第四十三話「Really? Really!」
――今日が最後でいいから。
そう言った僕を見た翔の顔は、なんだか酷く懐かしく感じた。
あの時僕達は、中学時代に戻っていたんだと思う。
セブンがいなくなる前の、ただ頂上だけ見続けていたあの頃に。
ラルフに呼び出された時から、おかしいとは思っていた。
電車に乗って見覚えのある駅で降りた時にはもう確信に変わっていて、ただなんでこんなことをするのか分からなくて流されるようについていった。
見覚えのあるバス、景色、学校。
何故僕を翔のいる学校に連れてきたのか。周りの様子からなんとなく誰かの差し金だとは分かったけど、理由が分からない。
練習試合というのが嘘でなくてほっとしたけれど、だからって僕はいらないだろう。
そういう顔をしていたのか、ラルフが声をかけてくる。まだ夏だし、下原先輩も戻ってきてないし、と理由を並べられてもそれらが全部苦しい言い訳なのはお互い分かってる。要は、昔の事を知った誰かがお節介を焼いたのだ。
でも、誰が。
思い当たる節は一人しかいなくて、横目で白峰さんを盗み見る。
彼女は普段と変わらない瞳で少し興味深そうに校内を眺めていた。
表情から内心を推し量るのが相変わらず難しい人だ。近しい人が関わった時だけ少し分かりやすくなるが、それ以外は未だにどういうつもりか察せない。
優しい人だ、というのは分かる。
彼女の顔色が読みやすくなるのは、いつだって大事な誰かの事を考えてる時だから。
なら、今日のこれも彼女の思いやりなのだろうか。
僕の事を考えて、こういう場を作ってくれたのか。でも一体、どうやって。
表情がいつもより分かりにくいし、僕の考えすぎかもしれない。でも、彼女以外に僕の過去を知っている人なんて、
寄せては引く波が囁く夜の海。
暖かな腕の感触と、優しい吐息。
かけられた言葉の甘やかな響きと、止まらない涙。
前髪をくしゃりと掴んで、ため息を噛み殺す。
もうどうでもいいか。理由や方法がどうであれ、誰が仕組んだのであれ。
今こうして翔の学校に来ていることは変わらないし、人生最後のチャンスが与えられたことにも変わりはない。
今日を逃せば、多分今後ずっと翔との関係を修復する機会はない。
それが分かるくらいには、僕と翔の間には決定的な溝が生まれている。
視線を感じて顔を上げた。
翔が僕を睨んでいた。
恨みと憎しみと、一縷の希望を持った瞳で。
相変わらず翔は分かりやすい。でも、だから僕はその瞳に応えることはできない。
ごめん、翔。
僕は、サッカーには戻らない。
そのことを告げれば、多分事実上の絶縁宣言になってしまうだろう。僕と翔の関係は完膚なきまでに砕け散る。
けれど、翔と話す上でそれは避けて通れない。
翔の目線が僕から逸らされる。
どうしたらいいのか分からない。これ以上翔を傷つけたくないし、仲直りだってしたいのに。
どうにもできなくて、目を伏せた。
元チームメイト達の視線を感じてはいるけれど、目を合わせることができない。
そうして、僕は久しぶりに彼らと同じグラウンドを踏みしめた。
午前中にみっちり基礎練習をやってからの、午後からの練習試合。
紅白戦として四試合行うと聞いた時は、何をする気かと思った。
1試合目が始まって、ラルフからパスを回された時。
あぁ、そういうことなんだとようやく理解した。
ラルフの動きがいつもと違う。他の皆もそうだ。インハイ決勝でラルフが使えなくなった時と同じ形。
僕が主導して、試合を回す形。
僕と翔達を本気で戦わせようとしているんだ。
覚悟の決まっていなかった僕は、うまくボールを運べずにいた。どう展開していけばいいか、分かるはずなのに分からない。
戸惑いと罪悪感が気後れを生み出し、その隙をついた翔にボールをあっさり奪われた。
翔は、僕を見もしていなかった。
