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第三十八話

 さく、さく、さく。

 夜の砂浜に二人分の足跡が刻まれる。


 一歩半分の距離を置いて、私は春史くんの後ろをついて歩いた。

 手持ち無沙汰でなんとなくパーカーの裾を掴む。脱いで真希に預けたはずのそれは、デートの前に春史くんから渡された。「夜は少し冷えますから」って。


 実際には海辺と言えどそんなに寒くない。今年の八月は過去最高の大安売りで、熱帯夜でない日がないほどだ。今も軽く汗が出るくらいには蒸す。

 それでも、春史くんと二人きりの状況ではめちゃくちゃ有難い。こんな派手な水着で堂々としていられるほど図太くないのだ。

 今更ながらに真希の口車に乗せられなきゃよかったと思う。後悔先に立たず。


 考えれば考えるほどパーカーの下がこの水着って自分が痴女みたいに思えて、春史くんの隣を歩く勇気が出ない。なので、さっきから一歩半斜め後ろに下がって歩いている。

 前を歩く彼もずっと無言で、もしかしたらこの状況が不満なのかもしれないと思う。私とデートなんてしたくなかったのだろうか。


 いやなんか私とデートしたくて普通みたいな考えになってるが、そういうわけでなく。嫌われてるわけじゃないと思ってたけどそうじゃなかったのかもとか、実は彼女が元の学校にいたりしてとかそういう可能性を感じたり感じなかったりしているわけで。

 ダメだ、自分が何を考えているのか分からなくなってきた。


 夜の海が静かすぎて、変な考えばっかりが浮かぶ。

 気分を変えようと首を傾ければ、空と海の境界線が分からないくらい黒一色に染まっていた。

 じっと見ると、星が海に映ってきらきらと輝いている。遠くで空と海は一つになって、天地の境が消え去ったような錯覚に陥る。

 そう言えば、昼の海の色は空の青さを反射したものでもあるって聞いたことがある。


 空は海で、海は空。

 大地に区切られなければ、二つは分かたれることはなかったのだろうか。

 私の、前世と今世のように。


 記憶に区切られて分かたれた二つの人生は、思い出さなければ一つのままだったかもしれない。いや、逆かな。

 思い出したから、二つを一つみたいに思うのかな。そうじゃなきゃ、二つの人生が交わることなんてなかった。


 空が空で、海が海であるように。

 別物だと、分かっているんだけれど。

 春史くんが春史くんで、アルフォンスがアルフォンスであるように。


「白峰さん」

「はいっ」


 物思いに耽っていた頭が、その声で急に現実に引き戻される。

 反射的に動いた視線の先で、春史くんが自販機を指し示していた。


「何か飲みますか?」

「あ、え、はい」


 どう反応していいか分からず、とりあえず頷く。

 喉が渇いている気もしたし、この無言の間を埋めてくれるならなんでも大歓迎だ。飲み物を口に含んでいれば喋らなくてもおかしくない。……すぐになくなりそうな気もするけど。


 一歩半の距離を置いて二人で近づけば、SALEと書いてある安っぽい自販機には定番の商品が並んでいた。

 その中でもひときわ目立つ『新商品』のポップがあって、それを見た私は思わず顔をしかめてしまう。


 定番シリーズの、ブルーマリン味。

 とうとう放映が開始してしまった、私と市松さんのCMの商品。


 平穏無事に過ごしていきたい私にとって、やむを得ないとはいえやっぱりあのCMはきついものがある。ネットでも早速『市松さんと一緒に出ていた女は誰?』と話題になってるし、学校に行けば好奇と敵意の視線に晒されるのは免れないだろう。

 今のところ私と気安く連絡を取れる人で聞いてくる人はいないが、時間の問題だろう。今日なんか女マネ達からたまに何か聞きたそうな視線を送られたもの。TPOを弁えてくれる子達で良かった。


