第三十六話
最後の1シーン、春史視点が入ります。
キャプテンが入院している病院に着いた時には、もう11時を回っていた。
面会の申し込みをしている間にも時間のことが頭をちらつく。この時間から最速で会場につけたとして、試合開始には間に合わない。
焦る気持ちをため息にして吐き出し、もう一人のところへ向かう杉本さんと別れてキャプテンの病室へ。病院内だからと走り出しそうになる足に言い聞かせ、なるべく早足で廊下を進む。
数人の看護師さんに会釈をし、角を一つ曲がった先に見えた『下原 誠』の文字。
表札を確認し、呼吸を整えてノックをした。
「どうぞ」
聞き覚えのある少し低めの声。
そっとドアを開けて中に入れば、足をギプスで固定したキャプテンが上半身を起こしてこちらを見ていた。
音を立てないよう後ろ手にドアを閉め、ベッドの横に立つ。
「姫様が迎えに来てくれるとは思わなかったな」
「信野先輩のご指名です」
隣に立つなり先に口を開いたキャプテンにどう返そうか迷った挙句、我ながらズレたことを言ってしまう。
キャプテンも同じように思ったのか、体を震わせて忍び笑いを漏らした。
「痛いんだから、笑わせないでくれ」
「……善処します」
皮肉を返す気にもなれず、無難な答えを口にする。キャプテンは痛そうに顔を歪めながらも笑い続けた。
埒が明かないと判断して、強引に話を進める。
「キャプテン、行きましょう」
途端に笑うのを止め、キャプテンが私を見上げる。
その目は、刺すような鋭さを伴っていた。
「……俺が断ったら、君はどうする?」
「ありえません」
即答する。迷う必要さえどこにもない。
キャプテンは訝し気に目を細め、口の端を歪めた。
「随分自信があるんだな」
「キャプテンは、サッカーが大好きですから」
はっきり断言すると、下原先輩は驚いた顔で私を見つめてきた。
そう、この人はサッカーが大好きだ。
ラルフや春史くんに負けないくらい。だから、去年あそこまで孤立させられながら決して諦めなかったんだ。
ラルフと一緒にサッカーをしたかったから。勝ちたかったから。大好きなサッカーで、一番になりたかったから。
そうじゃなきゃ、骨折したすぐ後にあんな激励ができるはずない。
その思いを皆知っていたから、彼はキャプテンとして尊敬されているのだ。
「監督も言ってました。『こんなサッカーを見て我慢できるほどおとなしい奴じゃない』って」
キャプテンの顔がくしゃりと歪み、湿度高めな笑いを漏らす。
私はただ、じっと彼を見つめていた。
「……自分の事を分かってくれる人がいるっていうのは、気恥ずかしいもんだな」
「男子高校生らしくないお言葉ですね」
「あんな聞かん坊達をまとめてりゃ、嫌でも大人になるさ」
「あら、斬新なワードチョイス」
「あーあー、年寄り臭くて悪かったよ」
降参するようにキャプテンは両手をひらひらと振る。
その仕草がなんだかサマになっていて、思わず忍び笑いを漏らしてしまった。
キャプテンの目が私を真正面に捉える。
優しい色をしたその瞳は、決意に満ちた輝きを湛えていた。
「年寄りついでに、肩貸してくれ。出かけたいんだ」
「はい」
下原先輩の手を取り、ぐるりと肩に回す。
空いた方の手で背中を支えるように添えて、ベッドからゆっくりと降りる手助けをする。
枕元に立てかけられていた松葉杖を取ってキャプテンの空いてる手に持たせれば、準備は完了だ。
「許可はもらっています。日帰りの強行軍になりますが、覚悟はいいですか?」
「……人を焚きつけた後にそれ言うんだもんなぁ。惚れるよ?」
「間に合ってます」
「流石姫様」
からかい交じりの微笑で頷き、キャプテンが足を進める。
本当は一瞬ドキリとした。これでも異性から直接的に好意を伝えられるのは慣れていない。だが、いつも通り流して良かったとほっと胸を撫でおろす。
実は、キャプテンとここまで長く話したのは初めてだ。
去年も今年もなんだかんだと話す機会はあったが、業務連絡ついでの世間話が精々で個人的な話はあんまりしたことがない。
いい人だっていうのは知ってた。ラルフの我儘と、それに釣られる部員達の面倒をよくみているとも思っていた。
