番外編その4「俺たちに翼はない」
どうにもならない気持ちをぶつけるように、ただ力任せにボールを蹴りつける。
小学校に上がると同時に買ってもらった古いボールはぐにゃりと形を変え、昔に父が日曜大工で作ってくれたゴールネットを引きちぎらんばかりに伸び切らせた。
息が上がる。家に帰ってからもう何本蹴ったか覚えていない。
それでも、まだ腹の底に溜まる嫌な気持ちは抜けていかない。
ボールを掴んでまた元の位置に戻し、頭の中でゴールネットを9分割する。3、と小さく呟いて使い古しのボールを蹴り飛ばした。
ゴールポストに当たって跳ね返る。
小さく舌打ちしてボールを追いかけた。
空にはまだ天の川が見える。彦星と織姫もまだ見えてしまうだろう。
だから、空を見上げることはしなかった。
汗でシャツが張り付いて気持ち悪い。でも、着替えに戻りたくない。
気分が晴れるまで、家に入りたくなかった。
ボールを回収し、また同じ場所に戻る。3、とヤケクソ気味に呟いて渾身の力を込めて蹴った。
狙い通り右上隅のネットを揺らす。ようやく少しだけ気が晴れた。
だけど、まだ全然足りない。
ボールを取って戻り、7、と呟いて蹴りこむ。
狙い通り左下隅に吸い込まれ、呼吸も落ち着いてくる。
頭が働き始め、なんでこんなことをしているのか自問してしまう。
原因は分かっている。今日会ったあの護堂という人のせいだ。
護堂 衛士。モデル兼俳優で、何度か白峰さんとも仕事をしたことがあるという。鳥居 真希さんによって一緒の車で帰っているところを撮影された人。
僕とは一生縁のない人。
そのはずだった。
湧き上がる苛立ちを誤魔化したくて蹴り飛ばしたボールは、ポストに嫌われてあらぬ方向に飛んでいく。
芝生を踏みしめて走る。
力をなくして転がっていくボールを追い越して、無駄に広い家の庭を走りまわった。
腹の底から唸り声をあげたいのを我慢して、その分足に力を込めて芝生を蹴る。
サッカーを止めてから、こんなに走ることはなかった。
白峰さん。
僕と護堂さんが縁を持ってしまった原因の人。
彼女は色んな顔を持つ。小町さんや鳥居さんと一緒にいる時は世話好きの姉で、クラスメイトといる時は孤高の蝶で。親しい友人といる時は普通の女の子で、仕事をしている時は触れてはいけない芸術品で。
そのどれもが、キラキラと輝いている。
常に胸を張って、誰にも臆さない。恥ずべきところは何もないと真っ直ぐ前を向く彼女は、高嶺の花という言葉がぴったり似合う。
手の届かない美しいもの。軽々しく触れて汚してはならないもの。何故だか、自然とそういうふうに思えてしまう。
勿論、そんなのは僕の妄想だ。現実の彼女は力強くて少し寂しがり屋だから、そんな扱いをしようものなら嫌そうな顔をされてしまうだろう。
今日も、子供たちと楽しそうに触れ合う彼女はどこにでもいる少女だった。クラスの皆が怖がるような『姫様』はどこにもいない。
ただ、時折遠くを見る目で寂し気な表情をするのは気にかかったけれど。
意外にロマンチストだから、織姫と彦星に感情移入でもしていたのだろうか。ただの友人でしかない僕には分からない。
そう、友人だ。
僕は彼女と、友達になれた。
普通ならあり得ない。サッカーを止めた僕はスクールカーストで言えば底辺で、彼女はそんなものを超越したところに存在する絶対者だ。
友人どころか、お近づきになるのも難しい。
未だにどこかで現実と受け止められていなかったのかもしれない。
きっと、舞い上がっていたのだ。あんなに綺麗で優しくて強い子が、僕のことを大事な友人だと認めてくれたから。
だから、護堂さんに現実を突きつけられてこんなにも動揺しているのだ。
歯を食いしばる。
今日の内に胸の中の変なものは発散してしまいたい。
明日からは、また当たり前の学校生活に戻るのだ。
友人として、平和で暖かな日常を繰り返す日々を。
それを、僕は望んでいる。
きっと、彼女もそう望んでいるはずだ。
芝生を蹴りつけて、体力が尽きるまで走った。
頭の中が真っ白になって、余計なことを何も考えられなくなるまで。
――「君はさ、昼子ちゃんのことどう思ってるの?」
「はい?」
七夕も佳境に入り、短冊を釣った笹を燃えやすいよう切り分けている最中。
突然、護堂さんがそんな話を振ってきた。
「気になるでしょ、そりゃ。さっきから人の邪魔ばっかしてきてるんだし」
「邪魔、って……」
手を止めることなく明日の天気でも話すように言う護堂さんに、僕は言葉に詰まるしかなかった。
櫓の火が爆ぜる音と、笹を切る音が断続的に響く。
