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第三十九話「月に寄りそう少年の作法」

 物音がして、むくりと起き上がる。

 寝ぼけた頭で周囲を見回すと、ラルフがトレーニングウェアに着替えていた。


「おぅ、悪ぃ。起こしたか?」

「いや……そのカッコ、」


 続く言葉を出せずにいると、二人部屋の相方はにっこりと笑って、


「ちょっと朝練してくる!」

「あぁ……うん」


 それ以外に何も言えなかった。

 じゃーな、と手を振って出ていくラルフを見送って、邪魔くさい前髪をくしゃりとかきむしる。

 ぼすんとベッドに倒れこみ、盛大にため息をつく。


 昨日は、殆ど眠れなかった。

 目を瞑ると波のさざめきや頭の後ろに回された彼女の手の温度や、熱を持ったパーカーの感触が勝手に浮かんできて意識を手放せなかった。


 やってしまった。

 誰にも言うつもりなんてなかったのに。

 ただ、彼女の瞳が真っ直ぐで、僕なんかのことを気にしてくれたのが嬉しくて。

 自分でも知らないうちに弱っていた心は、彼女に甘えることを勝手に選択した。


 頭の中で何度も何度も昨夜のことがリフレインして、恥ずかしさの余り死にたくなる。ほんと、何やってるんだ。

 隠しておきたかったことを何もかも話してしまって、どんな顔をして会えばいいのか分からない。

 それに、耳元で囁かれた彼女の声や吐息や匂い、触れ合った手から伝わる体温が未だに生々しく残っている。今まで通り、自然に振る舞える気が全然しない。


 話している間ずっと握られていた手は今もまだ熱い。彼女の柔らかな指先がまだそこにある気がして、軽く拳を握った。

 ごん、とそのまま額に落とす。


「あ~……アホか、僕は……」


 部屋に一人きりなので、気兼ねなく独り言を呟ける。


 昨日、彼女の肩を借りて泣いた後。

 お互い何も言わずに手を繋いで、砂浜をホテルに向かって歩いた。

 細く華奢な指は『大丈夫』とでもいうようにぎゅっと僕の無骨な手を握りしめ、ホテルに着く前に自然に離れていった。


 はぁ、とため息が漏れる。

 どうしたものか。いや、どうもするものでもないけれど。


 勘違いをしてはいけない。彼女は芸能人で、実力も外見も中身も完璧な高嶺の花だ。

 甘く香しい蜜を吸えるのは、選ばれた者だけ。

 少なくとも僕なんかじゃない。


 ――何か勘違いしてるかもしれないけどさ。


 護堂さんの声が頼んでもいないのに蘇る。

 ぼうっと天井を眺めていたら、顔まで浮かんできた。


 ――覚悟がないなら、引いてほしい。邪魔なんだ。


 あの人なら、彼女の芳香に酔いしれることができるのだろうか。

 考えて、馬鹿らしいと一蹴した。

 そんなこと考えてどうする。どちらにせよ、僕には遠い世界の出来事だ。


 そう思うのに、優しく抱きしめられた感触が忘れられない。

 気遣うような掌のぬくもりも、真摯な響きの告白も。

 全てが、僕を特別扱いしてくれているように感じる。


 ――大切な思い出を大切にしていいんだよ。


 自分を責め続ける僕を許すように、彼女はそう言った。

 潤んだその瞳は今まで見たことがないくらい純粋な気持ちで染まっていた。奥にある芯の通った強さに、もたれかかりたくなった。