だから、今回の事故はどれだけ無念なのか私には想像もできない。
それなのに、こんなに気安く話しかけてくれる。
本当は、信野先輩からも監督からも言われていたのだ。『もしかしたら、凄い暴言を吐かれるかもしれない』って。
ショックのあまり、酷いことを口走るかもしれない、と。
そりゃそうだ。キャプテンである自分がいなくなったチームが負けるのは嫌だろうが、ここまで圧倒的に勝ち進むのも苦しいだろう。
自分なんかいなくていいのかと思っても仕方がない。
当たり散らされるのを覚悟の上で――そういうのも含めての人選だったのだ。
私なら、耐えられるだろうと。
そうして覚悟していたのに、ある意味肩透かしというかなんというか。良い人過ぎて、大丈夫かと不安になる。
横目に見たキャプテンの顔は、笑顔の中に痛みを隠していた。
「あーやわらけーすべすべー」
「……セクハラで訴えますよ」
「怪我が治ってからでお願いします」
気安く笑うキャプテンに嘆息を返し、ロビーで杉本さん達と合流する。
そこから頼んでおいたタクシーに乗って飛行場に向かい、北海道まで飛ぶのだ。
どうか道が混雑してませんように、と祈りながら四人でタクシーに乗り込んだ。
試合はもう始まっていることは、会場に着いた時から分かっていた。
ひっきりなしの大歓声と困惑が耳を圧する。試合が進むごとに観客が増えていったから、決勝は過去最大の動員数が記録されていることだろう。
キャプテンに肩を貸しながらなんとか階段を上り、通路から観客席に出る。
そこで見たのは、電光掲示板が表示した『1‐2』という驚くべき数字だった。
うちが、負けている。
しかも、2点も取られている。
慌ててフィールドを見れば、まさに今攻め込まれている最中だった。
短いパスを繋いで着実に切り込んでくる相手チームに、うちが対応できていない。ゾーンディフェンスを徹底しているのは春史くんの指示だろうか。
ラルフは、と思ってみればパスに翻弄されて無駄にフィールドを駆けずり回っていた。
なんだろう。
何か変だ。
ラルフの動きが、どうにもいまいち精彩を欠いている。
周囲の人の話し声が、聞くとはなしに耳に入ってくる。
「おい、プリンスはどうしちまったんだ?」
「なんか体調悪いのかな?」
「いくらなんでもおかしいぜ、インターセプトされたことなんて今まで一度もなかっただろ? なのに、前半だけで二回もだ!」
「カウンターが綺麗に決まったもんな。あの伏兵も動きづらそうだしよ」
「前までと違って策略って感じしないよな。15分すぎたくらいから守備に偏ってるし」
「それでも追加点とられたんじゃなぁ。やっぱ下原の不在は大きいか」
心臓がドクンと音を立てた。
昨夜のミーティングで、春史くんは言っていた。決勝の相手チームの地力は準決勝で戦った相手ほどじゃない、と。
『だからこそ、用心する必要があります』
頭の中で昨日の春史くんの言葉が勝手に再生される。
真剣な表情まで、くっきりと浮かび上がってきた。
『そういうチームは、勢いがあります。実力以上の力を発揮しますし、その勢いはこちらに悪影響を与えてくるでしょう』
『相手の精神面にダメージを与えれば、勢いは殺せます。準々決勝で使ったような手段です。ですが、決勝で使うにはリスキーすぎます。そのやり方は、下手をすると相手の闘志にさらなる火をつける可能性があるからです』
『ですから、突く部分は相手の地力の低さです。これまでの全ての作戦を、適宜状況に合わせて切り替えて使います。僕とラルフからの合図を見逃さないよう、気を張ってください。試合が終われば倒れて構いません。90分、全てを使い果たして下さい』
僕もそうします、と。
最後にそう付け加えて、ミーティングは終わりを告げた。
確かに昨夜、彼はそう言った。
だというのに、とても適宜状況に合わせているようには見えない。
ラルフの不調――それが番狂わせの原因だとは、サッカーを知らない私にもわかった。
彼の作戦は、あくまでラルフと二人でやっていくものだ。ラルフが万全の状態にあることを前提として成立している。
付け焼刃の戦術では、それが限界だった。春史くんとチームメイトの信頼を築いている時間もなかった。
