義妹の婚約者に完膚なきまでにやり返した
「まあ、今日もお美しいわ……」
「本当に、『完璧な淑女』でいらっしゃる」
とある侯爵家で開催された夜会で、ひとりの伯爵令嬢が周囲の視線を恣にしていた。
上品な青のドレスに、シンプルだが良質なサファイアがはめこまれたネックレス、そんな宝飾品にまったく引けを取らない美しい容貌、ひとつひとつの動作も洗練されており、浮かべた笑みにも一点の隙がない。彼女がほほ笑むたびに目の前の人物はその美しさに見とれ、彼女が目の前を通ればうっとりとしたため息が人々からもれる。
そんな王国随一とも言われる「完璧な淑女」を、うっとうしそうに見つめる視線があった。
彼の名はヴィルヘルム。側妃腹の第四王子で、王族特有の銀髪を持ち、それなりに整った顔立ちの、「完璧な淑女」の婚約者でもある。継承権は第六位と低く、また、母の生家が子爵家と後ろ盾も期待できないことから、彼は比較的自由に育ってきた。嫌な勉強や訓練からは逃げがちで、将来を憂えた側妃が、なんとかつてを使って結ばれたのが「完璧な淑女」との婚約であった。
将来国王となることはなくとも、王子として平穏に生きられるようにという母の気持ちを、この王子は理解するどころか、「あの女のわがままで結ばれた婚約」と間違って理解していた。側妃が一生懸命息子を諭しても、彼は「母上も騙されている」としか見えていなかった。
だからこそ、彼は今日の夜会で必ずやり遂げねばならないとも考えていた。
「完璧な淑女」との婚約破棄を――。
「エリアーヌ・シュテンヒルド!貴様は、王族の婚約者にふさわしくない!よってここに婚約破棄を宣言する」
ヴィルヘルムが居丈高に宣言する。彼の後ろには数人の取り巻きが、人を馬鹿にするような笑みを浮かべ、エリアーヌを見つめている。そのなかには、本日の夜会の主催者である侯爵家の三男もいた。どうやらヴィルヘルムは自分の取り巻きが多いこの夜会を狙っていたようだ。
婚約破棄を宣言された「完璧な淑女」――エリアーヌは、変わらぬ笑みを浮かべこてんと首を傾げる。その仕草すら、人々はぼうっとほうけてしまう美しさだ。
「……殿下、このような場でいかがなさいましたか?」
まるで幼子に諭すようなやわらかな口調でエリアーヌはヴィルヘルムに声をかける。彼女の脳内では、いかに何事もなくこの場をおさめるか、高速のシミュレーションが始まっていた。
「今までよくもわれわれを騙したものだ。貴様、本当は伯爵の娘ではないのだろう?」
ヴィルヘルムの暴露に、周囲がざわつく。エリアーヌの思考も一瞬止まった。
「高貴な血を持たないお前が王族になるなどもってのほか!この婚約は破棄する!」
このとき、エリアーヌははじめて顔を伏せた。その様子を見てヴィルヘルムは勝ち誇ったように笑う。やはり出自を偽り王族に嫁ごうとしたのだと、彼は悪を成敗した爽快感にひたっていた。
「婚約破棄は、側妃様もご承知のことでございますか?」
「母上には私からきちんと言っておくさ。王族を騙そうとしたお前との婚約破棄を喜ばないわけがないだろう」
「……承知いたしました」
「おい、そこの罪人を捕らえろ!」
ヴィルヘルムの言葉に、周囲の人間だけでなく取り巻きたちもぎょっとする。エリアーヌが明確な罪を犯したという証拠はない。その状態で、仮にも伯爵籍にある令嬢を捕らえるなど大問題だ。
「で、殿下、さすがにそれはやり過ぎでは……」
「しかし、こいつは王族を騙したのだぞ!?」
「側妃様にご報告してからでも遅くはないかと」
取り巻きの必死な様子に、ヴィルヘルムは小さく舌打ちをする。
「仕方ない。追って沙汰をくだす。お前は今すぐ夜会から出て行け!」
「かしこまりました」
エリアーヌは周囲が息を呑むほどのカーテシーを披露し、夜会会場をあとにした。去っていくエリアーヌはいつも通りぴんと背筋を伸ばし、やはり一点の隙もない笑みを浮かべて、罪人だと罵られたとは思えないほど完璧な立ち居振る舞いだったとその場にいた貴族たちは後に証言している。
「なんですって!?」
エリアーヌが帰宅するよりも早く、夜会での事の次第を伝える早馬がシュテンヒルド伯爵家に到着していた。その報告を聞いたサファイア・シュテンヒルド伯爵夫人は、めずらしく怒りで声を荒げた。侯爵令嬢として淑女教育を受け、伯爵夫人として嫁いだ彼女は感情を表に出すことはほとんどない。
