2話・凛の能力
十八時ちょうどに事務所の扉が勢い良く開かれた。
ノックどころか声掛けすらなかったが、もともと約束していた時刻である。来客の性格も把握していたため、室内にいた凛と嵐は特に驚かなかった。
「遅れるかと思った! ギリセーフ!」
「だから早めに店を出ようって言ったじゃないの」
「間に合ったからいいじゃん」
訪ねてきた客は二人組。一人は活発そうな若い女性、もう一人は陰鬱な雰囲気の四十代前後の女性。年齢差はあるが親しげな様子である。
「ごめんね凛ちゃん。下の雑貨屋さんで良さげな小物見つけちゃってさ〜。ちょっと覗くだけのつもりが長引いちゃって」
「構いませんよ、里枝さん」
「見て見て、可愛いでしょこのマスコット!」
「あ、ほんとに可愛い」
里枝と呼ばれた若い女性は、満面の笑みで紙袋から手のひらサイズの人形を取り出して見せた。
どうやら事務所に来る途中で寄り道をしていたらしい。とりあえずソファーに座ってもらい、凛と嵐は対面に並んで腰を下ろした。
「この人、アタシの叔母さん」
「ど、どうも。錦田智代子と申します」
狭い事務所は物がないため片付いてはいるが、築年数が古く薄暗い。真っ当な住居に慣れた者からすれば居心地はあまり良くないのだろう。頭を下げて挨拶をしながらも、智代子と名乗った女性は向かいに座る凛たちに訝しげな視線を向けた。果たしてこの若者たちは頼りになるのだろうか、と値踏みしている様子である。
まだ学生と思しき少女とガラの悪そうな青年の二人組。凛はともかく、強面の嵐がソファーに踏ん反りかえっている時点で胡散臭い。初見の者なら警戒して当たり前だ。
「あやしいですよね、わかります」
まず凛が声をかける。
笑顔を向けられ、智代子は表情をゆるめた。
「ごめん凛ちゃん。叔母さんたら人見知りで」
「それが普通の反応ですよ、里枝さん」
ギャルっぽい若い女性の名は西成里枝。
以前、凛と嵐に相談して解決してもらったことがあり、それ以降悩みを抱える知人を時々連れてくるようになった。今回一緒に来た叔母、智代子も彼女の紹介である。
「何にお困りか聞いてもいいですか」
「は、はい」
凛の年齢や見た目に反するしっかりとした案内の言葉に瞠目しつつ、智代子はぽつぽつと自身の悩みを打ち明けた。
「一年ほど前に下の子を事故で亡くしたんですが、それ以来ずっと頭の片隅で子どもの声がするんです。主人は気のせいだというし、病院にも行ったんですけれども、精神安定剤を処方されただけで」
「声は今でも聞こえます?」
「はい。でも、何を言っているかまでは分からなくて。もし、あの子が無念を訴えているのなら今度こそ助けてあげたくて」
言葉を詰まらせ、智代子は涙をこぼした。
凛が隣に座る嵐に視線を向けると、彼は表情を変えぬまま首を横に振った。今回は彼の管轄ではないようだ。智代子の嗚咽が落ち着くのを待ち、再度口を開く。
「では、お子さんがあなたに何を伝えようとしているかを視させてもらいますね」
そう言って、凛は眼鏡を外して服の胸元に引っ掛け、片手を前へと差し出した。里枝に促され、智代子も手を伸ばす。二人の手が触れた瞬間、凛の右瞳が長い前髪の隙間から智代子の姿を捉えた。
凛は視界に入れた者の心を読む。
自分の意志でオンオフができるわけではなく、常に発動しっぱなしの能力である。故に、普段は前髪で視界を塞ぎ、更に保険として伊達眼鏡を掛けて防いでいた。どういう原理か、レンズやガラスなどの人工物を通せば心の内は読めなくなる。何の対策もせずにいると、凛は無数の心の声を聞き続ける羽目になってしまう。
視るだけでは心の表層しか読めないが、対象者の身体に触れることで正確に情報を得ることが可能となる。この仕事の時だけは伊達眼鏡を外し、手に触れて依頼者の意識を読む。
指先が触れてから十数秒後、凛は細く長い息を吐き出した。瞼を閉じ、眉間にしわを寄せ、しばらく考え込む。読み取った情報を整理し終えてから口を開いた。
「お子さん……順也くんは小学校からの帰り道で高齢者が運転する車に轢かれてしまったんですね。きちんと歩道を歩いていたのに」
「は、はい。そう、そうなんです」
凛は智代子の心に浮かぶ言葉をそのまま読み上げているのだから、正しい情報を得ること自体は容易い。うっかり彼女の心情までも深く読み込んでしまい、ぐっと胸が詰まる思いがした。これは凛自身の感情ではなく智代子の感情をトレースしただけ。凛には我が子を亡くした母親の気持ちなど一欠片も理解できない。
ただし、相手が欲する言葉は分かる。
「順也くんはお母さんを心配しています。事故の後あまり眠れてないんでしょう? このままではお母さんが倒れてしまう、いつまでも悲しまないでほしいと言っています」
「そ、そうなんですか」
「毎日のように事故の現場を見に行ってますよね。それでは悲しい記憶ばかりに囚われてしまいます。順也くんと過ごした楽しい記憶や嬉しい記憶を思い出してあげてください。そうすれば順也くんも安心してくれますよ」
凛には亡くなった順也くんの声は聞こえない。
目の前にいる智代子の心を読んでいるだけ。
我が子を不慮の事故で亡くした母親の無念が我が子の声の幻を作り上げていたのだろう。智代子自身もこんな生活を続けていては駄目なのだと頭では理解している。だからこそ、姪の里枝の紹介とはいえ怪しい二人にすがったのだ。
「叔母さん、順くんのためにもしっかりしなきゃ駄目だよ。ねっ!」
「そ、そうね、順也に心配かけたらダメよね」
辛い気持ちに対する共感と理解を得られて気持ちが楽になったのだろう。里枝からも諭され、智代子は涙に濡れた目元をハンカチで拭った。
他人の心を読めるようになった時期を、凛は正確には覚えていない。生まれつきなのか、後天的なものかもわからない。
最初に揉めたのは小学校低学年の頃。
友だちの秘密を悪気なく暴いてしまったのだ。当時はまだ『実際の声』と『心の声』の区別ができず、従って『黙っておいたほうが良い』という判断もできなかった。本人以外知り得ないはずの事柄を語る凛に対して友だちは怒り、一方的に責めた。何度か似たような経験を繰り返すうちに周囲から孤立していった。
口数と笑顔が減った娘を心配した母親は様々な病院に連れていった。しかし、発達障害などの診断が下りることはなかった。自分のほうがおかしいのだと気付いた凛が無闇に口を開かないよう気をつけていたからだ。心の声から相手が望むことを拾い上げて振る舞えば大抵の場面はやり過ごせる。他人との関わりを最小限に抑えれば余計なことを言わずに済む。
こうして凛は特定の友人を作らないようになった。