第九話
二週間が過ぎた。
私の計画はそれなりに順調に進行し、二人の距離は少しずつ縮まっている……と思う。
元からそれなりに親しく話す二人なので分かりにくいが、帰り道で覗いたお店の話とか道端で見つけた蛙やら動物やらの話をしてくるのでそう考えていいだろう。
あちこち歩き回っている証拠だ。共通の話題が増えるというのも、仲が深まるいい理由になる。
お昼時は相変わらず四人という感じが強いが、それも変に気負わなくていい状況を作り出していると言えるだろう。
気がかりなのは、花梨がたまに私に向ける視線だ。
意味深というかなんというか、じっとこちらを見つめてくる。何かを探っているようにも、話したいことがあるようにも見えて困る。
私から話を振ってもいいんだけど、やぶ蛇をつつくような気がしてならない。正直に言って、花梨のこの反応は今までに見たことが……いや、一度だけあるか。
似たようなのは中学の時、ラルフと知り合ってからあった。
珍しく花梨が自分から男の子に話しかけにいくので、どんなものかと私も色々ちょっかいをかけたりしたのだ。
その時に、今みたいに花梨がじっと私を見つめることがあった。
理由を本人に聞いたこともある。『ひーちゃんが遠くに行っちゃいそうで怖かったから』と言っていた。
まぁ、寂しがり屋で人見知り特有の親しい人間が離れることへの恐怖心というやつだろう。
三人一緒に過ごすことが多くなってからはそんな視線を向けなくなったし、二年になって私が前世を思い出してからはそれどころじゃなくなった。
それで忘れてしまっていたのだが……しかし思い出すとますますわけが分からない。
あの頃と違って私も花梨も成長している。さすがに今更人見知りゆえの恐怖心も何もないだろう。
大体、この場合遠くに行っているのは私じゃなくて花梨の方だ。万が一離れることに怯えがあるとしても、そばには春史くんがいる。
考えるほどわけがわからなくなって、とりあえず放っておくことにした。
付き合いが長いからこそ分かるが、花梨の行動や言動を考えすぎると疲れるばかりでいいことがない。
ありのままを受け取って接した方がお互いにとって良かったりするのだ。
そうして、私は特に気にせず二人の仲を進めることに注力した。
そういえば、最近春史くんも少しだけ変だ。
何か考え事をしている時が増えたし、妙に私に気を使ってきたりする。
変に距離を感じるというか、違和感があるというか。いやまぁ、こっちに近づかれても困るからそれでいいんだけど。
花梨と違って対処法も何もわからないから、どうしたものかと困ったりする。
心の距離が目測で分かればいいのに。
そんなことを考えながら日々を過ごし、
球技大会の当日がやってきた。
「そーれっ!」
人が詰め込まれた体育館に掛け声が反響する。
球技大会、バレーの部。我がクラスは順当に勝ち進み、決勝戦にまで駒を進めていた。
チームメンバーは女子のみ。男子はサッカーに出ている。男女混合もアリな中で分かれたのは定番通りというか、花梨が恐れられたというか。
親睦を深めるのが目的とはいえ、特定個人とばかりそうされるのは女子にとって面白いことじゃない。
ならば、その前に女子で団結をしてしまえばいい。最強の敵への最善の対処は、味方に引き入れてしまうことだ。去年も似たようなものだった。
体育館に詰め掛けた男子の鼻の下の伸びた顔を見れば、クラスメイト達の懸念も真っ当なものだと誰もが納得するだろう。
視線の先はもちろん、体操服姿の我が幼馴染だ。
ショートパンツから覗くふとももが眩しい……とか思われてるんだろうな。私も思わなくもない。
「ひーちゃん!」
声と同時にトスが上がる。
床を蹴って飛び上がった。
ボールを相手のコートに叩き込む。
「ナイスキー!」
歓声とどよめきが沸き起こる。
寄ってきた花梨とハイタッチし、他のチームメンバーともタッチを交わす。
……行事はそこまで好きじゃないが、手抜きもしない。そういうことには女子は結構敏感で、わざとやると立場が悪くなるのだ。
