第三十五話
突然の春史くんの入部とレギュラー入りは学校中を騒がせた。
そりゃそうだろう。私だって驚く。ていうか今も驚いている。
サッカー部レギュラー二名の怪我、内一名はキャプテンという異例の事態は不穏な空気を学校中にまき散らし、その結果ラルフの肝いりで入部した春史くんへの注目度は異常なほどに高まっていた。
元々球技大会で身体能力の高さは証明していたのだ。三年生の他の部活の先輩方は恨みと羨望を込めた視線で見つめてくるし、ラルフファンクラブをはじめとした一般生徒は好奇と期待、揶揄の目つきでチラ見してくる。
終業式は校長先生の話もそっちのけで、皆が視線でサッカー部はどうなるのかと会話しあっていた。
HRの担任の話などもう誰も聞いていない。その担任までもがチラチラと春史くんを見てくるのだから、生徒を叱れるはずもなし。
一躍トップスターに躍り出た春史くんはと言えば、傍目にはいつもと変わりなく見えた。
でも、私は知っている。
勉強しているふりをしてノートに書いているのが、サッカーの戦術だってこと。
真剣な顔でノートに目を落とす春史くんは、確かにいつもと変わりない。でも、その心の内はサッカーのことでいっぱいなのだろう。
どんだけサッカーが好きなんだか。下手したらラルフにさえ匹敵するかもしれない。
それなのに、どうして今までサッカーをしてこなかったのか。
聞いちゃいけないことなのは分かってる。絶対に軽々しく他人に話せない問題だ。
分かっていても、気になってしまう。
それもこれも、臨時入部なんてするからだ。だから、今まで考えずに済んできたことを考えてしまうのだ。
悪役令嬢らしく責任転嫁して、周囲の注目など気にもせず戦術を考える春史くんを半目で睨んだ。
臨時入部一日目。
終業式ということもあって、放課後の練習には学校中の生徒が来てるんじゃないかと思うくらいの人数がグラウンドを囲うネットに鈴なりにしがみついていた。
ラルフファンクラブも流石にこの人数には押されたらしく、彼女らの指定席も脅かされていた。
先生達も臨時出動し邪魔になるからと帰そうとしていたが、そんな指示を聞く奴は最初から見物にきていない。
練習の邪魔をしたら即強制帰宅させるという条件で、サッカー部の練習は見世物となってしまった。
それでもやることは普段と変わらない。いや、今日は下手したら普段よりハードかも。全員の目つきが違う。
キャプテンが試合に出られないこと、そしてあの言付けが部員達を刺激したのだろう。皆率先して普段より多く基礎練を行っていた。
シャトルラン20本が30本に、ラダー10本が20本に、と増えた数をメモって軽食の数と飲料を調整していく。
「模擬戦を行う。事前の通達通りAチームは赤、Bチームは青だ」
顧問の指示に全員で返事し、それぞれの色のビブスを身に着けていく。
このABのチーム分けは春史くんの頼みだ。彼は臨時入部を了承した後、戦術を考える為にもそうして欲しいと頼み込んだ。
顧問とラルフが二つ返事で頷いた為、誰も文句を言えずに通ったのだ。
このチーム分けにどういう意味があるのか私には分からない。
分かるのは、Aチームがラルフを含めたオフェンス陣と控えのディフェンス陣で構成され、Bチームはレギュラーディフェンス陣と控えのオフェンス陣で構成されていることくらいだ。
春史くんは、ABどちらにも入れるように固定されていない。
そして、今日は模擬戦に参加せずにベンチで見ているようだ。
キックオフを告げる笛が鳴る。
周囲の野次馬達の大歓声を受けて、ボールは蹴りだされた。
その日の模擬戦は、8‐2の大差でAチームの勝利となった。
臨時入部二日目。
夏休みに突入したというのに、野次馬にくる生徒の数は一向に減らない。
