第四十二話
息を整えた大山君が、私を見る。
戸惑った顔をしたのは一瞬で、すぐに春史くんに視線を向けた。
「サッカー、続けんのか?」
余りにも直接的なその問いに、隣で首を横に振る気配がした。
「獣医に、なりたいんだ」
はっきりとそう答えられ、大山君だけでなく何故か私も驚いてしまった。
心臓が音を立てて動き回り、胸が痛くなる。
「サッカーやりながらでもできるだろ!?」
「僕はそんなに器用じゃないから」
「ならお前、今日のあれはなんなんだよ!?」
「サッカーは大好きだよ。その気持ちは変わってない」
睨みつける大山君に、涼しい顔で受け応える春史くん。
二人がこのやり取りを何度も繰り返してきたんだろうと、傍で見てても分かる。あの夜の海で聞いたことそのままの光景が、目の前で行われていた。
あの時よりずっと、大山君の言葉に胸が抉られる。
彼の気持ちが、なんとなくわかってしまうから。
「じゃあ、続けろよ!!」
「ごめん、出来ない」
「インハイ出ただろ!!」
なしのつぶての春史くんに、最終兵器がぶつけられる。
苦笑するしかない彼の隣で、あれはうちのバカラルフのせいなんですと心の中だけで弁明する。
色々と事情がありまして、なんて私が言ってもしょうがないので黙っていると、
「あいつに勝つまで続けろよ!!」
叫ぶ大山君の本音に、びっくりしてしまった。
この二人は、ずっとラルフを見ていたのだ。
普通、あんな天才の前だと人は二つの反応を取る。諦観か、尊敬かだ。
あんなの無理だと諦めてしまうか、凄いと尊敬して後ろについていくか。前世のジェラルドはそうだったし、ラルフもまた同じ性質を持っていた。
選ばれし存在。手の届かない孤高。
ラルフはそういう扱いをされてきたし、されても仕方のない奴だった。だから、中学で会ったラルフは楽しそうにしていてもどこか寂しさを纏っていた。
なのに、この二人は。
「うん。いつか必ず勝つよ」
頷いた春史くんがちらりと私を見やる。
なんで視線をよこされたのか分からず、私はただ見返すだけで何も言えなかった。
大山君が大仰なため息を吐く。
「……お前の考えることは、昔っからよくわかんねぇな」
「翔の考えてることは分かりやすいから、今日も助かったよ」
うるせぇ、と怒鳴る大山君に笑いかける春史くんを横目で見て、こんな風にも笑うんだ、と思う。
いつもと違って、少し意地が悪くて気安い笑み。私には一度も向けられたことがないもの。
なんだか男同士ってやっぱり入っていけないところがあるなぁ、なんて思っていたら、
「そいつ、お前の彼女?」
とんでもない大砲が撃ち込まれた。
さっきから思ってたけどこの人直球過ぎる。変化球知らないのかよ。そこはもう少し慮って聞いてくるところだろ普通!
「違うよ。今は」
「まぁ、そっか。あいつがいるもんな」
聞き捨てならない単語が飛び交い、耳がぴくぴくと反応してしまう。
はぁ、と息をついて大山君が頭を掻く。
「今年はもうセブンの墓参り行ったのか?」
「うん、白峰さんと一緒に」
春史くんがちらりと視線を落とし、ぎょっとした大山君が反射的に私を見る。
その視線をどう受け止めていいものやら悩みつつ、何も気にしてませんよと言う顔をして見返した。
はぁー、と今までと違う種類のため息が吐かれる。
「変わったな、お前」
「まぁ、それなりに」
胡乱げな視線を春史くんに受けながされ、大山君が私を不躾に眺めてくる。
すまし顔を維持するのが辛くなってきたところで、視線が外された。
「冬は出ねぇの?」
「僕の出番はないよ。公式戦での雪辱は翔に任せる」
「めちゃくちゃ言うな」
「出来なかったら、その分頑張るよ」
朗らかに笑う春史くんを睨みつけ、唸りながら大山君はぼさぼさの髪を更にかき回す。
しかめっ面の中に、どことなく嬉しそうな雰囲気が見え隠れする。
その気持ちもなんとなくわかって、上がりそうになる口角を抑えるのが大変だった。
「勝手に吹っ切れてんじゃねぇよ」
「ごめん」
「俺達はなんだったのかって思うだろ。他の奴も驚いてんぞ」
「うん」
トゲの付きまくった大山君の文句を、静かに春史くんが受け入れていく。
受け取れなかったパスを、二人で応酬しあう。
心の奥が、じんと温かくなる。
「女で変わるとか、ほんとふざけてんな」
「僕も驚いた」
「イラつくからやめろ」
「ごめん。でも、きっかけは翔の電話だったんだよ」
あれか、と大山君は忸怩たる表情で小さく舌打ちした。