 ――大丈夫。誰も見てないよ。


 ように、じゃなくて。

 彼女は、僕を許せない僕の代わりに許してくれた。

 許して、暖かく受け止めてくれた。

 彼女の優しさに触れる度、溺れていきそうになる。どうしてそんなに優しくしてくれるのか、未だに僕には分からない。

 いや……本当は、うっすらと思うことはある。


 ――好きな人がいるの。


 昨日の彼女の告白は、全て事実だろう。

 嘘を吐く必要もないし、そんな雰囲気でもなかった。

 どんな人なのだろう。彼女の好きな人。ずっと昔に遠いところに行ってしまった人。


 僕は、多分、その人の代わりだ。


 見た目か何かが似ているのだろう。だから、彼女は僕に優しくしてくれる。

 分かってる。それだけだ。勘違いするつもりもないし、浮かれる気もない。

 始まる前から分かり切っている負け戦に挑む勇気は、僕にはない。

 昨夜のことはその延長線上で、『大事な友達』として聞いてくれただけのこと。


 ごろりと寝返りを打つ。

 手を伸ばしても届かないものをねだるほど子供じゃない。

 それでも、目を瞑ると夜の海と彼女の顔が浮かんでくる。

 もう一度起き上がって、思い切り前髪をかきむしった。


「みっともねぇ……」


 自嘲気味に呟いて、ベッドから降りる。

 もう寝る気も起きない。顔を洗ってシャツとズボンを替えて、ポケットにカードキーを突っ込んで部屋から出た。


 廊下に敷かれた絨毯からして高級品と分かる烏丸グループ傘下のホテルは、その立地の関係上シングルの部屋が殆どない。

 大体はファミリーかダブルの部屋で、サッカー部の面々は北海道と同じ部屋割りで過ごしている。

 オートロックのドアから手を離し、勝手に締まるのを背に早足で外に向かう。


 ラルフを見つけて一緒に朝練をしよう。

 何もしないより体を動かしていた方が良い。朝食の後は皆でまた海に出て、夕方になればホテルを引き払って帰る予定だ。


 家に帰り着いたら夢も見ないくらい眠りたい。

 階段を駆け下りながら、昨夜の残滓を消し去ろうと足掻くことに決めた。


 ※            ※           ※


 グラスにオレンジが添えられた映画でしか見ないようなリゾートドリンクを片手に、私はじっとりとした目で隣に座る真希を睨みつけた。


「パイセン、怒んないでくださいよー」

「怒ってません」


 ぴしゃりと言い切り、ビーチチェアに寝転がる。

 今日の我らサッカー部の遊び場は、ホテルの前に広がる見事な海辺だ。

 昨日はバーベキューもするためホテルから少し離れた場所で遊んでいたが、今日は夕方には帰る予定なので宿泊場所のすぐ近くとなったのだ。


 一般開放しているとはいえ、ホテルの真ん前。流石に普通の海水浴客はいない。

 背後に聳え立つクッソ高そうな――実際に一泊ウン万円とめちゃ高い――リゾートホテルに泊まることのできる経済力の持ち主達だけが、ドラマのように爽やかに遊んでいた。


 そんなわけで、昨日と違ってここは色んな設備があるし道具も簡単に借りれる。私と真希がくつろいでいるビーチチェアも日差しを遮る確実に高価なパラソルもホテルからの借りものだ。

