第八話
月曜日。一週間の始まり。
ゆっくり眠れば、それなりに冷静になるもので。
いつも通りに起きていつも通りに支度していつも通りに花梨を迎えに行って学校へ。
完璧に普段を取り戻した私は、小テストとかドラマの感想とか適当な話をしながら教室のドアを開けた。
「おはよ~」
「おはよう」
クラスメイトと挨拶を交わして、
「おはようございます」
「……おはよう」
いつも通りの気弱な笑みを向けてくる春史くんにも、皆と変わりなく対応してみせた。
隣の花梨が彼に向けて笑顔で手を振る。それに応えて彼も手を振り返す。嗚呼、仲良きことは美しき哉。……古文っていいよね。
席について鞄を開けて、花梨が泣きそうな顔をした。
「あぁ~! シャーペンの芯、買い忘れたぁ!」
「あとで購買ね。はい」
「ありがと~ひーちゃん!」
予備の芯をケースごと渡すと、少し抜けたところがある幼馴染は嬉しそうに笑う。
サッカー部マネージャーの杉本さんに勝るとも劣らず、花梨も考えてることが顔に出る。にしても、シャー芯くらいでそんな顔しなくてもいいと思うけど。
おかげで、私の筆箱には常に色んな予備が一つは入っている。消しゴムとか。
小学校からこんな感じだから、もうクセになっている。中学に上がってからはラルフにもよく貸していた。
あいつは何でもできるクセに、自分のことになると割と抜けるのだ。
そうこうしている内に担任がやってきて朝のHRが始まる。いつもと変わらない連絡事項の中で、今日は一つだけ違うことがあった。
球技大会が再来週に開催される。今日から委員の集まりがあるらしい。
うちの球技大会は例年サッカーとバスケとバレーの三種目からクラスごとに二種目選んで参加する形式だ。
大体は男子と女子で分かれるが、混合で参加しても良い。今週のLHRはチーム分けと参加種目決めに使うと告げて、担任は出て行った。
「ひーちゃん、何に出る?」
花梨が目をキラキラさせて聞いてくる。
この子は運動は苦手だが、行事は大好きなのだ。
『皆で何かをする』というのが特に好きらしい。体育祭とか文化祭とかも大好きで、小学生の時は遠足前に眠れなくて目を真っ赤にさせてやってきていた。
本当にいるんだよ、そういう子。私も驚いた。
思えばあれから、幼馴染ということもあって目が離せなくなった覚えがある。
「バレーかな。バスケは去年やったし」
「じゃあわたしも~!」
ニコニコしながら乗っかってくる花梨に苦笑する。
この子と違って、私はそこまで行事が好きじゃない。前世の反省とか色々あって、グループで行動することをなんとなく避けてしまう。
気を使うのは花梨やラルフ周りだけでいい。それ以上は手に余る。
だから、モデルの仕事はそれなりに気に入っている。部活の勧誘からも逃げられるし。
クラスでもあちこちから球技大会の話が聞こえてくる。予鈴が鳴っても話し声は鳴り止まず、一時間目の先生が教室に入ってきてからようやく治まり始めた。
この時期に球技大会をやるのは親睦を深めてクラスの結束を高める為らしいけれど。
どちらかというとヒエラルキー作りとかめぼしい相手を見つける為に使われてるよなぁ、と思わなくもないのだ。
今年もまたラルフのファンが増える。
面倒なことにならなきゃいいな、と叶わない願いをため息の形で吐き出した。
お昼のチャイムが鳴る。
教師より先に教室から駆け出す男子に、お弁当を取り出して机をくっつける女子。いつものお昼の風景。
私もいつも通りお弁当を取り出してグループチャットを開いた。
「今日はどこで食べる?」
「屋上~! まだ暮石くん連れてってないでしょ~?」
嬉しそうな花梨に、遠い目をしてしまう。