球技大会用に短縮されたルールだと、あと1セット取れば勝つ。
とはいっても、相手はラルフのクラス。バレー部の子もいて、勝てるかどうかは微妙なところだ。
花梨の為にも勝ちたいところだが、こればっかりはどうにもならない。
「そーれっ!」
こちらのサーブが飛ぶ。
打ち損ねたのか、甘いチャンスボールになってしまっている。
これは防げないだろうな、と気を抜いたのがまずかった。
相手のスパイクが、花梨の顔にぶちあたった。
「ナイスキー!」
歓声とどよめきが起こる。
「花梨!?」
悲鳴じみた叫びが出て、倒れた花梨に駆け寄った。
ボールが当たった部分が赤くなっていたが、鼻血も何も出ていないようだ。
「花梨、大丈夫!?」
「だいじょぶだいじょぶ、へーきへーき」
助け起こすと、小さな幼馴染ははにかんで軽くピースする。
気がつくとクラスメイト達が周囲を取り囲んでいた。
「小町さん、平気?」
「とりあえず保健室行こうよ」
「保健委員って誰?」
「はいはい! あ、肩貸すね。歩ける? 大丈夫?」
いつもの笑顔を浮かべて「だいじょうぶ」と言いながら、花梨が先生に付き添われ榎本さんの肩を借りて体育館から出て行く。
残った先生の指示で代わりの子を出して試合は再開。
向こうのサーブが打ち込まれる。
動揺しているのか、甘いボール。
膝を落として、床を踏む足に力を込めた。
「もってこい!!」
腹の底から叫んでボールを視界に捉え続ける。
……前世のこともあって、グループ行動もその中心におさまるのもあんまり好きじゃない。
行事で自分から目立つのもそんなにしたいことじゃない。
でも、それより、
気に食わないことをされて黙っているのは、前世から性に合わない!
全力で打ったスパイクが相手のブロックを弾いて、体育館中に響くいい音を立てた。
「ナイスキー!」
歓声とどよめきが巻き起こる。
バレー部がいようが関係ない。
花梨の顔を傷つけた報いは受けてもらう。
呼吸を整えて、深く腰を落とした。
球技大会・二年バレーの部は私達のクラスが優勝した。
花梨はすぐに戻ってきて、元気に応援をしてくれた。
体育館を出て浴びる風は、涼しくて気持ちよかった。
クラスの女子全員でぞろぞろと移動する。一応この後も私達の試合はあるのだが、すぐというわけじゃない。
うちの球技大会は最後に全学年の優勝クラス同士でリーグ戦を行うのだ。それで総合優勝を決めることになっている。
学年を超えた交流を図るのが学校側の目的だが、生徒側としては……まぁ、色々と良かれ悪しかれ。
なので、他の学年の試合が終わらないことには始まらない。その空き時間を利用してサッカー男子の応援に行こうというわけだ。
驚いたことにうちのクラスはまだ勝ち残っていて、ついには決勝にまで進んでいる。相手はもちろん、ラルフのクラス。
さすがにここで終わりだろうな、という空気が皆の中にも漂っていた。ただ一人を除いて。
「ひーちゃん、頑張って応援しようね~!」
にっこにこ笑顔で花梨が胸の前で両手の拳を握る。
そんなことされても、私にどうしろと。
「そうね」
頷くだけにとどめて、掛け声や応援で騒がしいグラウンドに目を向けた。
ゼッケンをつけて試合する男子に、応援する女子。毎年恒例の光景だ。自分のクラス以外を応援する子が出るのも毎年のことで、理由は……言わなくても分かるだろう。
去年のラルフなんかすごい数の女子に応援されていた。一応、その中に私や花梨もいたけれど、こっちは中学からの友達なので。
それがあるからか、後ろでめっちゃ話しかけたそうにしている子がいるんだよなぁ。
「……なに?」
肩越しに振り向いて水を向ける。
話しかけたそうな子――榎本さんがびくっと肩を震わせて反応した。
お団子を揺らして左右に助けを求めるも、そそくさと視線を外され苦し紛れの愛想笑いを返してくる。……いや、待って。私はどういうキャラ扱いなの?
