第7章 影と証明
物語はいよいよ第7章「影と証明」へ――
ここからは、主人公・桐生結鶴が“証明”のために立ち上がるだけでなく、
“影”の存在たちが本格的にその動きを阻みにくる章となります。
誰が味方で、誰が敵か。
誰の言葉が真実で、誰の沈黙が偽りか。
そして、結鶴自身がどこまで“自分の声”を守れるのか。
この章では、「記録」が“過去の証拠”だけでなく、“未来への選択肢”として試されていきます。
深夜、オフィスのサーバー室に警告音が鳴り響いた。
画面に赤く点滅していたのは――「ログ照合エラー:CRC不一致」。
「……ありえない。今朝まで整合性チェックは正常だったはず」
私はマスター記録を確認し、比較対象のバックアップログと突き合わせた。
確かに、一部の波形ログが、微細に“編集された形跡”を残していた。
陽斗が画面を覗き込み、顔をしかめる。
「これ、パケットの一部だけ入れ替えられてる……CRC(巡回冗長検査)を偽装した形で。
普通にログ管理してたら気づかないレベル。ってことは――」
「内部から、“技術的に手を加えた”誰かがいる」
「しかも、YUNOのログだけを狙ってる」
私はすぐに、アクセスログと操作履歴のトレースを始めた。
ログイン記録は匿名VPN経由。IDは仮想サーバーを経由していた。
だが、操作プロトコルに残された微細なクセがあった――
「このソート方式……医療技術部の阿久根さんが使う並びだわ」
「でも、阿久根さんは協力者だろ? となると……“なりすまし”か?」
私は静かにうなずいた。
これは明らかに――YUNOの“記録そのもの”の信用性を潰す攻撃。
そしてその直後。
医療法人の監査部から、一通の通知が届いた。
> 「一之瀬結鶴氏による記録システム(YUNO)において、
> 波形ログデータの一部に改ざんの疑いがあるとの報告が寄せられました。
> つきましては、検証調査のための資料提出を求めます」
私は通知文を見ながら、静かに吐息を漏らす。
“記録は、記録者の証明でもある”――
そして今、その“記録者”が、逆に裁かれようとしている。
だが、恐れはなかった。
なぜなら、このログの中には、
“意図的に編集された者が知らないはずのタイムスタンプ矛盾”が存在していたから。
“技術の証明”は、法の証明と同じくらい強い。
私はPCを閉じ、陽斗に言った。
「やろう。“記録の証明”を。
ログを改ざんされたのなら、今度はこちらが――“改ざんされた痕跡”ごと提出する」
「記録のログに、記録された“攻撃”ってわけか……上等だ」
夜のデバイスが、冷たくも静かに点滅を続けていた。
翌朝、陽斗と私はYUNOの操作ログを持って、司法顧問を兼ねる尾形弁護士の事務所を訪れた。
「波形ログ改ざんの疑いね……。で、これは“あなたたちが意図的にいじったものじゃない”と証明するには?」
尾形は、厳しい目を細めながら資料に目を通す。
彼はかつて医療機器メーカーの法務部門に勤めていたことがあり、
医療記録と法的責任の境界に詳しい。
「実は、痕跡があるんです」
陽斗がノートPCを指さす。
「波形ログには、それぞれ生成されたミリ秒単位のタイムスタンプが埋め込まれてます。
このデータ、見た目にはつじつまが合ってるように見えるけど……」
「でも“波形の自然な変化”と“時系列のズレ”に違和感がある。
しかも“編集した人間”が、AI補正の内部アルゴリズムまでは読めていなかった」
尾形が静かにうなずく。
「つまり、“改ざんされたログ”と、“正規ログ”の比較だけじゃなく――
“改ざんしきれなかった証拠”を提出するわけだ。これは強い」
私は胸の内で、安堵とも怒りともつかない感情を噛みしめていた。
――記録は、何も語らない。
でも、記録を“読む力”があれば、真実はそこに刻まれている。
尾形が資料を手元に戻しながら言った。
「調査委員会に出すときは、
“法的視点からの妥当性”“技術的な信頼性”“倫理的意義”の三点を押さえること。
それが“記録が人を殺すのではなく、救う”というメッセージになる」
「ありがとうございます。……私、負けません。
“誰が記録を読んでも、結論が同じになる証拠”を提出してみせます」
陽斗がふと笑い、軽く私の腕を叩いた。
「お前が一番怖いのは、“記録を武器にできる理論派”だって、もうバレてるけどな」
「なら、真正面からやるわ。“記録の真偽”で、構造に風穴をあける」
私たちは立ち上がった。
法と技術――二つのフィールドが、再び一つになる時だった。
端末のログ画面を見た瞬間、胸の奥にざわめきが走った。
午前3時22分と、4時11分。
――こんな時間に、YUNOの設計データベースへアクセス?
