表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

17/26

第6章 断ち切られた血脈

いつもお読みいただきありがとうございます。


物語はいよいよ第6章『断ち切られた血脈』へ――

今回はその第1話「裂け目に立つ者」です。


結鶴が立たされるのは、法と現場、記録と空気、

そして家族と理想、そのすべての“裂け目”。


正しさでは届かない現場、

記録では守れない人間関係。

それでも彼女は、“資格”を武器に一歩を踏み出します。


今章は、結鶴が「個」としての覚悟を試される章。

どうぞ最後までお付き合いください。

 YUNOの発表を終え、記録が公に認められ始めたその日、

 私は理事長室の呼び出しを受けた。

 

 「……よくやったな。堂々としていた」

 

 祖父――桐生 清澄は、静かに微笑んでいた。

 その目には、かすかに誇りとも失望ともつかぬ色が宿っていた。

 

 「だが、そろそろ“次の選択”をしてもいい頃じゃないか?」

 

 その言葉に、私は眉をひそめた。

 

 「……次の選択?」

 

 理事長は机上のフォルダを開き、書類を一枚差し出す。

 そこに記されていたのは――

 “久我 悠臣・桐生 結鶴 婚約内定通知(非公開草案)”

 

 「本来は、先日理事会で話すつもりだったが……タイミングを見ていた。

 久我側からは、すでに人事的合意が得られている。

 副院長昇格と、技術部の統合方針も、すべてこの一手で整う」

 

 血が引くような感覚だった。

 

 「……つまり、私は“構造を静かに終わらせる道具”になる、と」

 

 理事長の表情は崩れなかった。

 だが、その沈黙は何より雄弁だった。

 

 「家というものは、個人の想いだけで守れるものではない。

 桐生会も、久我家も、“持続”のためには象徴が必要だ。

 その象徴を担うのが、今の君なのだとしたら……」

「そのために、私の意思を殺せと?」

「……違う。“名前”に力があるうちに、守れる構造を残すのだ」

 

 私は深く息を吐いた。

 

 「祖父としてではなく、“理事長”としての意見、確かに受け取りました」

 

 立ち上がろうとしたとき、その背に追い打ちがかかった。

 

 「それに――君が表で動けば動くほど、兄や姉の評価が揺らぐ。

 このままいけば、家の外も中も崩れるぞ」

 

 私は静かに振り返った。

 

 「なら、崩れていい構造なんです。

 私は“誰かの引き算”で成り立つ役割なんて、望んでいません」

 

 そのまま、私は扉を開けて部屋を出た。

 家の名が、血の重さが、

 そして“令嬢”というラベルが、

 背後で崩れ落ちていく音がした。

 

 その日の夕刻。

 私は呼び出されたまま、旧診療棟の応接室にいた。

 

 扉の向こうから聞こえる足音は、二つ。

 そして現れたのは、兄・桐生 剛志と、姉・桐生 詩織だった。

 

 剛志は消化器外科医。詩織は小児内科医。

 どちらも桐生家が誇る“正統な医師”として、早くから現場を任されてきた。

 

 「……久しぶりね、結鶴」

 詩織が先に口を開いた。

 声は柔らかいが、その裏に張り詰めた緊張がある。

 

 「理事長から話を聞いたわ。あなた、“断った”って?」

「ええ。“私自身の意思”がない話なら、受ける必要はないもの」

 

 剛志がため息をつく。

 「お前の“意思”が、どれだけの人間を巻き込んでるか分かってるのか?

 悠臣さんとの話が潰れたことで、経営連携の再協議が頓挫した」

「それは“私が道具じゃない”という当たり前のことを言っただけよ」

「お前の“当たり前”は、現場を守ってきた俺たちの積み重ねを壊しかねないんだ」

 

 声を荒らげた剛志に、私は静かに目を向けた。

 

 「じゃあ訊くけど――兄さんたちは、

 あの契約が本当に“患者のため”になってると思ってた?」

 

 一瞬、剛志と詩織の動きが止まった。

 

 「契約内容なんて、私たち現場医師には見えないわよ。

 でも、構造が崩れれば、守れる命も守れなくなる。それは本当」

「でも、“構造を盾にした命”って、本当に守られてると思う?」

 