その後も幾度となくまごつく僕はボールを奪われ、前半で2点も取られてしまう。ベンチに戻り際に睨みつけてきた翔の視線には、失望と怒りが込められていた。
関係を修復しにきたはずなのに。
生まれた溝は、更に広がっていた。
後半はどうしようと、そればかり考える。どうすれば、どうしたら。
ベンチに戻っても休憩している気分になんてなれない。冷や汗なのか汗なのか分からないものがタオルで拭っても拭っても溢れてくる。
乱れた呼吸が戻らない。タオルを顔に押し当て、真っ暗な中で落ち着こうと必死に抵抗していると、
「ハル」
顔を上げれば、ラルフがいた。
翔以外で初めて親友と呼べるかもしれない友達。
中学の時からずっと追いかけ続けていた天才プレイヤー。
「あいつがいるのに、負けていいのか?」
ラルフの真っ直ぐな瞳に怖気づく。
あいつって、誰の事だろう。
翔のことか、それとも。
視線の先で、白峰さんは何かを祈るようにぎゅっと手を握っていた。
「俺は手伝わねぇぞ。勝つなら自分でやれ」
それだけ言って、ラルフは水を飲みに行く。
タオルに顔を埋めた。
手伝わない。ラルフの一言で、やっぱり今日は誰かの思惑が後ろにあるんだなと確信した。
もう、それもどうでもいい。
誰のどんな思惑があろうが、そんなことは関係ない。
負けていいことなんて、あるわけないだろ。
次は勝つと、彼女と約束したんだ。見ていて欲しい、と。
その履歴は、まだ僕のスマホの中に残っている。
今更だけど、カッコ悪いところなんて見せられない。
負けて慰められるより、勝って褒めてもらいたい。
いいんだよと、優しく許してくれた彼女の前で、負けたくはない。
横目に見た白峰さんは、マネージャーの子を手伝ってジャグに追加を注いでいた。
後半が始まる。
ごめん、翔。
僕は、負けるわけにはいかないんだ。
2試合目は、翔と同じチームになった。
そうなるだろうとは思っていたから、覚悟はできていた。
そして予想通り、僕にパスは回ってこなくなった。
翔達に苛立つチームメイトを宥めながら、パスを回してもらえるようポジショニングを徹底する。
翔のプレーは体が覚えている。どこでどういう時にどこにパスを出しやすいか。その感覚に従って、絶妙な位置取りを心がける。
それでも、パスは来なかった。
助かったのは、ラルフが自陣から動かなかったことだ。多分、あいつなりに色々考えているんだと思う。今日の思惑とか、僕の事とか。
前半いっぱい使ってパスを回してくれるよう試してみたけど、終了の笛が鳴るまで翔が僕を見ることはなかった。
1試合目の展開が良くなかったかもしれない。もしくは、もう翔には僕と仲直りする気がないのかも。
どちらの場合でも、僕にはどうすることもできない。
まさか味方からボールを奪うわけにもいかないし、チームメイトと翔の喧嘩も見たくはない。
手詰まりかな、と思ってしまった。
視線を感じて顔を動かせば、白峰さんと目が合った。
心配させないように笑ってみたけれど、効果があったかは分からない。表情の読めない顔でそっぽを向かれてしまったから。
後半が始まる。
前半と変わらない展開、かと思ったら。
急に上がってきたラルフが、強引にぶち抜いてゴールネットを揺らした。
分かっていた。ラルフがその気になれば、点なんかすぐに取れるってことを。僕も油断していて、ラルフはこの試合は上がってこないのだと思っていた。
自分が情けなくなる。
パスも回してもらえず、ラルフを止めることもできない。
ゴールの中を転がるボールを、誰も拾おうとしない。
頑張ってみたんだけどな。
負けたくはない。
負けたくはないけど、どうしようもないことだってある。
球技大会以来のラルフとの試合は、それ以前のところで躓いてしまっていた。
ため息交じりに深呼吸し、せめて試合の体裁だけでも整えようと、
「諦めんな!!!」
彼女の声が響いた。
余りの驚きに自然に顔がそちらを向く。
