第5章 記録が裁く日① 静かな対決
いつもお読みいただきありがとうございます。
ついに物語は、第5章「記録が裁く日」へと突入しました。
第5章①「静かな対決」では、主人公・結鶴が、自身の名を掲げて理事会に登壇します。
これは、医療法人という巨大な構造に対し、“記録”を根拠に正面から問いを突きつける瞬間です。
静かに、しかし確実に、構造を揺るがす一石が投じられます。
そして、その舞台裏で動き出すのは――“政略”と“対価”。
理事会の議題一覧に、自分の名前が記される日が来るとは――
そう思いながら、私は淡々と髪をまとめ、研究棟の鏡に向かっていた。
議題第六号。
《医療機器導入契約における利益相反および情報統制構造の是正に関する提案》
提出者:桐生 結鶴
これまで私は、誰の代弁者でもなかった。
ただ、誰の声も届かない場所で“記録を残す”ことしかできなかった。
でも今日は違う。
記録が裁く日。
私が、その声を直接ぶつける。
理事会が開かれる本館の会議室前。
すでに複数の理事が中へ入っていく。
私は静かに扉の前で深呼吸をしようとした、その時――
「……結鶴」
振り返ると、そこに立っていたのは、
祖父であり、理事長――桐生 清澄。
「今日の議題、君が本当に出したのか?」
「ええ。すべて事実に基づいた文書です。
私が見た記録、受け取った証言、そして調査の結果です」
理事長は、視線をわずかに下げ、ため息交じりに言った。
「このままでは、法人が分裂しかねない。
……結鶴。少し落ち着いて考えてみないか」
その瞬間、私は悟った。
これは“火消し”ではない。
――政略だ。
「……つまり、久我家との提携を、今ここで守りたいと」
「久我 悠臣君のことは知っているな。
彼は既に副院長としての推薦も挙がっている。
医療者として、人格も優れている。
もし君が結婚すれば、法人間の対立は静かに解消できる」
私は静かに目を閉じた。
――やはり来た。
家名。血統。医師としての血。
そういう“ラベル”で、私の意志を封じる提案。
「お爺様。私は、資格で立っています。
名前でも、家でもありません。
もし今、私がこの議題を降りるなら――
この構造は“誰もが飲み込まれる前提”として、再び繰り返されることになります」
「……これは感情ではない。冷静な判断としての提案だ」
「ええ。だから、私も冷静にお断りします」
その言葉を残し、私は会議室の扉を開いた。
結鶴という名前が、
初めて、“構造に立ち向かう記録者”として議場に響く日だった。
重厚な扉の内側――そこには、白衣と背広を纏った十二名の理事が揃っていた。
中央最奥に理事長・桐生清澄、その隣に経営戦略室長補佐・鷹谷航。
正面には、私のために用意された一席と、“提出者”と明記された名札。
「議題六。契約構造に関する再審請求と、記録提出に基づく法人内検証の提案。
提出者、桐生 結鶴氏」
進行役の事務局長が読み上げる声が、静寂の中で反響した。
私は、A4で15枚の要点資料を配布し、一礼して立ち上がった。
「桐生結鶴と申します。
本日は、過去に結ばれた包括契約の内容、その運用実態、
そして現場の抑圧構造について、三つの観点からご報告と提案を行います」
私はスライドの一枚目を掲示した。
タイトルは──
《利益相反構造に基づく機器契約の不正性と、現場記録による検証の必要性》
「第一に、過去の契約を締結した当時の副理事長・小瀬昭典氏が、現在久我メディカルの顧問職にあること。
これは独占禁止法及び公益法人法における“利害関係者による判断形成”の懸念と重なります」
静かに数人が頷く。
しかし、ある理事が手を挙げた。
「だが、それは“結果的な進路”であって、違法性を示す直接証拠とは言えないのでは?」
「その通りです。だからこそ私は“記録”に着目しました」
私はファイルの一枚を手元でめくる。
「こちらは、十年前の機器導入時に記録された初期通信ログです。
ここには、導入直後の設定で、患者データの一部が久我メディカル側のサーバへ
自動送信されていた痕跡が残っています」
理事たちの視線が、一気に資料へと集中した。
「これが事実であるならば、契約書で明記されていない“第三者送信”に該当し、