 私は、YUNOが拾った異常波形、ログの未接続、

 データ改ざんの痕跡を一つひとつ話した。

 

 「私が闘ってるのは、構造じゃない。

 “構造を都合よく使って、人の声を封じる仕組み”そのものよ」

 

 詩織がぽつりと言った。

 

 「……結鶴、あんたずっと何か抱えてたのね。

 子どもの頃から、私たちが“医師だから”って一歩引いてた気がした」

「それは――“医師じゃない自分”に価値がないって思わされたからよ」

 

 沈黙が落ちた。

 それは、ただの間ではなかった。

 ようやく始まった、家族の会話だった。

 

 剛志がゆっくりと立ち上がった。

 「……結鶴、お前が戦ってる場所に俺たちは行けない。

 でも、もしその戦いに“本物の記録”があるなら――

 俺は、医師としてその声を聴くよ」

 

 詩織も立ち上がり、軽く頷いた。

 「久我悠臣が“患者”を見てるようには、どうしても思えないのよね。

 それだけは、私たちにも分かる」

 

 そのとき、私は初めて気づいた。

 この家族もまた、“構造の檻”の中でもがいていたのだと。

 

 応接室を出た後、私はしばらく廊下を歩いていた。

 足元がふわふわと宙に浮いているようで、感情の整理が追いつかなかった。

 

 兄と姉の言葉が、意外なほど静かに胸に残っていた。

 

 「構造の外には行けない。でも、記録の声は聴く」――剛志の言葉。

 「久我悠臣が“患者”を見てるようには思えない」――詩織の目線。

 

 私は、ずっと“誰も理解してくれない”と思い込んでいた。

 だけど、そうじゃなかった。

 医師である彼らなりの葛藤も、そこには確かにあった。

 

 だが、だからといって“家族”として簡単に戻れるわけでもない。

 

 私の戦いは、あくまで“構造を変える”ためのもの。

 家族の情や血のつながりに、“盾”や“足枷”にされるつもりはない。

 

 その夜、自宅に戻ると、母が珍しくリビングで待っていた。

 ワインのグラスを片手に、優雅に腰かけていたその姿は、

 まるで“女主人”のような威厳をまとっていた。

 

 「聞いたわよ。悠臣くんの話、断ったんですってね」

「ええ。母さんも賛成だったの?」

「当然でしょう。あの人は“立場”と“未来”を用意してくれている。

 あなたみたいな立ち位置の曖昧な子には、これ以上ない救済よ」

 

 その言葉に、私の中の何かが静かに凍りついた。

 

 「私の立ち位置が“曖昧”って……そうやって、ずっと私を評価してきたのね」

「だってそうでしょう?

 医師じゃない。家の中心じゃない。なのに――今さら何を守るつもりなの?」

「“私”自身を、です」

 

 母は軽く笑い、それから冷たい目を向けてきた。

 

 「あなたが何をしようと、家の名前は変えられない。

 血が繋がっている以上、桐生の一人だという事実は、どこまでもついて回る」

「じゃあ、変えます。

 ……その“血”に縛られない名前で、生きていきます」

 

 その瞬間、母の笑みが消えた。

 

 「まさか、名字を――?」

「はい。正式に、独立申請を出します。

 今後の法人内活動も、“桐生”ではなく“私個人”として進めます」

 

 母はグラスをそっとテーブルに置いた。

 

 「自由にすればいいわ。

 でも、あなたが選んだ“自由”の先で、

 あなたを守るものはもう、何も残らないことを覚えておきなさい」

 

 その言葉を背に、私は静かに自室のドアを閉めた。

 

 “桐生”という名を捨てる。

 それは、令嬢というラベルからの、真の決別だった。

 

 翌朝、私は法務局へ足を運び、改姓の手続きを正式に提出した。

 司法書士資格者である私は、自らの手で書式を整え、印を押した。

 その筆跡のすべてに、“覚悟”を刻み込むように。

 

 新しい名は、一之瀬 結鶴いちのせ・ゆづる

 曾祖母の旧姓から取ったものだ。

 

 桐生という名を捨てたことで、周囲の空気は一変した。

 理事会では正式な反論こそなかったものの、

 ある役員が小さな声でこう呟くのが耳に入った。

 