こうして私の手を離れて一人立ちしていくんだなぁ。かつてのマーチル商会の人達もこんな気持ちだったのだろうか。
寂しくて苦しくて切ない。
でも、いつまでも一緒というわけにもいかない。
春史くんと付き合うのは、ちょうどいいきっかけになるだろう。……上手くそこまで事が運べば。
その為にも、ラルフには昨日頼んだことを守ってもらわなくちゃ。
屋上で食べることをラルフに伝えて、一つ息を呑む。
今日から新しい“いつも通り”を作るのだ。
「じゃ、行こっか」
「うん! 暮石く~ん、お昼食べよ~!」
手を振る花梨に微笑んで、春史くんが腰を上げた。
「お~、気持ちーな!」
屋上に出てすぐ、ラルフが思いっきり伸びをする。
空は快晴、ほどよく風も吹いてまさに麗らかという言葉がぴったりだ。
春眠暁を覚えず、お昼寝でもしたら授業を寝過ごしてしまうかもしれない。
「朝からね~、いいお昼日和になると思ったの!」
にこにこしながら花梨がお弁当を掲げる。
お昼日和ってなんだ、と思ってはいけない。そこは感じて。
「ベンチとかあるんですね。他に人もいますし」
興味深そうに春史くんが周囲を見回す。
「天気がいい日の昼休みと放課後は開放されてるの。うち、天文部とかあるし」
私の適当な説明を真面目に聞き入る春史くん。
昨今のご時勢的に屋上開放に制限をつけるか禁止にしようという話もあったみたいだけど、生徒達の猛烈な反発とカウンセラーを兼任する保険の先生の助言によって取りやめになった。
まぁ、屋上の周りはラルフの二倍くらいの高さの金網で囲われていて、おまけに返しまでついている。
世を儚んだ青少年がいるとしても、もう少し楽なところで来世に向かうだろう。
周囲を見回せば、私達と同じようにお昼を食べているグループがぽつぽつと。そのうち半分くらいの視線がこっちを向いているのは、ラルフと花梨のせいだ。
二人とも目立つし、さっきから久しぶりの屋上だからって騒いでるし。
「やっぱ高いとこってすげーな、俺ん家まで見える!」
「わたしの家も見えるよ~! あ、暮石くんのお家はあっちだよね~?」
金網に飛びつくんじゃない! 小学生か!!
「ほら、二人とも。向こうのベンチで食べるよ」
「「は~い!」」
口を揃えて返事をする二人に肩を落とす。
可愛い子達なんだけど、時々妙に疲れることはある。
今はしゃぐのはあんた達じゃなくて春史くんじゃないのかい。初めて屋上にきたっていうのにはしゃぐタイミングを逃したりしてないだろうか。
横目に見た彼は、楽しそうに微笑んでいた。
……機嫌がいいなら、まぁいっか。
屋上のベンチは男女四人で腰掛けるにはちょっと狭い。花梨が小さいから詰めればなんとかなるくらいだ。
三人で座る分にはちょうど良かったんだけど。
でも、これはチャンスだ。
花梨も春史くんも奥手だから、物理的に距離を近くするのは意識させるのにいい手だろう。
私と花梨で座って、いつも通り花梨の隣に座ろうとするラルフを睨みつける。
予想通り忘れやがって!!
「ラルフ」
「あ、おぅ、悪ぃ」
マヌケな親友が慌てて私の隣に座る。
花梨が不思議そうに首を傾げるが、無視してお弁当箱を広げた。
「春史くんも座ったら?」
それとなく勧めると、
「はい」
にっこり笑って、ベンチの前の床に座り込んだ。
そこじゃねぇぇぇぇぇぇ!!!
何の為にラルフをどけたと思ってんだ!?
「……ベンチに座ったら?」
「いえ、狭いですし。僕はこっちで」
狭いけど! 確かに狭いけど!! だからいいんでしょうが!!
大体、三人がベンチで一人が床って、なんかすごい変じゃない!? バランス悪いって言うかいじめてるみたいっていうか、いいから座れよ!!
そういうとこで余計な気配りしなくていいんだよぉ!!