私は直接聞いてないけど、うっかり言っちゃったことも多いのだろう。彼なら勢いと感情に任せて言わなくていいことまで言う気がする。
「……獣医になるのって、楽じゃねぇって聞くぞ」
「知ってる」
「諦めんなよ。サッカー辞めてまでなるっつーのに途中でやめたりしたらぶん殴るぞ」
「ありがとう。頑張るよ」
唾でも吐きそうな素振りで吐き捨てる大山君に、彼は満面の笑みを浮かべた。
なんだか花梨が私に笑いかける時の顔に似ていて、少し居心地が悪くなる。
大山君も同じような表情をしていたので、同類を見つけた気分で同情の視線を送っておいた。
嫌そうに目を逸らされたことについては、不問とする。
「……悪かった」
「うん」
呟くような謝罪に、ただ頷く。
それが、二人の関係性を示唆しているようで胸が苦しくなった。
「一緒に、サッカーしたかったんだ」
「僕も、翔とやるサッカーがすごく楽しかったよ」
二人の言葉にも表情にも、一つの嘘もない。
お互いを大切に思っているのが、私にも伝わってくる。少し羨ましくなるくらい。
「今日は、来てくれてありがとうな」
「うん。また一緒にプレーしてくれてありがとう」
笑いあう二人の間に、もうわだかまりもしこりもなかった。
ほっと胸を撫でおろす。
良かった。キャプテンや花梨の言った通り、本当になんとかなった。
二人が腕を組み合わせて手を叩きあう。
「また来いよ。そんで練習に付き合え」
「それはちょっと難しいかな」
「そこは頷いとけよ!」
大山君に睨まれてもどこ吹く風で、春史くんは楽しそうに笑う。
きっと、かつてはこんな風な光景が日常だったのだろう。二人はこうして友情を確かめ合い、頂点を目指してボールを蹴っていたのだ。
喪った日々は決して戻らない。
でも、それは素晴らしい思い出となって明日を生きる力になるはずだ。
「じゃあな! 気ぃ付けて帰れよ!」
「うん、ありがとう。じゃあね」
軽く手を振って、春史くんが背を向ける。
同じく大山君に背を向けて、皆が待っている校門へと歩き出した。
校門前で点呼を取り、忘れ物がないか確認しあう。
全員でバス停に向かい、時刻表を確認している時にそれは起きた。
「ハル?」
鈴の音を転がすような、という表現ぴったりの声だった。
甘く軽やかな響きで呼ばれ、春史くんが顔を上げる。
「美夜?」
我が耳を疑った。
みや。ミヤ。美夜。名前である。間違いなく。そんな苗字は多分日本に存在していないと思う。
春史くんが女子を名前で呼ぶのを、初めて聞いた。
「こっちに来たなら教えてくれてもいいのに」
親し気に話しかける声に、私もようやく振り向いた。
流れるような黒い長髪を編み込んで垂れ下がらせた、和風美女といった風情の少女がいた。
やや丸い輪郭だが小顔で、ぱっちりした瞳と小ぶりな鼻。薄めの唇は水気を含んで薄桃色に輝き、朱のさした頬は柔らかそうだ。
背は花梨以上私未満。そのくせ腰は細く胸は私より大きい。全体的に肉感的だが少女らしい線の細さも失っておらず、部員の半分は見惚れていた。
私の直感が告げる。こいつは敵だ。
……いやいや待て待て待て。そういう判断は危険だ。悪役令嬢だった頃から抜けきっていない。
ひとまず様子を見ようと静観する私をちらりと見て、少女はぴしりと固まった。
顔色が変わる。血の気が引いたように青ざめ、私を凝視したまま小さく呟いた。
「―――――」
聞こえてきた単語に、今度は私が固まる。
それは部員達の耳には入っていないようで、誰も気に留めた風はなかった。
「美夜?」
改めて声をかけられ、少女はぱっと表情を変えた。
「ごめんなさい、大所帯だったものだからびっくりして。部活?」
「うん、一応」
頷く春史くんに笑いかける彼女を見ていると、先程の事は夢か何かだったのかと思いそうになる。
いやでも、気のせいかもしれない。そう思うことにして、二人の様子を観察する。
「一応?」
「正式な部員じゃないから」
首を傾げる少女に、春史くんが追って説明する。
もの問いたげな視線が圧力となって彼の背中に襲い掛かり、渋々と言った体で振り向いた。
「彼女は黒浜 美夜。僕の幼馴染で、同級生です」
「初めまして。ハルがお世話になっています」
深々と頭を下げる黒浜さんに、いやいやそんな! とかなんだよ暮石お前彼女いたのかよ! とか遠慮のない揶揄の言葉が飛ぶ。
彼女て。幼馴染だって言ったでしょ。
「違いますよ、幼馴染です」
苦笑しつつ訂正する春史くんに、またまたー! と皆の揶揄が重ねられる。
ここぞとばかりにからかいたいのは分かるけど、やりすぎると私も黙ってないからね?