 「……家の名前で守られてた立場じゃなかったのか?」

 

 それに対して、杉原が淡々と返す。

 

 「その“名前”に頼らず、ここまで記録と契約で戦ってきたのが、彼女です」

 

 法人内報では改姓に関する通知が回され、技術部、法務部の一部からは

 「前例がない」「責任範囲が曖昧になる」といった“懸念”の声も上がった。

 だが、それは“戸惑い”であり、“反発”ではなかった。

 

 むしろ外部からは、別の反応が起こっていた。

 

 《桐生令嬢、家名を棄てIoT技術で医療構造に挑む》

 《“名前”ではなく“記録”で立つ:一之瀬結鶴氏の覚悟》

 専門誌のWeb版や一部医療メディアが、彼女の改姓と活動を特集し始めたのだ。

 

 「なかなか、効いたみたいですね。

 社内は動揺、メディアは評価、現場は“様子見”……って感じです」

 

 陽斗が軽口を叩きながらも、その目には真剣さがあった。

 

 「本気なんだな、結鶴。……あ、ごめん。一之瀬さん?」

「結鶴でいい。名前が変わっても、“私”は変わらないから」

 

 陽斗がふっと笑った。

 

 「いいね。じゃあ俺も、名前に縛られない開発者ってことで――

 あんたに本気で付き合っていくよ、ビジネス的にも、それ以外でも」

「“それ以外”って、何?」

「……それは、もう少し後で聞いてくれ」

 

 その言葉に、私は思わず小さく笑ってしまった。

 新しい名前の響きが、

 少しだけ、未来に温かく響いた気がした。

 


 都内の国際会議場に、私はひとりで降り立った。

 “第17回 日本医療技術未来会議”――

 次世代医療ITとIoTの融合をテーマとした学術的シンポジウム。

 

 今回は、“法人代表”としてではない。

 独立研究者・一之瀬結鶴としての登壇だった。

 

 陽斗が最後まで資料の整形とサンプル映像の処理を手伝ってくれた。

 YUNOが拾った微細な透析圧変動ログと、AIによる予測波形の再現性。

 発表時間はわずか15分。けれど、その15分が、これからの私のすべてになる。

 

 舞台に立つと、フロアの端に知った顔が見えた。

 安東 彰――あの時メッセージをくれた外部医師だ。

 白衣の下に私服を重ねているあたり、彼らしさは相変わらずだった。

 

 「……一之瀬結鶴と申します。

 本日は、記録が命を守る“もう一つの臨床データ”となりうる可能性について、

 実例を交えてご紹介いたします」

 

 壇上で映し出される波形、タイムスタンプ、処置タイミング。

 私の声は、静かに、だが揺るがずに観衆へと届いていった。

 

 「これは、医師や看護師の判断を補完するものではなく、

 “目の届かない隙間”を埋める、記録による新しい命の見守りです」

 

 拍手が会場を包んだ瞬間、私は初めて確信した。

 “名前”ではない。“記録”で、私はこの場に立っている。

 

 だがその夜、ホテルの部屋でPCを開いた私は、別の現実を突きつけられる。

 

 《一之瀬結鶴氏、桐生医療法人との関係を曖昧にしたまま研究発表か?》

 《個人ベンチャーによる医療データの不適切使用疑義》

 

 SNSとまとめ系メディアを通じて、

 「発表に不正があるのでは」という匿名発信が拡散していた。

 

 「……これ、意図的に“桐生家との関係を隠していた”って論調で流れてる」

 

 陽斗が電話越しに言った。

 

 「久我側か? 情報が早すぎる」

「名を変えても、“過去”は構造に繋がれてるってことか」

 

 YUNOの信頼性を問うわけではなく、

 “発信者の正統性”を狙い撃ちにする古典的な攻撃。

 

 でも――それは、想定の範囲内だった。

 

 「記録を否定できないなら、記録者を潰す。それがあの人たちのやり方」

 

 私は、冷たく光る画面を閉じた。

 でも、もう怯えない。

 私は“結鶴”ではなく、“一之瀬”としてここにいる。

 

 国際会議から二日後。

 医療専門誌からの取材依頼が私のもとに届いた。

 