「じゃあ俺もそっち行く!」
顔を輝かせてラルフが春史くんの隣に座り込む。
おまえもかぁぁぁぁぁラルフぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!
なんか嬉しそうな顔してんじゃねーよ! あー……でも、そういえば男友達とお昼ってラルフはあんまりないっけ。
ここんとこ機嫌良くて春史くんに懐いてると思ったら、そういうことか。
「ひーちゃん……」
隣の花梨が何かを懇願するような目で見つめてくる。
あーもう、言いたいことは分かってますって。
「今日はシート持ってきてないでしょ。スカート汚れるよ」
「うん……次は持ってくる!」
謎の決意を固めて私の幼馴染はお弁当箱を開く。
お昼に花梨の隣に座らせよう作戦は脆くも崩れ去った。
この調子じゃあ、二人の仲を応援するのは苦労しそうだ……頑張るけど。
出来れば早くくっついてほしいという願いとは裏腹な現実に落胆する私をよそに、三人は楽しそうに喋りながらお昼を過ごしていた。
ていうかラルフ! 嬉しそうにしてんな! このままじゃ約束した前世のこと教えないぞ!!
こっそりと睨みつけてみるも、一切こちらの視線に気づかずに笑っている。
その顔を見ていると、まぁしょうがないか、と思わないでもない。
こいつも私が前世で迷惑かけた一人だし、幸せになってほしいとは思ってる。
焦ることじゃないし、時間をかけてやっていこう……そう切り替えて、母お手製の卵焼きを口に放り込んだ。
ほんのり甘い。
砂糖入りの卵焼きは、前世でヒルダだった頃からの好物だ。
料理の腕をあげて自分で作って、満足いくまで食べるのが夢の一つなくらい。
美味しいものを食べれば気持ちも前を向く。
初日の失敗くらいなんてことない。次の作戦もあるし、これからが肝心だ。
季節が春から梅雨を辿って夏へ変わっていくように。
二人の関係も、緩やかに変わっていければいいだろう。
チャイムが鳴るまでの間、私達は四人の“いつも通り”を過ごした。
放課後。
HRも終わって部活に行く人と帰る人とダベる人で教室内が綺麗に分かれる。
グループの差が色濃くでるのは、やっぱり放課後の過ごし方だと思う。
それはつまり、学生にとって放課後をどう過ごすかは非常に重要だということだ。
「ひーちゃん、帰ろ~」
だから私は、この花梨の申し出を受けるわけにはいかない。
「ごめん、今日はちょっと用事があって」
「え~、そうなの~?」
残念がる顔に胸がちくりと痛むが、これも二人の為。
嘘も方便というやつだ。
「うん、だから――春史くん」
「えっ? はい?」
帰り支度を済ませて席を立とうとしていた彼に声をかける。逃がしてたまるか。
花梨を引き連れて彼の席に近づき、
「花梨を送ってくれる? 家の場所覚えてるでしょ?」
「え? はい、覚えてますけど……」
困惑しながら頷く春史くんに、
「ついでにこの辺案内してもらったら? まだ知らない道も多いでしょ」
「それは……はい」
正しそうな理屈をくっつけて強引に押し通す。
困惑しっぱなしの春史くんを横目に、今度の作戦は上手くいきそうだと胸を撫で下ろした。
「――ひーちゃん」
隣から聞こえた真剣な声に、肩がびくりと震える。
振り向いた視線の先では、花梨が真顔で見上げてきていた。
「いいの?」
短い質問。
どういう意味か分からず、私は考えることを放棄した。
「ごめんね、送ってもらうついでに色々案内してあげて。早く馴染んだ方がいいと思うし」
軽く笑いながら頼むと、
「うん、分かった~」
世界一可愛い幼馴染はいつもの笑顔で快諾してくれた。
「じゃ、暮石くん行こっか~」
「あ、はい。それじゃ、白峰さん」
小さく頭を下げる春史くんに頷き返す。
「うん、また明日」
「ひーちゃん、ばいば~い」
花梨に手を振り返し、教室を出て行く二人の背中を見送る。
二人の姿が見えなくなってから、小さくため息をついた。
