土地の守護者として降ろされた、ある大鷹の物語
「この地の守護者となれ大鷹の子よ。南北は雪を被った峰々から裾野に広がる草原を越えて、エメラルド色に輝く南の湖まで。東西はお前がいるこの黒い岩山から、草原の先の深い森の最果てまで。その強靭な翼と鋭い目で、平穏と秩序を守るのだ」
神話の時代。切り立つ岩山の一角に、一羽の大鷹の雛が神の手によって降ろされた。
既にその土地には四足歩行の動物や、大鷹と同じく翼を持った生き物や、数多くの小虫が存在していた。
言葉を話す二足歩行の種族も複数いた。
精霊族は、土地の浄化を担っていた。
人間や小人族はせわしなく活動することで大気をかき回し、土地を活性させていた。
穴掘り族は地底の淀みを防ぎ、魔人族や魔獣は、滅びと腐敗の支配者だった。
全ての生き物が土地の安定に一役かっていたが、大鷹のような巨大な生き物はそこにはいなかった。
まだ飛べなかった大鷹の雛は、大気を餌に身を大きくした。
昼は岩山から下を覗き見ることで世界のありようを学び、夜は足元から響いてくるドワーフ達の『穴掘り唄』を聞きながら眠りについた。
やがて立派な風切羽が生え揃い、土地の空気に体が馴染むと、大鷹は岩山から飛び立ち、他の生き物と同じように捕食を始めた。
神に言われた通り、土地の平穏と秩序を守るようにも務めた。略奪や侵略を防ぎ、無駄な血が流れぬよう空から見守った。
牛一頭を片足で掴め、両の翼を広げれば家一軒抱えてしまえるほどの大鷹に敵う者は、そこにはいなかった。
最初に交流を深めたのは精霊族だった。彼らは、ありとあやゆる種族の言語を教えてくれた。大鷹は弓をよく扱う彼らの為に、己の抜け羽を集めては矢羽根用に贈った。
次は小人族《ハ―フィット》。空を滑る大鷹が大地に影を作ると、好奇心旺盛な彼らは草むらからひょっこりと顔を出し、手を振ってきた。大鷹は彼らが現れるたびに、高い鳴き声を上げて挨拶を返した。
魔人族は短気で喧嘩早く流血を好み且つ多種族に好意的ではなかったので、彼らは大抵、大鷹を煙たがった。
大鷹が最もよく助けたのは人間だった。彼らは二足歩行の種族の中でも飛び抜けて数が多く、どことなくエルフにも似ていたがしかし脆弱だったので、魔人族や魔獣にとっては家畜の次に襲いやすい恰好の獲物だった。旅をすれば当然のように狙われ、村ごと襲われる事もしばしば。
大鷹に命を救われた人間達は、切り立つ崖に阻まれながらも、大鷹の巣に貢ぎ物を運んだ。
果物。パン。干し肉。葡萄酒。
それらは大鷹の舌を喜ばせはしたが、巨大な胃袋を十分に満たせる量ではなかった。しかし大鷹は満足できた。
人間達は、切り立つ崖の上で、大鷹を讃える唄を歌った。
鷹よ 鷹よ 大鷹よ 御空に大きく羽ばたいて
雪を被ったあの峰々を
光を抱く湖を
暗く深い太古の森を
風吹き渡る乾いた野原を
ぐるりとあまねく巡り巡る
そしてあなたは白い雲のさらに上の
果てなく広がるあの空の
はるか高みの世界の様を
金の瞳に映すのでしょう
その歌は種族を越えて、精霊族や小人族《ハ―フィット》まで届き、およそ他種族には関心が薄い穴掘り族の穴掘り歌の一つにまで加えられた。
岩山に降ろされてから千年経った頃。よく働く大鷹に、神が褒美を与えると言ってきた。
二足歩行の種族ともっと近づきたかった大鷹は、人の姿に変ずる力を望んだ。
褒美が与えられるその日、エメラルド色の湖のほとりに舞い降りた大鷹に、神気を帯びた風が吠え声のような音を立てて吹きつけた。風は大鷹の身から羽をさらい、大鷹を、翼を持つ人の姿に変えた。
湖面に映ったのは、白く柔らかい衣を身にまとった平らな胸板の、鷹の翼を持つ青年の姿。そうか己は雄だったのかと、大鷹はこの時、初めて気がついた。
ある日、河で溺れていた人間の少女を救った。少女は人の姿をとった大鷹を一目見ると、頬を染めて「きれい」とはにかんだ。
「助けてくれたお礼に、大人になったらあなたのお嫁さんになってあげる」
少女はあどけない笑顔で大鷹に未来を約束した。
大鷹は成長した少女が花嫁衣装をまとい己の元に嫁いでくる日を心待ちにしていたが、美しい女性に成長した少女は純白のドレスに身を包み、同じ村の青年の妻となった。
移り気で忘れっぽい人間の性分を心得ていた大鷹は、その娘が掴んだ幸せを黙って祝福した。
山越えの最中に足を滑らせたところを大鷹に救われた小人族の青年は、手持ちの食材を使い果たすまで大鷹に料理を振る舞った。大鷹は彼に、己の羽で造った笛を与えた。
何かあった時には吹くように。必ず駆けつけるからとそう言ったが、笛が吹かれることはなかった。小人族の青年は、魔人族に村を襲われたその時でも、大鷹の羽笛をしまった木箱を強く胸に抱いたまま命を落とした。