背筋をピンと伸ばした彼女が、燃え上がる目つきで僕を見つめていた。
「下向いたって負けるだけでしょ!! それでもいいの!?」
良くはない。
全然、少しも、良くはない。
君の前で、これ以上負けたくはない。
「見ていてあげるから、勝ちなさい!!」
彼女は、あの約束を覚えているのだろうか。
球技大会の後、急に来た彼女のチャットに驚いて、思わず打ち込んでしまったバカな言葉を。
ラルフに負けたのが思いの外悔しくて、僕がまだサッカーを好きなんだと分からされてしまったあの日を。
あの時も、君の言葉で勝ちたいと思えたんだ。
自然と零れるままに笑みを返し、ボールを拾ってセンターサークルに置く。
茫然としたまま配置につく翔を横目に、心の中だけで語り掛ける。
なぁ、翔。
ラルフに勝ちたいよな。
中学の時に言った言葉を、もう一度繰り返す。
天才がどれだけ強くても。
僕は、もう負けたくはない。
2試合目は同点で終わり、休憩を挟んで3試合目が始まった。
ラルフと翔が同じチームになったので、今回は翔にラルフの強さを思う存分感じてもらうことにする。
この調子だと、4試合目は多分僕と翔が同じチームになる。その時の為の布石だ。
というか、このチーム分けで勝てる気がしない。負けるのは嫌だが、現実は非情だ。
最後に勝てばそれでよしと言い訳してみるも、せめてもの抵抗はしたい。あわよくばという気持ちもあるが、多分無理だろう。
それでも、彼女の前で無様な敗北は晒せない。
ラルフの癖は分かってる。今日の試合展開からして、やってきそうなことも大体分かる。あとは翔達だが、しばらくはラルフについてこれないだろう。そこを利用する。
キックオフから5分、予想通りの展開で先取点を取った。
抵抗もそこまでだった。
ラルフはあまりにも強すぎた。翔達さえ置いてけぼりにして点を取っていく。
更に、幾つか想定外なこともあった。
ラルフと翔のコンビプレーだ。
即席コンビの割に二人とも息が合っていた。気質として似た類だからだろうか。やたらと悔しくて、ムキになってパスカットしようと動き回ってしまった。
それと、翔の攻撃力が前よりも上がっている。
ラルフが抑えめに動き、翔を前面に出していたせいでそれが分かりやすかった。並のディフェンスじゃ止められない。当たりも強ければシュートの威力もある。
決定機を逃さない力強さは、中学時代の翔に足りないものだったのに。
チャンスに対する嗅覚、ファウルを恐れない攻めの姿勢は一流フォワードのものだった。
成長したんだと嫌でも実感させられた。
僕が獣医を目指してひたすら勉強している間、翔は全国制覇を目指して練習に明け暮れていたのだ。
悔しいような、嬉しいような。複雑な気持ちが胸に押し寄せる。
それをたった2回の紅白戦で見極めたラルフに、嫉妬にも近い感情を覚えてしまう。
やっぱり、サッカーは半端にはできない。
獣医かサッカーか、二つに一つだ。僕には両立できない。
どちらを選ぶかは、もう決まっている。翔には悪いけれど、やっぱりそれだけは覆せない。
でも、今日は。
今日だけは、サッカーが全てだ。
4試合目は、予想通り僕と翔が同じチームになった。
お誂え向きにラルフが別チームで、つくづく笑いそうになる仕込みっぷりだ。
下原先輩かな、とふと思う。
彼女に入れ知恵した人物がいるとしたら、多分彼だろう。キャプテンならあれこれ口を出してもおかしくないし、監督だって受け入れる。
まぁ、そんなことはどうでもいいけど。
「翔」
目の前にいる親友は、声をかけられてもそっぽを向いて聞こえないふりをした。
苦笑してセンターサークルのボールに足を置く。
「今日だけでいい。今日が最後でいいから、力を貸してほしい」
見つめた親友は、ひどく懐かしい顔をして目を見開いていた。
中学の頃、僕が作戦を提案する度にそんな顔をしていたのを思い出す。
めちゃくちゃ言うな、なんて言葉と一緒に。