 場にそぐわない高校生が集団で遊んでいるのを横目に見ていく人も時折いるが、大体の人は気にせず通り過ぎていく。


 この時期には見慣れた光景だということだろう。お金持ちの顔ぶれと言うのは基本的にあまり変わらないので、見たことのある人がちらほらと。毎年やってりゃ、そりゃ慣れる。

 少し驚いているのは奮発してやってきた人や、新しくお金持ちの仲間入りをした人達だと思う。


「めっちゃ怒ってるじゃないすかー!」

「違います」

「普段と言葉遣い違うっすよ!?」

「敬意を表しているのよ。私に似合う水着を選んでくれてありがとう」


 にっこりと微笑めば、真希はぐじゅぐじゅと顔を歪めながら私と同じドリンクを飲む。

 この程度の嫌がらせで済ませているのだから感謝してほしい。

 水着もそうだが、昨夜のリフティングゲームのことを許していないのだ。


 勝手に景品にされた挙句、デートをした女マネ達の反応は様々だった。花梨と同じように喜んでいた子、微妙な顔をしていた子、げっそりしていた子もいた。

 前触れもなく勝手な真似をするなと怒れば、だって盛り上がると思って、などという益体もない言い訳を繰り返す後輩への制裁としては生温いと思う。


 ……まぁ、私としてはそこまで悪くない夜ではあったが。

 春史くんの悩みも聞けたし、慰めることくらいはできたと思う。もう少しなんとかしたいとは思うが、他人の私が踏み込める問題でもなかった。

 大山くんと春史くんの関係を修復しようにも私にできることがあるとは思えないし、セブンのことはもうどうしようもない。

 後は精々、獣医になりたい彼の応援をするくらいが関の山だろう。


 このままでいいとは思ってないし、思えない。

 でも、何をどうすればいいかと考えても案が出てこない。

 それでも何も知らずにいるよりはよかったし、そのきっかけを作ってくれたことには感謝さえしている。


 が、それはそれ、これはこれ。

 真希にはしっかりお灸をすえてやらねばならない。


「さっきから通り過ぎる人が痴女を見る目をしている気がするわ」

「何言ってるんすか! パイセンがめちゃキレーだからっすよ!!」


 熱く拳を握りしめる真希に胡乱な目を向け、まぁいいかと寝転がる。

 このビーチに来るようなお金持ちは綺麗な人なんて見慣れているから、真希の言うことは見当はずれだと思う。が、わざわざ言うのも面倒くさい。


「さて、どうしましょうか。烏丸保育園の臨時バイトを一年間やるとか」

「勘弁してくださいっす!!」


 勢いよく頭を下げられ、つむじを見つめながらため息をこぼす。

 真希は子供が苦手だ。テンションが似てるから気が合うだろうと思っていたら、逆に扱いづらくて仕方がないらしい。

 この前七夕の時についてこなかったのも、もしかしたらそのせいかもしれない。

 邪険に扱えない上にあしらうことも難しい子供という存在は、ノリと勢いで誤魔化して生きる真希にとって天敵とも言えた。


 こういうところも前世と違うんだなぁ、と思うと少し笑える。

 前世ではむしろ、子供の扱いが得意だったのに。弟妹がいるから慣れているのだ、と語る少女の顔を思い出す。


 改めて真希の顔を見つめれば、全く似ていなかった。

 当たり前か。魂が同じなだけで、全くの別人なのだから。


「? どしたんすか、パイセン?」

「別に。じゃあ他に何がいいかしらね」

「何もなくていいっすよ~」


 嫌そうにつぶやきながらストローをすする姿は情けなくて、うっかり口角が上がってしまう。

 全くの別人であっても、前世でも今世でも可愛い後輩には違いない。


「マネージャーの子から何か頼まれたら、引き受けてあげなさい」

「りょっす! それで手を打つっす!」


 女マネ陣に貸し一つ、ということで今回は引き下がる。

 現金な笑顔を見せる真希に苦笑し、私もストローに口を付けた。


「ねぇ、君。ちょっといい?」


 不意にかけられた声に振り向けば、髪を染めた大学生らしき男の人が二人、私を見つめていた。

 なんとなく視線に嫌なものを感じ、腕を組む。

 今日はパーカーを着ていない。暑いし慣れてきたしで、もういいやと思って部屋に置いてきたのだ。

 少し小さめの水着は煽情的で、男二人の視線もすっと顔から下に流れる。

 ……見られるのには慣れているが、気分のいいものじゃない。