増え続けた人間が、豊かな土地を求めて互いに争うようになった。
人間のある国と別のある国が、草原で戦を始めた。
どう収めてよいか迷った末に、大鷹は鳥の姿をとり、その巨大な両脚で双方の大将を捕まえると、高く舞い上がりそこから二人を地面にたたき落とした。
それが、戦を早く終わらせる最良の方法だと思った。
その日から、大鷹は空を飛ぶたびに弓矢で狙われるようになった。矢尻は人間が作ったもの。初めはちくりと刺さる程度だった細く小さい矢が、だんだんと、大鷹の胴体を貫けるほど大きなものに変わっていった。
弓矢の脅威に大鷹は、空を飛ぶことができなくなった。
岩山の一角で翼を畳んだままの日々が続いた。雪を被った峰々も、光を抱く湖も、暗く深い太古の森も、風吹き渡る乾いた野原も、巡ることができなくなった。
神に伺いをたてたかったが、もう五百年、神の声は聞いておらず、この時も神は大鷹の問いかけに答えることはなかった。
とうとう精霊族達が、この地を去れと大鷹に言ってきた。もはやこの地にお前が飛べる空はなくなったと。
「ずっと東の大海の向こうには、神々の国があると聞く。そこはお前が生まれた場所だ。お前の粘り強い翼なら、辿り着けるかもしれん」
「大鷹よ。故郷を見たくはないか」
大鷹は巣を飛び立った。
東へ。
この地を連れて行きたかった。穴掘り族の穴掘り唄。精霊族との宴と語らい。人間の少女が生きたあの村。小人族の青年と歩いた小道。それらを想うと、大鷹は温かい涙を流すことができたからだ。
大鷹と共に旅立ったのは、思い出だけだった。
大鷹はひたすら東へ飛び続けた。見知らぬ土地で羽を休める気にはなれなかった。
羽ばたける限り羽ばたいて、翼が動かなくなったその時は、翼を畳んでまっすぐ地に落ち滅びればよい。そう考えていた。
幾日も幾晩も飛び続けた大鷹の前に、湖よりも大きな水たまりが広がった。塩気と熟れた甘さを帯びた深い香り。水たまりの先は青空にぴたりと接していた。
大海だった。
東へ向かっている確信はあった。しかし、前も後ろも右も左も、海と空が続くばかり。
どれほど飛んでも、陸は姿を現さなかった。
永遠に感じるはばたきと朦朧とした意識の中、一体何度、太陽が昇り沈んだのだろうか。時折、雨にうたれた気もしたが、もはや大鷹の意識は翼を動かす事だけに注がれていた。
頭を東に向けているか否かさえも、判別できなくなっていた。
終わりは唐突に訪れた。
夜を割くように、空と海との間から太陽が強い光を放ち、大鷹の目を焼いたその時。右の翼に雷が落ちたような衝撃が起こり、大鷹の翼は石のように固まり動かなくなった。
大鷹は落ちる。
弱りきった翼は大気を掴むこともなく、疲れ果てた身は風の抜け道を探ろうともしない。
ただ空気を破るがごとく、明け方の空を落ちてゆく。
空気を切る悲鳴のような音の隙間から、かつての歌が聞こえはじめる。
落下を続ける大鷹は、その歌を歌うために人の形に姿を変える。己が身にぶつかり過ぎてゆく風に抜け落ちる羽根を委ねながら、その中で僅かに唇を動かす。
「鷹よ 鷹よ 大鷹よ…… 御空に大きく羽ばたいて……」
その掠れた弱々しい声は、風圧にかき消されるばかり。
雪を被ったあの峰々を
光を抱く湖を
暗く深い太古の森を
風吹き渡る乾いた野原を
ぐるりとあまねく巡り巡る
そしてあなたは白い雲のさらに上の
果てなく広がるあの空の
はるか高みの世界の様を
金の瞳に映すのでしょう
歌が終わる。海面が目の前に迫る。
大鷹は瞼の重さに任せて目を閉じた。
――がしかし、その身は海面に落ちる前に急上昇する。
「どうした、同胞よ。随分遠くから来たようじゃないか」
己のものとは別の、太く力強い声。
瞼を上げた大鷹が海面越しに見たのは、己の身を逞しい両腕で抱えて羽ばたく青年の姿。海の上を滑るように飛んでいる。
「ああ……あんたも、鷹なんだな」
「俺はディンネクローガ(勇ましき者)。お前の名前は?」
「無い。必要なら、つけてくれ」
「そうか。よし、そうしよう」
白い砂浜と、陽の光を反射してキラキラとした輝きを放つ瑞々しいばかりの森林に覆われた大地が、水平線の向こうに現れる。
西の大陸から旅してきたその若き雄鷹の、夕暮れの凪のごとき瞳と目を合わせた大鷹の長老は、若き雄鷹の眦に指を添わせて、深い微笑みを浮かべる。
お前は
この地を去った古の神に愛されし者。
多くと出会い、多くを与えられ、また与えてきた者。
名は
シューリタシュタライ(満たされし旅人)
〜完〜