「ハルったら転校したっきりろくに連絡もしないんですよ。皆さんにご迷惑をかけてませんか?」
「いやいや、全然!」
「つーか暮石、お前連絡もなしって薄情なやつだな!?」
「いやーこんな可愛い彼女がいたなんて俺ら知らなかったわー!」
「違うって言ってるじゃないですか」
ため息を吐きながらのツッコミでは、調子に乗った部員達を抑えられない。
もうそろそろ止めるべきだろう。
「もうすぐバスが来ますよ」
そっと指摘すると、ぴたっと話が止んだ。
全員が何故か恐る恐ると言った感じで私を見てきて、なんだか居心地が悪い。
気にせず無視していると、黒浜さんが話しかけてきた。
「あの、白峰さんですよね? 『FanFan』見てます!」
『FanFan』とは私が良くモデルをする女子中高生向けの雑誌のことだ。
結構人気があって、街中でもたまにポスターなんかが貼られてたりする。
「えぇ、ありがとうございます」
「やっぱり本物はすごく綺麗ですね! あ、小町さんもいらっしゃるんですか?」
「は~い」
軽く手を上げる花梨に、よく見させてもらってます! と模範的ファンの顔でにっこりと微笑む。
ただ、『本物は』とかの言葉に悪意のようなものを感じるのは考えすぎだろうか。
いまいち拭いきれない妙な不安を抱きながら、無難に会話する。
「ハル、すごい人たちとお知り合いになったのね」
「まぁ、そうだね」
「いいな、私もそっちに行きたいなぁ」
「美夜の成績だと少し難しいかもしれないね」
「もう! これでも勉強してるんだからね?」
気安く話す二人に、胸の奥がざわざわする。
なんというか、距離感が違うというか。
私達とは違う範囲で接している気がする。
ペナルティエリアの内と外というか。私が踏み込めない距離を当たり前として接している彼女を見ると、幼馴染という言葉に込められた時間を重く感じる。
「でも良かった。ハル、サッカー続けてるんだね」
「いや、違うよ」
安堵の表情を浮かべる黒浜さんに、彼はきっぱりと否定する。
驚いた顔をする彼女に、春史くんは穏やかな表情で告げた。
「事情があって、手伝っただけ。サッカーをやるつもりはないんだ」
「……セブンのこと、まだ気にしてるの?」
ちらりと私を窺うようにして、黒浜さんが小さく尋ねる。
あぁ、なんだ。
性格悪くも、彼女のその質問で安心できた。
幼馴染だからって、全てを理解しあえているわけではないらしい。
セブンの事を気にしない日は多分来ない。でも、もしそうなら臨時でもサッカー部の一員としてここにきていない。
そのことを彼女が理解していないことに、安心してしまった。
「そうだね。前言ったことは今も変わってないよ」
微笑む春史くんに、黒浜さんは訝し気に首を傾げる。
怪訝に思う彼女を余所に、音を立てて到着したバスに乗り込んでいく。
「あ、ちょ、ちょっと、ハル!」
「美夜も頑張って。僕も頑張るから」
じゃあね、と手を振る春史くんの後に続いて、私もバスに乗る。
困惑した顔の黒浜さんを置いて、バスは走り出した。
ふと、視線を感じて外を見る。
黒浜さんが、射殺さんばかりの目つきで私を睨みつけていた。
恨みつらみのこもった、憎悪の眼差し。
人を呪い殺せるぐらいのそれを浴びたのは前世以来で、背筋が粟立つのを感じた。
見続けて気分のいいものじゃない。
視線を逸らせば、春史くんと目が合った。
「今日はお疲れ様でした」
微笑む彼の顔には疲れが滲んでいて、握りしめたつり革がキィと音を立てた。
遠征は大成功のはずなのだが、確かに私も妙に疲れている。
「あなたも」
ぽつりと返した言葉に春史くんは苦笑を深くして、両手でつり革を握る。
バスが揺れる度につり革が擦れて鳴る音を聞きながら、ぼんやりと彼の横顔を見つめていた。
夏休み後半は、あっという間に過ぎていった。