「何か?」


 尋ね返せば、二人組のうち短髪の方が人好きのする笑みを浮かべた。


「君達、あっちの彼らと同じグループ? こんなとこに団体さんなんて珍しいね」

「そうですか」


 素っ気なく切り返せば、少し鼻白む。

 今度は金髪でセミロンの方が女好きを隠そうともしない顔でビーチチェアに手を置いた。


「君、めっちゃ可愛いよね。モデルかアイドル? スタイルいいしモテるでしょ?」

「そうですね」


 ちらりと一瞥してドリンクを飲む。

 全く興味がないというのをこれ以上なく態度で示しているのに、二人組は諦める様子がなかった。


「俺らさ、二人できてんだけど。っぱ男二人だと寂しくてさー、せっかくのリゾートなんだし華やかにいきたいじゃん?」

「一緒に遊ばね? 退屈はさせないからさ」

「結構です」


 かわるがわる声をかけられるが、きっぱりお断りする。

 こういう輩は隙を見せるとすぐ食いついてくる。花梨と街に遊びに行った時には50%の確率で絡まれたものだ。

 街だと歩き去ればいいが、ここではそうもいかないのがちょっと難点だけど。


「そんなこと言わずにさ~、君達も暇してんでしょ?」

「せっかく水着着てんだから泳ごうよ。てか大胆だよね、それ」


 にやにやと笑いながら無遠慮に手首を握られ、思わず振り払う。

 あんたらに見せる為に着てるわけじゃねーっつーの!


「友達と来てますから」

「向こうの? てことは高校生?」

「うっそ、高校生じゃないでしょそのスタイル。彼氏いる? 俺とどう?」


 どうもこうもあるか。

 半分キレそうになって睨みつければ、二人組の顔が歪む。


「パイセン」


 小声で真希に囁かれ、深呼吸して気を落ち着ける。

 こんなとこで騒ぎを起こしたくない。向こうだってそうだろうし、私が冷静にあしらえばいい話だ。


「んだよ、いいじゃねーか」

「俺達百戦錬磨よ? 同年代のガキよりばっちりいいぜ?」


 下世話な視線を注がれ、冷静になろうとしていた頭が吹っ飛んだ。

 罵詈雑言をくらわせてやろうと口を開き、


「すみません、連れに用ですか?」


 聞こえてきた声に、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 声のした方を向けば、春史くんがいた。

 普段と変わらない――よりちょっと真顔で、すたすととなんてこない足取りで二人組の間を抜けて私の前までくる。


「どうかしましたか、白峰さん」

「……別に」


 なんとなく顔を合わせづらくて視線を逸らせば、そうですか、と頷かれた。


「それで、何か御用ですか。獅子紙製鉄の次男さんと北電羽鳥取締役の長男さん」


 さらりと言ってのけた春史くんの言葉に、二人組がびくりと肩を揺らす。


「お、お前、なんで知って……!?」

「以前、どこかの会場でお見掛けしたことがありまして」


 その言葉に短髪の方がはっとした顔をして春史くんの顔を見る。


「お、おま、海藤貿易の!」

「父がお世話になっています。ご両親にお会いする機会に恵まれましたら、ご子息にお世話になったとお伝えするよう父に頼んでおきます」


 びしりと二人組の顔が固まり、どちらからともなく小走りに逃げ出していった。

 その背中を見やり、ほっと安堵の息をつく。


 面倒くさかった。全く、こんな水着を勧めた真希のせいだ。

 振り向いた春史くんにお礼を言おうと、


「暮石センパイマジキャパいっす! なんすか今の!?」

「あぁ、うん。ちょっとどこかで見た顔だと思ったから」


 ……真希、あとで説教。


 目を輝かせる真希になんでもないように応える春史くん。つか、やっぱ金持ちのドラ息子だったか。変に自信があったし、納得。

 そういえば最近忘れてたけど、春史くんもかなりのお金持ちなんだった。ラルフといいそうは見えないけど。

 きゃいきゃいとはしゃぐ真希をジト目で見つつ、お礼を言うタイミングを逃した気がして寝転がる。


 海でナンパされるのは初めてじゃないけど、あんな誘われ方は初めてだ。しつこく迫られたのも。

 大人になるにつれてあぁいうのが増えるんだとしたら、対策が必要だなぁ……といっても、何も思いつかない。

 護身術なら前世の分が身についているが、流石にそれで追い払うのもどうか。……あんまりしつこいなら少しくらいいいかな?

