第五話
春史くんの学校とうちの学校じゃ、授業の進み具合が少し違うらしい。その差はなるべく早く埋めたほうがいい。
あとで勉強会の理由を問いただしたら、花梨はそう言っていた。
お昼を食べながらそんなことまで聞いていたんかいという気持ちと、なんか口実っぽいよなぁという気持ちが同居する。
……私がそういう人間だからそう思うんだ、きっと!
今度からもっと花梨の発言には注意しよう。でもなぁ、朝に猫の親子を見つけて触りたいけど触れなかった、という内容を三十分くらいかけて話すような子だしなぁ。
前世のキャスリンはもうちょっとハキハキ喋る子だった気がする。
記憶もないし、前世と今世はやっぱり違うのだろう。私はあんまり変わんないけど。
……変わらないのは若さだけで許してもらいたい、ほんと。
勉強会は次の土曜日。場所は花梨の家。時間もないし勉強会だし、新しい服や化粧品を買いに行けるわけもない。
前世から引き継いだ見栄っ張り精神が「それでいいのか」と悪魔の囁きをしてくる。
せっかくの休日に彼と会うのだ。金持ち小町家に春史くんの印象を持っていかれない為にも相応の格好をしなければならないのでは。
相応の格好ってなんだ。
プライベートで初めて春史くんと会うんだから、普段と違う印象を与えてみたり、逆に想像通りに振舞って安心させてみたり。どういう戦略を立てるべきか、頭の中でいろんなことがぐるぐると回っていく。
そうしてしばらくすると、「あれ? 何考えてたんだっけ?」と最初に戻るのだ。
――あぁーーーーー!! どうしよーーーーー!!!
まだ会ったばかりなのに勉強会なんて、清純な高校生には早すぎるんじゃないか。
お互いのことなんて何も知らない……いや、私は知ってたわ。前世だけど。
だけど、それはアルフォンスであって春史くんじゃない。私が春史くんについて知ってることなんて、ご両親が貿易会社に勤めてて結構な立場で、実家がお屋敷ってくらい大きくて、お姉さんが一人いてペットを沢山飼ってて友達が少なくて前の学校の人とはあまり連絡をとってなくて部活はしてなくて将来に夢があって気弱で押しに弱くて誠実で優しくて人当たりが良くて運動も勉強も嫌いじゃなくて意外と大胆で真っ直ぐ人を見てきて、
柔らかく包んでくれるような笑顔がとても素敵だ、ってことくらいだ。
うん! あんまり知らない!
プライベートで接するのは、もう少し慣れてからの方がいいと思う。
とかなんとか言っても、花梨の暴走が止まるわけがない。あの子が思い立ってしまったら、私はただただ流されるしかないのだ。
……なんか、前世でもそんな感じだった気がするけど気にしないでおこう。
次の土曜日までに覚悟を決めなくては。あと、服と化粧も決めなくては。やりすぎてもアレだけど、アイシャドウくらいはいれるか……いや、逆にケバいと思われるかも。あっちの貴族じゃないんだし、高校生なんだし。
分かってる。分かってるんだけど、どーしても気になってしまう。あぁ、前世から変われぬ臆病さ。
ため息しかでてこない。
休みの日にも春史くんに会える。
そのことに浮き足立つ自分がいる。こんなに悩むのは、そのせいだ。
別にデートってわけでもない。気にせず普段どおりにするのが一番だって分かってるんだけど。
私の心と頭は、バラバラに動くことが最近多くなってしまった。
土曜日までの日々は、あっという間に過ぎ去った。
勉強会のことで頭がいっぱいで、周りのことが気にならなかったとも言う。
相変わらず周囲の視線はうるさかったが、今までの人生でそれなりにあったことだ。一ヶ月もすれば勝手に収まるだろう。
ラルフに春史くんを紹介できたし、花梨はだいぶ上機嫌だった。
問題があるとすれば、ラルフが部活で勉強会に参加できないことだ。
さすがにチームをインターハイ優勝に導いたエースを引き抜くわけにはいかない。本人は来たがっていたが。
そんなわけで、勉強会は私・花梨・春史くんの三人で行うことに。ある意味都合がいい。花梨がどういうつもりか、はっきりさせるには絶好のチャンスだ。