「何にしますか?」


 春史くんに尋ねられ、慌てて視線を動かしてどれにするか考える。

 炭酸は論外だし、かといってそれ以外にいい商品もない。いっそお茶にでもしようかと考えたところで、


「やっぱり、これにしますか」


 そう言って指し示されたのは、露骨に強調された新商品だった。

 私が何を言う前にさっさとお金を入れて、ピッピッと二本買ってしまった。

 ごとん、と取り出し口に落ちたペットボトルを拾い上げて、差し出される。


「どうぞ」

「……ありがとう」


 一応お礼を言って受け取る。

 春史くんは眉一つ動かさず自分の分を取り出した。


 なんか、ちょっと強引じゃない? ていうか、『やっぱり』って何よ。そのラインナップの中で一番選びたくなかったんですけど。


 浮かんだ文句を嚙み殺して、ペットボトルに口をつける。

 美味しくてなんだかすごく腹が立った。

 春史くんはさっきから表情が少しも動かない。真顔のままだ。

 だから、何を考えているのかよくわからない。


 ペットボトルの蓋を開けて、軽く傾ける。張り出した喉仏が飲み込むたびに上下に動いて、男の人なんだなぁとぼんやりと思う。

 市松さんにも喉仏あったっけな。いや、ないはずないよね。よく見てないからわからなかっただけで。

 視線が下に滑る。骨ばった鎖骨と広い肩、細身だけど筋肉質な体はサッカーするのに向いてそうだ。

 ゆったりめのサーフパンツから覗く足はしっかり太くて、上半身に比べても筋肉でごつごつしている。この脚でインハイを駆け抜けたんだと思うとなんだか感心してしまう。


 アルフォンスと似てるのかな。

 こんな裸同然の格好なんて見たことないから、分からない。

 ただ、カッコイイとは思った。


 さく、さく、さく。

 二人してなんとはなしに砂浜に戻り、再び足跡をつけていく。

 さっきまでと違うのは、時折お互いの喉が動く音がすることだ。


「CM、見ました」


 急に声をかけられて、肩が震えてしまう。

 CM。ほぼ間違いなく、今飲んでいるこれのことだろう。


「……僕は、芸能とか良く分からないんですけど。良いCMだったと思います」

「……ありがとう」


 複雑な気分でお礼を言う。

 良いCMになるよう頑張ったからそれは嬉しいんだけど。でも、春史くんに市松さんと良い雰囲気のあれを良かったと言われると唇が尖りそうになる。

 前世と同じで、私のことなんて特になんとも思っていないのだろう。


「良い雰囲気で、次が気になります。市松さんともお似合いでした」


 流石にカチンときた。


「そう」


 端的に応えて、一歩半分の距離を詰める。

 春史くんの肩がびくりと震える。それに気づかないふりをして、ブルーマリン味を飲んだ。


「あんまり嬉しくない」


 隣の春史くんの気配が揺れる。困っているような、戸惑っているような。

 半分固まったまま歩く春史くんの歩調に合わせながら、息を吸った。



「そんなことより、何に悩んでるか教えてもらえた方が嬉しい」



 勢い任せに口にした言葉は、思っていたよりも夜に響いた。

 ぴたりと春史くんの足が止まる。

 彼の方を見ないようにして、そのまま数歩先まで進む。


 息を吸う。勇気を出せ。前世でできなかったことをしろ。

 せっかく得られた今世でまで、後悔を残して生きたくはない。

 大丈夫だ、杉本さんの相談には乗れた。大したことはしてないが、そういうものだ。


 キャスリンも、ジェラルドも、エッジも、前世とは違う関係を築けている。花梨やラルフを、大事にできていると思う。

 だから、アルフォンスの春史くんだって、大事にできるししたい。

 暗闇に紛れて吐息を漏らした。


「座らない?」


 春史くんを真っ直ぐに見つめて、その場に腰を下ろす。お尻に砂の感触がした。

 じっと待っていると、ゆっくりと近づいた彼が恐る恐る私の隣に腰を下ろす。

 まるで人を警戒する野良犬のようだ。口の端が歪むのを必死に堪える。ここから先は真面目な話をするのだから、変に笑ってはいけない。