話を打ち切ってやりたい気持ちが湧くが、彼女は花梨に肩を貸してくれた恩がある。じっと黙って話しかけられるのを待った。
榎本さんは少し口ごもった後で、
「白峰さん達は烏丸くんの応援しないの?」
想像通りのことを聞いてきた。
一応うちのクラスの応援のつもりだけど、花梨に視線を落として目で尋ねる。
視線に気づいて顔を上げた幼馴染は満面の笑みを浮かべて、
「する~!」
と言ってのけた。
そりゃそうだよね、知ってた。この子に二者択一なんて通用しない。
「……だって」
榎本さんに視線を戻すと、なんとも言えない微妙な顔で笑っていた。
まぁ、そんな顔にもなるよね。気持ちは分かるが、諦めよう。それが花梨だ。
「ま、まぁ、スポーツとかじゃ両方のチーム応援するってよくあるもんね」
「そうね。悪いことじゃないと思う」
話し終えて前に向き直ったところで、耳をつんざく甲高い歓声が聞こえた。
反射でそちらを見ると、案の定ラルフファンの皆様がボルテージを上げている場面だった。
彼女達の視線の先に何があるかは、見るまでもない。
「あっちみたいね」
「はは……だねー」
榎本さんの苦笑いを横目に、全員でグラウンドに入っていく。
ちょうどウォームアップが終わって試合が始まるところだった。
邪魔にならない位置取りをして、キックオフの笛の音を聞く。
最初はうちのクラスのボール。順当にパスを回して攻め込んでいく。えっと、なんだっけ。左ウィングとか右ウィングって言うんだっけ、端の方。
左ウィングにボールを集めているように見える。右の方にはラルフがいるから当然の判断だろう。
でも、それは向こうも分かっていて、右をほぼラルフに任せて数でプレスをかけている……あ、とられた。
「キャーー!! 烏丸くーーーーん!!!」
右の鼓膜に大打撃を与える黄色い歓声。
別にラルフが取ったわけじゃない。ただ、自分のチームがボールを取った瞬間、あいつは脇目も振らずにフィールドを駆け上がった。
そこからは、あっという間だった。
ボールが大きく上げられ、ラルフが敵陣でそれを受け取る。守備をあっさりと抜き去って、ゴールキーパーなんていないようにボールがネットに吸い込まれた。
あんまりにも簡単に一点が入る。当のラルフは、息一つ乱した様子はない。
『フィールドのプリンス』は、改めて敵としてみるととんでもない化け物だった。
「烏丸せんぱぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいっ!!!」
悲鳴と勘違いするほどの叫び。こないだの後輩ちゃんを含む一年生ファン達だ。
先輩達と比べても応援に対する熱気というか、声にこもる迫力が違う。
その声に引き寄せられたのかなんなのか、続々と女子が寄ってきている。去年の再来、いや下手したら去年より多くなるかも。
同じ学校の生徒なのに、何故かうちのクラスはアウェイの空気だ。
「頑張れ~!」
「ファイトー! まだ一点だよー!!」
「諦めんなーー!!」
花梨含め、うちの女子達も声を張り上げて応援している。
だが、実力差は火を見るより明らかだ。前半二分でそれは証明されてしまった。
根性論とかそういうもので覆るレベルじゃない。
笛の音が鳴る。キックオフ。
もう一度左ウィングにボールを集める。あんなプレーをされた後でラルフのいる右を攻めようなんて考える人はいないだろう。
あいつはたった一人で、フィールドにいる全員の動きを操っていた。
さっきと同じ展開。でも、うちのクラスにそれ以外の選択肢はない。
数の暴力のプレスに負けてボールが奪われる。ラルフはもうとっくに上がっている。速すぎて誰もついていけていない。
ついていったところで、結果は変わらないだろうけど。
もう一度上げられるロングパス。トラップしたラルフにディフェンスが三人がかりで襲い掛かる。
『フィールドのプリンス』は振り向かずにかかとでボールを転がして三人の隙間を縫った。
がら空きで転がるボールに一瞬全員の注意が向く。その隙をついて、ラルフは素早く三人を抜き去ってボールを足に吸い付かせた。
才能ってのはあるとこにはあると思い知らせてくれる。おまけに努力もするもんだから手がつけられない。前世からほんとにあいつは変わんないなぁ。
ドリブルにディフェンスが追いつけない。あっという間にゴールキーパーと一対一になり、振り上げた右足でシュートを打ち、
春史くんの足に弾かれた。
息が詰まる。
いつの間にいたのか分からない。
ボールはゴールから外れて明後日の方向に飛んでいき、ラルフのクラスのコーナーキックになる。
息を切らせた春史くんとあいつが一瞬見つめあい、すぐに位置につく。
「えーーーー!? 誰よあいつ!!」
「烏丸くんの邪魔しないでーー!!!」
気がつけば最初の三倍くらいに膨れ上がった観客が好き勝手なことを言う。
まるで春史くんが悪役だ。
彼女達から見たら、そうなんだろう。
ラルフの位置はゴール前。めちゃくちゃ分かりやすい。コーナーキックでクロスを上げてヘディングでゴールをとるという考えだ。
そのラルフを春史くんがぴったりとマークしている。
二人の身長はほとんど同じ。うちのクラスに他にあいつと張り合える高さの男子はいない。
だからって、なんで春史くんが。
運動、得意だったっけ?