しかも通信ログは明らかに異常だった。ただの閲覧ではない。PCM(Protocol Control Module)へ、直接的な検索操作。
それは、明確な“意図”を持った動きだ。
「陽斗……これ、私の端末からアクセスされてる」
自分の声が、思ったより冷静で驚いた。
彼も一瞬で表情を険しくし、すぐに画面をのぞき込む。
「つまり、誰かが実際に君のPCに触れたってことだよな」
「ええ。それも、ただの覗き見じゃない。PCMの構造――中枢部分に直接アクセスしてる」
YUNOの強みは、複数メーカーの医療機器をまたいでデータを統合する技術。
その心臓部が、このPCM。あらゆる通信仕様を“翻訳”し、AIに読み解かせる独自モジュール。
それが漏れたら、YUNOの優位性は崩壊する。
背中が、じっとりと冷えた。
ここまで踏み込まれるとは思っていなかった。
これは、ただの妨害じゃない。――技術そのものを奪いに来ている。
私は素早くアクセスログを精査し始めた。
タイムスタンプ、端末ID、VPNルーティング、操作命令のパターン――
ひとつひとつ、仮説を立てて照合していく。
「……見て。模擬環境への実行ログまで確認できた。構造解析を目的としていたのは確実」
「じゃあ問題は、“誰が”やったかだな」
陽斗の言葉に、私は一拍置いて深く頷いた。
頭の中ではすでに三つの仮説が走っていた。
「一つ目は、外部からの不正アクセス。でも、私の端末が実際に操作された以上、その線は薄い。
二つ目は、桐生会内部の誰か。技術に興味を持った者が、裏で手を回してる可能性。
そして三つ目……」
言葉を区切ると、喉が強ばる。けれど、逃げるつもりはなかった。
「私たちの近くに、“久我と繋がっている誰か”がいる」
室内の空気が、目に見えるように張り詰めた。
この空間すら、もう安全とは限らない。そう感じさせるには十分だった。
「陽斗、研究棟の入退室ログを見せて。
このアクセスがあった時刻、誰が出入りしていたか確認したい」
「わかった。大学のセキュリティログを引っ張る」
陽斗が素早くキーを打ち込み、認証画面を操作する。
「……この時間帯に出入りしたのは、二人だけだ」
「誰?」
「俺と、もう一人。非常勤ID。所属は“連携研究機構”。学外からの一時利用者って記録されてる」
聞き覚えのない肩書きに、胸がざわつく。
私はそのIDをコピーし、関係者データベースに照会をかけた。
「……やっぱり。二日前から学内ネットに接続履歴がある。
主に夜間。接続先には、YUNOのリポジトリも含まれてる」
血の気が引いていく感覚。
「これはもう、偶然じゃない。明らかに……情報を奪いに来てる」
深く息を吸い、吐き出す。
ただの嫌がらせではない。技術を標的とした、本格的な偵察行為だ。
「桐生会から情報が漏れ、久我メディカルがYUNOの構造に興味を持った。
そして私たちの研究室を足がかりにして、設計情報を抜きに来ている。そう考えるべきよね」
「ってことは、これはもう……完全な技術戦だ」
陽斗の声に、怒りはなかった。ただ、冷静な覚悟だけがあった。
「じゃあ結鶴、俺の方でPCMコード周辺をローカル環境に移して、クラウド同期を切る。
同時に、偽装データを仕込んで囮にする。“食いついてくる奴”を炙り出そう」
「いいわ。それで証拠が取れれば、あとは私の出番。――“法”の領分だから」
視線を上げたとき、自分の目が冷静で、迷いなく据わっていることに気づいた。
私は、桐生家の末娘じゃない。組織の影でもない。
――一之瀬結鶴として、この構造と闘う。技術と法の名において。
夕刻、陽斗の開発環境で構築した“囮ファイル”の準備が整った。
内容は、実在するYUNOのPCM構造に似せたダミーコードと、虚偽のアクセスルート情報。
あえて不自然に“脆弱な設定”を残してある。食いつかせるには、これで十分だった。
「これで相手が再アクセスしてくれば、シグネチャログに引っかかる」
陽斗の指がキーボードを離れたとき、すでに私の中では覚悟が固まっていた。
――仕掛けられたなら、仕掛け返す。
記録者として。開発者として。
ログ監視は非同期型のスクリプトで常時稼働。
シグネチャベースの侵入検知と合わせて、細かなアクセス挙動まで記録される仕組みだ。