しかし、義妹に関することは別である。初めてエリアーヌと出会った日から、サファイアはシュテンヒルド伯爵家の人間以上にエリアーヌをかわいがり、愛し、エリアーヌを国一番の淑女とすべく全身全霊を注いできた。時にはエリアーヌの義兄であり、サファイアの夫でもあるマリウスが嫉妬するほどである。
マリウスと五年前に結婚し、一男一女をもうけ、さらには現在新たな命を宿しながらも、サファイアのエリアーヌへの愛情はとどまることを知らない。
そんなどこに出しても恥ずかしくない「完璧な淑女」となったエリアーヌに、側妃がどうしてもと言うので渋々婚約者とし、エリアーヌに不便がないようにとシュテンヒルド伯爵家およびサファイアの生家でもあるオデット侯爵家が側妃と第四王子の後ろ盾となり、金銭的にも援助を惜しみなく行っていたというのに。
サファイアは、最初の顔合わせのことを思い出していた。思い返せば第四王子は、エリアーヌの完璧なカーテシーを見て自分の愚かさを実感したのか、どこかおもしろくなさそうな顔をエリアーヌに向けていた。それからは、髪型が気に入らない、笑い方が変だと、ネチネチと文句をつける日々だった。
エリアーヌがそれらすべてをすばらしい努力で乗り越えると、第四王子としてやるべき仕事をエリアーヌに押しつけるようになった。しかしそれらも完璧にこなし、側近たちの評判も上げるエリアーヌを、やはりヴィルヘルムは苦々しく思っていたのである。
そんな状況をサファイアは憤懣やるかたない思いで見ていたので、どうにかしてこの婚約を解消できないかとあれこれと策をめぐらしていた矢先のことであった。
この際婚約破棄は問題ない。しかしこれでは、エリアーヌに傷が残ってしまう。本当によくもやってくれたものだと、サファイアは報告書をにぎりしめた。
「サファイア、御者がおびえているよ」
家令に呼ばれたらしいマリウスがやってきて、サファイアの肩を抱く。大きくなりはじめた腹をなで、ソファに座るよううながした。
「旦那様……わたくし、許せないわ」
サファイアの目にじわりと涙が浮かぶ。
「僕も同じだよ。でも今は落ち着いて。お腹の子にもさわるし、もうすぐエリアーヌが帰ってくるんだろう?」
「……ありがとう、そうね。一番つらいのはエリアーヌなんだから、わたくしがしっかりしなくては」
サファイアは肩に置かれたマリウスの手に自分の手を重ねにっこりと笑う。
「その前に、お兄様にお手紙を書かなくては。……そこのあなた、申し訳ないのだけれど、オデット侯爵家へも行っていただける?」
すっかり伯爵夫人然とした態度を取り戻したサファイアの笑みに、御者は背筋が寒くなる思いがした。
第四王子ヴィルヘルムとの婚約が整ってから、エリアーヌはヴィルヘルムを支えるべく研鑽を積んできたつもりだった。ヴィルヘルムが自分を疎ましく思っていることは知っていたが、いつか憧れの義兄と義姉夫婦のようになれればと、エリアーヌなりに心を砕いて接してきたつもりだ。
「高貴な血を持たないお前が王族になるなどもってのほか!この婚約は破棄する!」
ヴィルヘルムの言葉を思い出し、エリアーヌはドレスの裾をぎゅっとつかむ。自分の努力はヴィルヘルムに届くどころか、最も最悪な形で壊れてしまった。
今後自分にまともな縁談が望めないのはまだいい。実の両親が亡くなり、天涯孤独になるはずだった自分を引き取って育ててくれたシュテンヒルド伯爵家に迷惑がかかることが何より苦しいとエリアーヌは思っていた。
エリアーヌの脳裏に、ほほ笑む義姉の顔がよぎる。この話を聞けば、義姉は今度こそエリアーヌにあきれてもう二度と「お義姉さま」と呼ばせてもらえないかもしれない。そう考えると、自然と涙がこぼれる。
馬車が無事シュテンヒルド伯爵家に到着すると、エリアーヌは慌てて涙を拭って笑みを浮かべる。目がはれているだろうとは思ったが、何でもないように振る舞わなくてはと、エリアーヌは背筋を伸ばして屋敷の玄関をくぐった。
「おかえりなさい、エリアーヌ」
このまま追い出されるのではないかと考えていたエリアーヌだったが、意外にも出迎えはあたたかいものだった。
「お、お義姉さま……?」
「こらこらサファイア、いきなり抱きつくものじゃないよ」
あきれたように義兄のマリウスが笑う。そのいつも通りの声音に、エリアーヌは驚きを隠すことができなかった。すでに婚約破棄の件を御者から聞いていると思ったけれど、もしかしてまだなのだろうか。エリアーヌはどくどくと早鐘を打つ心臓をなんとかおさえ、恐る恐る口を開く。