 今までずっと、触れてこなかった部分に触れようとしている。

 それを意識すると、自然と顔が引き締まった。


「祝勝会の時から、少し変だなって思ってた」


 隣の春史くんの顔は見ない。見れば、言葉が出なくなるかもしれないから。

 触れてほしくないなら、こちらが言い終わった後にそう言って欲しい。


「どこか気落ちしてるように見えて、でも理由が分からなくて。閉会式の後から祝勝会までの間に、何があったの?」


 言い切って、ようやく彼の方を向く。

 眉間に皺を寄せて、今にも泣きそうに顔を歪めていた。


 今まで見たこともない表情。彼が泣くところなんて、一度も見たことがない。

 私の下敷きになった時でさえ、涙の一つも流さなかったのに。

 潤んだ瞳の端に浮かぶのは、確かに涙の雫だった。


「……大事な、友達がいたんです」


 一瞬のような、永遠のような。

 逡巡する彼の心を表すかのような間が空いた後、春史くんはそう言った。


「サッカーが好きだったんです、本当に。でも、僕は何もかもに背を向けた」


 苦しそうに呟く彼に何も言えず、私はただじっと話を聞いた。

 気が付けば、少しでも楽になるよう地面についた手に私の手を重ねていた。


 落ち着くように、人の暖かさが伝わるように。

 彼は、その手を振り払おうとはしなかった。



――春史くんは、子供の頃からサッカーが好きだったらしい。

 きっかけは、お父さんが買ってきてくれたサッカーボール。昔から家を空けることが多かったご両親のプレゼントに、彼は夢中になった。

 お姉さんは体が弱いからあんまり一緒に遊べない。家族相手に溜まっていたフラストレーションを、すべてボールにぶつけた。


 サッカーさえできれば、寂しくない。両親がいなくても、姉が部屋にこもりきりでも、ボールを蹴っていれば何もかもを忘れられた。自分の気持ちでさえも。

 地元のサッカークラブに入るという選択肢もあるにはあったが、元々人見知りの気がある彼は自分が上手くやれるとは思わなかった。

 それに、ただボールを蹴っていられればそれでいいのだ。本格的にサッカーをしようという気にもならなかった。


 気が変わったのは、七歳の頃。

 一匹の野良犬を拾ってきてからだった。


 その野良犬は薄汚れてみすぼらしく、子犬と言うほど小さくもないが成犬というほど大きくもなかった。

 その時、春史くんは生まれて初めて野良犬というものを見たらしい。

 人間である自分を警戒するように低く唸るが、決して大きな声をあげない。保健所に連れて行かれることを理解していたのだろうか。それとも、他の仲間が連れて行かれる様でも見たのだろうか。

 怯えと恐れに揺れる野良犬の瞳は、彼から一瞬たりとも離れない。彼もまた、野良犬から目を逸らさなかった。


 たった一匹で、薄暗い路地裏のはざまに佇む犬。

 春史くんは、そこに自分と似た匂いを感じ取った。


 たった一人で生きていく悲しさを、野良犬の瞳の奥に見てしまう。

 放っておくという選択肢は、選べそうになかった。


 その日から数日、春史くんはその野良犬と会った場所を必ず訪れた。

 そして、野良犬は何故かずっとその場にいた。

 最初は、ポケットに入れていたビスケット。次の日からは、コンビニで買ったカルパスやジャーキー。

 ゆっくり、慎重に、彼は野良犬を餌付けしていった。


 通い始めて一週間。

 とうとう野良犬は彼に気を許し、路地裏から出て彼の手から餌を食べた。

 撫でれば抵抗しない。抱えようとしてもされるがまま。

 それは確かに心を許したところもあったのだろうが、実は限界だったのだろうと思う。ろくな餌もなく、人間に見つかれば命が終わる生活。それに、疲れ果てていたのではないか。

 それならいっそ、この変な子供に捕まろう。そう思ったんじゃないか。

 犬の気持ちなんて、分かるわけもないけれど。


 彼は野良犬に『セブン』と名付けた。七歳の時に見つけたから、『セブン』。安直だけど、きっと名前の由来は誰にもバレない。自分と『セブン』だけの秘密の暗号だと、ひっそりと胸を張っていた。