「今度こそ、あいつに勝ちたいんだ」
驚きに見開かれた瞳が、もうこれ以上ないというくらい広がっていく。
慌てたように目を閉じて、眉間に皺を寄せた。
「本気で言ってんのかよ」
「本気だよ。昔からずっと」
そう言うと、深く息を吸い込んで翔は口を開いた。
「俺も勝ちてぇ」
その一言で、僕はラルフに勝てると本気で思った。
笛が鳴る。
ボールを蹴る。
超人的な天才に挑むのに、楽しすぎて口元が笑みの形に歪んだ。
その時には、もう分かっていた。
僕が白峰さんのことをどう思っているか。
なんで彼女の前で負けたくなかったのか。
高嶺の花に手を伸ばす覚悟は、割と簡単に決まった――
目を覚ましてすぐにため息が出た。
ぼさぼさの髪をかきむしり、もう一度ベッドに寝転んでちらりと枕元の時計を見やる。
08:14。夏休みの起床時間としては妥当なところだろう。
昨日のデートは失敗だった。
もう、本当に、どうしようもないくらいの失敗だ。どこで間違えたのか帰ってから何度も考えたが、やっぱり美夜の話題が出たことだろうか。
黒浜 美夜。僕の幼馴染で、仲は悪くない。
美夜がそんなに気になるのだろうか。あの後、軽く街を歩いて服屋にも入ってみたりしたけど、すぐに帰ってしまった。
それまでは上手くいっていた気がする。映画に誘って、ポップコーンとコーラとパンフレットを買って、楽しくおしゃべりできていた。
試合の帰りに美夜に会わなければ、今日はもっと上手くいっていたのだろうか。
……誰かのせいにしても仕方がない。
チャンスはまだまだある。美夜はただの幼馴染だと認識してもらって、ゆっくり距離を詰めていかないと。
護堂さんと違って僕は普段から傍にいられるんだから、その利点を活かさない手はない。
ライバルは多分、これからも増える。その前に彼女の隣に立てるようになりたい。
とはいっても、特技もなければ芸もなく、容姿も十人並みの僕がどうすれば彼女と付き合えるのかさっぱり分からないけれども。
とりあえず仲良くなるよう努力して、あとはなんとか……なるといいなぁ。
人に好かれるにはどうすればいいかなんて、今までの人生で一度も考えたことがなかったから何も思いつかない。
自分が無頓着だったことを恨むことになるとは。彼女に言われた通り、美夜や姉さんとたまの休日に遊ぶ流れは定番デートコースだった。
そりゃあ、疑われて当然だ。
考えれば考えるほどどうにもならない気がして、勢いよくベッドから起き上がった。
こうしていても嫌な考えに染まるだけだ。動いた方が良い。
朝ご飯を食べようと冷蔵庫を開ければ、なんにもなかった。
多分これ、姉さんも何も食べてないんじゃないか。
姉さんの部屋のドアをノックすると、ちゃんと中から声が返ってきた。珍しく起きているらしい。
「姉さん、朝ご飯食べた?」
「まだ。もう朝?」
不思議そうに首を傾げる姉に、起きているんじゃなくて寝てないだけだと理解した。
そんなに珍しい話でもない。絵を描くことに熱中すると時間を忘れるのは、もうずいぶん昔からの癖だ。
そして、その気になれば一度にたくさん食べてから二日三日断食するという非常識な真似をやらかす。
サッカーを止めた理由の一割くらいは姉のこともあった。
「ご飯食べたら寝なよ。何がいい?」
「ハル」
急に名前を呼ぶと、じっと僕を見つめてくる。
姉がこういうことをするときは、何か気になることがある時だ。
「どうしたの?」
「昨日、昼子といた?」
姉の言葉に前振りというものはない。
若干動揺しつつ、誤魔化すことはないと頷いた。
「ハル、昼子好き?」
姉の言葉には装飾も回りくどい表現もない。
ただひたすら直球を投げるだけ。
それをどう捉えるかは自由とはいえ――弟としては姉の言いたいことくらいちゃんと察せるのだ。
「うん」
「そう」
頷くと、姉さんは少しだけ嬉しそうに笑った。