もし、万が一、『そういうこと』なら……私は応援しよう。春史くんならあの子を大切にしてくれるだろうし、二人とも幸せになれると思う。私の出る幕はない。甘んじて虫よけスプレーの役割に徹しよう。
前世でできなかったことを今世でやる。キャスリンとアルフォンスの幸せを手伝うと考えれば、悪くない。
白峰昼子はヒルダじゃない。嫉妬に駆られる時代は終わったのだ。現代なら女一人で身を立てることもできるし、へーきへーき。
そんなことを考えている内に休み時間が終わり放課後が終わり撮影が終わり一日が終わる。
気がつけば金曜日の夜になっていた。
お風呂に入ってストレッチして髪を乾かしながら夕飯を食べてお手入れをする。
明日着ていく服を決めてメイク道具もセットして、鞄の中に荷物を詰め込む。
色々と考えなきゃいけないことはあるのに、何も考えられない。明日は学校近くの公園で春史くんと待ち合わせして、花梨の家に向かう。
頭が真っ白だ。うまく働かない。休みの日に、彼と待ち合わせしてでかける。
今までの人生で一度もなかったことだ。
最後に忘れ物がないか確認して、ベッドに寝転がる。ダメだ。こんなザマじゃ起きてても無駄だ。早く寝てしまおう。
考え事は、早起きしてからやればいい。
そう思って目をつむり、規則正しくゆっくり呼吸する。
……ダメだ。
妙に神経が尖って眠れない。
頭も働かなくて疲れてると思うのに、目がさえてしまう。
ベッドの上で寝返りを打つ。明日はあぁしよう、こうしようと何度もシミュレーションを繰り返している内に、ようやく眠気が訪れてきた。
明日は八時前には起きて、身支度を整えないと。シャワーを浴びてご飯を食べて、余裕をもって家を出る。
初めての待ち合わせで走ったり焦ったりはしたくない。靴は……ヒール高いのはさすがになぁ。ミュールかパンプスがいいかな。
選んだ服はいつものところにかけてあるし、すぐに着替えられる。下着はいつものより可愛いやつ。生まれて初めて勝負下着が欲しいと思った。
……気合を入れすぎても引かれるかな。彼はやっぱり高校生だし純白が好きだろうか。黒とか赤とかは好みじゃないかも。アルフォンスの好みってどうだったっけ。
彼のこと、まだ何も知らない。
もっといっぱい沢山知りたいのに、どうやって聞けばいいのか分からない。
お弁当も作ってあげたいなぁ。毎日パンじゃ飽きると思うし。
食べ物の好みは、それまでに聞けたらいいな。
うつらうつら考えていたら、いつの間にか意識を手放していた。
翌朝。
ぴぴぴぴ、とうるさい目覚まし時計に一発くれてやって、のっそりとベッドから這い出す。
寝ぼけ眼でデジタルな時間を確認する。
8:40。
一瞬で顔が青くなった。
「寝坊したぁ!?」
慌てて用意していた着替えをひっつかんでお風呂場に入る。待ち合わせ時間は十時。移動時間を考えるとあと一時間もない。
昨日のうちに準備しておいてほんとよかった!!
ていうか、ドキドキして寝付けないって遠足前の子供か!!
さっとシャワーを浴びて髪をまとめて朝ご飯は――いいや抜いちゃおう、どうせ花梨の家でお昼食べるんだし。
部屋に戻って髪を軽くかわかして、軽くメイクする。急いであちこち整えて、決めておいた服を着て首元にお気に入りの香水を一吹き。
鞄を肩にかけて時間を見れば、9:45のデジタル表記。
走っても間に合わないかも。初めての待ち合わせで遅刻とか、絶対ルーズな女って思われる。
髪もちゃんと乾いてないけど、贅沢も言っていられない。部屋を飛び出して一目散に玄関に駆け込んだ。
靴はいつものじゃなくて、花梨と街に出かける時に履くやつ。ほんとはもっとちゃんと選びたかったけど、ぐだぐだやってる暇はない。
「いってきます!」
誰かが返事をしたけど、聞いている余裕は無かった。
マンションの一室である我が家を背後に、出来る限りの速度で走る。
運動は苦手じゃないけど、やっぱり走るのに適した服とか靴とかってあるよね!