サッカー部の練習は当然朝から日が落ちるまで続く。ラルフFCは分かるとしても、他の生徒も朝から待機しているとはどういうことか。暇なのか。宿題しなさい。
今日もいつものように基礎練から始まり、パスワークの練習とポジションごとに分かれた練習をしてからの模擬戦だ。
午前最後のメニューである模擬戦は、昨日と同じチーム分け。一つ違うのは、ラルフと同じチームに春史くんが入っていることだ。
キックオフの笛の音と共にボールが蹴りだされる。
午前の模擬戦は、9‐0の昨日を越える大差だった。
そして、午後。
ボールに触る練習を繰り返すも、チームプレイ的な練習は一切ない。
大丈夫なのかと心配になるが、顧問もラルフも何も言わないのでいいのだろう。
何事も基礎は大事だっていうし。キャプテンが抜けてすぐにチームプレイと言われても困るだろうしね。
日が暮れかけてきたところで、本日最後の模擬戦だ。
今度はBチームに春史くんが入っている。
彼がどういうつもりなのかは分からない。
ただ一つ分かるのは、今日一回も私に目線をよこさないくらいサッカーに夢中になっている、ということくらいだ。
模擬戦の結果は、5‐1でAチームの勝利だった。
スコアを見ながら顧問が難しい顔をしていて、他校の戦術解析に付き合わせた三年のマネージャーとなにやら話し合っている。
漏れ聞こえてくる話だけでも専門用語が多くて意味が分からず、私は自分の仕事に専念することにした。
どうやら、皆が徐々に春史くんを認めつつあるのは分かったが。
去年みたいな喧嘩にならなければいいな、くらいに私は思っていた。
臨時入部三日目。
本日も野次馬は盛況で、流石にそろそろ怒ろうかどうか迷っている。
いい加減散らすべきか顧問に相談すると、
「気にするな。もう部員の誰もそんなこと気にしていない」
あっさりと言われてしまった。
そんなこと、って。数えるのもバカらしいくらいの生徒が雁首揃えてニヤニヤ見ているのが気にならないなんて嘘だろう。
でも、よくよく見ると確かに部員の誰も気にした風がない。終業式の日なんかはそれこそ嫌そうな顔をしていたのに。
あんまり納得できなくて、同学年マネージャーの杉本さんに話を聞いてみた。
「先生は皆気にしてない、って言うんだけど」
「そりゃそうですよ! だって暮石くん凄いじゃないですか!」
「そう……なの?」
「ですよ! だからもう、皆他の事気にする余裕ないです。もしかしたら本当に、部長なしで新しい戦術が開けるかもしれませんから」
そう語る杉本さんの目は真剣で、私は「そう」と頷くことしかできなかった。
そんなにか。そんなに春史くんってすごいのか。
いやただ者じゃないとは思ってたよ? ラルフに一矢報いたあの時から。
でも、なんか、その、こんなアウェイな状況で褒められるほどってのはちょっと。
あれだ、素人が変に口を出すところじゃないんだな、もう。
そう理解した私は、花梨と一緒に黙々とマネージャー業に集中した。それ以外に何をしても、彼らの助けにはならないだろうと思って。
その日の午前の最後の模擬戦で、今度はラルフがベンチで代わりに春史くんがAチームに入っていた。
結果は、4‐0でAチームの勝利。
意外な点差でビックリしてしまった。
いやだって、Bチームにはレギュラーディフェンス陣がいるんだよ? ラルフがいないのにそんなに点が取れるとは思わなかった。
それに、0点ってのもびっくりだ。トータルフットボールが基本となった現在、ディフェンスといえど得点力がないわけじゃない。
それなのに、得点を許されなかった。Aチームにラルフもいないのに。
うち、そんなに弱かったかなぁと思い返せば、キャプテンの不在が大きいことに気づいた。
下原キャプテンはディフェンスの中心的人物だ。
彼がいなくなって、ディフェンス陣は統率を欠いているのだろう。