少しでも踏み込めば、時間、挙動、端末特性――すべてが痕跡として残る。
私は、モニターの小さな波形変動にも目を凝らしていた。
このデータの向こうに、“誰か”の意図がある。それを感じ取るために。
そして――深夜0時15分。
ログの一行に、違和感が走った。
「来た」
陽斗が小さくつぶやく。
スクリーンに表示されたのは、“通常の開発者権限”を模した不正アクセス。
だが内部構造への参照頻度、アクセススピード、探索アルゴリズムの選択が、明らかに標準的な利用と異なる。
私はすぐにログのパターンを解析し、タイムスタンプとプロセスIDの不整合を照合する。
そして、見つけた。
「このプロファイル、VPNのトンネルを二重にしてる……。
だけど、パケットのTTL(Time To Live)が一定じゃない。内部経由、つまり――学内から来てる」
「この端末、固定IPじゃない。けど、直前に“連携研究機構”の認証を通してる」
陽斗が素早く確認を終える。
――同一人物。先日の非常勤ID。
私たちの研究室に“侵入”した、あの匿名の一時利用者だ。
ログの末端には、誤ってアクセスされた管理者パスワードの試行履歴も残っていた。
しかも、その入力規則……見覚えがある。桐生会の旧職員用ログインフォーマットだ。
喉の奥が、冷たくなる。
「……誰かが、桐生会の内部情報を持ち出して使ってる。
それも、私たちの技術を潰すために」
陽斗が、いつになく強い視線を私に向けた。
「ここまで来たら、もう証拠は十分だ。
このアクセス痕跡とログデータをまとめて、法人の監査委員会に提出しよう」
「ええ。でも提出だけじゃ足りない。
これは“狙われている”ことの証明だけじゃない。“それを許した構造”も問い直す必要があるわ」
私の声は震えていなかった。
むしろ、今までで一番、はっきりしていたかもしれない。
桐生家の名でも、法人の庇護でもない。
――私は、この構造に「技術」と「記録」で抗うと決めたのだ。
翌朝、私は監査委員会に緊急報告書を提出した。
提出したのは、不正アクセスの詳細ログと、偽装データへの誘導記録。
そして、なによりも重要な証拠――“旧桐生会職員フォーマット”で入力されたパス試行履歴だった。
委員会室の空気は、重かった。
報告書の冒頭に“記録改ざん疑惑の発端とその反証”を記した上で、
今回は“意図的な技術的侵入行為と、組織的な背後関係の可能性”を明示した。
「つまり――この侵入者は、桐生会に過去に所属していたか、
あるいは桐生会の認証規格情報を“現在進行形で保持している”者の関与が疑われるということですね?」
委員の一人が、慎重に言葉を選びながら私に尋ねる。
「はい。そしてその情報が、久我メディカルへ流れ、
YUNOの技術に対して執拗な偵察を仕掛ける動機にも繋がると考えています」
結鶴の声は静かだが、内側には確かな確信があった。
“桐生家の血”に守られてきたわけではない。
今ここにいるのは、一開発者としての――一記録者としての結鶴だった。
陽斗はその傍らで、技術的構成証明と時系列の照合資料を投影していた。
「こちらがアクセス試行ログと、VPNの切替ミスから特定した接続端末の挙動です。
そして、これが既知の桐生会職員用ログインテンプレートとの一致率解析」
解析結果は一目瞭然だった。
誰がどう見ても、“法人内部の情報”が悪用されていた。
結鶴は、そこで一歩踏み込んだ。
「これは、単なる情報漏洩ではありません。
――“誰も責任を持たない構造”が、外部からの浸食を許しているのです」
「つまり……?」
「YUNOの開発と導入は、あくまで私と外部協力者によるものであり、
法人は“正式に関与していない”という立場を取り続けてきました。
しかし今回のように、内部からの技術流出の土壌を放置していたのは、
“関与しない”という立場そのものが責任回避として機能していた証左です」
その言葉に、室内の空気がまた一段と張り詰める。
「この構造を、今ここで可視化しなければ――次は、命に関わる情報が奪われるかもしれません」
結鶴は言い切った。
言葉には熱があった。しかしそれは怒りではなく、覚悟の温度だった。