個人情報保護法、並びに医療情報ガイドラインにおいて重大な違反となります」
ここで、鷹谷が口を開いた。
「提出されたこのログ、接続元とタイムスタンプが一致しないようにも見えますが?」
「その点も含めて、私は“現場記録と法人記録の照合分析”を提案しています。
どちらが真実を語るかは、データがすべてです。
むしろ、“公式ログがどこまで透明なのか”こそ、今検証すべきことです」
その瞬間、議場の空気が少しだけ傾いた。
“契約”は文字の積み重ねだ。
でも、“記録”は誰にもごまかせない。
私は最後のスライドを映す。
《記録を封じる構造は、いずれ命をも封じる》
「私がここに立ったのは、組織の敵としてではありません。
この法人が“誰のために存在するのか”を、記録で照らしたかっただけです。
未来の患者と現場の技士たちのために、今日、見直すべきです」
張り詰めた沈黙。
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
だが、確かに私は投じた。
この記録という名の爆弾を、組織の核心へ。
理事会での発言が終わっても、議場はすぐには動かなかった。
誰もがその場で結論を出すことを恐れ、事務局は「事実関係の精査の上、次回議題継続」とだけ告げ、会は静かに散会へと向かった。
私は会議室を出た廊下で、深く息を吐いた。
投じた記録の爆弾は、確かに届いた。
でも、その破片が誰に刺さるか、まだ分からない。
そこへ、白衣姿の一人の男が姿を現した。
端正な顔立ちに、抑えた微笑み。
背後には常に空気のように秘書が付き従い、
存在そのものが「選ばれた側」であることを示していた。
久我 悠臣。
久我メディカル創業家の次男にして、米国帰りの放射線診断専門医。
彼は近年、“経営と技術を兼ね備えた医師”として法人幹部内で評価されていた。
「桐生さん、理事会でのご発言、拝聴させていただきましたよ」
淡々とした口調だが、どこか“上から”の含みが滲んでいる。
「――事実に基づいた内容でした。ただ、こういった話は、
もう少し静かな場で共有すべきだったのでは?」
「場の静けさより、構造の透明性が優先されるべきだと、私は思います」
「構造……ね。構造はね、壊すことより“維持する側”がどれだけ難しいか、君もそのうち気づくでしょう」
彼の言葉は、批判というより、“忠告”を装った懐柔だった。
けれど、私はその奥に、はっきりと見えた。
彼の言葉のどこにも、“現場”や“患者”という言葉はなかった。
「副院長、というお話。すでに推薦が上がっているようですね」
私がそう問うと、悠臣は一拍置いて微笑んだ。
「法人というものは、“技術”と“資本”と“安定”の三つで動くものです。
そこに“情熱”や“理念”が割り込むと、組織は迷走する。
私は、それを整える側として動いていくつもりです」
「整える、というのは、“都合の悪い声を黙らせる”ことも含まれるのですか?」
「君が言う“都合の悪い声”も、体制が崩れれば誰も守れないんですよ。
私なら、君の能力も、立場も、“もっと有効に”使えるのに」
その言葉に、私は微かに口元を引き締めた。
なるほど――理事長が“推す理由”がよく分かる。
体制を保ち、記録を“制御された情報”として再定義するための、完璧な“執行者”。
私は静かに頭を下げ、言った。
「お気遣いありがとうございます。でも、私は“使われる立場”に戻るつもりはありません」
背を向けたとき、彼の声が背後から追ってきた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
この章では、結鶴が“内部からの告発者”として公に名乗りを上げ、
契約と記録に基づく疑義を理事会の場で提示する場面が描かれました。
注目していただきたいのは、“火消し”ではなく“政略”として動く理事長、
そして、構造を保とうとする者たちの論理です。
記録は正しいだけでは通用しない。
だからこそ、正しい記録を、正しい場所で提示する必要がある。
この章から、結鶴の“孤独な戦い”は、“組織の戦い”へと移っていきます。