試合後、春史くんはラルフと顧問になにやら話していた。
それを横目に、校舎とグラウンドを行き来する。ジャグの用意や軽食の準備は流石に校舎内の部屋を借りないとできない。
洗濯も、緊急のものは家庭科室を借りて洗ったりしているのだ。
昼食を摂る場所も部室以外に校舎の部屋を提供してもらっている。外で食べるご飯は美味しいけど、この状況だとね……そうでなくとも衛生的に問題だろうけど。
昼食と軽い休憩を挟んで、午後の練習が始まる。
十分に体が暖まったところで、顧問が全員を集めた。
「チーム分けを変えて模擬戦を始める。柊、須藤、笹山、大久保――」
顧問が新たに発表したチームは、Aがラルフを除いたレギュラーチーム、Bが控えのチームにラルフと春史くんを入れたものだ。
全員が戸惑いつつも、言われた通りにビブスを着て分かれる。
いや、戸惑っていないのが二人だけ。ラルフと春史くん。
二人はボールを回しながら不敵な笑みを浮かべていた。
キックオフの笛が鳴る。
春史くんのキックから始まって、ラルフがボールを取った。
そこから先の展開は殆ど一方的だった。
春史くんとラルフのコンビに誰も太刀打ちできない。二人で縦横無尽にボールを回し、インターセプトさえできないでいる。
春史くんが誰もいないところにボールを出したと思ったら、ラルフが駆け込んでくる。ラルフが無茶なロングパスをしたと思ったら、春史くんがパスカットしてキープする。
二人を主軸に回っていると分かっているのに、うちのレギュラー陣は止めることができなかった。
マークしても抜けられるかそもそも回さないかで殆ど意味がない。マンツーマンを解いたら好き放題動き回られる。Bチームのボールキープ率は圧倒的で、試合時間の8~9割を占めていた。
シュートタイミングも見逃さない。ゴール前、三人も守備がいたのにパスが通るとボレーを決められてネットが揺らされる。
ならばと距離を詰めれば、速攻でバックパスしてフリーの状態から狙いすましたロングシュートがキーパーに襲い掛かる。
たった二人を止められずに、点数が嵩んでいく。
二桁を越えたところで、笛の音が鳴った。
「全員、集合!」
試合終了の……ではなく、顧問による中止の合図だったらしい。
集まった部員を見回し、重々しく口を開いた。
「全員理解した通り、今のうちは下原が抜け守備が脆くなっている。しかし、感じた者もいるだろう。暮石がボランチに着いた時、守りやすかったことを」
部員達が顔を見合わせ、肯定の呻きを上げる。
素直に頷けないが、否定もできないということだろう。本当にすごかったんだ、春史くん。
「これからミーティングを行い、今後の作戦と戦術を伝える。特にディフェンスは覚悟しろ。下原がいない以上、今まで通りの守備は無理だ。つまり、より攻撃的なサッカーを選ばざるを得ない。守備の重要性は今まで以上になるぞ」
腹の底から響く声で「はい!」と全員が唱和する。
部員達はタオルで汗を拭いて軽く手洗いし、顧問についてミーティングルームへと向かった。
後始末はマネージャーの仕事だ。杉本さんや花梨と協力してボールやビブスを片付けていく。
なんとなく、片付ける手にも力がこもる。凄いな、春史くん。ラルフと息の合ったプレーもそうだし、まるで違う戦術になることを皆に了承させてしまった。
終業式の日の怒号の応酬が嘘みたいに、自然とチームの一員になっている。
そういう力は、ラルフや花梨にもあるもので。私も何度となくあっという間に仲良くなっていく二人を見てきた。
私には、そんな力はない。
前世からずっと人の反発を生むだけで、納得させたり認めさせるようなことはできなかった。
……あーいや、護堂さんがいたっけ。まぁでも、あの人は例外だ。前世がエッジだし。
少し、三人が羨ましい。