課題と仕事に追われつつ、その仕事帰りに花梨と遊び歩く。
そこだけは去年と変わらないが、違うこともそれなりにあった。
代表的なのは市松さんとのCMで、第二弾、三弾と公開されるにつれてどういうことかと私に直接聞いてくる人も出始めた。
ただの仕事だと言ってるけど、疑惑の報道があったことからも訝しむ人は多い。
社長達の作戦は大成功ということだ。腹立たしいことに。
その『Gift』は、八月頭に鮮烈なデビューを果たしていた。
どこの雑誌もその話題で持ち切りで、ニュース番組ですら取り上げるほど。テレビをつければ彼らの顔。うんざりするくらい『Gift』の名を見ない日はない。
早速公式ファンクラブも作られ、用意の良さに若干乾いた笑いが漏れた。
ちなみに、護堂さんからのモーニングチャットはインハイ後から再開されている。一応返事はしているが、忙しいのか殆ど返ってこない。とても有難い。
それでも毎朝欠かさず送ってくるのが律儀というかなんというか。
最近はたまに市松さんからも連絡がきたりして、二人ともめちゃくちゃ忙しいはずなのに暇人じゃないかと疑いたくなる。
こないだなんか新しいドラマやるから出ないかと言われて全力で断った。高校生の間は時間拘束きついの嫌だって言ってるのに。
それとは別に、『Gift』でのあれこれとか話してくれるから、地味に事情通になってしまった。やっぱり不破は問題児で、市松さんとぶつかることも多いらしい。
その不破は、何故か花梨と会いたがっているそうだ。
知り合いみたいなことも言っていたから花梨にもそれとなく聞いてみたが、不破の事は知らないっぽい。花梨のことだから忘れてるだけってこともあるけど。
違うところはもう一つ。夕太があんまり家にいなくなった。
夏休みなのに学校に行っているらしく、なんでも友達と待ち合わせしているのだとか。姉としてこれ以上嬉しいこともそうはない。
アドバイスをもらったことにお礼を言ったりと姉弟の会話もそれなりに。春史くんのことになると辛辣なのは相変わらずだけど、関係は悪くないはず。
そんな感じで去年と違うところもありながら、おおむね平和な夏休みを過ごしていた。
一本の電話がかかってくるまでは。
着信音の鳴る我がスマホには、春史くんの名前が表示されていた。
震える手でタップし、通話を開始する。
『もしもし? 白峰さんですか?』
「どうしたの?」
向こうから聞こえてくる春史くんの声がいつもと違う感じに響いて、少し緊張する。
電波越しだからなのか、それとも本当にいつもと違うのか。
『急にすみません、今大丈夫ですか?』
「うん、平気」
なんだか不思議なやり取りだ。
むず痒い気分になって、もぞもぞしてしまう。
『あの、明日――は急ですね。来週、お時間ありますか?』
「別に、明日でも大丈夫だけど」
良かった、とスマホ越しに安堵の息が聞こえる。
なんだろう、何を言われるんだろう。
心臓がきゅっと掴まれた気分で、指先が冷たくなっていく。
『ええと、その……うちの両親が、ですね。貿易関係の仕事してるんですけど』
「うん」
『あぁいや違くて、あの、チケットもらってですね』
「はい」
『すみません、あー、えと、ちょっと失礼します』
「どうぞ」
深呼吸でもしているのだろうか、吐息が聞こえてくる。
耳元で聞こえるそれに、ぞわぞわと全身に震えが走った。
暫くして呼吸を整えたのか、息を呑む気配が伝わって、
『映画、行きませんか?』
ギュッ、と心臓が縮まった。
春史くんのご両親は貿易会社の重役である。
それは前から聞いて知ってたし、小百合さんからも聞いたことがある。そのことはいい。
その関係で、特に洋画のチケットなんかをよくもらうらしいのだ。輸入とか配給とかの関係でその辺ともつながりがあるらしい。それはいい。