考えている間にコーナーが蹴られた。
高く高く上げられたボールがゴール前で落ち、
春史くんとラルフが体をぶつけあって競り合う。
ボールはこぼれ、大混戦が起こる。誰かが適当に蹴ってセンターラインを超えてラルフのクラスのディフェンダーが取る。
「パス!!」
混戦から抜け出したラルフが叫ぶ。
さっきから歓声がうるさくて隣の話し声さえ聞こえないのに、あいつの声はほんとに良く通る。
そして、ラルフの後ろに春史くんがぴったりくっついていた。
パスを受け取ったあいつが再びヒールパスで守備をかわそうとする。
読んでいたと言わんばかりに春史くんはカットし、味方にパスを回した。
「上がれ!!」
彼の声が響く。
ラルフと同じくらい、良く通る声だった。
ラルフがインターハイでも滅多に見なかった悔しそうな顔をする。表情が引き締まり、目つきが変わった。
入り込んでいる証拠。あいつにとってこの試合はもう、インハイの決勝と同じものになった。
走る速度が変わる。体の動かし方が変わる。指示の飛ばし方が変わる。もう、誰にもラルフを止められない。
こうなったあいつは、無制限に強くなっていく。
心臓の音が徐々に速く大きくなっていく。
フォーメーションが変わる。今までラルフ一人で右を抑えていたのが、普通の守備シフトになった。
そして、あいつが自ら縦横無尽にボールを奪いにいけるようにする。サッカー部でやっているのとほとんどと同じ。
せっかく春史くんが奪った主導権は、弾丸のように突っ込んできたラルフに奪い返された。
胸元を掴んで、痛みさえ感じる鼓動を抑えようとする。
春史くんが食い下がる。だが、もうラルフに隙は欠片もない。
彼の相手をする時は決してボールを体から離さず、バックパスすら辞さない。無理にドリブルで抜こうともしない。
打つ手は、もうない。インハイでだって、今のラルフからボールを奪える選手は一人としていなかった。
じりじりと前線を上げられ、不意打ちで切り込まれて得点を許すのだ。
呼吸が荒くなっていく。
それでも、春史くんは食い下がる。
彼の目には多分ラルフ以外映っていない。ひたすら張り付いて自由な動きを許さず、不意打ちもさせない。
スコアは1‐0から動かない。相手のクラスはラルフに得点を頼っていた。その弱点が露呈した形だ。
それが弱点になるなんて、誰も思っていなかっただろうけど。
ボールがラルフに渡る。春史くんがぴったりとマークして楽なドリブルを許さない。ゴール前が固められる前にとラルフがパスを出す。
誰もが息を抜くその瞬間、ラルフはいきなり前傾姿勢になって全力で走り出した。
血の気が引く。
守備に戻った男子の間をすり抜けてゴール前を目指す。パスを受けた選手が近くの味方と連携して切り込んでいく。
ラルフに気を取られたせいかゴールエリア近くまで攻め込まれてしまう。ようやく立ち直ってプレスをかけた時にはもう何もかもが遅かった。
絶妙なパスがゴール前でラルフに通る。
息が詰まる。
どうしようもない。ラルフの足は綺麗にボールを捉えている。強烈なボレーシュートがネットに吸い込まれる未来がエスパーでもないのに予知できた。
あれだけやっても無理なのか。
どれだけ食い下がっても、勝てないのか。
差がある相手には、どうしようも、
春史くんの足がラルフと同時にボールに触れた。
雄叫びが上がる。
春史くんは吹っ飛ばされ、ボールはゴールから外れて飛んでいく。
「もーーーー!! いいとこだったのにぃぃぃぃぃぃ!!!」
「あいつ邪魔!!!!」
「烏丸くーーーーん!!! 惜しかったよーーーーー!!!」
心がさざ波を起こす。
なんで諦めないんだろう。
