34話・助っ人
凛と里枝に向かって放たれた黒い塊が突然動きを止めた。宙に浮いたまま、まるで時間が停止したかのようにピタリと固まっている。
「間に合ったネー、よかったよかった」
緊迫した空気をぶち壊す呑気な声が聞こえ、その場にいた全員が顔を上げる。現場を見渡せる場所……先ほどまで凛がいた高架歩道に二人の男が立っていた。片眼鏡をかけたチャイナ服の青年は数枚の呪符らしき紙切れを手にしている。
「助かりました、ユレンさん」
「困った時はお互いサマだよ、凛ちゃん」
礼を言われ、ユレンと呼ばれた青年はニカッと笑って応えた。
凛は考え無しに朽尾を挑発したのではなく、嘉島が助っ人を連れてきてくれたから頼ったのだ。
ユレンは事務所の階下で営業しているアジアン雑貨店の店長、つまり嘉島不動産の店子仲間である。彼の隣にはタバコをくわえた嘉島が柵にもたれかかっていた。
「朽尾のコンテナの中身を確認して使役してるモンを突き止めた」
監視カメラ映像を見たのが今日の夕方。
その後、嘉島は朽尾に貸し出しているコンテナを管理者用のマスターキーで開け、中身を確認した。そこで何を見つけたかまでは今は語られなかったが、きっと手掛かりとなるものを見つけたのだろう。
「で、万が一の備えでユレンに対処を依頼したんだよ」
「そゆコト〜! それに……」
ケラケラと笑いながら、ユレンはチラリと里枝を見た。
彼女のカバンには可愛いマスコットが付いている。
「お得意サマは大事にしないとネッ!」
里枝は以前ユレンの店でマスコットを購入していた。東南アジア産の、持ち主に幸運をもたらすという人形だ。
呑気に話をしている間も、ユレンの持つ呪符は黒い塊の動きをを縛り続けていた。空中で固まったまま、必死にもがいている。
「抵抗してもムダ。コレは謂わばキミの使い魔の天敵。下手に動いたら根こそぎ食べちゃうからネ〜」
「くっ……」
ユレンの言葉に、朽尾が悔しそうに呻いた。
凛や吾妻、里枝には何も見えないが、嵐の目にはユレンの呪符から放たれた数体の狼が黒くて小さな塊を咥えている姿が見えている。噛みちぎられそうになっている黒い塊はネズミほどの大きさで、外見はイタチに似ていた。今までは素早過ぎて形すら把握できていなかったのだ。
嵐は今度こそ朽尾のみぞおちを抉るようにブン殴った。意識が飛びかけた朽尾の腕を捻り上げ、自由を奪う。すぐさま凛が駆け寄り、持っていた大判のハンカチで両の手首を縛った。その際、うっかり伊達眼鏡なしの状態で朽尾の身体に触れてしまった。
憤怒、嫉妬、焦燥、驚愕、哀惜、諦念。
負の感情が一気になだれこんでくる。」
ハンカチの端を固く結んだあと、凛は慌てて離れた。自身の額を伝う脂汗を手の甲で拭ってから、地面に転がる二つの金属製の筒を回収する。
「ソレちょーだい」
降りてきたユレンに筒を手渡すと、彼は持っていた呪符で筒をぐるぐる巻きにした。これでもう筒から黒い塊が飛び出すことはないらしい。
「オマエらは早く帰れ」
「でも」
「もうすぐ警察が来る。面倒なことになるぞ」
高架歩道の上から嘉島が声をかけてきた。
遠巻きに騒ぎを見ていた野次馬が呼んだのだろう。パトカーのサイレンが近付いてくる音が聞こえる。もし警察で事情聴取を受けることになれば何時間拘束されるかわからない。幾ら不審者相手とはいえ嵐はかなりの暴力を振るった。特に最後の一撃は朽尾の肋骨を何本か折っている。過剰防衛だと責められる可能性もある。
「後は任せろ。代わりに、そこの二人に口裏合わせてもらうから。な?」