 ぼんやりそんなことを考えていると、急に真希が良い笑顔でこちらを向いた。


「じゃ、パイセン! あーしちょっと遊んできますね!」

「……いってらっしゃい」


 悪だくみするような笑顔に裏を感じつつも、そのまま見送る。

 一人でここにいるとまた絡まれそうだし、花梨のところにでも行こうかな。


 軽く身を起こすと、視線を感じて顔を上げる。

 ドリンクを置いた机を挟んで直立する春史くんが、じっと私を見つめていた。

 どことなく居心地が悪くなって、水着を隠すように腕を組む。


「……隣、いいですか」

「……どうぞ」


 律儀に聞かれて断る理由も思いつかず、頷く。

 ていうか、別に普通に座ればいいのでは。何故私に聞く必要が。

 ぎしり、とビーチチェアがきしむ音が聞こえて、耳を塞ぐ代わりに思いっきりストローを吸う。


 さっきまで真希がいた場所に春史くんがいる。

 なんだか落ち着かない。

 昨夜はもっと近くにいたんだからこのくらいなんてことない、と冷静な私が頭の片隅で囁く。

 そうなんだけど、と反論になってない反論をして、ドリンクをテーブルに置いた。


「余計なお世話でしたか?」


 躊躇するような声に驚いて見れば、春史くんが眉根を寄せていた。

 さっきのことか、と三秒くらいしてようやく思い至る。


「ううん、ありがとう。助かった」

「なら、よかったです」


 それだけ言って彼は視線を空に向ける。

 私も倣って同じように空を見上げた。


 雲一つない快晴。連日更新される過去最高は今日も更新され、ピーカン照りの太陽がパーカーを着てこなかった選択肢は正しいと言わんばかりに輝いている。

 遠くには波の音と、部員達の笑い声。

 その中にはラルフや花梨のも紛れているだろう。聞き分けるのはちょっと難しい。

 空の青は、海の青とは少し違って見えた。


「……昨夜は、すみませんでした」


 蚊の鳴くような声でぼそりと呟かれ、聞き間違いかと思って視線を横に向ける。

 顔を背けた春史くんの横顔が見えた。

 見間違いでなければ、太陽熱に照らされたその頬は紅く染まっていた。


「あの……あれは……いえ、なんでもありません」


 何かを言おうと口をもごもごさせ、結局何も言わなかった。

 なんとなく予測がついた行動に、ほんのり胸が温かくなる。


「昨日みたいに普通に話してくれていいのに」

「いえ、その、すみませんでした」


 途中から敬語も丁寧語もなくなって、一気に距離が縮まった気がした。

 けれど、それはやっぱり春史くんにとっては恥ずかしいことらしい。

 いつかまた、あんなふうに話してくれればいいなと思う。


 話が切れて、また沈黙が落ちる。

 夜と昼では、海は違う音を奏でる。寄せる波も騒がしく聞こえるし、何より人の声がある。

 でも、遠く水平線で同じ色が交わるのは同じだった。


「……セブンが亡くなったのって、夏?」

「はい。今日みたいに暑い日でした」


 そっか、と返す。

 夏の大会の後だからそうだろうなとは思っていた。昨夜は具体的にいつかは聞けなかったから。


 一日経って、後悔してるんじゃないかと思った。

 私に話したことを、なかったことにしたいんじゃないかって。

 確かめるような質問をしたことを、少しだけ良心が咎めた。


「来週なんです。命日」


 来週、とオウムみたいに呟く。

 もしかして、と思って尋ねてみる。


「お墓とか、あるの?」

「はい。セブンだけのじゃなくて、うちのペット全員の、ですけど」


 そっか、と頷く。

 小百合さんが昔から動物を拾う癖があったらしいし、春史くんもたまに拾うらしいから一匹ずつには作っていられなかったのだろう。

 それでもちゃんとお墓を作るあたり、暮石家らしいと思う。


「お墓参りするの?」

「えぇ、毎年セブンの命日に」


 他の子に申し訳ないとは思います、と言う春史くんに、私は首を横に振った。

 例えば私だったら、リリィのついででもお墓に来てくれたら嬉しい。私と暮石家のペットを同じ扱いするのもどうかと思うけど、そういうものだろう。


 そっか、毎年行ってるんだ。

 セブンがどれだけ春史くんの根っこに関わっているのか、改めて思い知らされる。


「……獣医になりたいのって、セブンの為?」


 返答が止まった。

 心臓がどくどくと音を立てる。


 相手の内側、大事なところに踏み込んでいる自覚はあった。

 けれど、昨夜のあれでそこに入ることを許されたのだと思った。

 でも、それはもしかして私の勘違いだったのだろうか。

 そう思うくらいの間が過ぎて、


「最初は、そうでした」


 思ったよりしっかりした声で返事がきた。

 驚きを表に出さないようにしつつ、耳を傾ける。


「セブンの苦しみにもっと早く気づけたら。最初はその後悔を解消するためだけに獣医の勉強をしました。動物病院に見学に行ったりとか、講演を聞いたりもして……いろんなことを知って、少しずつ思うようになったことがあるんです」


 春史くんの声は、私にしか聞こえないくらい小さなもので。

 それでも、その中に潜む力強さを感じていた。


「僕が頑張れば、誰かの大事な子を救えるかもしれない。寿命はどうしようもなくても、別れの時間を作るくらいはできるかもしれない。実際、僕はあの獣医さんのおかげでセブンと最後の時間を過ごすことができました」


