第四十五話
烏丸家主催の夏祭りは、花火へ向けて徐々に加速を始めていた。
日が沈んでいくのと反比例するように盛り上がりは上昇し、周囲の話し声が交錯しまとまってガヤガヤとしか聞こえない。
夏の熱気は屋台のプレートが放つ温度を抱えて降り注ぎ、まき散らされたソースの匂いが潮風の代わりに人の合間を縫って泳ぐ。
右手に金魚、左手にぬいぐるみ。小紋があしらわれた濃紅色の浴衣との相性は悪いだろうが、祭りとの相性は抜群だ。
お面をつけた子供が走り、カップルが腕を組み、綿菓子の袋と風船が人混みから飛び出す中で。
確かに彼が私の名を呼ぶのが聞こえた。
聞こえてしまった。
「来てたんだ」
護堂さんの声を聞くのは久しぶりだ。
『Gift』が始まって忙しかったのもあって、チャットだけで通話はしなかった。だから、こうして話すのは七夕以来ということになる。
懐かしいと思ったのは、不覚の類だ。
これも前世の記憶が影響してるのだろうか。
たった一月と少し、声を聞かなかっただけなのに。
「久しぶり。元気してた?」
にこりと笑いかけられ、思わず体がびくりと震える。
自分でも理由の分からない反応に、変に思われる前に返事をしようと、
「お久しぶりです」
春史くんが、護堂さんの視線を遮るように私を背に隠した。
護堂さんの眉がぴくりと上がる。
珍しく不機嫌そうな表情でねめつけるも、春史くんはさして気にした風もなく受け流していた。
「……久しぶり。元気そうで何よりだよ」
「ありがとうございます。『Gift』の方々といらしたんですか?」
春史くんが視線を誘導し、不破少年に絡まれるラルフと花梨の方に向ける。
護堂さんが一瞬顔を歪め、力なく嘆息した。
「あぁ、うん。直哉が気晴らしにどうかって声かけて」
「市松さん、ですか。そういうの気にする人なんですね」
「いや、普通はしないんだけどね。直哉なりに色々気にしてるみたい」
最後の方は私に向けて言って、微笑みかけてくる。
今度こそ返事をしようとして、またも春史くんの背中に遮られた。
「そうですか。お邪魔しては悪いので、これで失礼します」
「おい、ちょ、昼子ちゃん!」
言うが早いか、春史くんは私の手を掴んでその場から歩き去る。
私としては花梨やラルフもすごく気になるんだけど、お構いなしに引っ張られてあっという間に姿が見えなくなった。
徐々に増え始めた人混みの中で、春史くんの背中以外見知らぬものになっていく。
掴まれた手が少し痛い。熱を持っている気がする。
足も速くて、ついて歩くというより引きずられているような感覚。
どこを歩いているのかもはや分からなくなって、少し道を外れた藪の中に分け入ったところでようやく足を止めてくれた。
思ったより息が上がっていて、落ち着こうと胸に手を置いて深呼吸を繰り返す。
右手首には、まだ春史くんの指が巻き付いている。
「……春史くん?」
まだ少し荒れている息の隙間から、説明を求めようと声をかける。
彼の背中がピクリと動いて、右手首から指がゆっくりと離れていった。
「……すみません」
力なく謝られ、どう反応していいか困ってしまう。
言うべき何かを考えている内に、彼が振り向いた。
「痛く、なかったですか?」
眉を下げ肩を落として聞いてくる姿は叱られた子犬のようで、怒る気も失せてしまう。
前から思っていたけど、春史くんはだいぶ犬っぽい。
人懐っこいようで距離を慎重に測り、懐いた相手にはべったりくっつく。従順で大人しいのに、ふとした時に思ってもみない大技をやらかしたりする。
大型犬のように鷹揚で、小型犬みたいに甘えたがり。
見知らぬ相手には警戒心丸出しで、飼い主の一番の仲良しは自分だと思っている。
セブンとも、そういうところで意気投合してたのではなかろうか。
人によっては少し重いと思うかもしれないけど、私には可愛く見えた。
頭を撫でたら、喜ぶだろうか。
「大丈夫。でも、どうしたの?」
撫でてみたい衝動を押し殺して、なるべく優しく尋ねる。
ここで厳しい言葉遣いをしたら、ますます落ち込んで話どころではなくなりそうだ。
そういうところも、犬っぽい。
「今日は……今日だけは、あの人に会いたくなかったんです」
