第5章 記録が裁く日③ 決別の時
今回もご覧いただきありがとうございます。
第5章③「決別の時」では、主人公・結鶴が、組織からの“誘い”と“責任追及”の狭間で、
自らの立場と信念をはっきりと選び取ります。
ここで描かれるのは、「記録」が評価され始めたことで起こる“内部の緊張”と、
それに対して、“ただの資格者”としてどう立ち向かうのかという問いです。
物語は今、“沈黙させられる現場”を超え、
“声を持つ記録”が正面から問われる段階へと入りました。
私は視線を逸らしそうになった。
だが、それをぐっと堪えた。
「……何が“幸福”か、まだ自分でも定義できません。
でも、私は自分の意思でここに立ってます」
「ならば、その意思が“最大限に活きる場”を考えるのも、戦略の一つでは?」
葉山は資料を差し出してきた。
「ここに、我々が想定するYUNOの事業展開案があります。
既存の医療法人に縛られない、独立したデータプラットフォーム構想。
しかも、あなたがその“記録責任者”として名を刻む――つまり、事業の顔となる形です」
「……つまり、“誘い”ですね」
「選択肢です。
それを拒絶するのは自由。
けれど、今のあなたは、“自由がない場所で戦っている”ようにも見えます」
言い終えた葉山は、どこか寂しげに微笑んだ。
「結鶴さん。……あなたは、あまりに孤独に見える」
私は、その言葉に思わず言い返しそうになった。
けれど、ふと陽斗の顔が浮かんだ。
彼の雑なノート、必死な開発資料、無駄話みたいなやりとりの中にあった“共に立つ姿”。
孤独? 違う。
「私は、孤独じゃありません。
共に戦う人がいて、信じる技術がある。
それで十分です」
葉山は立ち上がり、最後にこう言った。
「その答えが、変わる日が来たら――もう一度、声をかけてください。
私たちは、あなたの“選択”を尊重しますから」
彼は、敵ではなかった。
でも、“私を連れ去ろうとする現実”だった。
法人の医療技術部から、突然の連絡が入った。
《YUNOの症例ログが、外部カンファレンスでの発表候補に選出された》――
私は通知を見た瞬間、思わず目を疑った。
これまで、YUNOの存在は「参考資料」扱いに留められ続けていた。
それが今、“公の臨床研究として取り上げられる”――
「これは、ついに“表舞台”ってことですよ。結鶴さん!」
陽斗が満面の笑みで報告してくる。
彼の手には、スライド用にまとめられた波形グラフと患者アウトカムの記録。
「透析室のあの症例。YUNOが拾った波形と、実際の処置タイミングの一致が注目されてるらしい。
研究会の審査委員が“記録というより予測モデル”として評価したって!」
「記録から予測へ……。つまり、YUNOが“未来の医療の一端”として見られ始めたってことね」
私は端末を手に取り、提出予定の抄録データを確認した。
そこには、自分の名前が共同発表者として記されていた。
けれどその時、法務室から届いた一通のメールが、冷たい現実を突きつけてきた。
件名:久我 悠臣氏より緊急照会
> 「結鶴氏が開発に関与したYUNO技術について、法人外発表に際し“許諾手続き”が未確認である」
> 「当該発表が契約違反、もしくは情報漏洩に該当する可能性を指摘する声が一部理事より上がっている」
> 「理事会で正式協議の可能性あり」
陽斗が、文面を読み終えて苦々しい顔をする。
「……これは“差し止め”を狙った動きだな。
外に出られる前に、発表そのものを“危険情報扱い”にしようってことか」
「予測してた。けど、想像以上に早い……そして、悠臣さんの手際もいい」
久我 悠臣。
医師としての能力だけでなく、構造を守る執行者としての動きは、抜け目がない。
だが、その中にも綻びがあった。
「これ、ねじ込み方が急すぎる。
発表自体が“未確認”って言ってるけど、医療技術部はちゃんとチェック通してる」
「つまり、“理事会での恣意的判断”がないと止められない。
……逆に言えば、“記録の正当性を問うチャンス”でもある」
私は、理事会に向けて新たな資料を準備し始めた。
今度は――
“記録”そのものの信用性を正式に認めさせるための戦い。