白峰さんに対して、姉さんは随分と執着――心を砕いている。
他の人をこんな風に気にしたことなんて見たことがない。それは、両親に対してもそうだ。
美夜なんか、だいぶ嫌われていたと思う。家に連れてくるどころか、一緒にいるだけで僕まで無視された。
一応理由は聞いたことがある。
『夢で一緒だったから』だそうで、僕には何の事か分からない。
でも、今は姉が彼女の事を気に入ってくれて良かったと思っている。白峰さんも姉の事を気にしているようだったから、家に呼べば喜んでくれるだろう。
……姉さんをダシにしていることに、良心が痛まないこともないが。
「お寿司にする?」
少し嬉しそうに――感情表現の薄い姉にとって、この少しは非常に大きい――そう言う姉さんに、苦笑して首を振る。
昔からうちではお祝い事の時にお寿司を取るという暗黙の了解がある。誕生日も寿司だし、年末年始も寿司だ。だから姉の頭にはお祝い事=寿司という図式がある。
その気持ちは嬉しいが、流石に恥ずかしすぎる。
「オリジンで何か買ってくるよ」
「牛ヒレステーキ重。エビフライと棒ヒレ」
こう見えて姉さんはめちゃくちゃ肉料理が好きだ。
小さくて細い体のどこに入っているのかと思う。
「分かった。僕も少し豪勢にする」
「それがいい」
頷く姉さんに苦笑を返し、財布を持って家を出た。
恥ずかしいけれど、今日の事を忘れないためにはそれでいいかもしれない。
生まれて初めて女の子をデートに誘って、失敗した日として。
朝ご飯を食べて姉さんを風呂に入れ、僕もシャワーを浴びるついでに掃除してから学校の図書室に向かう。
勉強と、借りた本を返す為。平下さんを通じて借りた本は夏休み明けまで借りてもいいとのことだったが、早めに返すことにした。
又貸しも期間延長も本来は禁止されている。早めに返して悪いことはないだろう。
姉さんが寝ている家で一人昼ご飯を食べるのも物悲しいし、練習に来ているだろうラルフを誘って食べようというのも理由の一つだった。
ついでに白峰さんのことを聞ければ完璧だ。
図書室に行けば、平下さんがカウンターにいた。
「あ、暮石くん」
「こんにちは」
僕に気づいて小さく手を振る彼女に挨拶する。
挨拶を返してくれた平下さんに鞄から取り出した本を渡した。
「これ、ありがとう。すごく勉強になりました」
「ううん、役に立ったなら良かったです。まだ借りてても大丈夫だよ?」
「いや、本来の期間は過ぎてるし。それに、他にも読みたい本があるから」
「そっか。今日は勉強?」
「うん。それと、ちょっとラルフの顔を見に」
あぁ、と頷いて平下さんが窓の方に顔を向けて苦笑する。
今日も元気なラルフファンクラブの歓声が少しだけ聞こえてくる。図書室が静かだからなのか、それとも彼女らの熱量のせいか。
どちらにしても、あの黄色い声をほぼ無視しているラルフはすごい。
「仲、良いんですか?」
「それなりに。あぁいや、」
訂正しようとして、どう言ったものかと少し考え、
「二人目の親友、かな」
「……二人目?」
小さく首を傾げる平下さんに小さく笑って手を振り、幾つか本を取って適当なところに座る。
鞄から参考書とノートを取り出し、問題を解くことに集中した。
獣医になるには、まず大学の獣医学部に入る必要がある。
獣医学部は全国でも数が少なく、選択肢が少ない。だから、滑り止めとかはあんまり考えられない。
ここ、と決めたところに受かるのが一番確実だ。
今のところ、候補は三つ。東京大学、北海道大学、岐阜大学。ただ、設備などの面から関東から離れた方がいいかもしれないと思うことがある。
だとすると、鹿児島大学や山口大学なんかも魅力的に見えてくる。今のところは絞り切らず、高三になってからあちこちオープンキャンパスなどを回って決めたい。
何にしろ、勉強はできて損はない。東大に受かるくらいできれば、どこでも受かるだろう。選択肢を広げる為にも、勉強は大事だ。