見たところ、運動が苦手ってわけでもなさそうだけど。なら、余計にラルフとの力の差なんて分かりきっているはずだ。
それに、たかが球技大会だ。一体、何をそんなにムキになっているのか。
胸の奥で何かが疼いている。
忘れていた何かが、かさぶたの下に閉じ込めた何かがここにいるよと囁いている。
うるさい。知らない。
おまえなんか見たくもない。
蹴られたボールが宙を舞い、再びラルフと春史くんが競り合う。
他の誰も届かない高さの中空で、二人がぶつかりあう。
二人の頭がボールにぶつかって、弾かれるように吹っ飛んだ。
こぼれた主導権を全員で奪い合う。誰かががむしゃらに蹴ったボールが、私達のいる方向に飛んできた。
ワンバウンドしてライナーの軌道を描いて花梨の顔に迫る。
反射的に手を出して弾いて掴み取る。今度は防げた。さすがに一日に二度も顔面にボールがぶちあたれば怪我くらいするだろう。
「花梨、大丈夫?」
意識する前に口が動く。
「うん……ありがとう、ひーちゃん」
よっぽど驚いたのか珍しく花梨の目が大きく見開かれている。
大体こういう時、笑顔で言ってくれるんだけど。
「わりぃ! 大丈夫か!?」
ラルフがめちゃくちゃ焦った顔をしてとんでもない速さで走ってきた。
フィールドとの差というか、ある意味この切り替えの早さは感心する。
「大丈夫。誰も怪我してない」
「手! お前、手、なんともねぇか!?」
さっき手で弾いたのを見ていたっぽい。
そんなに心配しなくても何かあったら言うって。
「なんともない。それより、試合に――」
戻れ、と言ってボールを返そうとして、
「烏丸くーーーん!!!」
「すごいよね、烏丸くん!! さすがサッカー部のエース!!」
「せんぱぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいっ!! カッコイイですぅぅぅぅぅぅぅ!!」
「うぉっ」
怒涛の黄色い歓声にラルフが若干圧される。
まぁ、数がいつもの三倍くらいだからね。さすがにこの音圧はきつい。
なんともできないままボールを抱えていると、
「白峰さん」
息を切らせた春史くんが近づいてきた。
ラルフと違って呼吸は荒いし、だいぶ汗もかいている。傍目に見てスタミナにも差があるのは明らかだった。
それでも、目だけは普段よりはっきりとしている。
汗で前髪が額に張り付いて、いつもより目を合わせやすいからかもしれない。
「大丈夫ですか?」
静かで落ち着いた声。
もう聞き慣れたはずなのに、心がざわつく。
「うん、大丈夫。それより、これ」
ボールを差し出すと、一瞬躊躇してから近づいて受け取ってくれた。
手を伸ばせば届く距離。小さな声でも聞こえる距離。
歓声に邪魔されて他の誰も私達の会話なんて聞こえていない。
勝手に唇が動いていた。
「勝ちたいの?」
シンプルな質問。
彼は口を真一文字に引き結び、考え事をするように視線を泳がせ――
「……はい」
――私の目を見て、そう言った。
どくん、とひときわ大きな鼓動の音が鳴る。
勝ちたいんだ。
あれだけ差を見せ付けられて、これから更に引き離されていくのが分かっているのに。
それでも、彼は。
「頑張って」
蚊の鳴くような声でしか言えなかった。
だって、無責任にも程がある。
負けると分かっている戦いに、頑張れだなんて。
「はい」
小さく彼がそう言った気がした。
「え?」
聞き返そうとして、笛の音が鳴る。
「やべぇ、戻るぞ暮石!」
頷く春史くんを引き連れて、ラルフがフィールドに戻っていく。
ラルフのスローイングで試合は再開された。
もう何度も見た展開が繰り返される。相手チームはラルフを起点に攻め込み、積極的にゴールを脅かす。