 暮石家は元々姉がどこからか動物を拾ってきては飼うこともあったし、家にこもりがちな彼女の為にと両親もペットを認めていた。

 セブンをペットにすることは、特に誰からの反対もなかった。


 動物病院に連れて行き、診察を終えて家に連れて帰る。そこからの日々は、常にセブンと共にあった。

 朝起きてから夜眠るまで。学校に行く時間以外はセブンといつも一緒で、サッカーも一緒にやった。

 ボールを蹴ればすぐにセブンが反応し、春史くん目掛けて蹴り返す。器用にボールを操るセブンに、彼は誰かと一緒にサッカーをすることの楽しさを知った。


 それから、ふと思うようになったのだ。

 誰かとサッカーをしたら、どれだけ楽しいのだろうか。

 ただボールを蹴るだけでなく、スポーツとして真剣にサッカーをしてみたら、自分はどれだけやれるのだろうか。


 日に日に大きくなる気持ちを抑えきれず、小学四年になった年、彼はサッカー部に入部した。

 その時に出会ったのが、同学年の大山(おおやま) (しょう)だった。

 明るく負けず嫌いな大山くんと彼ではだいぶ性格が違ったが、だからこそウマが合った。二人とも心底サッカーが好きだと言うのも大きな理由だったと思う。


 友達と一緒にサッカーをするという楽しみを知った彼は、ぐんぐん成長し頭角を現した。そして、一年後にはレギュラーの座を勝ち取ったのだ。

 その頃から、彼は先輩のやっかみにあうようになった。そんな時一番に守ってくれたのは、大山くんだった。

 気が付けば二人は親友といっても差し支えない関係となり、六年時には大山くんもレギュラーとなり、二人のコンビで全国大会まで駒を進めた。

 一躍有名人となった二人は同じ中学に通い、中学でもサッカー部に入る。全国制覇を目標に、チームメイト達と練習に明け暮れる日々を送っていた。


 楽しかった。毎日が輝いていた。不安も恐怖もなく、ただ真っ直ぐに走っていればそれだけでよかった。

 辛い練習も、悔しい敗北も、いつだって大山くんやチームメイト達が一緒にいた。それだけで、全ては明日の為の力となった。

 いつしか、このメンバーで全国制覇をすることが春史くんにとって何よりの夢となっていた。


 その思いが強くなるほどに、彼が家に帰る時間は遅くなっていった。

 練習、ミーティング、その後の仲間同士の他愛ない話。それが楽しくて、家から足が遠のいていた。

 どうせ家に帰っても両親はいないし、姉は部屋に籠り切り。一人ぼっちでしかないのなら、友達と一緒にいる方が良い。


 そう、思っていた。

 家で待っているセブンのことも考えずに。


 その時暮石家で飼っていたのはセブンだけではない。今も家にいる子だと、ゾフィーもいた。ただ、姉が拾ってきたゾフィーは姉の部屋からあまり動こうとしなかったが。

 だから、セブンは大丈夫だと勝手に思っていた。同じペット仲間がいるんだから、と。


 中学二年の全国大会を経て、その気持ちは更に加速した。

 実は、春史くんとラルフは中学時代に二度会っている。敵同士として。

 中体連の全国大会である『全中』ではなく、クラブチームも交えての本当の日本一決定戦である『高円宮杯』の方で。

 全中で惜しくも準々決勝敗退をした春史くん達は、高円宮杯での雪辱を誓っていた。その時、二回戦の相手として現れたのがラルフ擁するチームだ。

 ラルフの噂は彼らも聞いていた。だから、最初から全力で戦った。

 結果は、圧倒的な敗北だった。

 6‐0。手も足も出ずにやられた。


 生まれて初めての屈辱だった。それまでは、負けるにしても食らいつけてはいたのだ。それが、ラルフには歯牙にもかけられなかった。

 そして、ラルフ達はそのままあっさりと優勝した。昨年に続いての連覇で、中体連所属チームが連覇を果たすのは史上初めてのことだった。

 あんな化け物チームと当たったのが悪かったのだ、と慰める大山くんの声も彼の耳には届かなかった。

 それから、彼はますます家に帰らなくなった。

 家に帰るのは寝る時だけというように、寝食を惜しんで練習に励んだ。


 だから、気が付かなかった。

 大事な存在が少しずつ変化していることに。


 彼に引きずられて猛練習をするようになったサッカー部は躍進を遂げ、中学三年の全国中学校サッカー大会、略して『全中』では地区大会を快勝。県大会を危なげなく突破し、二年連続で全国大会へと歩を進めた。

 一回戦、二回戦ともに辛勝を収め、迎えた忌まわしき準々決勝。

 そこで当たったのは、奇しくもラルフのチームだった。

 高円宮杯での雪辱を果たさんと立ち向かった春史くん達は、二点を取る快挙を見せた。

 だが、ラルフはやはりレベルが違った。

 圧倒的な運動量と的確な戦術。フィールドを見渡すセンスとその先を予測するプレイに翻弄され、結局のところ敗北した。


 4‐2。

 去年よりはマシな数字だと慰められ、頷くしかなかった。

 格の違いを見せつけられた。多少なりと上手いと思っていたプライドは粉々に打ち砕かれ、春史くんは試合後しばらく放心状態だったそうだ。

 ただ、大山くんに励まされ、高校での雪辱を誓うと元気を取り戻した。

 本当は三年の冬に高円宮杯もあるのだが、高校受験を控えているので無理はできない。先生方も首を縦に振らないだろうし、自分が出ると言えば他のチームメイトも出ると言い出すだろう。彼らを巻き込むわけにはいかない。