だから、ラルフにその全てを補完してもらう形で作り上げたのだ。
絆の力は、時に戦局を左右する。
それを、まざまざと見せつけられている気分だった。
――あぁ、そうだ。
嫌な考えが頭を過ぎる。
――前世でも、それは良く分かっていたじゃないか。
かつての自分の姿が、何の関係もないフィールドにぽつんと見える。
――絆のなかった自分は、その力に敗北したのだ。
断頭台に首を括りつけられ、処刑人の斧が綱を切る。
落ちてくる刃と同時にゴール目掛けてボールが蹴られ、思わずぎゅっと目を閉じた。
「ラルフ!!! てめぇ、何してやがる!!!」
ボールがゴールポストに嫌われ、ライン外へ出る。
会場中のため息が重なる中、耳元で聞こえた大声に頭がクラクラした。
「俺の言葉を忘れたのか!! 負けるんじゃねぇ!!! 腑抜けた試合するぐらいなら、今すぐその場所俺に代われ!!!」
響き渡る怒号に、何事かと周囲の観客が振り返る。
注目を集めることも気にせず、キャプテンは真っ直ぐにフィールドの中のラルフを見つめていた。
ラルフが、こちらを向いた、気がした。
前半44分。
ゴールキックで試合は再開し、ボールが相手チームに取られてしまう。
またも攻め込まれる展開になる、と誰もが思った瞬間。
ラルフが、突っ込んでいった。
ボールを持った選手に突っ込み、パスを回す暇さえ与えず奪い取る。
そのまま強引にドリブルし、呆気にとられるミッドフィルダーを抜いて敵陣に切り込んでいく。
慌てて止めに入ったディフェンスを抜き去り、ペナルティエリアの外から思い切り振り被ってシュートを放った。
キーパーの指先をかすったボールはポストに嫌われ跳ね返り、再び駆け込んだラルフの足に収まる。
慌てたディフェンダーがファウルも辞さずにラルフにぶつかり、イエローカードの笛の音と共に前半終了の笛も鳴った。
息をするのさえ忘れていた。
笛の音が鳴り響いた後に零れた吐息で、ようやく体が酸素を求めていることに気づいた。
「ったく、ラルフの奴め。精神面から鍛え直しだな」
ぼやく声に視線だけで見上げれば、キャプテンが苦笑していた。
眩しいものを見つめるようにフィールドを見下ろし、肩に回した腕に力が込められる。
「あの……」
「うん?」
キャプテンが今気づいたというように私を見やり、苦み走った笑みを浮かべる。
「悪い、煩かっただろ」
「いえ……その、ラルフは?」
何を問えばいいのか分からず曖昧になってしまった私の質問に、キャプテンは鷹揚に頷いて見せた。
こういうところが、下から慕われるところなんだろうなと思う。
「あいつ、バカだからな。気持ちの整理がつけられなかったんだろう。ああ見えて繊細なんだよな。俺や飯塚がいないチームで優勝することに、腰が引けちまったんだろうさ」
あぁ、と吐息と共に納得の呻きが漏れる。
急に春史くんを入れて勝利を狙うことに、ラルフだって戸惑いがあったのだろう。皆の手前、そうは見せなかっただけで。
ずっと一緒に頑張ってきたのだ。勝利の為に、連覇の為に。
その仲間がいないチームで、しかも新たな補充人員を入れた状態で勝利してしまえば、彼らはいらないというも同然だ。
大切なチームメイトがいなくったって、優勝できる。それは、絆への裏切りのようにも思えたのだろう。
私も、多分そう思う。
築いてきた信頼が、絆が、意味のないものとされているような気分になる。
それは、決して気持ちがいいものじゃないだろう。
それが去年からずっと味方し続けてくれたキャプテンともなれば、尚更。
「だから、バカなんだ」
ぽつりと呟かれた言葉に視線を上げる。
下原キャプテンは、寂しそうな、嬉しそうな顔で微笑みを浮かべてきた。
「そんな俺達の絆を疑うような真似をするから、怪我を押してこんなとこに来る羽目になっちまったんだろうが」
ぼやくキャプテンに、因果が逆では、と言おうとして言葉を飲み込んだ。
おそらく、彼の言うことは正しい。
だって、監督は何も反対しなかったどころか、協力さえしてくれたのだ。
普通、教育者は子供の事を第一に考える。監督といえどその道理には逆らえない。