ぽつりと出てきた答えは、私と同じものだった。
私も、そう思った。
今日だけは会いたくなかったな、って。
「どうして?」
思わず聞いてみると、彼は悲しそうな顔で背中を丸めた。
「七夕の夜を思い出して気分が悪くなるし……それに、」
一瞬言い淀んで、口をつぐむ。
聞き返すことはせずに、春史くんを見上げて目を合わせる。
何事か言うべきか逡巡するような間をおいて、
「……少し、歩きませんか?」
そう言って、手を差し出してきた。
「……うん」
頷いて彼の手に自分の手を重ねる。
少し汗ばんだ掌は温かくて、肩に籠っていた力が解けていく。
春史くんは不器用に微笑んで、私の手をしっかりと握りしめてくれた。
あちこちの屋台から漂う匂いが混ざり合って、祭りの匂いとしか言いようがないものを形成していく。
カップルが手に持つチョコバナナが、子供が食べ歩くたこ焼きが、零れ落ちたかき氷のシロップが、それぞれに存在を主張して混ざり合う。
太陽は完全に沈んで、夜の帳が下りている。それなのに、祭りは明るくて仕方ない。
広がる暗闇を振り払って輝く提灯の列は、ここが人の居場所なのだとわめきたてる。それに引き付けられるからこそ、祭りにはこんなに人が集まるのだろうか。
前世、夜は暗闇が支配していた。
宵闇に紛れて暗闘が繰り広げられ、光の届かぬ片隅でそっと命が消えていく。
ダンスを踊る広間は明るくても、そこに潜む昏さは下手をすると夜よりなお深かったかもしれない。
こんな風に、笑顔の溢れるものではなかった。
夜なお眩いお祭りは、ついに暗闇に人が打ち勝った証のようにも見えた。
繋いだ掌が温かくて、夜だというのに汗ばんでくる。
八月も終わりといえどまだまだ夏は健在で、屋台の火と合わせてここだけ気温がやたら高くなっているような気がする。
先ほどまでと違い、今は春史くんと隣り合ってゆっくり歩いている。
ますます人は増え、今はもう肩を寄り添わせないと真っ直ぐに歩けない。自然と足も遅くなるが、彼は私の歩幅に合わせてくれている。
私が二歩歩くうちに、彼は一歩進む。
掌はつないだまま、肩は触れ合ったまま。
夏の祭りの匂いに包まれ、ただ静かに歩いた。
屋台の掛け声に目を向ければ、親が子供にねだられてイカ焼きを買っている。その隣では、彼女が身を乗り出して輪っかを投げているのを彼氏が優しく見守っていた。
喧騒の絶えない祭りの中を見回りながら、どことはなしに歩き続ける。
隣を見上げれば、春史くんが視線に気づいて顔を向けてくる。
微笑む彼に笑い返し、また前を見て歩く。
いつもと違う夏祭り。
花梨やラルフが隣にいない祭りは、なんだか不思議な感じがした。
そうしてしばらく歩くと、春史くんが軽く手を引いてくる。
引かれるままに歩けば、段々と人混みが減り屋台も少なくなっていく。
花火はもうすぐだというのに、どういうことだろうか。
「ここ、打ち上げ場所に近いんじゃないですか?」
言われて周りを見てみれば、覚えのある景色と合致して思わず声が出てしまう。
烏丸家が一般開放しているのはほぼサッカーにしか使わない運動場の手前まで。そこから先は花火の準備をする業者しか立ち入りが許されていない。
今いるのは、そのギリギリ。運動場が見える斜面の上だった。
「良く分かったわね」
「花火は近すぎると綺麗に見えないって聞いたことがあります。だから打ち上げ場所の近くは人気がなくなるそうです」
春史くんの説明になるほどと頷く。
確かに、花火は適度に離れてみる方が良い。昔一度花火を打ち上げるところを見学させてもらったが、音が酷くて耳栓をする必要があったくらいだ。
「じゃ、戻らないと」
「いえ、ここで」
春史くんは首を振り、空を見上げた。
いや、その、近すぎるとよく見えないって自分で言ったばかりでは。
周りを見てもぽつぽつと物好きそうな人がいるくらいで、カップルどころか親子連れも皆無だ。
花火見学をするところとしてこれほど悪い場所もないだろう。
疑問に思って見上げると、彼はいつもの苦笑を浮かべた。
「一度、真下から花火を見てみたかったんです」
「……そう」
いくら近いとは言っても真下ではないのだが、突っ込むのも野暮なので頷いておいた。