 小百合さんに勧められて行った動物病院。

 そこで、無理をさせないよう介護の仕方を教わったという。

 セブンと春史くんの一週間は、何物にも代えがたいものだっただろう。


「そういう、人と動物の助けになれたら……そう、思うようになったんです」


 動物の気持ちは分からないですけど、と苦笑して付け足す。

 私も口の端だけあげて、軽く言った。


「大丈夫、人の気持ちだって分からないから」

「……そうですね」


 ほんとそうです、としみじみと春史くんが呟く。

 彼はきっと、自分やセブンと同じような子を救いたいのだ。そうすることで、過去の自分を救いたいのだろう。

 後ろ向きな理由だ、と人は言うかもしれない。それはそうだと私も思う。

 でも、誰も過去からは逃げられない。なかったことにはならない。だから、それを受け止めて、どうするかを決めるしかない。

 その道の一つに、春史くんが選んだような形だってある。私は、そう思う。


 彼にそこまでの覚悟を決めさせたセブンが、少しだけ羨ましい。

 私の死は、きっと誰にもそんな影響を与えなかっただろうから。


「セブンに会ってみたいな」


 ぽつりとつぶやいた言葉に、自分で驚く。

 もう亡くなっているのに、どうやって会うのか。分かっているのに、感傷に浸りすぎて口をついてしまった。

 恐る恐る春史くんの顔を窺えば、凪いだ表情をしていた。


「じゃあ、会ってみますか?」

「えっ?」


 驚いてまじまじと彼の顔を見つめると、苦みの混じった優しい笑みを向けられる。

 胸が苦しくなる。

 かつて、私がずっと見つめていた笑顔。

 私がどんな我儘を言ったって、決して怒ることなく向け続けてくれたもの。


 アルフォンスと瓜二つの笑顔が、静かに私を見つめていた。


「おーい! お前らも一緒に泳ごうぜ!!」

「ひーちゃ~ん!!」


 ラルフと花梨が走り寄ってきて、春史くんは弾かれたように立ち上がる。


「今行きます!」

「あっ、えっ?」


 私はあまりの変化に対応できないまま、花梨と真希に連れられて海に入った。

 さっきのことなんて何もなかったように、春史くんはいつもの笑顔でサッカー部の面々と遊び始めた。


 置いてけぼりをくらった気分で何とも言えない気持ちを抱えたまま、私は花梨やマネージャーの皆に請われるまま泳ぐ。

 結局最後のアレはなんだったのか分からないまま、夕方が来て家路についた。



 そして、家に帰り着いた頃合いを見計らって、春史くんからチャットが飛んできた。

 そこに書かれていたのは、お墓参りの日程と待ち合わせ場所だった。




 あっという間に一週間が過ぎた。

 夏休みと言えば娯楽産業にとっては稼ぎ時であり、雑誌では特集がバンバンと組まれる季節である。

 まぁ、もうとっくにそれ用の写真は撮っているのだが、月末に発行する分やらなにやらでスケジュールは詰めようと思えばいくらでも詰められる。

 夏休みは暇だろうと社長もここぞとばかりに入れてくるのだ。許すまじ。