サッカーを止めるからには、半端はなし。翔とも約束した。
集中していると、時間が経つのは早くなる。
「暮石くん」
声をかけられて、顔を上げる。
時計を見れば、もう十二時を回っていた。
「お昼ご飯はどうするの?」
平下さんが小声で聞いてくる。
集中すると食事を忘れるのはうちの家族の特徴らしい。
「買い物に行ってラルフと食べるよ。教えてくれてありがとう」
気にしてくれたことの礼を言って、机の上を片付けて図書室から出る。
後ろで平下さんが誰かと話していたが、特に気にすることもなくグラウンドに出た。
休憩中らしいサッカー部の一団が見えて、そちらに近づく。
遠目に見てもラルフは目立っていた。
「ラルフ!」
「おー、ハル! どした?」
ブンブンと満面の笑みで手を振るラルフに軽く振り返し、ファンクラブの皆様の視線を気にしないようにしつつ歩み寄る。
他のチームメイトにも軽く挨拶して、荷物を漁るラルフを見下ろした。
「勉強ついでにラルフの顔を見に。昼一緒に食べない?」
「いいぜ! お前、飯は?」
「近くのコンビニで買ってくるよ」
「早くしろよ! 部室にいっから!」
うん、と軽く手を挙げてから小走りに学校の外に出る。
近場のコンビニに入って適当におにぎりとサンドイッチと飲み物を買い、とんぼ返りして部室に入った。
ファンクラブの皆様もお昼のようで、強烈な視線に晒されなくてほっとした。
部室の中では既に数人の部員が弁当箱を開いており、弁当独特の匂いが充満する。ラルフが持ってきたのはお重みたいなでかさで、少し笑った。
「すごいね」
「成長期だからな! お前も食べるか?」
勧められ、卵焼きを一つもらう。
出汁入りなのだろうか、普段食べているものとは少し違う味がする。噛むとふわりと千切れ、なんだか高級料亭で出されるようなやつっぽい。
そう言えば忘れていたけど、ラルフは烏丸グループの一人息子で母親は元王女様という本物の王子様だった。
こうして部員に混ざって昼ご飯を食べている姿を見ていると、どうもそんな気はしないのだが。
「いやーやっぱラルフんとこの弁当美味いわ!」
「くそー、俺もそういう弁当毎日食いてー!」
「んじゃ交換しようぜ! 俺このエビフライもらい!」
エビフライをラルフに奪われた部員が、じゃあ俺はこれだ! とラルフの弁当に箸を突っ込んで重そうなトンカツを掴み上げる。
こぼれそうになって慌てて口に突っ込んだのが面白くて、笑ってしまった。
「ふへぇ!!」
「美味そうだなそれ! 俺もそれくれ!」
「いいけど交換だぞ!」
目の前で始まった弁当交換会に、ふと中学時代を思い出す。
そういえば昔は僕もやったな。翔や皆と一緒にお弁当の中身を少しずつ交換して好きなものだけ食べたりとか。
出来合いの弁当しか持って行かなかったから、皆のお弁当が少し羨ましくて。だから、中身を交換するのが楽しみだった。
ラルフも、そうなんだろうか。
よく見れば、ラルフの弁当も出来あいのものみたいだ。あの何でもできそうな乙継さんに頼まないのだろうか。
後で聞いてみようと思いつつ、おにぎりを食べながらその光景を眺めた。
「あ、そうだ! ハル、お前明後日なんか用事あるか?」
「明後日? いや別に何もないけど」
唐突に聞かれ、びっくりしつつ答える。
来月まで予定は特にない。まぁ家の掃除をちょっと丁寧にやろうとは思っているけど、あとは勉強するくらいだ。
……正直に言えば白峰さんをどこかに誘いたいが、どこに誘っていいかも分からないし昨日の失敗がまだ尾を引いている。
挽回をしようにもどうしたらいいか分からない。ラルフに白峰さんの好きなものとかを聞いてなんとかしようと思っていたが、なんともならない気もしてきた。
「じゃあ花火来いよ!」
にっこり笑顔で宣言するラルフに、目を瞬かせてしまう。
花火、って。もう夏も終わりのこの時期に?