私もああいう風に溶け込める力があったなら。
こんな風にひねくれ曲がらず、真っ直ぐ生きられたのかな。
用具類をまとめて専用の箱に入れながら、ため息をつく。言っても詮無いことだけど、やっぱり少し考えてしまうのだ。
そんな人間だったのなら、両親を巻き込んで処刑されなかったのかな、なんて。
今世でも、もっと上手く花梨を守れたのかな、なんて。
「あの、すみません」
バカな物思いに耽っていたせいだろうか。
かけられた声に殊更驚いて顔を上げれば、三つ編みをした大人しそうな子が怯えた顔で後ずさっていた。
見たことのない顔だ。私の知り合いじゃないし、花梨の友達でもない……と思う。サッカー部に用がありそうな子にも見えない。
不審に思う気持ちが表情に出ていたのだろうか。三つ編みの子は何かを飲み込むようにして、震える喉を落ち着かせた。
「わ、私、と、図書委員の、平下と言います。く、暮石くんはいらっしゃいますでしょうかっ?」
最後の方は目を瞑って勢いで言った、という感じだった。
可愛らしい子だ。小動物のようでもある。今時珍しい子だと思ったら、近くにいた杉本さんも目を丸くしていた。
私と同じ感想を持つ人がいることになんとなく安堵して、平下さんに向き直る。
「はる……暮石くんはミーティング中です。用件があるなら伝えておきますよ」
なるべく怯えさせないよう笑顔で言うと、「そうですか」と力なく項垂れられた。
なんだろう、嫌な予感がする。
その予感が私に『春史くん』といつものように呼ばせるのを躊躇わせた。
思い過ごしならいいんだけど、この子、もしかして、
「あの、これ、暮石くんにどうかと思って……渡していただけますか?」
そう言って差し出されたのは、『伴侶動物の臨床病理学』と書かれた本だった。
……ヤバい、文字は読めるのに何が書いてあるかさっぱり分からない。タイトルだけでこのありさまなら、中身なんて私には到底読めない内容だろうと察せられる。
学校の勉強はそれなりにできるつもりだったのに、もしかして私はバカなんだろうか。ラルフに負けるくらいだからそうかもしれないとは思ってたんだけど。ていうかラルフが学年一位っておかしいだろ絶対。
落ち着け、思考を戻せ。
本を差し出したまま不安げに瞳を揺らす平下さんに笑いかけ、なるべく優しい手つきを心がけて受け取った。
ほっとした様子が本当に小動物みたいで愛らしい。
「渡しておくわ。ちなみに、これって何の本?」
尋ねる私に平下さんはぎこちない笑みを浮かべ、
「獣医学の本です。ネットでお勧めの本だったので、図書室に入荷してすぐに持ってきたんです」
律儀に答える平下さんに、私の顔が固まる。
獣医学? 春史くんに? え? 獣医になりたいの? え? この子はそれを知ってるの? 知ってるんだよね? そうじゃなきゃ入荷してすぐに持ってきたりしないよね?
愕然とした心地で手の中の本に目を落とす。
表紙に犬と猫のシルエットと、格子状の模様の向こうに良く分からない写真。著者の下に『日本臨床獣医学フォーラム会長』と書いてある。
正真正銘、真面目に獣医学の本だということはすぐにわかった。
「貸し出し期間は一か月で、私の名前で借りているので私に返してもらえれば大丈夫です、と伝えてください」
「……図書室の貸し出しって、二週間くらいじゃなかった? 又貸しも禁止だったと思うけれど」
「あ、その、多分その本を借りる人、暮石くんしかいないので……又貸しも司書の先生にお話しして、『暮石くんなら』って許可をもらいました」
「そう」
そう、じゃないよ。
何それ、春史くんしか借りないものを入荷したの? しかも、又貸しも彼ならいいって、随分信用されているのね。
でもそれ、春史くんが信用されてるの? それとも貴女が? 二人とも?