それにしても、春史くんもやっぱり男の子なのだと思う。
何せ、その昔の花火見学というのも、ラルフが真下から見てみたいと言い出したせいで行われたものなのだ。
あれから、私の中でラルフはバカというのが真実になった。
花梨が喜んでいたので許してやるけれども。
春史くんは動く気はないらしい。なら、私も無理に動くつもりはない。真下からはもういいが、近くから見る花火にも興味がなくはない。
花火が始まるアナウンスが遠くから聞こえる。烏丸家各所に設置されたスピーカーと、市が設置しているスピーカーから案内が流れているのだ。
企業と行政が癒着していいのか、と思わなくもないが、気にしたら負けだ。
背中に当たる祭りの熱気は最高潮に達して、誰もが良い場所で花火を見ようと大移動しているのが気配で分かる。
それでも、この場所に来ようという物好きはほぼいなかったが。
祭りの明かりから少し離れたここは、ほんのり涼しく感じる。火照った体にそれが心地好くて、小さく息を吐いて空を見上げた。
夜に瞬く星は、前世でも今世でも綺麗だ。
夏の大三角はどれか探している内に、笛の音が鳴った。
――ヒュ~……――
小さな火の玉が夜を切り裂いて星の間を泳いでいく。
高く高く鳴る笛の音は、この町のどこにいても聞こえているのだろう。
――ドンッ!――
お腹の底を押し上げるような音と共に、空に花が咲いた。
音が体中に響いて圧迫される。
こんなに近くから見ても綺麗に丸い花が咲き、花弁が落ちる様まで美しい。
ぱらぱらと落ちていく火花の音さえも四方から圧を持って響いてきて、全身で花火を感じている。
こんなふうだとは思わなかった。
身動き一つとることが出来ない。
音に体が驚いたのか、痺れたように棒立ちになるしかなかった。
次々に花火が上がっていく。
音の圧力に負けて春史くんと握っていた手さえも力をなくして滑り落ち、
彼の手に力強く捕まえられた。
なんとか首だけ動かして隣を見れば、春史くんが私を見ていた。
夜空に色とりどりの花が咲く。
七色に輝く彼の顔が、目に焼き付いていく。
彼の目が真剣で、全身に音が響いて、身動き一つ取れない。
顔が近づいてくる。
ただ見つめるだけで何もできない私の耳元に唇が触れる。
「好きです」
夜空に花が咲いた。
心臓が胸を突き破りそうなくらい暴れまわり、呼吸が止まる。
前髪の向こうで、彼の瞳が優しく細められる。
「あなたが、好きです」
繰り返される言葉は、何故だかはっきりと聞こえた。
花火が終わった後、春史くんがラルフに連絡してすぐに合流した。
私は茫然としている内に花梨に手を引かれマンションまで連れて行かれ、部屋まで送ろうとする花梨をなんとか帰してエレベーターに乗って自宅へと帰り着く。
なんだか体が勝手に動いていた気さえしている。意思とは別に体が覚えている行動を繰り返しているようだ。
玄関を開ければ、弟がいつも通りふんぞり返って待ち構えていた。
「ふん、“祭り”は堪能したようだな、白蛇姫! ちゃんと俺の言いつけ通りに――」
余りの安心感に、半泣きで抱き着いた。
久しぶりに抱きしめる弟の体はすっかり男っぽくなっていて、それがまた涙腺を緩ませてくる。
いつまでも可愛い子だと思っていたのに、成長してたのね。
「ちょちょっ、姉ちゃん!?」
「うぅ~……夕太ぁ~……」
「な、なんで泣いて、てかどうした!? 暮石か誰かになんかされたか!? 大丈夫だ、俺がぶん殴ってやる!」
慌てて私を慰める弟がもう本当に可愛くて、回した手で頭を撫でて首を横に振る。
「違うから、大丈夫だから……ありがとう、夕太ぁ」
「お、おぅ、てか頭撫でんな!」
抵抗する弟に構わず撫で繰り回すと、流石に嫌がられて無理やり引きはがされる。
名残惜しみながらも自室に戻り、荷物を机の上に置いてベッドに倒れこんだ。
もう他に何をする気力も湧かない。浴衣も着替えなきゃいけないのに、どうしても動けなかった。
何よ、あれ。
なんで春史くんが私に告白してんのよ。
「うぅ~……」
唸り声しか出てこない。
返事を求められるでもなく、そのまま流れで解散しちゃって。
なにそれ? 別に私の意思は関係ないと? 一方的に言うだけ言って満足したと?
