第六話
うつむいて顔を上げられないまま約三十分。
普段の私に戻る前に小町家があるオートロックマンションに辿り着いてしまった。
時間は予定より十五分ほど遅れている。
……道中、新着の通知がやたらくるから花梨が心配してるのかと思ったら。部活をしているはずのラルフと花梨がむやみに盛り上がって話していた。
お前はちゃんと部活しろ! 花梨も大人しくしてなさい! ……寝坊して返信できなかった私が悪いんだけど!!
春史くんの隣で長々と打ち込む余裕も度胸もなく、手短に遅れることだけ伝えた。この時は、だいぶ普段の私だったと思う。
そのすぐ後に春史くんの『すみません』という一言チャットが表示され、ようやく少しだけ取り戻した冷静さが飛んでいく。びっくりするでしょ、だって!
思わず彼の方に視線を向けて、目が合いそうになって慌てて戻した。
マンションまでの道のりで何かあったと言えるのはそのくらいで。
他には一言の会話もなかった。
分かってる、分かってます。昨夜の私のシミュレートでも、花梨の家まで軽い世間話でもしながら歩いてましたとも。
現実はそう上手くいかないね! 春史くんが変なこと言うから!! いや、変じゃないけど!
どんな言い訳をしようとも、私と春史くんの間にはなんともいえない気まずい空気が漂っているわけで。
それを払拭できるほど、私は私を取り戻せてもいなくて。
出来ることといえば、マンションのロックシステムに小町家の部屋番号を打ち込むことくらいだった。
『はいは~い?』
聞こえてきた声は花梨に良く似た、あの子より人生経験を積んだもの。
花梨の母親の声だった。
「おはようございます、おば様。花梨は――」
『おかーさん! わたしが出るって言ったのに~!』
――いた。おば様の背後から近づいてくる声がする。
『あら、ごめんなさいね。昼子ちゃん、例の男の子も一緒?』
「はい、一緒にいますよ」
例のってなんだ、と思ったが深くは聞かないでおく。
……花梨、おば様に春史くんのこと話してるんだなぁ。
『あらまぁ、ラルフくん以外の男の子が来るのっていつぶりかしら』
『おかーさん! もういいでしょ~!?』
『そうね、立ち話もなんだものね。えっと、ボタンは……』
「こっちで開けますから、大丈夫です」
『あら、そう? じゃお願いね。そうだ、お菓子は何がいい? それともケーキ? やだ、冷蔵庫の中に何かあったかしら? 飲み物もコーヒーはあるんだけど、ジュースがあったかわからないのよぉ』
おば様はいつも何かと話したがる。花梨と一緒で寂しがり屋なのだ。職業柄、というのも少しはあると思うけど。
おじ様もそういうところがあるから、似たもの夫婦というか似たもの家族というか。うちとは結構違う。……違う、と思う。
「お気遣いなく。上がらせてもらいますね」
『えぇ、どうぞ~』
インターホンが切れたのを見計らってスマホを取り出す。読み取り部にかざして、エントランスのロックを解除した。
最新のテクノロジーはすごい。スマホ一台で大体なんでもできる。中世くらいの文化レベルだった前世とは比べ物にならない。登録されたICチップでしか解除できないカギなんて、当時から考えればSFの世界だ。
記憶がよみがえってすぐは大変だった。ギャップがありすぎたから。
数歩歩いて、後ろをついてくる気配がなくて振り向く。
春史くんが驚いた顔をして固まっていた。
一瞬なんでだろうと首をかしげるが、すぐに思い当たった。
小町家がある五階建てのマンションは、端から見ても相当なお金のかかった代物だと分かる。いわゆる億ションのたぐいだ。
春史くんの家もかなりのお金持ちだろうが、やはり初見は驚くものだろう。学校でのぽわぽわした花梨を知っていれば余計に。
やっぱり印象を完全に持っていかれた。もう春史くんの頭からはさっき私に「似合っている」と言ったことなど消し飛んでいるだろう。
そう思うと、どこかに旅立っていた私が帰ってくる。おかえり、私。
「どうしたの?」
固まっていられても困るので声をかける。
どんな言葉をかけようか色々と考えたが、結局は無難な一言に落ち着いた。
まだ、こう、なんか、「驚くよね」とか気安い言葉をかけあえる関係じゃないし。私がいきなりそんなこと言っても変に思うだろうし。無難が一番。
春史くんは我に返ったように私の方を見て、
「あ、いえ、本当に仲が良いんですね」
あれ?