この本、まさか貴女が強く推薦して買ったものじゃないわよね。学問系の本が増えるのは先生方も文句言わないだろうけど。
貴女、まさか、
春史くんのことが好きなんじゃないでしょうね。
「じ、じゃあ、よろしくお願いします」
深々と頭を下げて、平下さんが小走りに去っていく。
その背中を眺めながら、息を吸い込んで深く吐いた。
ドロドロした思いを肺の中の空気と一緒に押し出し、軽く頬を叩いて首を振る。
どこの悪役だ、私は。前世とまるで同じ考えに染まってどうする。
ていうか、春史くんのことが好きな子ができたなら喜んであげるのが友人というものだろう。しかも、彼の為にこんな難しくて厚みのある本を真っ先に持ってきてくれるような心優しく配慮のできる子なのだ。
三つ編みも可愛らしいし、小動物みたいで人を害するような性格にはとても見えない。
春史くんと並べば、大人しくて似合いの一対ではないか。
もし彼女が強くこの本を推薦したのなら、好きな人の為に頑張れる良い子じゃないか。何も悪いことはない。
バカみたいな物思いをしていたせいで、思考が変な方向に行ったのだ。全く、我ながら頭が悪い。
ずっと持っているわけにもいかず、本を自分のバッグにしまう。
「あの、白峰さん……大丈夫?」
「何が?」
杉本さんに心配げに声を掛けられ、首を傾げてみせた。
うっと喉を詰まらせた後、彼女は「なんでもない」と小さく呟いて片付けに戻った。
そう、何も心配されることなどないのだ。本が重いくらいだ。
「ひーちゃん、その本重そうだね?」
花梨がにょきっと首を突っ込んでバッグの中を眺めてくる。
「そうね」
「暮石くんに渡すの?」
「頼まれたもの」
「喜んでくれるかな?」
「喜ぶんじゃないかしら」
わかんないけど。
彼が獣医の勉強をしているなら、喜ぶだろう。そういう本のはずだ。
私がそう言うと、花梨がへにゃりと顔を歪めた。
「わたし、暮石くんが獣医になりたいって知らなかった~」
「私も。いつも勉強してると思ったら、そんな理由があったのね」
呟くように言うと、花梨がうんうんと頷く。
まぁ、でも、あえて話すようなことでもないかもね。将来の事について話したことはなかったし、聞けば答えてくれたのかもしれない。
「でも、あの子は知ってたんだね~」
私が思ってても形にしなかったことを、花梨があっさりと口にした。
そう、あの子は知ってた。春史くんが獣医になりたいってことを。
図書委員って言ってたから、図書室で会ってたのかな。本を探しに行ったりもしただろうから、その時に気づいたのかな。
想像というより妄想と言うしかない情景が頭の中に浮かんでは消える。
その全てを追い払って、バッグのファスナーを閉めて立ち上がった。
「さ、片付けと軽食の用意しましょ。今日はもうミーティングで終わりのはずだけど、軽く居残り練習する人もいるかもしれないから」
「うん! インハイまでがんばろ~!」
おー! と拳を上げる花梨の頭を撫で、杉本さんの手伝いに向かう。
その後、ミーティングから戻ってきた部員は全員軽く居残り練習をして、その日は解散した。
本は、ちゃんと春史くんに渡した。
少し驚いた顔をした後、「ありがとう」と本を見つめて笑う彼に、「獣医になりたいの?」と聞けなかった。
聞けば答えてくれると思う。
でも、答えてくれなかったらどうしよう、とも思う。
ひとまず今はインハイが最優先だから、と聞くのを止めた。
聞くのはいつでもできる。インハイが終わった後、ゆっくりしてから聞いても遅くはない。
そうして、答えを聞くのを引き伸ばした。
あの図書委員の子の三つ編みが、瞼の裏から消えなかった。
それから、インターハイまでは本当にあっという間だった。
春史くんを入れた新たな戦術を構築し、直前までその練習をした。
臨時入部から一週間。七月末のその日は開会式の日だった。
前日から開催地である北海道に入り、一週間ほどお世話になるホテルにチェックインする。