技術とは、単に便利さを追求するためにあるのではない。
誰が使い、誰が守り、誰が責任を持つか。
それがあってこそ、記録は初めて“信用”へと変わるのだ。
監査委員会での報告が終わった翌日、
桐生会本部の一角で、静かに緊急幹部会議が開かれていた。
「一之瀬結鶴から提出された報告内容、確認したか?」
経営戦略室室長の声は、抑制されていながらも明らかに苛立っていた。
「アクセス元の特定、ログの完全性、照合結果……すべてに瑕疵はなかった」
理事補佐の一人が答える。
「ということは――内部情報が漏れていた。
それも、“どこから漏れたか”ではなく、“どうして漏れていたか”が問われているわけだ」
幹部たちは互いに目配せしながら口を閉ざした。
――誰もが気づいていた。だが、言えなかった。
「旧桐生職員の認証規格、まだ切っていない部門がある」
「しかも、YUNOの試験導入を阻止しようと動いたのは、経営企画と連携していた“あの部署”だ」
結鶴が示したのは、“誰かの過失”ではなかった。
構造そのものが“責任を宙づりにしていた”という証明だったのだ。
一方その頃、陽斗の元に一本のメールが届いていた。
差出人不明のアドレス、件名は《YUNOに近づくな》――
本文は一文だけ。
> 「次は“現場”でエラーが起こるぞ」
陽斗はその画面を、言葉なく結鶴に差し出した。
彼女はそれを一読し、表情を変えず、静かに言った。
「……ついに、表に出たわね」
陽斗の声もまた低かった。
「脅しを始めたってことは、追い詰められてるって証拠だ」
結鶴は深く息を吸い、そして吐いた。
やはり、敵は“法人内の誰か”だけではない。
背後には、久我メディカルという、さらに広い構造の影がある。
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「これ、監査室に届ける。
それと同時に――YUNOの端末ログに“アクセス通知システム”を追加する。
次に来たときは、“現場”じゃなく、“法廷”で答えてもらうから」
陽斗が笑うでもなく、ただうなずいた。
記録は、静かに燃え続けていた。
その炎の先にいる者たちは、もう気づいている――自分たちの影が、記録に映り込んでいることを。
陽斗と共に新たなログ監視機能を実装し終えた頃、
YUNOの本サーバーには、すでに複数のアクセス通知が届いていた。
「やっぱり……動いてる。しかも、仕掛け方が巧妙になってきてる」
陽斗が警告フラグを見ながら呟いた。
それは、敵の焦りの裏返しだった。
記録に対する執着。技術を盗むだけではなく、“技術者の信用”そのものを崩そうとする意思。
私は、その手口のしつこさに憤りすら感じなかった。
むしろ、それだけ“YUNOが本当に届き始めている”という証拠なのだと感じていた。
「陽斗、次の会議……理事会じゃなく、記者会見にする」
彼は少しだけ目を見開き、そしてうなずいた。
「……ついに、“公”に出るのか」
「ええ。このログと証拠、法人内だけで囲っておく段階は過ぎたわ。
誰が関わっていても、記録が語る事実は変わらない。
それなら、記録に語らせるべきでしょう。“誰の責任か”ではなく、“誰の未来のために”かを」
夜の研究棟に、低い振動音が響いた。
サーバーが記録を刻み続けている証。YUNOは、今日も黙って真実を記録している。
結鶴はモニターを閉じ、そっと息を吐いた。
“私はもう、逃げない”――
“名や立場じゃなく、記録と技術で語ると決めたから”
桐生結鶴として。
いや、一之瀬結鶴として。
今度こそ、真実をこの手で掘り起こす。
炎ではなく、静かな光として。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
第7章「影と証明」では、これまで裏にいた存在たちが表舞台に現れ、
結鶴の戦いが「データvs権力」「記録vs沈黙」という形で鮮明になります。
その中で、彼女が見せた“迷い”と“確信”。
完璧ではないけれど、正しさのために歩み続ける姿が、この章の核心です。
影は濃くなり、風向きは変わる。
それでもなお、彼女は“証明する”ことをやめない。
次章、物語はついに決定的な転換点へと向かいます。