204号室、不眠症の茨姫
「ちょっと!ククレ家令さん!」
後ろから甲高い声に呼び止められて、ロレイン公爵家で家令を務めるククレは心の中で舌打ちをした。
顔にも出ている事だろう。
ククレは笑顔を貼り付けて後ろを振り返る。
「聖なる乙女様、如何なされましたか?」
すると『聖なる乙女』と呼ばれた娘、ディアナが腰に手を当て憤慨しながら言った。
「一体いつになったらセドリック様は帰ってくるのっ?ワタシがこの屋敷に来てから一度も顔を見てないんだけどっ?」
ディアナがユニカと入れ替わるようにしてロレイン公爵邸にやってきて早2ヶ月が過ぎようとしていた。
しかし初日に顔を合わせて以来一向に姿を見せないセドリックに、ディアナはとうとう痺れを切らしたようだ。
「旦那様は今、大変お忙しいのです。陛下の名代として各地へ巡察に行かれたりと……」
「せっかく一緒に暮らせると思って喜んでいたのに、これじゃあこの屋敷へ来た意味がないじゃないっ!」
その言葉を聞き、ククレはほんの一瞬、眉間にシワが寄った。
相手に気取らせない程のほんの一瞬だけ。
「公爵閣下が乙女様の庇護者であらせられます。その事実は変わりませんし、そのお方の屋敷に身を置かれるという教会との約束はきちんと果たされております。なので意味がない事はございません」
ククレのその言葉にディアナは更に憤慨した。
「ワタシは屋敷に住みたかったワケじゃないわよっ、セドリック様の側に居たいのよ!」
「……僭越ながら、乙女様」
「なによ」
「旦那様は既婚者であらせられます」
「それがどうしたっていうの」
「今、当家は人の出入りが激しゅうございますので安全の為に公爵夫人には別邸に移って頂いておりますが、この家の女主人も旦那様の奥方様もこの世にたったお一人……ユニカ様だけにございます。その事を努努お忘れなき様にお願い申し上げます」
「何よ、まわりくどい言い方!ハッキリ言いなさいよっ」
ククレは言葉の一つ一つに重きを置いて告げる。
「……奥様に取って代ろうなどとは思われない方がよろしいかと」
……心の内で今度は絶対に間違えない、そう思いながら。
ディアナはククレのその様子に一瞬怯みながらもすぐに調子を取り戻りして言い放った。
「そんな……夫人に取って代ろうなんて思ってなんかいないわ……ワタシはただ、庇護者であるセドリック様と良好な関係を築きたいだけ。そしてそれはもちろん夫人ともよ?そうだわ、一度夫人にご挨拶をしたいのだけれど今どこにいらっしゃるのかしら?ぜひお会いしてお話をしたいわ」
「お答え致しかねます」
「どうしてよっ」
「奥様がどちらの別邸にいらっしゃるのか、私も存じ上げないからです。奥様へ害意を持つ者に知られないよう、旦那様は誰にも明かされておりません」
「じゃあワタシは問題ないわよね?なんと言っても国が認める聖女ですもの。お願い、一度だけでいいの。夫人に会わせて!」
──何故そこまで執拗に奥様に会いたがるのか……。
ククレは硬質な笑顔を貼り付けてディアナに答えた。
「ですので私も存じ上げないのです。知らないものをお答えする事は出来かねます。それでは、仕事の途中ですのでこれで失礼いたします」
「あ、ちょっと!ククレ家令さん!」
ククレがくるりと身を翻して歩き去ってゆく。
それをディアナの声が追うもククレが立ち止まる事はなかった。
「っ……もうっ」
ディアナは唇を噛んだ。
どうしてこうも上手くいかないのか。
ロドリゲスからセドリックを籠絡し、“王家の至宝”の在処を聞き出せと言われているのに。
神の神託を受けたとし、自分を聖女として引き上げてくれたロドリゲスの命令は絶対だ。
ロドリゲスが『聖なる乙女』選定の条件としたのは“野心がある事”と“ロドリゲスに従順である事”だった。
ディアナには贅沢な暮らしと名声、そして見目の良い男の妻になるという望みがある。
そしてその望みを叶える為には陰で何をしようと構わない。なんなら邪魔な者は消せばいい、そんな人間性をロドリゲスに高く評価されたのだ。
ディアナにとって王家の至宝なんてどうでも良い。
ただ、セドリックが欲しい。
初めて引き合わされた時、この男しかいないと思った。
見目が良く、地位もあり、有り余る財もある。
『聖なる乙女』としてちやほやされるのは25歳まで。
その後の人生の為にセドリックの妻、ロレイン公爵夫人という肩書きが喉から手が出る程欲しいのだ。
一緒の屋敷に暮らせば、セドリックを簡単に落とせると思っていたのに。会えなければどうしようもない。
ならば奥の手として例の秘術で夫人を人質に取り、言う事を聞かす……という策に出たくともその夫人の居所すらわからないのだ。