予想と違う返答に首をかしげてしまう。
彼の意図が読めないまま、とりあえず頷いた。
「幼稚園の頃から一緒だから。家族ぐるみの付き合い」
「なるほど、それでですか」
合点がいったように頷く春史くん。一体何がどうしたのか分からないけど、何か納得してるみたいだしいいか。
本当は突っ込んで聞いてみたいんだけど、察しの悪い女と思われるのも嫌だし、親しげに話しかけるのもなんかいきなりだし。今のノリで聞いたら詰問っぽくなりそうだし。
澄ました顔をしてエントランスを通り、エレベーターに乗る。今度はちゃんとついてきてくれた。
春史くんが乗り込んだのを横目に確認して、三階のボタンを押す。エレベーターの扉が閉まって密室が出来上がる。
ふと気づく。二人きりの密室だ。
一瞬でまた旅立ちそうになった私を掴んで、彼に気づかれないよう深呼吸する。
ほんの数十秒だ。すぐに着く。ちらりと盗み見ると、春史くんが何の気なしに階数表示の点灯ボタンを見上げていた。
……ほら、向こうは何も気にしてない。私の空しい一人相撲だ。分かっていても思わずこぼれそうになったため息を慌てて飲み込む。
それにしても、彼には動じたところがない。いや、私と一緒とかそういうことではなく。エレベーターも高価なのが分かる作りなのに、見回したりもしてない。
やっぱりお金持ちなんだなぁ。私は未だに少し落ち着かないのに。だって映画くらいでしか見たことないんだもん、こんなエレベーター。
……住む世界が違うってやつかな、と勝手に思って勝手にへこむ。
音が鳴って、エレベーターが三階に到着する。
扉が開くと、玄関を開けてこちらを見ていた花梨がぶんぶんと手を振ってきた。
「ひーちゃん、暮石くん! いらっしゃ~い!」
部屋着にカーディガンを羽織った姿で、サンダルをひっかけて抱きついてくる。
いつも通りではあるんだけど、春史くんがいるんだから少しは気にしなさい。
抱きとめて頭を撫でてる私が言えることじゃないんだけど。あーもう可愛いなぁ。
「今日は花梨の部屋? 自由部屋?」
「自由部屋! 先に行ってて、色々持ってくから~」
「勉強道具を忘れないように」
「は~い!」
離れた花梨が部屋に戻っていくのを見送って、置いてけぼりになっていた春史くんに視線を送る。
実に微笑ましそうな顔をしていて、めちゃくちゃ恥ずかしくなった。
やめろ! そんな目で私を見るな! その視線を向けるべきなのは花梨であって、私じゃない!
そんなことを言えるはずもなく、黙って気持ちを整える。
ほぼクセで上辺だけとりつくろって、
「それじゃ、行きましょうか」
「あ、はい」
昔みたいに彼を引き連れて廊下を歩く。……前世から成長してる気がしない!
気を紛らわすためにも何か話したくて彼の方を窺うと、頭に疑問符を浮かべながら通り過ぎる部屋を見ていた。
玄関に小町って書いてあるもんね。その部屋じゃないのって思うよね。自由部屋までの間を埋めるいい話題が見つかった。
「花梨の家は、さっきの部屋だけじゃないの。ここ三階、全部が小町家のもの」
春史くんの顔が驚きに染まる。
まぁ、そりゃそうだよね。これで驚かないのはラルフくらいのものだ。
「……全部ですか?」
「そう。三階の五部屋、全部。一つが生活用、一つがおば様の仕事用、一つがおじ様の仕事用。一つが関係者の宿泊用で、最後の一つが多目的用途。自由部屋は最後の一つのこと」
それぞれの玄関にはちゃんとおば様と花梨手作りの表札がかかってる。春史くんはそれを興味深そうに眺めていた。
とびっきりのお金持ちなんだよなぁ、小町家。前世のマーチル家は清貧一家だったのに。これが前世の功徳というやつかと思い知ったものだ。おじ様とおば様は関係ないけど。
まぁでも、私が処刑された後でキャスリンとジェラルドが結婚したなら妥当に引き継いだと言える?
どちらにせよ、いいことはしとくもんだし、いい人でいるもんだと思う。来世でいいことあるさ、は嘘じゃない。
「花梨がお嬢様で驚いた?」
「えぇ、まぁ……でも」
でも?