 一息つくしかなくなって、ようやくそこでセブンのことを思い出した。


 久しく顔を見ていない気がする。家には一応帰っているのに、触れ合った記憶が全くなかった。

 久しぶりに見たセブンは、お気に入りのクッションを敷いてぐったりと眠っていた。


 起こすのも悪いかと思ってサッカーをしに行き、夜になって家に帰る。

 それでもまだ、セブンは眠っていた。

 流石におかしいと思い、姉に相談しに行く。

 話を聞いた姉は、すぐに病院に行くようにときつく言った。

 慌ててセブンを抱えて病院に向かえば、もう外来は終わったと言われてしまう。緊急だとお願いして、どうにか見てもらえば「肺炎ですね」と言われた。


 それは、まるで死刑宣告のように聞こえた。

 そこから先も獣医の先生の話は続き、要約すれば『寿命』だということだった。年を取れば弱くなる。若い頃の無茶が出てくるというのもよく聞く話で、犬も同じだということだった。


 老衰と肺炎で衰弱し、もう目も開けられない。

 セブン、と名を呼ぶ。

 瞼がぴくりと反応し、うっすら開いた瞳が自分を見る。

 その瞳はとても穏やかで、胸の奥がかき回されるような痛みが走った。

 口を半開きにして何かを言いたそうにしていて、そっと耳を近づける。

 セブンの舌がぺろりと耳たぶを舐め、まるであやすようにそっと前足で頬を撫でられた。


 涙が出た。

 もう何年、ほったらかしにしていたのだろう。

 休みの日には散歩くらいしたことはあるが、そのくらいだ。何年も何年もずっとサッカーに夢中で、セブンのことは頭から消えていた。


 初めて会ったあの日、この犬は自分と同じだと思った。

 誰にも放っておかれた、寂しい一人ぼっち。

 そう思ったから、拾って家族になろうと思ったのに。


 両親のように、自分もセブンを放っておいた。

 自分が一人ぼっちじゃなくなった途端、同じだったはずのセブンを一人ぼっちにした。

 自分ばっかりが楽しくて、それだけで満足して、拾ってきた命の事を何も考えていなかった。

 セブンは、こんなにも優しくしてくれたのに。

 一人ぼっちだった自分に、誰かとサッカーをする喜びを教えてくれたのに。

 どうして、こんなに大事な友達を思いやってやれなかったのか。


 病院から家に帰り着き、一睡もせずにセブンを看病した。

 その日から、学校を休んでずっとセブンの傍にいた。

 セブンは一日のほとんどを眠っていて、起きている時も薄目を開けているような状態だった。薬もろくに飲めず、食事もとらない。

 無理に流し込んでも良くないと獣医の先生に言われたから、何もせずに寄り添った。無力な自分が憎かった。


 セブンは、全てを分かっているようだった。自分の体のことも、飼い主のことも。

 春史くんとセブンは、ただ静かに時を過ごした。今まで離れていた時間を埋めるように。


 一週間後。


 セブンは、死んだ――



「その日からしばらく、どうやって過ごしていたか記憶がありません。ただぼうっとしていたような気もするし、寝ていたような気もします。意識がはっきりし始めたのは、セブンが死んで二週間が経った頃でした」


 重ねた掌をきゅっと握る。

 春史くんの手の甲は少し硬くて、冷たかった。


「翔が家に来て、学校に連れて行ってくれたんです。これ以上休んだらまずいぞってすごく優しく言ってくれて。いつもと全然違うからびっくりしたので、その時のことは覚えています」


 春史くんの声は落ち着いていて静かに響く。

 さっきまで少し涙ぐんでいたのは、聞かなかったことにする。


「学校に行くと、皆心配してくれていて。凄く嬉しかったけど……申し訳なかった。それからなんとか普段の生活に戻ったんですけど、ふとした時に頭を過ぎるようになったんです」