「あの、わたくし……」
「エリアーヌ、本当に大変だったわね。でも何も心配いらないわ。マリウスとわたくしに任せてちょうだい」
エリアーヌが言うよりも早く、サファイアが安心させるようにエリアーヌのほほを撫でる。いつもと変わらないそのぬくもりに、エリアーヌは自然と涙があふれる。
「お義姉さま、申し訳ございません。わたくしの力が及ばず……」
「まあ、何を謝ることがあって?悪いのはあの馬鹿王子なんだから」
「サファイア、いくら本当のことだからって」
「旦那様だってよくおっしゃってるじゃない」
「あはは、だって本当のことだからね」
楽しげに笑い合う義兄と義姉に、エリアーヌは涙を流しながらも思わず笑みがこぼれた。
「やっぱりエリアーヌは笑っているときが一番かわいいわ。あとのことは任せて、しばらくゆっくりなさい」
「そんな!こんなことになったのですから、わたくしは修道院に」
「エリアーヌ、それだけは勘弁してくれ!君が修道院に行ったらサファイアが後を追いかねない!」
マリウスの焦ったような顔に、エリアーヌはぱちぽちと目を瞬かせる。
「そうよ。おねえさまはエリアーヌの側を絶対に離れたりしないわ」
サファイアがにっこりほほ笑んで、再びエリアーヌのほほを撫でる。エリアーヌはほほを赤らめてうつむき、マリウスは顔を青くしてすぐさま家令を呼び出し、今後のことを命令したのであった。
「なんてことをしてくれたの!」
ぱしんと乾いた音が耳に響く。そのあと左頬に熱を感じて、ヴィルヘルムはようやく自分が叩かれたのだと気づいた。生まれてこの方、母に叩かれるなど初めてのことである。
ぽかんと母である側妃を見ると、彼女は顔を赤くして肩を震わせていた。
「な、何を……」
「わたくしが必死で頼んでようやく婚約者になってくれたのに!あなたは、あなたは……」
「どうしたと言うのです?母上、落ち着いてください。おい、誰か!母上にお茶を――」
そう言って声をかけるが、いつもいる侍女がいないことにヴィルヘルムはそのときようやく気づいた。いつもいる侍女だけでなく、使用人がまったくいない。
「あれ?侍女や使用人はどうしたんです?」
「あなたのせいでしょう!?」
側妃が再びヴィルヘルムのほほを叩いた。さすがにムッとなってヴィルヘルムも強く言い返す。
「叩くことないじゃありませんか!」
「……あなたがエリアーヌに婚約破棄を宣言してくれたおかげで、この宮の使用人や侍女はほとんどいなくなったのよ」
「はあ?そんなわけ」
母はまだ理解できない愚息をにらみつけ、疲れたようにソファに座り込む。彼女は身支度もままならなかったのか、簡素なドレスに髪は流しっぱなしだ。
「エリアーヌとの婚約破棄で、シュテンヒルド伯爵家とオデット侯爵家からの援助が打ち切られたのよ」
「……え」
「わたくしのような第三側妃に与えられる予算などわずかなもの。多くの使用人がいたのも、あなたが王宮で何不自由なく過ごせていたのも、すべては二家の援助があったから」
側妃から静かに告げられた内容に、ヴィルヘルムは頭ががんがんと痛くなる。
「しかもあなた、エリアーヌに言ったそうね?『高貴な血を持たないお前が王族になるなどもってのほか』と」
ヴィルヘルムの心臓がどきりと跳ねる。あの日は興奮していて何を言ったのか詳細を覚えているわけではないが、たしかにそのようなことを言ったかもしれない。
「ふふふふふ。ねえ、ヴィルヘルム。エリアーヌはね、とある子爵家の忘れ形見なの。子爵の血が『高貴じゃない』なら、子爵家出身のわたくしも『王族になるなどもってのほか』なのかしら?」
母の言葉に、ヴィルヘルムは目の前が真っ白になる。――取り巻きたちから「エリアーヌは伯爵家の血を引いていない」と聞いたとき、てっきり平民との間に生まれた庶子か何かだろうと思い込んでしまった。エリアーヌの過去をまったく調べていなかったのである。
「そうね、わたくしが王族になるなど『もってのほか』だった。それが今――もとに戻ったのね」
使用人のいない部屋を見回し、側妃は壊れたようにふふふと笑い続ける。ヴィルヘルムはその笑いを聞きながら、もう何も考えることができなかった。
サファイアは報告書を見ながら、はあとため息をつく。