そうでなければ、今時はどんなクレームがきていつ晒し者にされるかわからないからだ。
決して善良な理由だけでなく、現実的な脅威への対策として。
教育者は、こんな怪我を押して行動させるような真似を許してはいけない。
多分、監督は分かっていたのだ。ラルフが不調になるかもしれないことを。そして、その理由まで。
もしかしたら、春史くんも分かっていたかもしれない。
だから、守備が脆くなっていることを分かった上で、耐え忍ぶ戦い方をしたのかもしれない。
キャプテンがこの場に現れることを期待して。
それは、多分、絆と呼んでいいものじゃないだろうか。
――あぁ、なんだ。
絆は、あった。相手チームに負けないくらい、うちのチームにだってあったのだ。
――私にも、あったな。
絞首台で首を落とされるその時まで一緒にいてくれたリリィ。
あの子と私の間にあるものを絆と呼ばないなら、何と呼ぶのだろうか。
絆がないなんて言って悪かった。今度、リリィの――小百合さんの為にご飯を作ろう。きっと喜んでくれる。
思えば、エッジとの間にも似たようなものはあったんじゃなかろうか。私が捨てさせてしまっただけで。
ジェラルドとの間にだって、きっとあった。だから転生した今、こうして仲良くやれているのではないだろうか。
私が前世で捨ててしまったものを、今世で拾い集めているのかもしれない。
そう思うと、笑みが浮かんできた。
「相変わらず、面倒見がいいですね」
笑ってしまったのを誤魔化そうとして、去年から思っていたことを口にする。
キャプテンはちらりと私を見た後、ふふんと鼻で笑った。
「強い奴はチームに何人いてもいいからな。特にラルフは貴重だ。俺、負けるの嫌いで勝つの好きだから」
「奇遇ですね、私もです」
むしろ、そうでない人間はいるのだろうか。
随分と気安く返せる自分に驚いたが、嫌な気分ではなかった。
キャプテンは目を見開いて私を見つめ、悪戯そうな顔でニヤリと笑った。
「姫様、俺と付き合わない?」
「ムードのない告白ですね」
いつものようにすまして答えれば、キャプテンは苦笑してフィールドに目を移した。
正直、結構ドキドキしてる。男の人とこれほど触れ合ったこともなければ、軽口を交わし合うこともほとんどなかった。ラルフは例外として。
けど、勘違いするわけにはいかない。信野先輩に恨まれるのはごめんだ。
前世では気にもしなかったけど、今世では気にしたい。見知らぬ誰かとはいかなくとも、身近な人の事は気にして大切にしたい。
前世ではできなかったこと。今世でやり直したいこと。
先輩とじゃれ合うなんて、前世では考えられなかったことだ。
それが、なんだかとても楽しい。
キャプテンと同じようにフィールドに目を落として、後半が始まるまで呼吸と心を整えた。
後半が始まってすぐ、調子を取り戻したラルフによって同点ゴールが決められた。
並ばれた相手校には焦りが見えたが、向こうのキャプテンによって決定的な隙にはならなかった。
だが、ラルフが元に戻ればもう怖いものはない。
作戦通りに状況に合わせて適宜戦法を切り替え、地力の差で相手チームを追い込んでいく。
スイッチする作戦についていけない相手チームは、徐々にボールキープ率を下げていく。春史くんとラルフの戦局を見る目は優秀すぎた。
後半25分。とうとう、逆転ゴールを決めた。
3‐2。
相手側の観戦席からは絶望のため息が、こちら側の観戦席からは歓喜の大歓声が沸いた。
私もほっと胸を撫でおろす。油断はならないが、うちが負けることはないだろう。
春史くんがパスを回しながら、これ見よがしにラルフに体を向ける。その瞬間に慌てて動いた守備陣を一瞥し、空いたところにボールを蹴りこむ。性格悪い。
苦笑しながら見つめていると、肩に回されたキャプテンの腕が震えだした。
そっと隣を窺い見れば、顔を俯けたまま体を震わせている。
何か具合でも悪くなったかと血の気が引いた。
今すぐ病院に連れて行くべきかと迷っていると、
「……なんで……」
小さく零れた吐息交じりの声に、必死に耳を澄ませる。
周囲の大歓声に紛れてしまうほど小さな声。歓喜に満ち溢れたこの場で、ただ一人悲しい色合いの声を出していた。