何が言いたいのか分からず首をかしげる。
春史くんはいつもの気弱で優しい笑みで、
「表札が可愛らしくて、そっちの方に驚きました」
照れくさそうにそう言った。
なんだかおかしくなって、軽くふきだしてしまう。
突然クラスメイトの女の子が住む億ションに招待されて、驚くところがそこ? 変っていうか、アルフォンスっぽくて肩の力が溶けていく。
彼も妙なところを気にするタイプだった。春史くんも見事に受け継いでいるみたいだ。
「それ、花梨とおば様のお手製なの」
「あぁ、どうりで」
納得いったように頷く春史くんを横目に、さっきより軽い足取りで自由部屋に向かう。
確かにあの表札は可愛らしい。花とか兎とか書いてあるし、メルヘンチックだ。……確か今の表札は一昨年くらいに作ったやつのはずだけど。まぁ、花梨とおば様なのでよし。
考えてみれば、億ションの表札があんな可愛らしいやつというのは十分驚くに値することかもしれない。変じゃないな、うん。
その表札の一つ。たぬきのフキダシに『自由に使ってね』と書かれたものを確認し、スマホを取り出す。
「ここが自由部屋」
スマホをかざしてカギを開けて、春史くんの方に視線を送る。
「可愛い表札ですね」
微笑む春史くんから目をそらしてドアを開け、中に入った。
「それ、ひっくり返してね。たぬきのお腹に『使用中』って書いてあるから」
ドアに挟まれて彼の顔は見えなかったけれど、
「……ほんとだ」
感心しているような呟きが聞こえてきた。
……今のうちに覚悟を決めないと。これから数時間、春史くんが近くにいる状態でなんとか花梨の気持ちを確かめないといけない。
なんだか悪巧みをしているような気にもなるが、これは花梨の為だ。引いては私の為でもある。
今世でまで好きになった人が被るとか、そんなのはご遠慮願いたい。
今のうちなら諦められる。だから、あまり仲良くしすぎないようにしないと。
……イマイチ彼の間合いというかなんというかがわからないけど。
頑張るしかないのだ、と気合を入れなおして、うちのマンションより遥かに高い部屋の中を踏み歩いた。
リビングで勉強道具を広げていると、インターホンが鳴った。
面倒なので直接玄関を開ける。バッグと袋を両手に提げた花梨がいた。
「飲み物もってきたよ~! あとお菓子!」
「ありがと。勉強道具も忘れなかったみたいね」
「えへへ、忘れそうだったけどおかーさんがいたから」
ごまかし笑いを浮かべる花梨から袋を受け取って、中身を冷蔵庫にしまう。勝手知ったるなんとやらで、大体のものの場所は覚えている。
さすがに冷蔵庫の中身はほとんど空だ。ただ、小町家はお金持ちなのにうっかりものでズボラなので、たまに色々入ってたりする。
保存が利く飲み物だったらいいんだけど、前はお肉が入ってたなぁ……消費期限切れの。
コップを取り出して軽く洗って、リビングのほうにいる二人に声をかける。
「二人とも、飲み物はお茶とジュースとどっちがいい?」
「お茶~!」
「お茶で、お願いします」
三人分のコップにお茶を注いで、適当なお皿を取り出して水洗いしてお菓子を開ける。こうしてると、前世でのお茶会を思い出すなぁ。
いや、全然違うんだけどね。貴族のたしなみとしてお茶の淹れ方は必須教養だった。それで、一度だけキャスリンと同席したこともある。
最初に出されたお茶はひどい味で、普段使ってる葉っぱと違うからとか言ってたっけ。試しに普段使いので淹れさせたらすごく美味しかった。
まぁ、当時は難癖をつける為にやったんですけどね! 貴族相手にやっすい茶葉を使うなんて侮辱している! みたいなね!
キャスリンとアルフォンスの来世にコップを渡し、テーブルの中央にお菓子の皿を置く。
「さて、それじゃ始めましょうか」
「はい」
「は~い」
二人の返事を聞きながら、まずは数学の教科書を開く。
私が仕切る形になっているのには一応理由がある。春史くんが抱える学校間の差を埋めるという名目の勉強会だが、花梨にその役はできない。
花梨の成績は、やや悪い。真ん中よりも下、という程度だ。
元商家の娘がそれでいいのかと思わなくもないが、前世は前世だ。それに、キャスリンもあまり頭が良い方ではなかった。
特に英語の文法と数学がヤバい。他の教科も楽観視できるものじゃないが、その二つよりはマシだ。なので、期末前は毎回勉強会が開かれ、私とラルフの二人がかりで花梨に叩き込むのだ。
私は自慢じゃないが上から数えた方が早い。……ほんとに自慢じゃないんだよ。なにせ、ラルフは学年トップだから。
そんなわけで、いつもならラルフが仕切るんだけど。今日はいないので、私が仕切る形になっているというわけだ。
「分からないところがあったら聞いて。飛んでるところとかあるだろうし」
「はい、ありがとうございます」