 そんなふうに仕事をしたり課題をやったり花梨の面倒を見ているうちに、気が付いたら一週間が経っていた。

 学校がある時よりも夏休みの方が時間の流れが早い気がする。いやこれ絶対気のせいじゃない。もっと遅くていい。


 待ち合わせ場所は、駅前広場。

 お墓参りに行くのだからそれらしい格好をしなければならない。それなりに歩くとのことなので、足元もしっかりと。

 暑い日に黒は嫌なので、グレーのオフショルダーにフレアデニム。足はブーツでしっかりと固定した。


 時間には余裕を持っていたはずなのに、出かける直前になって執拗にどこに行くのか聞く夕太をかわしたりナチュラルっぽいメイクになるよう苦心しているうちに危険領域に突入してしまった。

 流石に今日ばかりは夕太にも行き先は言えない。頑なに明言を拒む私を訝しむ弟を煙に巻くのは骨が折れた。


 少し早歩きで向かえば、既に春史くんが到着していた。

 シンプルなシャツとスラックスの組み合わせに、小さめのリュック。これだけ気安い恰好の春史くんは初めて見たかもしれない。


 ……私、大丈夫だろうか。動きやすい服を選んだつもりだけど、なんか一人キメッキメになってたりしないよね? 大丈夫だよね?

 呼吸を整えて、歩く速度を戻して小さく手を上げる。


「春史くん」

「おはようございます」


 おはよう、と挨拶を返して隣に立つ。

 大丈夫、そんなに変じゃないはず。普通、普通。


「今日はデニムなんですね」

「スカートだと歩きにくいと思って。駅から離れてるんでしょう?」

「えぇ、それなりに。ありがとうございます」


 いつもの微笑みを浮かべる彼に頷き返す。

 よし、間違いじゃなかった。


「それじゃ、行きましょうか」

「電車はどっちに乗るの?」

「大宮方面です」


 並んで歩きながら、行き先についての話をする。

 電車で一時間揺られ、更に一時間ほど歩いた先にあるペット霊園だそう。前の家から考えると今よりも近いが、それでも電車で40分ほど揺られなければならないらしい。


 もっと近い場所にすればいいのにと考えて、すぐにそれを恥じた。

 もしお墓が近かったら、多分春史くんはずっと通っていただろう。

 それは、あまり良いこととは思えない。経緯も考えると尚更だ。ご両親としては、少し遠い場所に置いておきたかったはずだ。

 それに、ペット全員分となれば今後の事も考えるとそれなりの大きさが欲しかったはず。地価が安いところを探した結果なのだと思う。


 霊園の管理人さんは、住職も兼任しているそうだ。

 やっぱりそういう業界として繋がりがあるのだろうか、と言えば、そうかもしれないと苦笑された。


 窓の向こうの景色に、段々建物が少なくなっていく。

 目的地に到着する前には、長閑(のどか)な田園風景が見えた。



 春史くんと初めて二人きりで遠出していることに気づいたのは、電車を降りて改札をくぐってからだった。

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