「そんなことしてません、なんて言い訳は通用しないからね。一応言っておくけど、僕は彼女に告白してるから」
「こくっ!?」
思わずオウム返ししそうになり、慌てて口を閉じて周囲を見る。
誰もこちらの話に注意を払っていないようだ。ほっとして胸を撫でおろす。
「まぁ、フラれたけど。一応猶予はもらえたから、友達として再チャレンジ中」
「……そんなこと、僕に言ってどうするつもりですか」
訝し気に彼を見やれば、呆れた表情が返ってきた。
どこかイラっとしてしまう。
「君ねぇ……まぁいいや。そんな俺としては、彼女と仲を深めるのを邪魔されたくないんだよ。分かってくれる?」
今度は明確に苛立ちが沸き上がった。
なんでそんなことを僕が配慮しなければならないのか。大体フラられたというのなら諦めればいいものを。しつこい男は嫌われるらしい。
「彼女が望んでいるなら、余計なことはしません」
「……で、最初の質問に戻るんだけど。君は、昼子ちゃんのことをどう思ってるの?」
腹の底がムカムカしてくる。
人を見定めるようなその目も、小馬鹿にしたような口調も。
そのどれもが、腹立たしさを助長させてくる。
「大事な友人です」
はっきり言ってやると、彼の目が細まった。
獲物を前にした猛禽類のような目つきに、ほんの少しだけ体が震えた。
「何か勘違いしてるかもしれないけどさ。君と昼子ちゃんは、同じ世界の住人じゃないんだよ」
また唐突に話を変えられた。
今度は話の内容まで唐突で、僕は彼の次の言葉を待つしかなかった。
「彼女は業界のトップに立てる人材だ。今もその才能に目をつけてる人は多い」
紫藤さんとかね、と付け足すように呟く。
彼女が読者モデルをしていることは知っているが、そんなに高い評価を受けているとは知らなかった。
というか、読者モデルから業界のトップっていけるのか……? そこらへんはさっぱり分からない。
「直哉……市松 直哉って知ってるかな? あいつはそうそう簡単に人を認めない。彼女はその数少ない一人なんだ。間違いなく、スターの素質を持っている」
市松 直哉。知っている。芸能界に疎い自分も耳にすることがあるくらいの超有名人だ。
そんな人に認められているなんて知らなかった。
遠い人だと分かっていた。
それなのに、こうして目の前に突き付けられると何も言えなくなる。
「将来、彼女を支えられるのは近くにいる人間だけ。離れて想うなんてよく言うけど、人間そんなに強くないよ。『ただのお友達』なら、彼女の為に何ができるかちゃんと考えた方がいいんじゃないかな」
それは、提案と言う形をとった宣告だった。
僕は、芸能人でもなんでもない。特別な才能も特にない。
護堂さんと違って、彼女の傍に居続けることはできないだろう。
それは、彼女と会った時からずっと思っていた。
きっと、高校の間だけの関係なんだって。
そこから先、きっと僕はクラスメイトの一人となって彼女の記憶から忘れ去られていくんだろうな、と。
そう、思っていた。
その全てを、見透かされているような気分になった。
「覚悟がないなら、引いてほしい。邪魔なんだ」
それが最後とばかりに、護堂さんは笹を切る作業に集中し始めた。
黙々と作業を続ける護堂さんを手伝いながら、僕の中では彼の言葉がずっと反芻されていた。
覚悟がないなら。
何の覚悟が必要なのだろうか。
僕に芸能界に飛び込めとでもいうのだろうか。そんなの無理だ。
邪魔なんだ。
白峰さんと二人きりにさせろ、という意味なんだろう。
思い起こせば、今日の僕はやたらと気にしていたように思う。白峰さんが困っていたみたいだから、助けていたつもりなんだけれど。
それが、有難迷惑だったのだろうか。
引いてほしい。
その言葉の意味だけが、良く分からなかった。
だから、僕は何も言い返すことができなくて。
胃の腑の底で、嫌な気持ちだけがどんどん降り積もっていって。
護堂さんと二人で少し離れた場所に行く彼女を見送ることしかできなかった。
帰りに護堂さんの車に揺られながら、言葉にできない敗北感に締め付けられる。
家に帰りついてすぐ、ボールを持って裏庭に出た。
ただ、ムシャクシャしてどうしようもなかったから――
翌朝。
いつものように姉とコンビニ弁当を食べて、早めに教室について勉強をする。
少し疲れが残って眠たいが、支障が出るほどじゃない。適当な缶コーヒーでも買えばよかったと思っていたところで、クラスメイトの女子が話しかけてきた。
「ね、ね、暮石くん。昨日の烏丸家の七夕に護堂さんが参加したって本当?」