優しい笑みを浮かべながら春史くんが教科書の問題をすらすらと解いていく。
……勉強会の意味、あるんだろうか。見てる感じ、一人でなんとかできそうだけど。
むしろ問題は、悲しげな瞳で公式を見つめる家主の方だろう。
「中間が近いんだから、花梨もしっかりね」
「うん、頑張る~……テストに絵とか歌とかあったらいいのになぁ」
「そういうのは点数で計れないでしょ」
突っ込む私に、ぼやいた幼馴染が小さく唸る。
花梨は勉強があんまりできない。運動もあんまりできない。が、それ以外だったらとてつもない才能を持っている。
特に芸能・芸術関係。はっきり言って才能の塊だ。もし本当に歌や絵のテストがあったなら、花梨が間違いなく一番だろう。
コンクールにも何度となく入賞し、大賞をかっさらうことも度々ある。昔の話だけど。花梨の部屋にはそういう賞状やら何やらが沢山ある。
高校生になってからはそういうことはしていない。本人曰く、その気がないから。
もったいないなぁ、とは思うけど。こういうのは本人の意思が一番大事だと思う。
……確かに花梨は発想がなんか飛んでるっていうか、普通じゃないもんなぁ。今回のこととか。転入してきたばかりの男の子を家に招こうと思うことがまずすごい。
そういうところが、彼女の才能の元なのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えつつ花梨の勉強を見て、時折来る春史くんの質問に答えながら一時間。
苦手な数学と一時間もにらめっこをしたせいか、花梨が限界に近づいていた。
疲れた顔でお菓子に手を伸ばし、ハムスターのようにお茶を飲んでいる。
そろそろ休憩をとろうかと思っていると、
「暮石くんってさ~」
「はい?」
普段よりも間延びした口調の花梨が、
「彼女っているの~?」
とんでもない爆弾に着火した。
いやいやいやいや!! 何聞いてるの!? いきなりどうしたの!? 発想が飛ぶにも限界ってもんがあるでしょ!?
春史くんは驚いた顔をしながらも、
「いえ、居ませんよ」
とあっさり答えた。
いないんだ、良かった……じゃなくて! 花梨さん!?
花梨はコップを両手に持って、疲れた顔を嬉しそうにほころばせた。
「いないんだぁ、良かった~」
息が詰まりそうになった。
笑顔の花梨が、コップを傾けてお茶を飲み干している。
私は、どうすればいいんだろうか。
花梨のこんな顔を見たのは久しぶりだ。……春史くんが転入してきて以来、そんなことが多くなった気がする。
いや、これはもう気がするどころじゃない。つまり、そういうことなんだろう。疑う余地もなく、花梨は、
その先を頭の中だけでも言葉にすることはできなかった。
にへらと笑う花梨の頬は白くておもちみたいにぷにぷにしてそうで、触れたらきっとやわらかくて気持ちいいんだろうなと思う。
春史くんが少し困った顔で愛想笑いを浮かべている。
心臓が痛い。細く深呼吸してお茶を飲む。
喉を通る冷たい感覚が、もやもやした気持ちを押し込んでくれた。
私が彼女にした仕打ちを思い出せ。それに比べれば、このくらいどうってことない。
まだ引き返せる。彼はアルフォンスじゃなくて春史くんだ。別人だ。
花梨の幸せを願うと、もうずっと前に決めたじゃないか。
一度冷静になろう。タイミングもちょうどいいし、こんな空気の中で勉強なんかしていられない。
「休憩しましょう。三十分ね」
「やった~!」
「はい」
両手を挙げて喜ぶ花梨と、困り顔がとれないまま頷く春史くん。
二人と目を合わせないようにして、私はおかわりを注ぐべく三人分のコップをもって台所に引っ込んだ。
鋭い針で刺すような胸の痛みが治まらない。
呼吸が乱れてうまく戻せない。
考えがまとまらなくて、頭の中がごちゃごちゃしている。うまく思考が回せない。
変なことばかり思い出す。春史くんが転入してきた時の花梨の顔。楽屋での真剣な顔に、突然の猛アプローチ。春史くんも嫌な顔はしていなかった。
二人が並んでいるところを想像して、お似合いだなと思った。二人とも柔らかな雰囲気をまとっていて、誰かを妬んだりとかしなさそうだ。
私とは住む世界が違う。
じくじくと痛む胸を押さえて、嫌な気持ちを追い出すように息を吐く。
自分の分のコップにお茶を注いで、一気に飲み干した。
決めた。
二人の応援をしよう。
その方が誰にとってもいい。春史くんだって、花梨ならまんざらでもないだろう。
初恋は、思い出の中に閉じ込めておくものだ。
前世でそうしたように。
ていうか、まだ恋とかしてないし。
頬を軽く叩いて気合をいれ、お茶を注いでリビングに戻る。
軟体動物みたいになった花梨と、困り顔で笑う春史くんが迎えてくれた。
少しの休憩を挟みつつ、勉強会は何事もなく過ぎていった。