……さっきのは、何を言いたかったんだろう。花梨はたまに良くわからないことを言うけど、最近あぁいう真剣な顔をすることが増えた気がする。
なんにしても、放課後二人で帰そう作戦は無事成功した。
ラルフ以外の男の子と一緒に帰るなんて花梨には初めての経験だし、春史くんだって女慣れしているわけでもなさそうだ。
こうして二人であちこち歩けば、互いのことを意識してしまうだろう。
後の問題は、私がどう時間を潰すかということだけど。
とりあえず今日は、本当にやることがある。
あのバカにもう一度クギを刺しておく必要があるのだ。
うちの学校のグラウンドはそれなりに広い。
敷地面積で言えば校舎の軽く三倍はあるし、なんたらスポーツ公園とかどうたら記念公園みたいなのが丸々入ってまだ余りある。
道路側にはボールが飛んでいかないようにネットが張ってあり、緩衝材なのかなんなのかぽつぽつと木が植えられている。
部活に関係のない生徒は邪魔をしないようネットの外側を通ることになっているが、大人しく守っているのは……せいぜい、ラルフファンクラブくらいだろう。
ラルフにクギを刺すべくサッカー部の様子を見に来てみれば、飽きもせずファンの皆様がネットにしがみついていた。
数人と目が合ってしまう。気まずい空気から逃れようとグラウンドのほうに視線を移すが、お目当てのサッカー部員達は一人もいなかった。
おそらく、外周を走っているのだろう。練習前に体を暖めるのが目的だろうから、五周くらいかな。待っていればそのうち戻ってくる。
杉本さんを探して手伝おうとグラウンドに入り、
「あの、すみません」
棘を含んだ――どころか、攻撃的な声に呼び止められた。
視線を向ければ、ファンの一人が他の子の制止を振り切って近づいてくる。
ポニーテールが特徴的な、勝気そうな子だ。多分一年生。
二年生以上はもうこうして私に文句をつけにくることもないから。
「あなた、二年の白峰先輩ですよね?」
言外に『あの白蛇姫の』という言葉が聞こえてくるのは、さすがに私の被害妄想だろうか。
「そうだけど」
頷く私に、
「昨日から思ってたんですけど、先輩は烏丸センパイの何なんですか!?」
清々しい直球勝負を仕掛けてきた。
若いっていいなぁ、なんて年寄りじみたことを思ってしまう。
ロクに反応しない私に焦れたのか、
「噂は聞いてます! 中学からの知り合いだとか、お昼をいつも一緒に食べてるとか! 彼女でもないのに部活にも図々しく顔を出して、何なんですか!?」
更に怒気を込めて追求してきた。
彼女の後ろではファンの皆様の心配げな視線と応援する視線が半々で存在している。中には直接的に私に敵意を向けてくる視線もあった。
胸の内でため息をついて、なんと返すか考える。
普通に話すだけじゃ火に油を注ぎそうだしなぁ。面倒くさい。
「ちょっと、聞いてるんですか!? 本気じゃないなら邪魔なんでどっか行ってもらえます? 迷惑なんですけど!!」
迷惑なのはこっちなんですけど。
目を釣り上げる彼女にそんなことを言えばケンカにしかならない。
申し訳ないけど、ラルフファンの相手をしている暇はないのだ。
返答を考える間を持たそうとじっと顔を見つめる。
彼女は分かりやすく怯んだ。そんな根性でラルフを狙おうってのは止めたほうがいいと思う。
「何とか言いなさいよ!」
それが癪に障ったのか、口元を引き結んで距離を詰めてきた。
彼女の手が私の肩に、
「何してんの」
見た目で想像するものよりは少し低い、透き通る綺麗な声がその場の動きを止めた。
軽く息を切らせたラルフが何の遠慮もなしに私と彼女の間に割って入る。
後ろの方では、先輩ファン達が顔に手を当てて天を仰いでいた。
「あっ、かっ、烏丸センパイ!」
「何してんのって聞いてんだけど」
手を引っ込めて頬を上気させる後輩ファンに容赦なくラルフが攻め込む。
まさか因縁つけてましたと言うわけにもいかず、彼女は目を泳がせた。