 件名:『次世代医療の“裏側”にある記録と正義』

 記者名:羽鳥あかね(医療サイエンスレビュー編集部)

 

 「名前を変えても、あなたの言葉が人に届いた証です」

 そう言ったのは、記者の羽鳥だった。

 端正なスーツに揺るがぬ眼差し、

 情報という武器で真実を追うタイプだとすぐ分かった。

 

 「記録技術は、常に“結果”で評価されるべきです。

 一之瀬さんのYUNO、その先を私は見たいんです」

 

 彼女とのインタビューが掲載されたのは三日後。

 『構造を揺るがす記録の女』――刺激的な見出しに、私は思わず苦笑した。

 

 だが、その記事が医療系SNSで拡散され、

 YUNOは“注目される技術”から、“支持される思想”へと変わり始めていた。

 

 「次は臨床検証案件が通れば、導入病院も現れると思う。

 あとは――こっちの“身辺”がどう動くか、だな」

 

 陽斗がそう言ったとき、私は警戒していた。

 そしてその直後、やはり動いたのは――久我 悠臣だった。

 

 法人内の事務局を通じて、“YUNO開発経緯に関する報告要請”が届いたのだ。

 差出人:副院長候補 久我 悠臣。

 

 「報告書……? 何の目的で?」

「形式上は“機器安全性の監査”らしい。

 でも、“個人ベンチャーが法人資産に関与していないか”って方向の質問が並んでる」

 

 これは、“構造から個人を排除する”ための精査だった。

 技術を潰すのではなく、“正統な組織に属さない人間”を静かに排除する手口。

 

 「情報の流出はなかった。設備はすべて個人負担。開発データも法人外保管。

 ……それでも、証明しきれなければ、YUNOは“違法開発物”になる」

 

 私は一つ、覚悟を決めた。

 

 「この報告会、出ます。

 ただの報告じゃない。“記録の責任者”として、“開発者”として――正面から立ちます」

 

 陽斗が微笑んだ。

 

 「……じゃあ、俺も出るよ。

 開発責任者として、“法人と何の関係もない外部人間”としてな」

 

 外からの支援は広がっていた。

 だが、内側の構造は、なおも牙を隠している。

 

 それでも、私は行く。

 もう、名前ではなく、“この手で生み出した記録”が私を支えているから。

 

 報告会と名のついたその場は、想像以上に“閉じられた空間”だった。

 医療法人の監査室、窓のない会議室。

 そこにいたのは、事務局の統括、法務室の三輪、技術部の阿久根、

 そして副院長候補――久我 悠臣。

 

 「それでは、開発経緯と法人資産との関係について、順を追ってご説明いただけますか」

 

 悠臣の声は静かだった。

 だがその瞳は、記録者としての私ではなく、“排除対象”としての一之瀬結鶴を見ていた。

 

 「YUNOは、個人研究開発として始動しました。

 初期資材、回路設計、組み込みソフトはすべて私の個人資金。

 法人設備の使用履歴はゼロ。

 通信端末も外部独立プロトコルを採用し、法人ネットには接続しておりません」

 

 私は用意していた報告書の一部をスクリーンに表示しながら、

 逐一、記録で証明していく。

 

 「現在、法人内での試験導入についても、“協議中”という扱いであり、

 正式な契約関与はまだ成立しておりません」

 

 陽斗が後ろから手を挙げた。

 

 「技術提供者として私からも。

 当方、法人には一切雇用・委託関係はありません。

 また、YUNOの基幹回路設計とフィードバックアルゴリズムは、

 私個人が取得済みの特許資料に準拠しています」

 

 阿久根が資料を見ながら、うなずく。

 

 「こちらでも開発記録と突合しましたが、確かに法人側の権利主張は難しい構造です。

 強いて言うなら、“桐生家の内部開発者による開発”というイメージだけが残っていた」

 

 悠臣の視線が、ふとこちらに戻る。

 

 「では、法人内で発生した臨床ログの使用については?」

「患者同意の下、法人倫理委員会の“事後承認枠”に基づいて保管され、

 記録公開の際は匿名化処理と補足情報削除済みです」

 

 私は悠臣の問いに、目を逸らさず答えた。

 