急に話を振られた吾妻と里枝はビクッと肩を揺らした後、何度も頷いて了承の意を示した。この強面のおじさんに逆らってはダメだと本能で察したようだ。
「嵐さんたちのことは言いません」
「早く帰って傷の手当てしてね〜」
まだ電車もバスも動いている時間帯だ。裏手とはいえ駅ビルのすぐそばで騒げば当然野次馬が現れる。彼らからの通報を受けたパトカーが現場に到着した。
真っ暗な裏路地を通って事務所へと向かう二人の後ろ姿を見送りながら、嘉島はタバコを地面に捨てた。革靴の裏で踏み消す。
「ぶっつけ本番にしちゃあうまくいったな」
倒れた朽尾は警官たちに囲まれ、パトカーへと連行されていった。襲われた被害者である吾妻と里枝も別のパトカーに乗せられ、事情を聞かれている。その様子を高架歩道から見下ろしながら嘉島は新しいタバコを咥えて火をつけた。気怠げに口の端から煙を吐き出し、クッと喉奥で笑いを噛み殺す。
ちなみに、ユレンはとっくに姿を消している。金属製の筒は彼が持ち帰った。辺りに散らばっていた針もいつの間にか全て回収されている。どうやらアレも何らかの呪具だったらしい。ホクホク顔で帰って行ったユレンを思い出し、嘉島は心底疲れたように細く長く煙を吐き出した。
吾妻と里枝は無事保護された。これから事情聴取のために警察署へと向かう。「通り掛かりの人に助けてもらった」と証言するように、と嘉島は彼らに言い含めておいた。嵐と凛を表に出さないための配慮だ。
「ウチのモンが騒がして悪ィな毛利。後始末は頼むぜ」
「構わん。なんの手掛かりもなかった連続殺人犯の身柄を確保できたんだ。多少の無理は通すさ」
いつの間にか嘉島の隣にはスーツ姿の男が立っていた。毛利と呼ばれた目付きの鋭い男は現場を俯瞰するように見下ろしている。
たまたま居合わせた目撃者たちが通報するより早く警察はこの事態を把握していた。知り合いの刑事である毛利に嘉島が一報を入れていたからだ。彼はパトカーより早く到着し、一部始終を見守っていた。万が一の場合は無理やり介入するつもりだった。
「死亡した女性たちの事故には不審な点が多々あった。異能使いが犯人なら然もありなんと言ったところか。理解したくないが腑には落ちる」
「遠隔で動かせるならアリバイは関係なくなるしな」
「まったく、幾ら捜査しても犯人が見つからんワケだ」
先ほどの戦いで見せた朽尾の異能。使い魔を操り、離れた場所にいる相手を攻撃してみせた。余裕があればもっと複雑な命令も可能となるのだろう。使い魔を利用すれば事故死に見せかけるなど造作もない。犯行手段の立証は難しいが、朽尾を逮捕するために書類上で辻褄を合わせるようだ。
「で、朽尾文悟に立ち向かっていた二人がオマエの部下か。なかなか根性がある若者じゃないか」
「ちょっとした縁で可愛がってんだ。いーだろ」
自慢げな嘉島の態度に、毛利は呆れたように肩をすくめた。前々から話だけは聞いていた。今回初めて二人を見て、思いのほか若いことに驚く。嘉島の下にいる割にはスレてなさそうなところを意外に思ったりもした。
「で、最後に助け舟を出していた怪しげなヤツはどこのどいつだ。聞いてないぞ」
「そっちは教える義理はねえな。殺人事件の犯人を見つけてやったんだ。それで満足しておきな」
「……今回のところは良しとしておく」
毛利はスーツのポケットから携帯灰皿を取り出し、嘉島がポイ捨てした吸い殻を拾って入れた。ついでに今吸っているタバコも奪い、問答無用で携帯灰皿へと突っ込む。
「駅周辺は路上喫煙禁止区域だ」
「相変わらずの堅物だな」
「条例違反を見逃してやるんだ。十分甘い」
違いねェ、と嘉島は片眉を上げて笑った。