「ちょっと話してたの。私がサッカー部のことに詳しそうだからって」
軽くラルフの背中を叩いてフォローをする。こんなところで揉め事を起こすのもバカらしい。
あからさまに疑問視してくるラルフの目を見つめ返して、彼女に目線で同意を求める。
一年生ファンは強く首を上下に振った。
「は、はい! 杉本マネージャーとも親しかったですし、どうしてかなって!」
ラルフは気持ちを切り替えるように息を吐いて、
「去年のインターハイん時に人手が足りないから臨時のマネージャーやってもらったんだよ。こいつ、中学からのダチだからな」
つまらなさそうに言った。
ラルフは鈍感だけど頭がいいせいで違和感には気づくという実に厄介で扱い辛い性質をしている。
今もごまかされたことには気づいたのか不服そうだが、気にしてはいけない。どうせこいつは寝たら忘れるのだ。
今日のお昼、花梨の隣に座ろうとしたように。
「へ、へー、そうなんですか!」
ポニーテールの後輩ちゃんがラルフに怪しまれないよう必死に笑顔を浮かべている。
器用な子じゃないなぁ。だから突っかかってきたんだろうけど。
ラルフの目がすっと細められる。
「俺、ダチに手を出すヤツ嫌いだから。覚えとけ」
私を背中にかばいながら、中学からの親友はそう言い切った。
「はっ、はい!」
背筋を伸ばして後輩ちゃんが首を強く上下に振る。
後ろの方では、ファンクラブの皆様が目をハートマークにしていた。
「ラルフ、練習に戻ったら? 先輩達ももう戻ってくるでしょ」
「おぅ、そだな。そういやお前なんでいんの?」
素直に頷いて、こちらを見下ろしてくる。
ここで聞くことかい!! 目の前に後輩ちゃんいるでしょーが!!
頭をフル回転させて言葉を選び、
「杉本さんの手伝いに。後であんたに話すこともあるから」
できるだけ無難な返事をひねり出した。
「おー、分かった。じゃ、後でな」
「はいはい、頑張って」
ひらひらと手を振ってラルフをグラウンドの中においやる。
改めて後輩ちゃんに向き直ると、嫉妬と疑問と不服を必死に押し殺したような顔をしていた。
膨らんだ頬っぺたが可愛らしい。私と一歳しか年が変わらないとは思えない。
……前世をいれればほぼ倍というのは考えないことにする。
「聞いての通り、私とラルフはただの友達。仲は良いけど、それだけ」
「……そうですか」
全く納得していない顔で後輩ちゃんが頷く。
仕方がない。いつもの手を使うことにしよう。
「あいつに告白するなら、セッティングしてあげてもいいわよ」
「はぁ!? な、なに言ってるんですか!?」
顔を真っ赤にして慌てる後輩ちゃんにそっと近づいて、
「それか、サッカー部に気になる人がいるなら顔合わせくらい手伝ってあげるけど?」
誰にも聞かれないよう耳打ちした。
後輩ちゃんが息を呑んでほぼ反射で私の顔を見つめてくる。
前世でもよくやった敵意のなさを示す営業スマイルを浮かべる。
「去年、臨時だけどマネージャーやったし二年生と三年生は顔見知りなの。一年生もそのうちそうなると思うから、何かあったらいつでもどうぞ」
微笑む私に後輩ちゃんは顔を真っ赤に染めて口をパクパクさせる。
ラルフのファンクラブは毎年減って増えてを繰り返す。ファンをやめた人の半分くらいは、今頃“紹介”した人と楽しい学園生活を満喫してるんじゃないだろうか。
大したことはしていない。頼まれて知り合いを辿って引き合わせただけ。
前世で貴族令嬢をやっていると、こういうことにも慣れる。昔取った杵柄というやつだ。
二年生以上のラルフファンは私のしていることやラルフの態度を知っているから、もう突っかかってくる人はいない。
誰だって余計な争いごとは避けたいものだ。
「け、けけ結構です!!」
上ずった声をあげて、ぷんすか怒りながら仲間の下に戻っていく。
純情だなぁ、と思わなくもない。まだラルフに本気なんだろう。そのうち諦めるだろうけど。