 「私は、“情報の利用”において、誰より慎重だったつもりです。

 なぜなら、記録とは“信用のかたち”だからです」

 

 悠臣の口元が、かすかに動く。

 表情は変わらない。だが、その沈黙こそが彼の“敗北”だった。

 

 三輪がまとめを口にする。

 

 「問題点は確認できず。法人資産との重複、使用、契約違反の痕跡もなし。

 この件は――“記録者の裁量範囲”として報告を留めます」

 

 静かな、だが確かな“合格印”。

 

 報告会は終わった。

 帰り際、私は一瞬だけ、悠臣と目が合った。

 

 「記録とは、証拠になる。

 でも、時にそれは――火種にもなる。忘れないことです」

「それでも私は、“燃える記録”で闘います。

 偽れないものだけが、真実になるから」

 

 扉が閉じる音が、どこまでも静かだった。

 

 報告会の翌朝、私は桐生会に正式な書類を提出した。

 法人内すべての役職・役割からの辞任届。

 加えて――“桐生家の人間”として保持していた理事長孫娘の名義撤回。

 

 “桐生結鶴”という存在が、桐生会の中から完全に消える。

 

 法人内ネットワークから私の名前が除外されると、

 システムの一部が少しだけ軽くなったように感じた。

 けれどその代わりに、責任の重みが全身に乗った。

 

 オフィスの片隅に置いた私物をまとめていると、杉原がそっと現れた。

 

 「……本当に、行くのか」

「はい。“名前に戻らない道”を選びましたから」

「名前を変えるのは簡単でも、繋がりを断つのは難しいぞ」

「それでも、“繋がっているふり”をする方が、もっと難しいです」

 

 杉原は少しだけ目を伏せ、それから手を差し出してきた。

 

 「じゃあ、次に会うときは――俺も、個人として“桐生の中”じゃなく、“君の外”から話そう」

「そのときは、ぜひ技術顧問としてスカウトさせてください」

「報酬次第だな」

 

 私たちは微笑み、手を握り合った。

 それは“家”ではなく、“意思”で結ばれた信頼だった。

 

 

 夜。

 新しく借りたワンルームの作業場で、

 陽斗が段ボールを引きずって運び込んできた。

 

 「ほら、YUNOの開発ボードと診断アルゴリズム、再構築用のサーバーだ」

「業務用並みの物量……。よく一日でこれだけ詰めたわね」

「引越し慣れてんの、開発者って。

 環境、場所、周囲――全部変わっても、“コード”が残ればまた始められるからさ」

 

 彼は一息ついて、ペットボトルの水を開ける。

 そして、少しだけ視線を逸らしながらこう言った。

 

 「……今日で、全部背負ったわけじゃん。

 名字も、立場も、家族も、組織も。

 それでもさ、俺――これからも、結鶴の“隣”にいたいと思ってる」

 

 私は驚いた。

 陽斗が、こんなふうに“個人としての想い”を口にするなんて。

 

 「……ありがとう。でも、それって、どういう意味?」

「えっと、まあ、つまり――

 好きだって、そういう話」

 

 私の胸が、少しだけ痛むほどに震えた。

 でもその痛みは、どこか温かいものだった。

 

 「なら、もう少しこのプロジェクトが落ち着いたら、

 ちゃんと“仕事じゃない顔”で向き合ってみようか」

「えっ、それってつまり……」

「保留。今は、技術の未来が恋人よ」

 

 陽斗は苦笑しながら、思い切り首をかいた。

 

 “桐生”を断った。

 でも、“新しいつながり”が、ちゃんと私を受け止めてくれている。

 

 名前が変わっても、道を変えても、

 私は医療と、記録と、人と、まっすぐに向き合っていたい。

 

 だからこそ、私は進む。

 “イノセント・デバイス”――

 名もなき者の正しさを、証明する技術とともに。

最後までお読みいただきありがとうございました!


今回は結鶴があらゆる価値観の交差点に立たされる場面でした。


それは技術者としての倫理、

司法書士としての責任、

そして“桐生の血”を引く者としての孤独。


この回を経て、彼女はもう“庇護された存在”ではありません。

誰かに託されるのではなく、誰かを守る覚悟を持った“当事者”となっていきます。


次回、彼女の決断が“血脈”に波紋を広げていきます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