抄録のスライドには、こう記した。
《この記録が証明したのは、“機械の精度”ではない。
医療現場の“沈黙の兆候”を拾う、もう一つの声の在り方だ》
戦いの場所は変わっても、私の武器は変わらない。
“記録”で語る。
“記録”で守る。
そして――“記録”で、構造を変える。
理事会は再び開かれた。
今回の議題は異例の扱いで――
《医療IoT補助システム(YUNO)による症例ログ発表に関する可否確認》
提案者:医療技術部
照会者:久我 悠臣
私は発言席のひとつ後ろ、参考人として資料を抱えて座っていた。
正式な理事ではない。ただの“資格保持者”だ。
だが、今日はその“ただの資格”を、最大の武器として戦うつもりだった。
悠臣が静かに立ち上がる。
白衣ではなく、ネイビースーツに切り替えた姿が、今日の彼の立場を物語っていた。
「結論から申し上げます。
YUNOは現在、法人内正式機器とは認定されておらず、
そのログを用いた外部発表は“独自判断による研究発表”に該当します」
彼は端正な言葉で、静かに語る。
「つまり、発表の責任は、桐生 結鶴個人に帰属する」と。
会場がざわめく中、私は起立を求められた。
誰も声をかけてこない。
ただ、“責任を持つ者”としての空気が、理事全体から向けられていた。
私は一礼し、理路整然と語り始めた。
「確かに、YUNOは法人内機器としての認定を受けていません。
しかし、今回提出した症例ログは、既存装置の補助装置として稼働したデータであり、
担当技師、看護師、主治医の3者によって“診断補助情報として利用された”という正式な記録が残っています」
理事の一人が声を上げた。
「それは臨床的エビデンスとして扱えるものなのか?」
「扱えます。
私は臨床工学技士として、定められた技術記録ガイドラインに従ってログを保管し、
さらに司法書士として、ログ提出の法的根拠と責任所在も明示しております」
私はスライドを掲げた。
《記録とは、過去の証拠であり、未来の予兆でもある》
「このログは、ただの波形や数字の羅列ではありません。
患者の体に起きていた“異変”を、まだ誰も気づかぬ段階で捉えたものです。
それを無視するというのは、“命の前兆を黙殺する”ことと同義です」
その瞬間、静寂が会議室を支配した。
すると、思いがけない人物――理事の一人である外部顧問医師・大河内が、口を開いた。
「……私は、この記録を“エビデンス補助”とみなしても問題ないと考える。
現場で命を扱っている以上、“記録の正当性”を問うなら、
それは“扱った人間の責任と技術”によって評価されるべきだ」
静かな肯定。それは、結鶴にとって初めての明確な味方の声だった。
議決は持ち越しとなった。
だが、資料は理事会として正式に受理された。
それは、「この記録は審議に値する」と認められた証だった。
会議が終わった後、私は資料を胸に抱えて廊下に立っていた。
そこへ、杉原が静かに近づいてくる。
「通したな。……お前の“資格”が、組織を黙らせた」
「まだ、黙ってない人もいますけどね。久我 悠臣さんとか」
「まあな。あいつは、次の手を用意してるだろう。
だが、今日のお前の発言は記録された。“裁く日”は始まったんだ」
私はうなずき、ゆっくりと前を向いた。
記録が、組織に問うた初めての一歩。
資格を持つ者として、医療を支える者として、
そして、自分自身の未来を選ぶ者として――
私は、次の章へと歩み始めた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回、結鶴は「組織に残るか、外に出るか」という誘いに直面しながらも、
“孤独ではない”という実感とともに、戦う場を自ら選びました。
そして、YUNOの記録が「未来の医療の一端」として外部に認められそうになった瞬間、
久我 悠臣の手により“法的抑圧”が始まります。
けれど結鶴は、“資格”という唯一の立脚点をもって理事会に立ち、
「記録はエビデンスである」と真正面から語りました。
この回はまさに、“告発”が“制度と倫理”とぶつかる本格的な序章。
物語は次章、さらに加速していきます。