前までは小百合さんか幼馴染の黒浜さんと見に行っていたらしい。好意を無下にするのもなんだし、大体二人の内どちらかが興味があったから。
そこはまぁ気になるところはあるものの、まぁいい。
今回久しぶりにチケットをもらったのだけれど、小百合さんの興味を引くものではなく、他に一緒に行く人もいないので誘ったとのことだ。
それは全然良くない。
なんで私なのか。ていうか小百合さんが興味あったら小百合さんと行ったのか。行っただろうな。で、小百合さんじゃなきゃ誰でもいいから私だったってことなのか。
良くない。良くないけど、チケットは無駄にできない。
彼がもらったチケットは全世界で有名なシリーズの最新作で、私も芸能に携わる者として興味がないわけでもなく、タダというならやぶさかでない。
そういうわけで、春史くんと映画を見に行くことになった。
夕太は今日も家におらず、父は仕事に出かけ母もパートに行っている。誰に憚ることなく私は家を出た。
今日は薄い青のロングワンピース。足元は白いサンダルで、夏らしい恰好を意識してみた。暑いからね、ここのところ。
少しつば広の帽子は色調を合わせて淡色系に。化粧もどうせ汗をかいたら酷い有様になるからナチュラルにとどめておく。
待ち合わせ場所には先に春史くんが来ていて、定番のやり取りを交わして早速映画館へと向かった。
「映画のチケットなんてもらったことないわ」
「昔は、皆もらうものだと思ってました」
そんなことあるわけないでしょ、と言えば、そうですね、と苦笑される。
私のよく知る春史くんがそこにはいて、なんだかほっとした。
この前から私の知らない彼ばかり見ている気がして、不安だったのだ。今日だって、いつもの彼なら私を誘ったりしなかっただろうに。
そのことに少し疑問を持ちながらも、そういうこともあるかと流した。
私と彼の距離だって、前とは違っている。心の距離が縮まるのと同じく、隣り合って歩く距離も近くなった。
そのことは、そんなに嫌じゃない。
だから、まぁ、今回のこれだってそういうのの延長線上なのだ。
久しぶりに入る映画館は独特の雰囲気があって、ワクワクしてくる。昼間なのにネオンみたいな装飾が光り、ポップコーンとアイスの匂いが漂っている。
パンフレット売り場にはカップルが二組ほど並んでいて、親子連れがはしゃぎまわる子供をなだめながら会場に入っていった。
「パンフレットいりますか?」
「そうね、せっかくだから」
頷いて最後尾に並び、パンフレットとドリンクを買って会場に入る。
ざわざわと騒がしかった場内が上映が近づくに連れて次第に静かになっていく。スクリーンでは映画の予告やCMなどが流れ、市松さん主演の映画の番宣もあった。
気分が壊れるので見なかったことにする。
場内が暗くなっていき、スクリーンの映像が鮮烈に目に焼き付くようになっていく。
この始まる前の瞬間が、私はなんとなく好きだった。
ドリンクを置こうとして、ふと何かが当たった感触がする。
視線を落とせば、春史くんの手がひじ掛けに置かれていた。
今、当たったのは。
何も見なかったことにして、ストローを啜る。
上映開始を告げるブザーが鳴った。
映画は本当に面白かった。
終始ドキドキしっぱなしだったし、最後のどんでん返しには驚かされた。シリーズものながら一作で完結するというスタイルの作品なので、十分に余韻に浸れたのも良かった。
映画の仕事っていうのも、いいかもしれない。
市松さんの映画もあったし、そっちの方面もやろうと思えば仕事を取ってこれるだろう。
いやなんかそんなミーハーな気持ちでやるのはいけないんじゃないかとも思うが。でも、興味が出たから頑張るって言うのもそんなに悪くないのでは……。
「面白かったですね」
「えぇ」
首肯すると、春史くんが嬉しそうに微笑んだ。
