15話・ただいま、おかえり
智代子の顔から笑みが消えた。
口角は上がったまま固まっている。
頬が引き攣り、歯の根がガチガチと鳴った。
「あ、ああ、あああああっ!」
彼女の目には今、真っ黒なもやに包まれた順也くんの姿が見えていることだろう。だが、生前の可愛らしい姿は見る影もない。交通事故で死に至る怪我を負った悲惨な姿のままなのだ。
小学校に上がったばかりのふくふくとした頬は倒れた際にアスファルトによって削られ、車体とガードレールに挟まれたせいでシャツもズボンも血で染められていた。片足は関節ではない位置で折れ曲がり、靴はどこかに飛ばされたのか見当たらない。
『痛い、痛いよう、助けてよう』
視覚は嵐、声は凛の能力を介している。二人に触れている智代子と里枝には、順也くんの痛ましい姿と苦しげな声がはっきりと伝わった。
智代子は我が子の無惨な姿に愕然となった。
あんなに会いたがっていたくせに一歩も動かず、一言も発しない。いや、何も出来るはずがなかった。彼女は我が子の死に再び直面させられたようなものなのだから。
「ど、どうして、こんな」
震える声が誰かに問うた。
なぜ事故後の姿のままなのか。
なぜ今も苦しみ続けているのか。
智代子には本気で分からなかった。
「アンタが毎日事故現場で恨み言を吐いていたからだ」
苛立ちを隠しもせず、嵐は冷たく言い放つ。
「黒いもやが見えるか? アレは全部アンタの執着だ。子どもはアレに捕まって動けない。ホントなら肉体がなくなった時点で痛みや苦しみから解放されるはずなのに、アンタが事故現場に縛り付けたせいでずーっと死んだ時の辛さを味わい続けてるんだよ」
「そ、そんな」
強く責められ、智代子は俯いた。そして、自分の身体からじわじわと黒いもやがにじみ出て、順也くんへと向かっていく様子を見た。もやが濃さを増す度に順也くんはもがき苦しみ、泣きながら痛みを訴える。強面の青年の言う通り、自分の執着がこの状況を生み出しているのだとようやく理解した。
「叔母さん、このままじゃ順也くん可哀想だよ。早く楽にしてあげようよ」
「でも」
里枝の言葉に口ごもる。
酷く痛々しい姿でも愛しい我が子なのだ。せめて抱きしめ、優しい言葉をかけてあげたいと智代子は願った。
「じ、順也。お母さんはここよ」
『あぁああ痛い痛い痛いぃ! もうやだああ!』
恐る恐るといった様子で声を掛けるが、苦しみの絶頂にいる順也くんに届くはずがない。先ほどからずっと啜り泣き、時折火がついたように癇癪を起こす。泣き喚く声を聞きながら、四人は歩道で立ち尽くしていた。
「……わ、私が、この子を苦しめている、のね」
しばらくの後、か細い声で智代子が呟いた。
あまりのことに愕然として、凛の手を握る力が抜け掛けている。顔面は蒼白となり、呼吸も浅く乱れている。目尻には涙が滲み、今にもこぼれ落ちそうだった。
「智代子さん、今から嵐がこの黒いもやをなんとかして順也くんを解放します。その後は、どうか順也くんの魂が安らぐように祈ってあげてください」
力強く凛が諭した。伊達眼鏡は外しており、更に直接触れているから智代子の意識が伝わってくる。彼女はただ我が子と離れたくなかっただけなのだ、と凛にはわかっていた。
いつものように学校へと送り出し、夕方になったら元気に帰ってくるのだと信じて疑わなかった。だから、警察から連絡を受けても現実味がなかった。救急搬送された病院で我が子の死を告げられても悪い夢のようで信じられなかった。加害者の老人が床に額を擦り付けて謝罪する姿を見ても、何も言葉が出なかった。霊安室で対面した遺体と今朝見た元気な姿が一致せず、理解を拒んだ。通夜も葬儀もどこか遠い国の出来事のようだった。
智代子は現実逃避をしていた。
順也はどこかで生きていて、なんらかの事情があって帰ってこられないのだと考えるようにした。分岐点は通学路の途中にある事故現場。自宅に置かれた真新しい小さな仏壇よりも事故現場のほうが気配を感じられた。毎日のように通い、死を悼むふりをして我が子が帰ってくるよう一心不乱に祈った。
きっと事故をきっかけに、本物の順也は神隠しにでも遭ったに違いない。あんなに可愛い子なのだから神様が連れていってしまったのだわ、そうに決まってる。私から順也を奪った神が憎い。事故を起こした老人が憎い。理解のない夫が憎い。元気なよその子どもが憎い。見ていなさい、順也はきっと私の元に帰ってくる。あの子はまだ小さくて、一人で寝られないくらいの寂しがり屋なんだから。
何とも言い表し難い感情の渦を真っ向からぶつけられ、凛は呻いた。前回軽く見ただけでは分からなかった強い執着の根っこを垣間見て息をもらす。
これだけ強い思いを抱いているのは彼女に無念があるからだ。あの日、可愛い我が子に『おかえり』と言ってあげられなかったことを悔いている。
「順也くんもお母さんの元に帰りたいはずです。彼はまだ家に帰る途中なんですよ。早く解放してあげましょう」
「え、ええ」
凛の言葉に、智代子はようやく頷いた。
「嵐」
「おうよ」
声を掛けると、嵐は手を伸ばして黒いもやの端を掴んだ。実体のないそれを思いきり引っ張ると、順也くんにまとわりついていたもやが一気に離れた。次の瞬間、無数の光とともに掻き消える。辺り一帯が明るくなり、同時に血まみれの痛々しい姿だった順也くんの身体から全ての傷が消え失せた。苦悶に歪んでいた顔は生前の可愛らしさを取り戻し、きょとんとしている。
「じゅ、順也」
『あっ、おかあさんだ! おかあさーん!』
順也くんの霊は今初めて母親の姿に気付いたようで、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。智代子のおなかに抱き付き、頬を擦り寄せる。実体はない。触れられないはずなのに、彼は生前と変わらない仕草で母親に甘えていた。
『ただいま、おかあさん』
「お、おかえりなさい」
智代子が凛から手を離した。途端に視界から順也くんの姿が消え、声も聞こえなくなったが、智代子は構わず我が子がいるであろう場所に腕を回して抱きしめ続けた。