見慣れた道を息を切らせて走り、なんとか待ち合わせ場所の公園に到着する。
時間を確認しようとして、腕時計を忘れていることに気づく。
ここの公園って時計台あったっけと目を走らせ、
大きな時計の下に佇む春史くんを見つけた。
いつもの制服と違う格好。少しうつむきがちで、相変わらず前髪が両目を隠している。
見た目は全然違うのに、アルフォンスがいるのかと思った。
雰囲気、っていうか。そういうのが、ほんとにそっくりだ。のんびりと私を待っている。子供の頃、屋敷を抜け出して裏山に行く時に待ち合わせたように。
時間と空間がねじれていく。
ここは現代のはずなのに、ヒルダのいた世界と混ざっていく。私も彼もまだ何も知らない子供で、貴族としての教育が嫌になって、二人でこっそりどこかへ――
――春史くんが、ふとこちらを見た。
反射的に足が動いて塀に隠れる。
……何やってんだ、私。
自分でもなんで隠れたのか分からない。心臓が破裂しそうなほどうるさくて、甘く突き刺すような胸の痛みがさっきから止まらない。
古い思い出が、閉じ込めていたものと一緒に浮かんでくる。
記憶と感情がごちゃごちゃになって、クラクラする。
そこにいるのは春史くんで、アルフォンスじゃない。分かっているのに、私を待つ姿に胸が締め付けられる。
あの頃もこうして、彼は私を待っていた。私が余裕ぶってやってくると、いつも笑って迎えてくれた。
あの頃と変わらない。ほんとはいつも急いで彼の下に向かっていたのだ。それを悟られるのが嫌で、いつも彼を見かけたら隠れて身だしなみを整えていた。
あれからもう今世もあわせたら二十年以上経っているのに、同じことをしている。
体が勝手に動いて、塀の影からこっそり覗いてしまう。
時計台の下で、彼は視線を戻してスマホを見つめていた。
――そうだ、スマホ。
鞄からスマホを取り出して時間を確認する。デジタル表記で10:07。やっぱり間に合ってなかった。
グループチャットの新着は無視して深く呼吸する。さっき見つかっていれば、急いできたんですよ、という言い訳も立ったのに。
今から走っていってそういう演出をするのもウソくさいし、ここは落ち着こう。落ち着いて、乱れた髪や服を整えて普段どおりに接するのだ。
走ってきた痕跡を全て消して、私は何食わぬ顔で公園に足を踏み入れた。
「おはよう、春史くん。待たせて悪かったわね」
こちらを向いた彼が、一瞬妙な反応をする。
……そんなに変な格好はしてないと思うんだけど。汗でメイクが崩れたかな?
時間がなくてばっちり決まってるとは言いがたいけど、最低限はなんとかしたはずだ。
「お、おはようございます」
返事はそれだけ。
おかしい。彼ならもう二、三言付け加えそうなのに。それこそ「僕も今来たところです」とかなんとか、そういうことを。
や、やっぱり怒ってるんだろうか。穏やかな陽気が漂う季節とはいえ、外で待たされるのはあんまり気持ちいいものじゃないだろう。
ヤバイ、どうしよう。謝った方がいいんだろうか。いや、でもさっき謝ったし。重ねて謝るのは嫌味っぽくなっちゃう。悪役令嬢時代はそういうことよくやったし。
それとも、どこか変なのだろうか? ろくに鏡を見てチェックもしなかったし。
メイクと服があってないとか、好みじゃなかったとか?