その後姿を見送ってから、グラウンドの中に入る。
ちょうどラルフと杉本さんがラダーを準備していて、手伝おうとしたところで先輩達が塊になって戻ってきた。
「っあー! きっつ!」
「烏丸ぁ! お前はえーよ!」
「水くれ水!」
汗だくでどやどやとグラウンドに入ってすぐにジャグに飛びつく。
薄めたスポドリを呷りながら三年生のキャプテンが声を飛ばした。
「烏丸! お前も少し休憩しろ!」
「俺はさっきまで休んでたんで!」
キャプテンの指示に笑顔で反抗し、ラルフがストレッチを始める。
「てめぇそれは俺らが遅いっつってんのか!?」
「言ってないっすよ! でもインハイまで時間ないんで!」
先輩の野次にもめげず、一人でラダーを使った腿上げダッシュをやりだした。
昔っからラルフはこうだ。協調性がないというかなんというか。前世からそれは変わらない。
でも――
「あーくそ、勝手に一人で始めてんじゃねぇよ!」
「俺にもやらせろこの野郎!」
「キャプテン! もうやっちゃっていいですよね!?」
――こうして、強引に人を引っ張っていく力を持っている。
「あー分かった分かった! 全員やるぞ!」
「うっす!!」
勢いに負けたキャプテンの号令で、全員ラルフの後に続いて練習を再開した。
去年もそうだった。
うちの高校のサッカー部はそこまで強いわけでもなくて。
中学で全国大会三連覇を果たしたラルフが他の高校の誘いを蹴って入ってきた時、先輩達は皆微妙な顔をしたものだ。
まして、一人で必死に練習するものだから、やっかみみたいなものもあったと聞いている。
それでもめげずに頑張るあいつに、次第に先輩達も触発されだして。
気づけば、全員でラルフと同じバカみたいな量の練習をするようになった。
インターハイを制したのは、ラルフ一人の力じゃない。そうして頑張った先輩達がいたからこそだ。
なんでそこまでするのか聞いたら、『他の高校に入っていれば、なんて言われたくないから』と意地っ張りな答えが返ってきた。
ほんと、そういうとこは前世から変わらない。
いつでも真っ直ぐで、思うとおりに行動して。それを実現するだけの根性も力もある。
だから、前世の私のことが許せなかったのだと思う――
――カーマイン公爵家、ジェラルドの部屋。
婚約者と一緒に彼の部屋にいるというのに、私達の間には甘い雰囲気など欠片もなかった。
「……何故呼び出されたか、分かっているか?」
見た目で想像するより少し低い、透き通る綺麗な声が私を糾弾する。
普段は清々しさを感じさせるマリンブルーの瞳は冷徹に細められ、私の胸を射抜く。
扇で口元を隠して、目をそらした。
「さぁ、何のことでしょう?」
「とぼけるな。マーチル男爵家……キャスリンのことだ」
彼があの女の名前を親しげに呼んだ。扇を握る手に力がこもる。
私の行動の理由は、あなたのそういうところにあるのだと全然理解していない。
こうして呼び出しているのがその証拠だ。
「あの平民がどうかされましたか?」
「……マーチル家は正式に叙爵された立派な貴族だ。どうして他と差別して扱う?」
どうして、だなんて。
それはこっちが聞きたいことなのに。
「ジェラルド様こそ、何故そこまであの一家に肩入れされるのですか?」
「我がカーマイン家はマーチル家の後援だ。当然だろう」
眉一つ動かさず、本当に当たり前のこととして言い切る。
そういうことを言ってるんじゃないのに。
「……どうして、後援など?」
彼はため息をついて手を組んだ。
「何度も説明しただろう。マーチル家は貴族とはなったが後ろ盾も何もない。王が一貴族の後援となるのは許されない。だから側近たる我がカーマイン家が手を上げた」
知ってる。分かってる。
でも、そんなことは誰も聞いていない。
「……何がそんなに不満なんだ?」
本当に分からないという顔で、ジェラルドが私を見つめてきた。
我慢の限界だった。
「不満があるとすればただ一つ。ジェラルド様があの娘に入れあげていることです」