北海道と言えば観光やグルメで有名だが、残念ながらそんな暇はない。運営で抑えている練習場と試合会場とホテルを行き来するだけの日々となる。
場所が北海道に決まったのは良かったかもしれない。夏といえど涼しく、練習するにも試合をするにももってこいだ。
流石に昨今は暑い日もあるとのことだが、関東に比べればぐっと過ごしやすい。
「各自、鍵はなくすなよ。ホテルから出る時はフロントに預けていくこと。夕食はバイキングの日が多いが、食べ過ぎないように」
顧問の注意に元気よく返事を返し、我が校のサッカー部の面々は割り当てられた部屋へと入っていく。
私は花梨との二人部屋だ。
去年と同じく荷物を片付けた後は、花梨と連れ立って先輩マネージャーの部屋に向かう。今後の役割分担と、そして今年だけの『秘密の作戦』の為の話し合いだ。
ドアをノックすれば、「どうぞ」の声。
中に入ると、他のマネージャーは全員集まっていた。
「これで全員集まったわね」
三年生でマネージャーのまとめ役でもある信野先輩がぐるりと見回す。
そして重々しく口を開いた。
「例の作戦だけど。先生との話し合いの結果、許可が出たわ」
全員の口から安堵の息が漏れる。「よかった」と涙ぐむ人さえいた。
信野先輩は眉一つ動かさず、続きを口にする。
「決勝戦に間に合うようにするには、朝から出るしかない。体力などの面を考えて、この作戦を遂行するメンバーを選出しました」
ごくり、と誰かが喉を鳴らした。
重々しい空気に包まれた部屋の中で、先輩の目が私ともう一人を見据える。
「白峰さんと杉本さん。あなた達が実行役です。よろしくお願いします」
先輩が言い終わるか終わらないかの内に視線が私と杉本さんに集中し、「お願いします!」と唱和を浴びせられた。
私と杉本さんは目を合わせ、重々しく頷く。
花梨と離れるのは不安ではあるが、この作戦は実行されなければならない。そう思えばこそ、頷いたのだ。
あとは決勝まで勝ち進むだけだ。
ラルフや春史くんがいるといっても、勝負は時の運。上手く行くことばかりじゃないのは分かっている。
どうか勝ちますように、と柄にもなく祈りを捧げた。
インハイが開幕した。
下馬評通りにうちのサッカー部は勝ち進んだ。
一回戦はセオリー通りにラルフを中心とした攻撃的サッカーで、相手に一点も許さず10‐0の大差で勝利。
続く二回戦は前半をいつも通りの作戦でこなし、後半からは春史くんをボランチに投入し彼を司令塔とした新たな戦術を見せた。
ラルフをディフェンスに回しスイーパーとして自由に動く、『カテナチオ』と呼ばれる堅い守備を主体とした戦い方だ。
今までの我がチームとはまるで違う戦い方に、二回戦目の相手は非常に困惑していた。
堅固な守備と、そこからのカウンター・アタックによる奇襲は相手校を翻弄し、8‐0の大差で勝利した。
この戦法は大きな衝撃を与えたらしく、新聞にも取り上げられていた。『フィールドのプリンス』の新たな力として、大々的に注目された。
それこそが、春史くんの戦略なのだという。
これで、相手校はラルフのことを今までより気にする。キャプテンが怪我でいないのだから、尚更だ。
オフェンスとしてのラルフさえ気にすればいいと思っていたチームは意識改革を迫られることになる。
キャプテンの不在によってある程度生まれていた他校の心の余裕は、今やもう消し飛んでいるはず。それが春史くんの読みだった。
三回戦。
春史くんの読みが正しいことを裏付けるように、相手校の攻めは精彩を欠いていた。
ラルフがどの位置にいるか、どんな動きをしているか。
攻めるにしても守るにしても、誰も彼もがラルフを目で追い、確認してから動いている。
そこを春史くんは突いた。
ラルフを自由に動かしつつ、速いパス回しとサイドを広く使う戦い方で相手を疲労させ、生まれた隙をついてゴールを揺らす。
ポゼッションの理想的な戦い方を前半から後半まで見せつけ続けた。結果は、6‐0。一点も許さないのは相変わらずだった。