「なんで、俺は……あそこに、いないんだ……!」
喉奥から搾りだすように。
悲痛な響きが、私の動きを止めていた。
「俺は、どうして……! ここに、いるんだ……!!」
どうにもならない理不尽への嘆き。
誰もが思っていたことなのに、その上っ面に騙されて私はさっきまで忘れていた。
悔しくないはずがないのだ。
インハイを戦えなくて、その決勝をフィールドでなく観客席で迎えて、苦しくないはずがないのだ。
ずっとずっと、ここで戦うために頑張ってきた。
去年の余りにも波乱万丈な優勝を経て、今年もまた優勝旗を掴むためにやってきたのだ。
冬の選手権大会がある、なんて何の慰めにもならない。
一つとして同じ試合はなく、三年のインターハイは今年しかない。
ラルフ達と共に、フィールドで戦って勝利を分かち合いたかったはずだ。
そのために、彼は去年からずっと部活内でさえ戦ってきたのだから。
「俺は……どうして……!!」
歯の隙間から零れるような怨嗟の声。
彼を支える手に力を込めて、私はただフィールドを見つめた。
顔を見てはいけない。声を聞いていてもいけない。
私は何も知らないし、何も見ていないし、何も聞いていない。
大歓声にかき消され、彼の声は彼にしか届いていないのだ。
他人が触れてはいけない苦しみだってある。認めたくない自分だっている。それらと向き合うための時間は、誰かが邪魔していいものじゃない。
私にできることは、ただ、何も知らない顔をして寄り添うことだけ。
かつて私の心が折れそうになっていた時、リリィがそうしてくれたように。
試合は、そのまま3‐2で勝利した。
笛の音が鳴り響き、地面を揺らすような勝利の大歓声が響き渡る。
両校の選手が挨拶した後、待ち構えていた記者達がここぞとばかりにラルフに群がった。
「帰るか」
「はい」
小さく呟いたキャプテンに頷き返し、支える手の位置を調整してくるりとフィールドに背を向ける。
外に出る通路に向かって一歩踏み出したところで、その声が聞こえた。
『キャプテン! 優勝しました!!』
驚いて振り向けば、記者のマイクを奪ったラルフが観客席を見上げていた。
設置されたスピーカーから聞こえる声は、確かにそこにキャプテンがいると確信しているようだった。
『キャプテンがずっと一緒に戦ってくれたおかげっす!! 冬も絶対優勝っすよ!!』
堂々とした連覇宣言に、観客と記者達が沸き上がる。
キャプテンは震える息を吐き出して、松葉杖をついた。
「早く戻るか」
「はい」
「一秒でも早く治さなきゃな」
「はい」
口元には笑みが浮かんでいる。
でもきっと、目元は潤んでいることだろう。
それを見ることはしなかった。
それは、彼の矜持を傷つける気がしたから。
キャプテンに肩を貸しながら、再び杉本さんと合流して病院まで戻った。
そのまま私と杉本さんは家に帰り、明日には空港へ皆を迎えに行く予定だ。
閉会式を見れないのは残念だったが、それ以上の収穫があったので良しとする。
病室へと送り届けたキャプテンは、ありがとうと一言言うとすぐに眠りに落ちた。ギプス付きの足で動き回るのは疲れたのだろう。
明日になれば、この部屋に皆が見舞いと称して押しかけてくる。
その前に信野先輩だけ抜け出して先に来るよう、メールを打っておいた。
今日の事も、軽く説明して。キャプテンには癒しが必要だとか適当なことを言って。
自分の仕事に満足しながら、私も家に帰って眠りについた。
※ ※ ※
布団からむくりと起き上がり、時計を見て笑ってしまった。
もう夜も十時を回っていて、一体何時間寝ていたんだかと自分に呆れてしまう。
スマホを手に取れば、ラルフ達からものすごい数のチャットが来ていた。大体は遊びの誘いで、どうもインハイ後の休息期間はサッカー部の慰労を兼ねて皆で遊びに行くらしい。
その中に白峰さんの名前を見つけ、手が止まってしまう。
今回のインターハイでは、結構よろしくない手も使ってしまった。卑劣とそしられても仕方ない戦い方をしたこともある。
彼女は気にしていないだろうか。それとも、幻滅しただろうか。
……幻滅するほど、自分に期待を寄せてくれていただろうか。