今、ロドリゲスの手の者が公爵と夫人の所在を血眼になって探しているというが……。
まぁ見つかるまでは、この屋敷の中にロドリゲスご所望の王家の至宝の隠し場所の手掛かりがないか探っておこう……ディアナはそう決めた。
──まずはセドリック様の書斎から、かしらね。
何故か鍵が掛かっていないのよね。まるでどうぞ家探しして下さいと言わんばかりに……。
金持ちってどこか抜けてるのよね~とひとり言を言いながら、ディアナは屋敷の廊下を進んで行った。
◇◇◇◇◇
「いらっしゃいませ。今日は何にいたしましょう」
「ごきげんよう。今日はバゲットを一本と、明日の朝食用にクロワッサンを三つお願いするわ」
「はいよ毎度あり」
そう言ってパン屋の店主が手際よくバゲットとクロワッサンを袋に詰めてゆく。
アパートのオーナーとして暮らし出して変わった事の一つは、ユニカ一人でお使いに出られるようになった事である。
アパートの周辺にはパン屋と本屋、そして手芸店があり、その三軒だけであれば一人で買い物に出ても良いとルナが言ってくれたのだ。
今日はパン屋へ買い物へ。
昨日は本屋で編み物の教本を買い求めた。
明日は手芸店へ行ってみよう。
自分のお財布からお金を取り出して支払うといった経験も初めてだったユニカ。
──なんか自立してる!って実感が湧くわ♪
と、散歩も兼ねて毎日この三軒のお店を行き来しているのだった。
アパートに戻ると、丁度雑貨店の従業員がご用聞きに来ていた。
クロエがメモを見ながら注文を告げている。
「お塩とブラウンシュガー、そしてトイレの紙と石鹸をお願い。あ、あとオリーブオイルも」
ご用聞きの従業員がそれを熱心に注文書に書き記す。
ユニカは従業員に声をかけた。
「ごきげんよう、トムさん」
「あ、ちわっす!いつもご贔屓にして頂いてありがとうございます!」
トムという雑貨店の従業員は人懐っこい笑顔で挨拶を返した。
クロエがユニカからパンを受け取りながら言う。
「おかえりなさいませユニカ様。お買い物ありがとうございます」
「いいのよ。わたしがしたくてしてるんだもの。自分の足で買い物に行くのがこんなに楽しいなんて知らなかったわ」
「それはようございました」
クロエがくすっと笑う。
ユニカが楽しそうで何よりだ。
そんな時、すぐ側でか細い声が聞こえた。
「おはよー…ございます…」
「「「わっ、びっくりした」」」
側に居たなんて全く気付かなかったユニカとクロエとトムが面白いくらいに重なって声を上げる。
三人の目線の先には一人の女性が、204号室の不眠症の茨姫ことオーロラが居た。
「こんにちはオーロラさん、おはようではなくもうお昼よ。昨日もまたよく眠れなかったの?」
クロエがオーロラに声をかけた。
「なかなか寝付けなくて……やっと寝れたと思っても、小刻みに目が覚めるんです……今日は休みなので今まで寝たり起きたりを繰り返してました……」
慢性的な寝不足の所為か、オーロラのテンションはいつも低い。
いつもお休み30秒、枕に頭を付けた途端に眠ってしまうユニカには信じられない事だった。
「お気の毒に……確かカモミールティーがあったはずだわ。カモミールは気持ちを落ち着かせたり、体を温めたり、静穏作用があって安眠のお茶とも呼ばれているのよ。差し上げるから是非飲んでみて」
ユニカがオーロラに言うと、オーロラは消え入りそうな声で「ありがとう…ございます……」と頭を下げた。
その時にふわっとインクの香りがした。
オーロラの職業は園芸店の店員だと聞いたが、
彼女がお日様の下で重い植木鉢などを抱えたりしている姿はあまり想像つかなかった。
でもよくお土産として商品にならないミニバラの鉢植えなどを持って帰ってくれるおかげで、エントランスや二階のポーチなどは様々な色合いのミニバラが飾られていてとても綺麗だ。
ユニカは今晩は彼女がよく眠れるといいなぁと心の底から思った。
しかしこのオーロラ、夜になると異様にテンションが高くなる。
時々夜中に、
「ノってきたノっきたー!インスピレーション湧いてきたーー!」
とハイになった彼女の雄叫びに近い声が聞こえる事があるのだ。
そして今夜もまたその声が……。
今みたいにその声で目が覚める事もしばしば。
他の住人がそれに対して苦情を寄せたり、怒ったりしないのが奇跡である。
どうやら今夜もオーロラは眠れない夜になりそうだ。
ただ単に昼夜逆転しているだけでは?と言いたくなるが、それは余計なお世話だろうから言わない事にした。
──それにしてもオーロラさん、一体何がノってきたのかしら……?
そんな事を考えながら、ユニカは再び眠りに落ちていった。