はっきり言ってやると、彼は顔を赤くしてうろたえだす。
「なっ、バッ、バカを言うな! 俺はただ、後援として支えているだけだ!」
本当に分かりやすい人。
あなたのそういうところ、ほんの少し前まで好きだったのに。
「なら、何も気にされることはないでしょう」
そう言うと、急に真面目な顔をして、
「ふざけるな! お前が彼女を迫害しているのを見過ごせと? できない相談だ!」
堂々と怒気を込めて言い放つ。
大事なものを守ろうとするその姿に、胸が苦しくなる。
「迫害なんて……平民と貴族を区別しているだけです」
「お前が何をしたかはフェルナンド子爵やリッチモンド辺境伯から聞いている。ベリス伯爵令嬢からもお話を伺った」
ついこの前まで私の陣営にいた奴らの名前があげつらわれていく。
裏切りなんて珍しくないとはいえ、さすがに堪える。
もう本当に、私の味方はいないのだ。
目の前の婚約者でさえ。
「……そうですか」
「彼女を追い詰めてどうするつもりだ? 一体何がしたいんだ!? もうそんなことはやめろ、ヒルダ!」
真剣な顔で言い募る彼を前に、唇をぎゅっと噛む。
そんなにあの娘が大事なのか。
私と婚約者として過ごした時間よりも。
「そんなにあの娘がいいなら、あの娘を婚約者にすればいいじゃない!!」
口が勝手に動く。
驚く彼が目に映って、腹立たしさが上がっていく。
なんでそんな顔をするの。こうなるって分からなかったの?
それとも、私が大人しくあなたの言うことを全部聞くとでも思ってた?
「最近ずっとあの娘のことばっかり!! 私と一緒にパーティーにでても、あの娘のことばかり気にしてる!!」
叫ぶ私に、彼が視線を逸らして弁明する。
「それは……キャスリンはまだ貴族社会に慣れていないし、エスコートする人間がいないとどうしようもないだろう」
「あの娘は平民で、あなたは貴族なの! ちゃんと大人になってよ!!」
ジェラルドの顔が怒気に染まる。
「大人になってないのはどっちだ!!!」
怒鳴られるのと同時に涙が出てきた。
悔しくて苦しくて苛ついて悲しくてどうしようもなくなる。
泣いてる姿を見せたくなくて扇で隠す。
こんなに泣いたのは、アルフォンスと別れたあの日以来だった。
こんなみっともない姿、この人にだけは見られたくなかったのに。
二の句が告げなくなったジェラルドと泣き声を噛み殺すので必死な私。
静寂が部屋に満ちる。
それを打ち破ったのは、聞きなれた透き通る声だった。
「キャスリンと仲良くすることはできないか?」
強く首を横に振る。
今出来る意思表示は、それしかなかった。
「……お前の気持ちは分かった」
絶対に分かっていない。
そういいたかったけれど、口を開けば泣き声が漏れそうでできなかった。
「俺達は、やっぱり合わなかったな――」
次の言葉で、私はどん底に突き落とされた。
「――婚約を解消しよう」
その日、私は全てを失った。
親の信頼も、社会的な信用も、友人も、愛情も、思い出も。
手元に残ったのは、アルフォンスと育てた白い蛇――リリィだけだった。
『白蛇姫』は、そうして断頭台への階段を上っていった――
日が落ちて真っ暗になった空に丸い月が輝く。
ぼんやりと霞がかったような夜空から視線をおろせば、制服姿のラルフがいた。
部活の後の帰り道。
涼しい風が、火照った体に気持ちいい。
運動部のマネージャーは意外とやることが多い。ラルフ目当てでマネージャーやりたいという子もいるが、半端な覚悟では務まらないのだ。
「今日はありがとな、杉本も助かったって言ってた」
「どういたしまして」
こちらの勝手な都合で手伝ったのだが、感謝されて悪い気はしない。
こういう時は下手に遠慮しないで大人しく受け取っておくものだ。
「言っとくけど、今日とか昨日のことは花梨達には言わないでね」
「なんで?」
心底不思議そうに首を傾げてくる。
ほんとに頭いいくせに頭悪いなこのバカは!