ラルフ一人の圧が酷すぎてこっちのチームは思うように動けない。春史くんが徹底的にマークしているものの、止め切れてはいない。
だって、あんなのどうしようもない。
一瞬気を抜いただけで抜かされる。ドリブルにも追いつけず、パスも止められない。かかとでボールに回転をかけて蹴り上げ相手を抜くという離れ業もやってのけられた。
ずっと全力で走っているはずなのにスタミナが切れる様子もない。ダッシュ速度が落ちる様子もない。むしろますますプレイが鋭くなっている気さえする。
どうしたらあんなのに勝てるのか。
諦めた方が話が早い。
勝てるわけがないと、違う勝負に望みを託すのが賢い選択だ。
それでも春史くんは食い下がる。
誰もが諦める中で、彼だけはラルフに張り付いて止めようと全力を尽くす。
もうラルフの対処は全部春史くんに投げられている。他の誰も近づいてこようとはしない。
それでも、彼はしがみつく。
勝ちたいと、きっとその思いを胸に。
「ラルフく~~~~ん!! 頑張れ~~~~~~!!!」
隣で花梨が両手をメガホン代わりにして応援する。
胸がどくんと脈打つ。
背中から槍で突き刺されたような衝撃が走り抜ける。
今グラウンド中に響いている歓声の全ては、ラルフを応援して春史くんを悪役にするものばかりだ。
なんで応援するのがラルフなの?
春史くんを応援しなくていいの?
今、誰より頑張っているのは。
誰より必死に戦っているのは。
誰かの力を必要としているのは、彼じゃないの?
「頑張れ……」
言葉がこぼれる。
私の意志とは関係なく、喉から溢れる。
何かが熱く疼いて、かさぶたがはがれるように忘れていたものを思い出す。
「頑張れ……!」
心の熱が上がっていく。
止められない。体が全部乗っ取られていく。
頭が真っ白になって、何も考えられなくなった。
「頑張れーーーー!!! 春史くーーーーーーん!!!!!」
叫んだ。
腹の底から、喉も枯れよとばかりに。
どうせ私の声なんかこの大歓声にまぎれて聞こえたりしない。
だったら、もうなんでもいい。
勝って欲しい。
だって、彼は勝ちたいって言葉に頷いたんだ。
勝てるわけもない相手を前に。
負けることが分かりきってる勝負をして。
それでも、勝ちたいって思ってるんだ。
負ける戦いに意味はないのか。
そのくらいなら、最初から白旗をあげればよかったのか。
何もせずに笑って流してれば、きっと傷つかなかった。
でも。
それでも。
勝ちたくってしょうがなくって、だから戦ったんだ。
前世の私には、黙って敗北を飲み込むことなんてできなかった。
負けるって、分かりきっていたって。
最後の最後まで戦い抜いて、ほんのかすかな希望に全て賭けたかった。
その結果が首と胴体が別れるどうしようもない結末だったって。
あの時の気持ちまで、全部どうしようもないダメなことだったって捨てたくなんかない。
かさぶたの下に閉じ込めていた、何も反省していないどうしようもない私が顔を出す。
春史くんの姿が歪んで、もう自分が何を見ているか分からなくなる。
それでも、頷いた彼の姿だけは瞼の裏に焼きついていた。
「春史くーーーーーーーん!!!! 負けるなーーーーーーーーー!!!!!」
あの時の私と同じように。
ほんのかすかな希望を、勝ちたいという気持ちを。
その全てを、ダメなことだったって思って欲しくない。
最後の最後まで諦めないで。
例えその結果が、最初から分かりきっているものだったとしても。
一度閉じて開いてクリアになった視界の中で。
一瞬、ラルフがこっちを見た気がした。
ほんとにそうかは分からない。たまたま目が合っただけかもしれない。
でも、その瞬間、あいつに隙が出来たことは確かだった。
