統合技術とその通信手順。

 万が一、桐生会からの漏洩が認められれば――法的措置を示唆することも辞さない」

 

 沈黙の中に潜む圧力。

 それは、結鶴の発信が“外”に届いたことの証明でもあった。

 

 だが、彼女は揺るがない。

 

 記録は嘘をつかない。

 人が語れない時、語ってくれる。

 人が忘れても、憶えてくれている。

 

 だから――

 

 「私は、記録で闘う」

 

 その一言は、誰に聞かせるでもなく、

 自分の中に静かに刻み込まれた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


第8章「報復のレセプト」は、この物語における“逆風の極地”ともいえる展開でした。


真実を語ることの代償。

誰かのために動いたことが、誰かを傷つけてしまう現実。


そして、“制度”がどれほど静かに、合法的に、非情に人を潰していくかという描写は、

結鶴にとっても、読者の皆さまにとっても重く映ったことと思います。


それでも、彼女は立ち止まりません。

この章を経て、彼女が見出す“次の一手”にどうかご注目ください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