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7話・庭木の幽霊

 

 凛が自宅で憂鬱な食事を始めた頃、嵐は依頼人の安藤と共にいた。


 二十時を過ぎた住宅街はしんと静まり返り、時折犬の遠吠えが聞こえてくる。たったそれだけで安藤はビクリと体を強張らせるので、呻き声云々も気の所為ではないのかと疑う気持ちが嵐の中に芽生えてきた。


「こっ、ここが僕の家ですぅ」


 小さな家の前で安藤が立ち止まり、隣に立つ嵐に告げた。道路と敷地はブロック塀で隔たれ、そこから数歩入ると玄関となる。古びた門柱には木製の表札が掲げられている。前の住人の名字だろうか、と嵐は思った。


 おっかなびっくりといった様子で安藤は玄関の鍵を回し、引き戸をスライドさせて開く。先に上がって玄関や廊下の電気をつけていく後ろ姿を眺めながら、嵐は屋内の様子を観察した。築年数の古い平屋建て。道すがら見かけた周辺の家屋も似たようなものだ。


「割と広いな」

「そうなんですよ。居間以外にも部屋があって、トイレとお風呂も別で」

「それで家賃二万なら安いな」


 築年数の古さもあるが、駅から徒歩十分圏内で二万は安過ぎる。事故物件でさえなければ家賃は十万近くになるはずだ。


「この窓から裏の庭が見えます」


 安藤が通したのは居間だった。

 窓には分厚いカーテンが閉められており、昼でも開けることはないという。調査のためだと自分に言い聞かせながら、安藤は渋々カーテンを引いて大きな掃き出し窓を露わにした。足元には庭先に突き出した木製の濡れ縁がある。物干し台は竿がない状態で放置され、奥に敷地を仕切るブロック塀が見えた。


「問題の木はあれか」

「は、はい」


 狭い庭の片隅に生えている一本の木が室内の明かりに照らされて闇夜に浮かび上がっていた。幹は嵐の太腿ほどの太さしかないが、しっかりと根付いている。前の住人はこの木の枝にロープを掛けて首を吊ったという。


「いますか、おじいさんの幽霊」

「いる」

「嘘! ホントに?」


 あっさり肯定すると、安藤は飛び上がって窓から遠去かった。居間の真ん中に置かれたちゃぶ台に隠れるように這いつくばり、ガタガタと震えている。


「安心しろ。悪いもんじゃねぇ。それに自分の立場をよく分かってるから家の中には入ってこねえ」

「えっ!?」

「もう新しい住人がいるって理解している。だから庭木の下から少しも動いてねーよ」

「はぁ!?」


 居間に安藤の驚愕の声が響いた。


「おい、幾ら窓閉め切ってるからって夜にデケェ声だすんじゃねーよ。近所迷惑だろが」

「あ、そうですよね、すいません」


 見た目チンピラの嵐から近所に配慮する発言が出たことに驚きつつ『悪いものではない』という言葉に安堵して、安藤はちゃぶ台の影から這い出した。嵐の隣に立ち、怖々と窓の外に視線を向ける。室内の明かりに僅かに照らされた木はやはり恐ろしく見えたけれど、なんとなく気持ちが楽になる。


「えーと、おじいさんの幽霊はいるんですよね」

「いる」

「お祓いってしてもらえます?」

「その必要はない。時期が来れば勝手に消える」

「え、でも」


 嘉島社長を通じて嵐たちに依頼をした理由は怖いからだ。幽霊がいるのなら追い払ってもらいたい。それなのに何もしないと言われ、安藤はうろたえた。


「おい。玄関から俺の靴持ってこい」

「は、はいっ」


 嵐は遠慮なしに窓を開け放った。靴を受け取り、履いて外へ出る。窓枠の陰から見守りながら、安藤は身体を震わせた。もうすぐ五月とはいえ夜は肌寒い。だが、それだけではない。なんとも言えない冷たい空気を感じた。


 窓からわずか数歩で庭木のそばに到着した。

 嵐の目には俯く老人の姿が映っている。いや、俯いているのではなく未だに首に縄がかかったままなのだ。もちろん現実に縄はない。老人の霊が生み出した幻のようなもの。手を伸ばし、幻の縄を消す。すると、老人の首が上を向いて目の前に立つ嵐の姿を捉えた。無言で数十秒ほど見つめ合う。何も感じない安藤には、嵐が庭木の前で立ち尽くしているようにしか見えなかった。


「呻き声はあのじいさんの仕業じゃねえな」

「ええっ!?」


 またしても大きな声を上げた安藤の頭を、嵐が鷲掴みにして黙らせる。先ほどまでならともかく、今は窓が全開だからだ。


「じいさんの霊は自分で命を絶ったことに向き合ってる最中だ。自殺したにしては妙に落ち着いてる。下手に弄ると逆に悪いもんになる。放っておけばいい」


 霊視の結果、老人の霊は無害だと嵐は判断した。生者に害がなければ除霊または浄霊する必要はない。


「ちょ、ちょっと待ってください。じゃあ僕が聞いた呻き声ってなんですか。確かに庭のほうから聞こえてきたんですよ?」


 安藤は庭を指差した。居間から漏れ出る明かりに照らされた狭い庭とブロック塀、端に件の庭木が見える。嵐は庭木ではなくブロック塀を見据えた。


「あっち側には何がある?」

「塀の向こうですか? ええと、レンタル倉庫みたいな場所だったかと」


 確かに、ブロック塀の向こうにはコンテナのようなものがちらりと覗いている。なんとなく妙な気配を感じたが悪霊の気配はしないため、嵐はすぐに視線を屋内に戻した。青い顔で震える安藤を見て溜め息をつく。


 自殺した老人の霊はいたが、呻き声とは関わりがなかった。安藤が嘘をついている様子もない。依頼された以上、気のせいだと突っ撥ねるわけにもいかない。


「嵐さん、泊まっていってくれません?」

「は? ヤだよ」

「……ですよね」


 この臆病者が、困窮する大学生に事故物件を紹介するような怪しい不動産屋を通じて胡散臭い事務所に足を運び、今日初めて会ったばかりの強面のチンピラを自宅に泊めようとするほど怖がっている。


「てゆーか、大学のダチに泊まりに来てもらえばいーじゃねーか」

「僕にそんな親しい友人がいると思います?」

「わ、悪かったよ。泣くなよ」


 何とかしてやらねばと思いつつ、すがる安藤を蹴飛ばして嵐は帰宅した。


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