「うぅ~!」
段々腹が立ってきた。
振り上げた拳を枕に落とし、柔らかい手ごたえとぼふっという音が鳴る。
それにもなんだかイラついて、両手を振り回して枕をぼこぼこにした。
「うぅ~!!」
疲れるばっかりで少しもスッキリしないと気づき、ぱたりと倒れ伏した。
ごろん、と寝返りを打つ。
あれは、どう捉えればいいのだろうか。
いやまぁ、告白されたのだ。返事をして付き合うかどうかみたいな。そういう話になるだろう、普通。
そういうの、何も言われてないけど。
考えがまとまらないまま、眠気が先に来る。
もうどうでもいいやと投げ捨てて、睡魔にその身をゆだねた。
※ ※ ※
やってしまった。
自分の所業を思い返し、赤面しそうになるのを必死に押しとどめる。
ついに、言ってしまった。
言わずにおくこともできた。ただ、それはなんだか酷く不誠実な気がして、友達として接してくれる彼女に後ろめたいことをしている気分になる。
だから、今日言おうと決めたのだ。
言葉はすんなりと出てきた。
夜に咲く花の光を浴びて輝く彼女の横顔はただひたすらに綺麗で、何も考えなくても口が勝手に動いた。
それだけに思い返すと恥ずかしいが、やるべきことはできたので良しとする。
だが、今日やるべきことがもう一つ。
ラルフ達と合流して彼女を任せ、再び祭りの中に戻ったのはそれが理由だ。
花火が終わっても祭りが終わったわけじゃない。名残惜しさに立ち去りがたい人達を相手に最後のひと稼ぎをしようと屋台の店主が声を上げ、人の流れが緩慢になる。
当てはない。けど、向こうもどうせこちらを探している。
周囲に視線を配りながら暫く歩くと、
「おい」
予想通り、声がかかった。
振り向けば、護堂がテレビで見るのとは全く違う嫌悪と不愉快さを滲ませた表情で僕を睨んでいた。
「随分なことをしてくれるな」
「割り込んできたのはそちらでしょう」
言い返せば、鼻で笑われた。
その目に浮かんでいるのは、嘲りと怒り。
「割り込んできたのはどっちだか」
「今日に限ってはそっちです」
「やらかしたのは不破だろ」
「そっちのけで絡んできてたでしょう」
一歩も引かない僕に苛立ったのか、前髪をかき上げて舌打ちをしてみせる。
分かってる。そういう仕草もサマになるのがこの人だ。
僕とは土俵が違う。
分かっていて、喧嘩を売ったのは僕だ。
「一月くらいで随分変わったもんだね」
「色々ありまして」
「たった一月で?」
疑わしく睨む護堂に向かって、少しだけ笑って頷く。
そう、たった一か月だ。
でも、僕はこの一か月を生涯忘れることはないだろう。
彼女に救われたことを。
未来を照らしてくれたことを。
僕は、絶対に忘れない。
「彼女に、告白しました」
護堂が幽霊でも見つけたように目を見開く。
その顔がなんだかおかしくて、頬が歪むのを抑えきれない。
「引きませんし、邪魔もします。『ただのお友達』じゃないので」
きっぱり言ってのけると、護堂の目が怒りに歪む。
祭りの喧騒は遠のいて、僕と彼だけが取り残されたように無音の世界にいる。
すぐ近くの屋台の音さえ、聞こえない。
「前にも言ったと思うけど、彼女は才能ある人材だ。君じゃどうにもならない」
「やってみなけりゃわかりませんよ。それに、今彼女の隣にいるのは僕達ですから」
芸能人で、才能があって、凄い人達に認められている。
彼女がそういう存在だっていうのは、分かってる。
分かっていて、それでも手を伸ばすと決めたのだ。
「……君の気持は分かった」
「それはどうも」
ため息をついて護堂が呟く。
今日のところは決着がついたようだ。
「それで、彼女はなんて?」
そう思った自分が甘かった。
護堂の言葉に喉が詰まる。
彼女の返事を、僕は聞いていない。求めてもいない。
今はただ、僕の気持ちを知ってくれればいいと思ったから。
「……何も」
「何も? 彼女は告白されて返事をしないような子じゃないよ」