己の浅ましさにため息をついて、カレンダーを見やる。予定は何もないはずだが、一応確かめておこう。
インターハイは怒涛の勢いで過ぎていった。
突然の提案から臨時入部、そして優勝まで。およそ二週間の間に起こった事とはとても思えない。
キャプテンやラルフの望みには応えられただろうか。
短期間での練習で何とかする為に使った色々な戦法は、つまるところただの奇襲だ。
普通なら一笑に付されるレベルのものもあったが、ラルフがいることでそれらが一撃必殺の暗殺術になるのだから乾いた笑いが漏れてしまう。
付け焼刃が妖刀になるほど、ラルフの力は常識外れだった。
改めて、ラルフの力を思い知った二週間だった。
その怒涛の勢いも昨日で終わり、空港で出迎えてくれた白峰さん達と一緒にキャプテンの見舞いに行き、学校で軽いミーティングを行って解散となった。
家に帰りつき、風呂に入って布団に横になってからの記憶はない。
電子時計の日付を見れば、ほぼ丸々一日眠っていたことに気づく。
自分に苦笑して布団から身を起こし、予定を確認する。何もない。夏休みは図書室に入り浸って勉強漬けの毎日になるつもりだったから、当たり前だけど。
返事をチャットで送れば、すぐにラルフから返答が来た。明日は皆で食べ放題の店に押し寄せ、三日後には海へ行って遊びまくった後バーベキューもするらしい。
烏丸家所有のビーチと聞いて、苦笑いが滲む。ラルフは色んな意味で桁が違う。ホテルも烏丸グループのものだから心配しなくていいらしい。もう考えるのはよそう。
ふと、白峰さんはどうするのだろうと思う。
マネージャーも全員来るそうだが、彼女は臨時だ。果たしてどうかと思って、けれど聞けずにじっとチャット欄を眺めていると、どうやら彼女も来るらしいことが分かった。
水着は、どこにあっただろうか。
でも、あったとしても結構前の代物だろう。入るかどうか分からないし、どうせなら新しいのを買った方がいいかもしれない。
……色気づいている、と頭の冷静な部分がツッコミを入れて、ため息を漏らす。
水着は明日探そう。ダメそうなら、新しいのを買おう。
そう決めてチャット欄を閉じると、通知が来ていることに気づいた。
何の気なしにタップすると、留守電が来ていることを教えてくれた。
発信者の名前は、前の学校の親友。
小学校の頃から、ずっと一緒にサッカーをやってきた。
中学校では全国にも出た。残念ながら、負けてしまったけれど。
サッカーを通じて、代えがたい友情を築いてきたはずの友人だった。
三年になり、僕が裏切るまでは。
高校では別れようと思って、誰にも相談せずに行く高校を決めた。だというのに、中学からの仲間は殆ど僕と同じ高校に入ってきた。
また一緒にサッカーがしたい、と。
そう告げる彼らに背を向けて、ひたすら勉強だけを続けた。
挙句の果てには転校だ。きっと、どうしようもなく傷つけた。
深呼吸をして、留守電のメッセージを流す。
『おぅ、ハル。インハイ、見たよ』
それから、長い間があった。
『なぁ……なんでだ? 俺達とやるのは嫌だったのか? サッカーが嫌いになったんじゃないのか? なぁ、どうしてだ!? セブンのことはもういいのかよ!? なんで俺達じゃなくて他の奴とサッカーしてんだ!? なぁ!!!』
鋭利なナイフでえぐられているような痛みが走る。
でも、これは言われて当然のことだ。それだけのことを、僕はした。
彼らを裏切った果てに、ラルフ達とサッカーをした。その選択をした僕が、当然受けるべき痛みだ。
『……じゃあな』
留守電は、そこで終わった。
何を思えばいいかもわからなくて、スマホをじっと見つめた。
じゃあな。別れの言葉。
今度こそ、本当に彼らとの縁は切れたのだろう。
僕の方から決別しなければならなかったのに。
臆病な僕は逃げ回ることしかできず、彼にこんなことをさせてしまった。
息もできない。
大事にしたいものを、大事にできなかった。
それが全て、自分の我儘のせいだというのが耐えられなかった。
気が付いたら、スマホを握りしめたまま泣いていた。
誰にも見られなかったのが、不幸中の幸いだった。