「なんでも。私が困るの」
「……まぁ、いいけど」
相変わらず不服なのが分かりやすいなぁ。
誤解されたら面倒だし、それよりやることないのに無理に二人で帰らせてるって悟られるのが嫌だからなんだけど、それを説明してもしょうがないし。
恋愛絡みの諸々にこいつの首を突っ込ませたくないんだよなぁ。酷い目にあうってのは前世でよく理解した。
純真なのも考えものだ。
「それより、再来週の球技大会は何に出るの?」
昨日みたいに提示できるメリットも持ち合わせてないので、とりあえず話題を逸らす。
前世のことをネタにするにしても、乱発すると効果が落ちる。
あぁいうのは肝心な時だけに使うのがいいのだ。
「サッカー」
すごい返答がきた。
「……それはズルくない?」
「俺もどうかとは思うけど、今年は優勝狙うんだって皆張り切っててさ」
「『フィールドのプリンス』の名が廃るんじゃない?」
「それやめろ」
嫌そうな顔をするラルフが面白くてくすりと笑う。
どこかのマスコミがつけたあだ名は、世間的にこいつの代名詞となっている。
去年のインターハイ優勝時は新聞にでかでかと載ったりして、笑いをこらえるのに苦労したものだ。
花梨は目を輝かせて嬉しそうにしてたけど。
漫画のキャラクターみたいな異名を、本人はひどく恥ずかしがっている。
「やるからには全力で勝ちにいく。負けるのは好きじゃねぇし」
「はいはい、頑張ってね」
宣言通り、ラルフは手抜きなんてしないだろう。
だとすると、サッカーはもうこいつのクラスが優勝したも同然だ。
……またファンが増えると今日みたいな面倒も増えそうだなぁ。あのポニーテールの後輩ちゃんがうまいこと話をしてくれたらいいんだけど。
彼女の顔を思い返してなんともいえない気分になる。前世の私と少し似てるんだよなぁ。
ぼんやりしながらラルフと並んで歩く。
前世よりも今世の方が距離が近いのは、気のせいではないと思う。
悪い気はしない。多分、私達はこういう関係の方がいいのだ。
「今日も送ってかなくていいのか?」
声をかけられて、もう分かれ道まで来ていたことに気づく。
親友がくれる当たり前の親切に、頬が緩む。
「うん、大丈夫。ラルフも帰り気をつけてね」
「おぅ、じゃまた明日な」
軽く手を振って別れる。
角を曲がったところで、クギを刺しておくつもりだったことを思い出した。
ついつい忘れてしまっていた。花梨やラルフに言っておいて、私も間が抜けている。
まぁいいや。これから花梨と春史くんの二人で帰らせるんだから、タイミングはいくらでもある。
ちくりと痛む胸に気づかないフリをして、帰り道を急いだ。
あんまり遅くなると、また夕太の中二病が悪化しちゃうし。
二人の仲を進める為の作戦を、もっと色々考えなければ。
夜の暗さは、今世も前世もあんまり変わらなかった。
翌日、サッカーバカは早速口を滑らせた。
花梨の視線に意味深なものを感じるようになったのは、それからだった。