 そう言って彼は自嘲の笑みを浮かべた。


「サッカーなんかやらなければ、セブンは死ななかったのかな、って」


 違う、と言おうとして声がでなかった。

 それは違う、セブンが死んだこととそれは関係ない。そう言えなかった。

 だって、そう思う気持ちは痛いほどに分かるから。


「サッカーをしなければ、せめて部活に入らなければ、あんなに夢中にならなければ、大会にでなければ――バカげた考えだと分かっていても、ふとした時にそう思ってしまう」


 重ねた手の下で、春史くんが拳を握りしめる。

 砂をかき集めた手は、小さく震えていた。


「ずっとセブンと二人でボールを蹴っていれば、幸せでいられたんじゃないか。一人ぼっちにすることも、こんなに悔やむこともなかったんじゃないか――一度考え付けばそれはゾンビみたいにしぶとくしがみついて、消えてはくれなかった」


 春史くんの横顔を見上げる。

 歯を食いしばって必死に何かに耐えている姿は、私の心臓をえぐった。


「サッカーが大好きだった。それは本当なんだ。嘘じゃない。好きで好きでしょうがなくて――だから、憎みそうになるのが怖かった」


 片手で顔を覆って、彼は俯く。

 何もできない私は、ただどうか震えが止まりますようにと重ねた手を握りしめた。


「このままじゃ、サッカーを恨んでしまう。それが嫌で、僕はサッカーを止めた。退部届を出して、部活にも行かなくなった。高校も志望校を変えて、サッカーと縁を切ろうと思った」


 少し落ち着いた声で、春史くんが続ける。

 手の震えは、少し収まっていた。


「……サッカーを止めて、何をしようかって考えて。獣医になろうと思ったんだ。セブンの苦しみに気づいていれば、もっと何とかなったかもしれない。寿命はどうしようもなくても、苦しみは取り除いてあげられたかもしれない――そう思うと、獣医になるという将来に光が差して見えた」


 それしかないと思った、と。

 小さくこぼす春史くんの姿は、地獄に垂れた蜘蛛の糸を見つけた人のようだと思った。

 救われたくて仕方がない。そういう人みたいに。


「皆には悪いことをしたと思っている。特に翔には。でも……僕は、それしかないと思った。けど、皆は高校までついてきてくれた。志望校を変えてまで、僕と一緒にサッカーがしたいんだと言って。無理だ、できないっていう僕に理由を聞かせてくれってずっと言ってた」


 獣医になりたいんだと説得する春史くんに、それでもサッカーはできるはずだと迫るチームメイト達。

 そこに確かにあった絆は、春史くんを責める鎖になってしまった。

 サッカーを恨みそうになるからしたくない、とは流石に言えなかったみたいで、彼はただチームメイト達が諦めるのを待った。


「でも、中々諦めてくれなくて……そんな時に、転校話が持ち上がったんだ」


 ご両親の仕事の都合で転校することは、小学校の頃以来だったみたいで。実は春史くんがサッカーに夢中になってからは、転校しなくていいよう配慮してくれていたらしい。


「今回はどうするって言われて、一も二もなく頷いた。これ以上皆と一緒にいるのは苦しかったし、皆がぎくしゃくするのを見るのも嫌だった。僕を戻そうとする人と放っておこうとする人でチームメイトも割れていたから」


 戻そうとする人の筆頭は、大山くんだったらしい。

 それもそうかと思う。親友がいきなりサッカーを止めると言い出したら心配して当然だし、それがセブンの事が原因なら尚更だ。

 サッカーを続けて欲しい。諦めないで欲しい。そういう気持ちは強かったと思う。


「実際、幼馴染にも迷惑をかけてたし……丁度いいと思って。そうしてこっちに来たんだけれど、結局色々あってまたサッカーをすることになって。インハイ優勝までしたから、僕の事を知った翔から電話があって」


 そこから先は聞かなくても分かる。

 きっと、電話で……大山くんは、長年の鬱積した思いを吐き出したのだろう。どうしようもない理不尽を受けた気がして。


「……俺達と一緒は嫌だったのか、って。言われてもしょうがないと思う。僕だって、逆の立場ならそう思ったはずだから。溜まってたものが吹き出したんだと思う……最後に、『じゃあな』って言われた」


 それは、別れの言葉。

 それが果たしてその電話だけのことなのか、それとも未来を含めた全てに対してだったのか。

 春史くんは、後者だと受け取ったようだ。


「本当は、僕から言わなきゃいけなかった。けど、決定的な言葉は言えなくて、ずっと引きずってきた結果がこれだ。自分が本当に嫌になる。翔にあんなこと、言わせるつもりはなかったんだ」