エリアーヌとヴィルヘルムの婚約は、当然ながら王家の有責で破棄となった。大勢の前でエリアーヌに婚約破棄をつきつけたこと、子爵家生まれのエリアーヌの血を馬鹿にしたことが決め手となったようだ。目撃した貴族たちのほとんどが、エリアーヌに味方する証言をしたという。
ヴィルヘルムが婚約破棄を告げた翌日に、シュテンヒルド伯爵家とオデット侯爵家は側妃への援助も打ち切った。もう、あの側妃には何の力もない。陛下も側妃を完全に見限ったようだ。今後死ぬまで、肩身の狭い思いをして生きていくことになるだろう。
さらに、エリアーヌの出自をおもしろおかしくヴィルヘルムに吹聴したのは、ヴィルヘルムの取り巻きでもあり、あの夜会を開催した侯爵家の三男であることもわかった。エリアーヌに懸想していたあの男は、ヴィルヘルムを唆し、エリアーヌに傷をつけた上で求婚しようと考えたようだ。つくづく愚かな男だとサファイアは報告書を見て眉間にしわが寄る。
当然、裏から手を回し、三男が二度とエリアーヌの目の前に現れることがないよう処理済みである。
「あの……お義姉さま?」
かわいく声をかけられ、サファイアは報告書をさっと片付ける。
「どうしたの?エリアーヌ」
「その、久しぶりにお義姉さまと一緒に刺繍をしたいのですが……」
「うれしいわ!ぜひ一緒にやりましょう」
「あー!おかあさまとおねえさまばっかりずるい!」
「ぼくも、おかあさまとおねえさまと遊ぶ!」
サファイアの子どもたちも駆けつけてきて、途端に部屋がにぎやかになった。サファイアとエリアーヌは顔を見合わせてにこりとほほ笑む。
そのとき家令が音も立てずにやってきて、サファイアに小さく耳打ちをした。サファイアは頷き、天使たちに甘く声をかける。
「お母さまは少し用事ができたから、先にみんなで遊んで待ってて。エリアーヌの言うことをよく聞くのよ」
「お義姉さま、わたくしに手伝えることはありませんか?」
エリアーヌの気遣うような申し出に、サファイアは思わずエリアーヌを抱きしめる。
「お、お義姉さま!?」
「ああもう、あなたはなんていい子なのかしら」
「おかあさま!わたしも!」
「ぼくも!」
騒ぐ子どもたちもしっかり抱きしめて、サファイアは家令を伴い部屋を出る。――さっさと片付けて、早く天使たちと楽しい時間を過ごさなければ。
玄関に向かうと、青い顔をしたヴィルヘルムがいた。服は以前よりみすぼらしく、髪もボサボサだ。
「誰かと思ったら……何か?」
「あの、その……エ、エリアーヌに」
「婚約破棄をした相手を呼び捨て?王族なのに、子どもでも知っているマナーをご存知ないのかしら?」
「も、申し訳ない。その、シュテンヒルド伯爵令嬢にひとことお詫びを……」
ヴィルヘルムの言葉に、サファイアはわざと大きなため息をつく。腐っても王族相手に不敬な態度であるが、大切な家族を辱め、今や名ばかりの王族となり何の力もない相手に払う敬意は、サファイアには持ち合わせていない。
「今さら何を?やってしまったことはもとには戻りませんわ。王族ならば、その言動には責任が伴うと、幼いころから言い聞かせられているはずでしょう?」
第四王子の肩がびくりとはねた。勉強から逃げ回っていたこの愚王子が、そんなことを理解しているはずないことは承知の上である。
「だから、謝ろうと……!」
「許しませんけど?」
「え?」
「ですから、謝っても、許しませんけど?」
「え、なんで……」
サファイアはにっこりと笑みを浮かべる。口もとは笑っているが、目はいっさい笑っていない。ヴィルヘルムはおびえたように一歩後ろに下がる。サファイアは手近な花瓶を手に取ると、その中にあった水を床にぶちまけた。カーペットにじわりと染みができる。
「今、こぼれた水をもとに戻してみてくださいませ」
サファイアは笑ったまま、花瓶をヴィルヘルムに差し出す。
「そんなこと、無理に決まっているだろう」
「あら、よくわかりましたね!『許しません』とはそういうことです。お勉強になってよかったですね?」
それ以上ヴィルヘルムは何も言わず、シュテンヒルド伯爵家をあとにする。サファイアは小さくため息をつき、使用人に謝罪した。使用人は先ほどのやりとりを一部始終見ており、笑顔で頷く。シュテンヒルド伯爵家の天使は、家族だけでなく使用人に至るまで愛されているのである。
サファイアが部屋に戻ると、エリアーヌと子どもたちが笑顔で迎えてくれた。その笑顔に、サファイアは手でほほをおさえる。
「今日もわたくしの天使たちがとってもかわいいわ」