「あー、そういえばもうそんな時期かぁ」
「っべぇ、宿題まだ終わってねぇわ」
口々に話し出す部員達が当然のように受け止めているのを見て、知らなかったのは僕だけだと気づく。
この地域のお祭り、ということだろうか。
いやまぁ、考えてみればおかしくもない。九月に花火祭りがあるところもあるんだし。
「そっか、暮石はこっち来たばっかだもんな」
部員の一人が言うと、あぁ~そうかそうだな、と他の部員達も口々に言いだした。
どうやら、僕が転校してまだ半年も経ってないことを忘れられていたらしい。
「いやー、なんかすげー馴染んでるから忘れてたわ」
「八月の終わりにな、花火のある夏祭りやるんだよ。ラルフんとこで」
ラルフのとこ、という言葉でピンときた。
烏丸グループ主催の夏祭りだ。
この前の七夕の時といい、随分と地域に密着している。
「十年ちょい前くらいまでは八月半ばくらいにやってたんだけどな。ラルフが『夏の終わりに盛り上がりたい』っつって、じゃあ時期ずらして盛大にやろうってことで烏丸と市が結託して夏祭りすることになったってわけ」
「いやー祭りの時期を動かすとか、金持ちはやることやべーや」
「いいじゃん、夏の終わりに思い出欲しいだろ!?」
まぁなぁ、と部員達から苦笑い交じりの賛同を受け、ラルフが鼻を鳴らす。
忘れていたけど、ラルフは烏丸グループの後継者なのだ。
僕も思わず苦笑してしまう。
「花火一緒に回ろうぜ。花梨や白峰も一緒にさ」
「あぁ、うん」
頷くと、ラルフは嬉しそうに『決まりな!』と親指を立てた。
思わぬ申し出に適当に頷くことしかできなかったけど、これはチャンスだ。
昨日の失敗を挽回し、彼女との仲を縮めるのに夏祭りは良い舞台だと思う。
一緒に見て回って、射的をやったり金魚すくいをやったりすれば、自然と仲は縮まっていくはず。確か、姉さんが持ってた少女漫画とかではそんな感じだった。
訪れた決定機をモノにできるかどうかで勝負は決まる。
こっそりと深呼吸し、明後日に向けて今から何ができるかを考えた。
思いついたのは、型抜きの練習くらいだった。
多分、屋台すらないと思う。
※ ※ ※
通知音にスマホを開き、チャットを開く。
『明後日の花火、皆で回ろうぜ!』
能天気なラルフの呼びかけに、花梨も春史くんもすぐに了承の返事をしていた。
忘れていた。
そういえば、あったんだった。夏祭り。
春史くんの返事を食い入るように見ながら、断腸の思いで了承の返事を送信する。
祈るようにスマホを持ち上げ、深いため息をついた。
うわぁ。
もう、どうしろと。
春史くんと顔を合わせるのはあまりにも辛く、かといってラルフや花梨に変に思われたくもない。
どん詰まりに追い詰められた気分で、顔を伏せた。
「浴衣……」
そうだ、夏祭りだから浴衣を着なくては。
春史くんは着るのだろうか。めちゃくちゃ似合いそうだ。
それだけで行きたいと少し思う自分に、呆れと諦めのため息を吐いた。