 全部、僕が悪いんだ。

 そう呟く春史くんに、私が何を言えるだろうか。


 胸の奥が痛い。火かき棒でかき回されてるみたいに熱くて苦しい。

 春史くんの手は冷たくて、手で覆われた表情は見えなくて、でもどこか泣きそうな空気だけがずっと漂っている。


 私に、何ができるだろうか。

 大事な友達の為に、初恋の人の生まれ変わりの為に、私に何が。


 考えて考えて、それでも分からなくて、それでも何か言いたくて。

 口が勝手に動くのを、止めなかった。



「私、好きな人がいるの」



 いきなり出た突拍子もない話に、春史くんが呆気にとられる気配が伝わってくる。

 もう後戻りはできない、覆水は盆に返らない。

 秘密には、秘密で返すのだ。


「ずっとずっと昔に、一緒にいてくれた人。私が泣いてるといつも見つけてくれて、どれだけ迷惑をかけても笑ってくれた。一緒に遊びまわったりしたし、木苺を食べたりもした」


 重ねた手が少しずつ温度を取り戻していく。

 節くれだった手の甲を撫でるように手を動かして、きゅっと掴む。


「その頃の私は恋とか何も知らなかったけれど、きっとあれが初恋だったんだと思う。一緒にいると楽しくて、嬉しくて、彼がいてくれれば他に何もいらなかった」


 口にして改めて思う。

 本当に好きだったんだ、って。

 今でも鮮明に思い出せるアルフォンスの笑顔は、春史くんにそっくりだった。


「でも、ある時急に彼は遠くにいくことになって、子供の私にはどうすることもできなくて。部屋で泣いてばかりで見送りもしなかった」


 あれは多分、父母の策略だと思う。

 私をもっと有効に使うために、邪魔なアルフォンスを遠ざけたのだ。勢力を拡大するついでのように。


「遠目に見た彼は、いつもと変わらなくて。一瞬だけ目が合った気がするけど、彼は微笑んでた。私はこんなに苦しいのに、彼はなんともないんだって思うと涙が止まらなかった」


 手のかかる妹、くらいの感覚だったのだろう。

 あの頃はその扱いに納得できなかったけれど、今ならそれでもいいと思う。

 それでも、一緒に居られて嬉しかった。


「それからずっと、彼の事は忘れて暮らした。覚えているだけ辛くなるし、私を一人ぼっちにしたことを恨みそうにもなるから。でも、本当はずっと覚えていたし、大切な思い出がそうじゃなくなることもなかった」


 恨んだりは、しなかった。

 そんなこと、考えもしなかった。


 深呼吸をする。

 生まれて初めて自分の事を人に話しているのだ。緊張して仕方がない。


「理不尽なことも納得いかないこともいっぱいある。上手くいかなくて大事な人と離れることも、嫌われることだってあるんだと思う」


 重ねた手をぎゅっと掴んで、顔を向ける。

 私を見る春史くんと目を合わせて、しっかりと伝えなきゃと気合を入れた。


「でも、大切な思い出がなくなるわけじゃない。セブンはきっと、春史くんとの思い出をずっと大切に抱えて生きたんだと思う。だから、死の間際に優しくできたんだと思う」


 深呼吸する。

 伝えたいことは、この先だ。


「だから、」



 だから、



「春史くんも、大切な思い出を大切にしていいんだよ」



 例え、その思い出を一緒に作った人に嫌われたとしても。



 春史くんの瞳が見開かれる。

 前髪に隠れたその大きな瞳を、私はじっと見つめた。

 どんなことがあっても、例えその人とケンカ別れをしたとしても。

 大切な思い出は、ずっとそのままでいてもいいんだ。


 ジェラルドと歩いた街並みのように、エッジと交わした約束のように。

 例え結果が処刑という最悪の結末だとしても、大切なものを捨てなくたっていいと私は思う。

 その時、確かに幸せだったのだから。


 春史くんの顔がくしゃりと歪み、今に泣きそうになる。

 俯いた彼の頭を抱きしめて、耳元でそっと呟いた。


「大丈夫。誰も見てないよ」


 こうしたら、私にも見えないから。

 そう言うと、春史くんの体が震えた。


 肩口が湿っていく感触がする。

 それは、きっと、ペットボトルの水がこぼれたのだ。

 そう思うことにして、何も言わなかった。



 夜の海は、星を反射してきらきらと輝いていた。

来週は暮石春史視点が入ります。

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