知ってる。
見た目と違って意外と律儀で、他人の気持ちを無下にしたりはしない人だ。
あんたに言われなくても、分かってる。
「僕が聞いていませんから」
「はぁ? 聞いてない?」
呆れたように声を上げ、
「子供の駄々に付き合う暇はないんだけど」
吐き捨てるように言われた言葉に、胸を突き刺された。
「あー、それともあれかな。飼い主を取られそうになって喚く犬。どっちでもいいけど、半端な覚悟で甘えられても困るんだよ」
言い返したいのに、喉が詰まって言葉が出てこない。
叫び返してやりたいのに、声が出ない。
「やる気がないなら鬱陶しい邪魔すんな」
冷たい目で睨まれ、これ以上話すことはないと背を向けられる。
何も言えないまま、その背が人混みに消えていくのを見送った。
家に帰り、ベッドに寝転がる。
深くため息をついて寝返りを打って天井を眺めた。
護堂に言われてからずっと、頭の中を疑問が渦巻いている。
何故、僕は何も聞かなかったのだろう。
何故、知ってくれればいいとだけ思ったのだろう。
それじゃダメなんだ。だって、護堂がいるから。これから先もライバルは増えていくから。だから、隣にいられる今の内に確かな関係を築いておかないといけない。
そう、思ったはずなのに。
決定機を前に、僕は逃げた。
なんでだろう、とぼんやりした頭で考え続ける。
考えても考えても疑問だけが頭の中でぐるぐるして、何一つ答えにたどり着かない。
このまま考え続けても無駄だと思い、ボールを掴んで外に出る。
こういう時は、ボールを蹴るのが良い。頭の中がスッキリしてくる。動きながらの方が、考えが進んでくれる。
軽くリフティングして、いつもの練習を始める。
昔、まだ中学生だった頃。家でやっていた練習メニュー。
体にボールが馴染むように、というのが当時のコーチの口癖だった。ボールを体の延長線上に思えるかどうかが一流かどうかを分ける、とか言ってたな。
当時は意味が分からなかったけど、今なら分かる。
ラルフなんか、何も考えなくてもできるだろう。そういうところが羨ましくもあり、逆に苦労することもあるだろうなと思う。
翔なんかもその類で、他人と合わせるのが苦手だった。
そう、その翔との関係を取り戻せたのも、彼女のおかげだ。
彼女があの練習試合をセッティングしてくれなければ、今みたいに連絡しあう仲に戻ることはできなかった。
キャプテンの見舞いに行った時に、大体の事は聞いている。隠す必要もないとあの人は言っていたが、多分本人が聞いたら怒るだろう。
彼女は自分の優しさが大層嫌いみたいだから。
なんでだろうな。優しいのはいいことだと思うのに。
僕は、彼女の優しさが好きだ。
他人の辛さを思いやり、さりげなく手助けしようとする彼女は美しいと思う。
きっと、小町さんもその優しさに救われた人なのだろう。だから、あそこまでなついているのだ。
僕も同じだ。彼女の優しさに救われた。
あの夜の海で、
蹴ったボールが、明後日の方向に飛んでいった。
思い出した。
いや、忘れてたはずはないのに。忘れられないことだったはずなのに。
都合よく、ある言葉を忘れていた。
――私、好きな人がいるの――
今も思い出せる、あの声。
ずっと覚えていたという、彼女の初恋。
知ってもらうだけでいいと思った、本当の理由はそのせいだった。
彼女には、好きな人がいる。
僕でもなく、護堂でもなく。
顔も知らない誰か。
初恋の人。
彼女は、まだその人が好きなのだろうと思う。
だから、僕は逃げ出した。
知ってもらうだけでいいと。負ける戦いをせずにすまそうとした。
深く息が漏れる。
見上げた空には星が瞬いていて、もう花は咲かない。
「どうしろって言うんだよ……」
好きな人がいる人を好きになった僕は。
一体、どうすればいいのだろうか。
参考書を開いても、答えは載っていそうになかった。