春史くんが初めてラルフからボールを奪う。ドリブルにすぐ追いつかれ、プレスから逃れる為にパスを回す。
誰もが息を抜いた時、春史くんはいきなり前傾姿勢になって全力で走り出した。
体中の血が沸騰する。
守備の間をすり抜けてゴール前を目指す。パスを受けた選手が慌てて近くの味方と連携して切り込んでいく。
誰もが呆気に取られ、ゴールエリア近くまでの侵入を許してしまう。立ち直ってプレスをかけた時にはもう遅く、春史くんにパスが通る。
ラルフがすぐ後ろにいた。
このままじゃどう足掻いても点は取れない。ラルフを抜くのは無茶だし、シュートを打っても防がれる。ボールを奪われる未来しかない。
『フィールドのプリンス』は、自分の国での横暴を許さない。
どうにもならないと諦めかけ、
春史くんはトラップせずにダイレクトパスを出した。
背筋を駆け抜けた感覚がなんなのか、もう私には分からない。
パスの先は左ウィング。さっきまでの攻防で守備シフトはガタガタだ。当然のように通った。
「上げろ!!」
春史くんの声が通る。
考えるのを諦めたように左ウィングの選手がセンタリングする。
ゴール前、空中のボール。
二人が同時に飛び上がり、
春史くんのヘディングがゴールネットを揺らした。
体勢を崩した二人が肩から地面に落ちる。
誰もが呆然としてゴールを見ていた。
審判役の先生達でさえ笛を吹くのを忘れている。
心臓の音がうるさい。ばくばくととんでもない速度で鳴り続け、言葉がなんにもでてこない。
グラウンド中が、しんと静まり返っていた。
ラルフが起き上がる。小走りにゴールの中のボールをとって、起き上がった春史くんに渡す。
春史くんは黙ったまま受け取り、センターラインに戻っていく。
センターサークルにボールを置いたところでようやく、我に返った先生が笛を吹いた。
大歓声とどよめきが耳を覆う。
もう個別の意味ある言葉なんて聞こえない。濁流みたいな声が混ざりあった音が、ただ一つの方向性を持って流れ込んでくる。
奇跡を目にした人間の反応。
無名の高校が、インターハイを制した時に聞こえたのと同じものだ。
ふと、隣から視線を感じて顔を向ける。
花梨が真顔でじっと見つめてきていた。穴が開くほど真剣に。
あまりに居心地が悪すぎて、視線をそらしてしまう。
「……どうしたの?」
ただその場から逃れるだけの問いかけに、花梨は花が咲くような笑みを浮かべた。
「良かったね」
何を言われたのか分からない。
ただ、胸の奥が熱くなったのだけは事実だ。
花梨はくるりとグラウンドの方に向き直って、
「負けるな~~~~~~!!! ラルフく~~~~~~ん!!!」
精一杯の応援を再開した。
ラルフが負けることはないだろう。この一点は、ほんとに奇跡だ。
でも、それでも。
勝って欲しいという気持ちだけは、持ち続けようと思う。
同じように私も試合に向き直る。
奇跡の後のキックオフ。
センターサークルからボールが蹴りだされた。
奇跡は、やっぱり一度だけだった。
前半は1‐1でもたせられたが、後半はもうどうにもできなかった。
春史くんは必死に食い下がっていたが、スタミナの差が徐々に表れ抜かれるようになっていく。
そうなれば、もうラルフの独壇場だ。
誰もあいつを止められない。シュートコースを塞いだってこじ開けてくる。
ハットトリックを決められ、3‐1でうちのクラスは負けた。
悔しそうな彼を見るのは、前世のアルフォンスを含めても初めてのことで。
胸の中の何かが痺れるような感覚がした。
私達のクラスの最終成績は、サッカー二年準優勝、バレー総合優勝となった。
私がやらかしたことに気づいたのは、球技大会が終わって更衣室で着替えている最中だった。