ここから、春史くんも注目されるようになる。
『プリンスのチームに現れた驚くべき伏兵』として他校からも注目され、今後の試合は彼へのマークも厳しくなることが予想された。
全てが、春史くんの思い通りに事が進んでいた。
準々決勝。
前半、ラルフをベンチに置いてプレイが始まった。
誰もが度肝を抜かれたと思う。なにせ、ラルフをベンチに置くなんて宝の持ち腐れ以外の何物でもなかったから。
春史くんを司令塔として動くチームはやはり得点力が落ち、相手校に攻め込まれる危ないシーンも多くあった。
後半、ラルフはまだベンチだった。その不可思議さに誰もが首を傾げるも、選手たちは別の結論を出したようだった。
後半開始直後から相手校は果敢に攻め込み、ついに無失点だった我が校から一点をもぎ取る。
勢いに乗った向こうがさらなる追加点を取ろうと攻め込んできた時、春史くんがボールを無理やりラインに出した。
そのタイミングで、ラルフがグラウンドに現れた。
交代した直後、ボールを奪ったラルフは素早いカウンターで早々に同点ゴールを決めた。その後も、ラルフは春史くんや他の選手のアシストで着々と点を重ねていく。
向こうのチームだってラルフが要注意だと分かっていたはずだ。だが、優勢な状態で先取点をとり、すぐ同点に追いつかれたことで焦りが出た。
勝てる、と一瞬でも思ったのに覆されたら。
よほどの人物でもない限り、その勝ちにこだわる。冷静になどなれない。勝とうとしすぎて平常心を失ってしまうものだ。
春史くんの策略にはまり、最終的には5‐1のスコアで我が校が勝利した。
春史くんの作戦を聞いたのは試合後だけれど、若干頬が引きつったのを許してほしい。だって、前世の父親よりもあくどいと思ってしまったのだ。
部員達は、「こいつが敵でなくてよかった」と本気で呟いていた。ニコニコしながら気安く勝利の喜びを分かち合っているのはラルフだけである。
しかし、ここから先はそう簡単じゃない。
準決勝。
相手校はインターハイ常連で、一昨年の優勝校。今回ばかりは策を弄する余裕もなく、前半から春史くんとラルフをダブルボランチとしたフルメンバーで挑んだ。
そしてやっぱりわかったのは、この二人は規格外ということだ。顧問が言うには、春史くんレベルの選手は全国にはそれなりにいるがラルフと合わせると誰よりも凶悪になる、とのことだが。
私から見れば、どっちもヤバい分類である。
模擬戦で見た二人の息の合ったコンビネーションは、一昨年の優勝校相手にも通用した。縦横無尽に駆け巡りパスを回しあう二人を止めることはできず、あっさりとゴールネットが揺らされる。
ムービング、と呼ばれるその戦い方は、常にボールも人も動き続けることによってゲームの状況を変化させ続ける戦法だ。
春史くんとラルフはたった二人で相手校にムービングを仕掛け、見事に惑わしきっていた。
マンマークがついたとて、一人くらいなら二人とも抜ける。二人なら春史くんは厳しくてもラルフはいける。三人でようやくラルフが少し止められるが、そうなれば他の選手へのディフェンスが薄くなるのも道理。
守備を瞬時に的確に配置できなければ、この戦法を破ることはできない。ラルフへのマークが厳しくなれば、春史くんを主体として他のフォワードでボールを回しゴールを狙う。
心まで折ってしまったのか、試合終了の笛の音が鳴った時には相手校の全選手が芝生に膝をついていた。
4‐0。
スコアも内容も圧倒的といった試合展開で、取材班は『王者のチームが生まれた』と大騒ぎをしていた。
高校サッカーを専門に配信しているネットページでは当然のように取り上げられ、過去最高のコメント数がついたらしい。
そして、決勝。
私はその日、杉本さんと共に計画を実行すべく朝から飛行場に向かった。
行き先は関東、地元。
その目的は、
病室にいるキャプテンとその他一名を決勝の場に連れてくることだった。