本当はもっといっぱい言葉を尽くして楽しかったことを表現したいのに、澄ました一言しか出てこない。
これじゃいけないと思って、必死に言葉を捻りだした。
「連れてきてくれてありがとう」
「いえ。良ければ、また行きませんか?」
驚いて顔を上げれば、真剣な顔の春史くんと目が合った。
社交辞令と捉えるのは難しいその表情に、小さく喉が鳴る。
「そうね。また機会があれば」
「良かった。じゃあ、また」
にっこりと微笑む彼の顔を見ていられなくなって、視線を逸らす。
なんだろう。なんだか今日の春史くんはいつもと違う気がする。
違うと言えば映画に誘うところからもそうなんだけど。どういうことなんだろうか。
「お腹空きませんか?」
考え込んでいるうちに、次の一手を打たれてしまった。
お腹。空いているといえば、空いている。
腕時計を確認すれば、お昼を少し過ぎたくらいだ。お店もそこまで混まない時間帯。
もしかして、とぼんやり想像していたら、
「何か食べたいものありますか? 久しぶりにハンバーガーとか」
妄想が現実になったのかと思った。
漫画とかドラマとかで見たことある、デートの定番コース。映画行ってお昼食べて、ゲーセンいったり服を見たり街をぶらぶらしてから帰る。
その流れが再現されようとしている。
いやいやいや、マジで!? どうしたの、春史くん!? あなたそんな人じゃなかったでしょ!?
ていうかこれはデートだろうか。デートでいいんだろうか。小百合さんや黒浜さんの代わりだったのではなかったのだろうか。
だとしたら小百合さんはともかく黒浜さんともデートしていたのだろうか。それは、なんだか、ちょっと気になる。
「……映画に行った後は、いつもそうしてるの?」
我ながら下手くそな質問に、春史くんは少し眉を上げて首を縦に振った。
「そうですね、たまに」
……なんだかびみょーな気分だ。
私が知らないだけで思ったより春史くんは女慣れしているのかもしれない。いやまぁ、身近にあんな子がいればそりゃそうなるかもとは思うけども。
「なら、黒浜さんに悪いんじゃない?」
「何がですか?」
不思議そうに首を傾げる春史くんに、ちょっとイラっとくる。
もう少し自分の胸に手を当てて考えてみてから発言してくれませんかねぇ!?
「彼女以外とデートしていたら怒られるわよ」
「だから、彼女じゃないですって」
肩を落として抗議する春史くんに、我ながら冷たい目を向けてしまう。
いやそんなん普通に彼女じゃない。映画行ってご飯食べてちょっと遊んで、とか普通にデートでしょうよ。
「定番のデートコースじゃない」
「いやまぁ、そうですけど。僕はそういうつもりはありませんし、昼食べたらそのまま帰ることも多かったですよ」
ため息交じりに言う彼に、少しだけ意地悪な気持ちが芽生える。
「今日は違うの?」
「違います」
即答され、言葉に詰まった。
真剣な目で見つめられ、いたたまれなくなってついと顔を逸らす。
「僕は、デートのつもりでいますから」
顔を逸らした分だけ、はっきりと耳に入ってきてしまった。
い、一体、どうしてしまったのだろうか。
彼はもう少し奥手というか、そういうことをはっきり言わない人だと思っていたのに。
心臓が痛いくらいに鼓動を速め、落ち着け、落ち着けと念じる。
なんとか平静を保とうと頭の中を漁っていると、ふとあの視線を思い出した。
バスの中の私を睨みつける、憎悪に塗れた視線。
黒浜 美夜。春史くんの幼馴染。
確かにすごく気になる存在だけれど、彼女の事が頭から消えてくれないのは別の理由もあった。
あの時聞いた気がするのだ。
気のせいだと思いたいけれど、どうしても記憶から消えてくれない。
私を見て、青ざめた顔で呟いたあの言葉が。
――ヒルダ――
私の前世の名を、彼女は呼んだ。
誰も知らないはずの、その名前を。