あぁ、寝過ごさなきゃ! ちゃんと余裕をもってゆったりとメイクして服も選びなおしたりできたのに!
なんで昨日すぐ眠れなかったの!? 春史くんのこと考えてたから!? じゃ春史くんのせいじゃん!! ちょっとぐらい変だったり好みじゃなくても見逃してよ!!
……私のせいですけど!
なんともいえない沈黙が続く。
上目遣いに彼の顔を覗けば、長い前髪が邪魔で表情がよく読めなかった。
切れ! 前髪!! 髪型も鬱陶しいし、花梨の家に行く前に美容室に連れ込んでやろうか!?
もっと気を使えば間違いなくイケメンの部類なのに。アルフォンスもそういうところがあった。彼の場合は家の関係で最低限は外見に気を配らなきゃいけなかったけど。
……いや、やっぱいいや。変な虫が寄り付いても困る。
このままお見合いし続けるわけにもいかない。ただでさえ遅刻してるんだから、早いところ花梨の家に案内しないと。
「……それじゃ、行きましょうか」
「あ、はい」
背を向けて歩き出すと、春史くんが早足で隣に並んできた。
近い近い近い近い近い近い近い近い近い!!! 遠くても困るけど!!
肩が触れ合うには遠い距離で、私の歩幅に合わせてくる。怒ってる、わけじゃなさそう?
アルフォンスと一緒で、当たり前の行動としてやってるだけかもしれない。こういう時、優しい人は内心が読み辛いのだ。
横目に盗み見れば、彼と視線が合った。
前髪越しにだってこちらを見ているかどうかくらいは分かる。反射的に視線をはずす。
あぁ、やなとこ見られちゃった。恥ずかしい。こっそり人の顔色を伺うとか、前世で扇をかざしてやってたことだ。
公園を出て花梨の家までは約30分。信号に捕まらなければもう少し早くなるんだけど、そう都合良く世界は回ってくれない。
早く行きたい私をあざ笑うようにさっそく赤信号が道を塞ぎ、やむを得ず足を止めて、
「……その服、似合ってます」
車の排気音にまぎれて、優しい声音が耳朶を打つ。
鞄を持つ手に力がこもり、顔が熱くなる。彼の方を向きたくなるのを意地で止めた。
甘く突き刺すような胸の痛みが治まらない。かつて思い出に閉じ込めた淡い感情がうずいている。
体温が上がっていく。息をするのが少し苦しい。
頭の中で、さっきの彼の声が繰り返し響いている。
たったその一言で、さんざん悩んだことが全部報われたような気がした。
嬉しい。
その言葉で頭がいっぱいになって、他に何もでてこない。
口を開けばそう言ってしまいそうで、何も喋ることができない。
褒めてもらえた。一生懸命考えて、どれにしようか迷って良かった。そうして選んだものが、変に思われなくてよかった。
次は、もっと頑張ろう。可愛いって言ってもらおう。
彼の好みを、もっと知りたい。
深呼吸、深呼吸をしよう。彼にバレないように吸って、吐く。お願いだからこっち見ないでね、気にしないでね。
信号が青に変わる。準備はまだ全然できてない。
「……ありがとう」
なんとかその言葉だけひねり出して、早足に歩き出す。
一秒でも早く花梨の家について態勢を整えなくては。彼に表情を読み取らせないよう軽くうつむく。
春史くんは一瞬遅れたあとすぐ隣に並んできて、歩調を合わせてきた。
今はその優しさが辛い……!! できれば私も気を使いたいんだけど! 今はムリ!!
隣で春史くんが困惑しているような雰囲気を感じる。
そりゃそうだよね! ごめん! あぁもう、でもどうしようもないんだよぉ!
勉強会が始まる前から、私の頭はパンク寸前だった。
このままじゃいけない。
私は、花梨の真意を確かめると決めたのだ。
その結果によっては、二人の仲を応援するとも。
勉強会の会場につくまでに普段の私を取り戻そうと、暴れる胸にそっと手を当てた。