「……あぁ、うん。本当だよ」
一瞬どう答えるべきか迷ったが、正直に答えた。
当の護堂さんも隠している風ではなかったし、問題はないだろう。
女子生徒は「やっぱりー!」と叫んで、友人と騒ぎながら離れていく。誤魔化した方がよかったかと遅ればせながら思ったけれど、どうせ昨日はかなりの人に見られている。言っても言わなくても同じことだろう。
少し経って、小町さんと白峰さんが一緒に教室に入ってくる。
二人はいつも一緒だ。聞けば生まれた頃から付き合いがあるのだとか。本物の幼馴染というやつだ。
そこでふと、小学校からの幼馴染の事を思い出した。こっちに越してくるときに別れてからろくに連絡も取っていないが、元気にしているだろうか。
二人は周囲の視線など気にも止めずに雑談しながら席に着く。あれは流石だと思う。
七夕に護堂さんが来ていたことは結構広まっているようで、好奇の視線が注がれているのに動じたところがない。
多分、慣れているというのもあるのだろう。あれだけ美人の二人で、モデルまでやっているのだ。周囲の注目など浴びすぎて麻痺しているのかもしれない。
住む世界が違う。
昨日の彼の言葉が頭を過ぎる。
確かにそうだと、学校生活ですら思う。
ラルフはきっと彼女たちの側の人間だ。だとすれば、自分だけが途方もなく場違いなように思えてしまう。
ラルフも小町さんも白峰さんも気にしないだろうが。そんなことを言えば、何を言っているのかと呆れられるのかもしれない。
その反応が来ること自体が、世界が違うと思えてきてどうにもならない。
ため息を飲み込んで勉強に集中する。
HRが始まるまで、久しぶりに夢中になってペンを走らせていた。
担任教師が着席を促し、チャイムと共にHRが始まる。
今日の要連絡事項は、プールの授業が始まることについてだった。
その瞬間、クラスの男子の一部の視線が白峰さんに注がれる気配を感じた。
そのことに、何故だかどうしようもないほどの苛立ちを感じる。
彼らは白峰さんの水着姿を想像しているのだろうか。
そう思うと、腹の底がムカムカして仕方がなかった。
深く息を吐いて苛立ちを逃がす。
自分で制御できない感情に支配されることは、中学三年の時に既に味わっている。
こういうのは時間に任せるしかないのだ。
今できることは、なるべくネガティブにならないよう立ち回ることくらいだ。
HRの半分くらいを聞き流しつつ、自分の心を落ち着けることに神経を集中させた。
プールの授業は、翌日には始まった。
予想通り、というかそれ以上に白峰さんの水着姿は眩しく、あの時以上の数の視線が彼女に注がれていた。
隣の小町さんも輝かんばかりの可愛らしさだが、ラルフの手前皆自重している。流石にいくら思春期男子とはいえラルフの不興を買うつもりはないらしい。
その点、白峰さんはフリーだ。誰に咎められる謂れもないということだろう。
シャワーを浴びて体操を終え、軽く一本泳ぎ終えて男女混合のリレーが始まる。白峰さんは三本目のコースで、次の泳者として台の上に立つ。
競泳タイプの水着はボディラインをしっかりと浮かび上がらせ、邪魔にならないよう後ろでまとめた髪のせいでうなじが見え隠れする。
そこには、『姫様』と呼ばれるに足るだけの美しさがあった。
「なぁ、おい、暮石。っぱ『姫様』はやべーよな!」
「いやー、普段はきっつい雰囲気でわかんないけど、モデルやってるだけあってスタイルすげーって!」
クラスメイトで席も近い男子が二人、絡んでくる。
彼らに悪気はない。分かっている。
それでも、腹立たしいのはどうしようもない。
「小町さんもすげーけど、体つきは姫様のがやっぱやべぇ」
「エッロいよなぁ。ほんとに同じ高校生かってくらい。あれで性格がもうちょい大人しかったらなー」
初めてのプールの授業ということもあって、タガが外れているのだ。
分かっている。分かっているけど、頭の中が瞬間的に沸騰した。
「随分好き勝手言うね。その視線止めた方が良いよ、モテないから」
「……はぁ?」
「おい、暮石?」
友好的とは言えない口調の二人と視線を合わせ、にっこりと微笑んで見せる。
何故か二人とも怯えたウサギみたいな顔をした。
「くだらない批評してる暇があったら真面目に授業受けなよ。じゃ、僕の出番次だから」
軽く手を振って去ろうとして、振り返った。
「二度目は、許さないから」
静かに言うと、二人はぎこちなく頷いてくれた。
三本目のコースに並ぶ。白峰さんが水泳部並の速度で泳いでくる。
七夕の夜から、慢性的に気持ち悪いものが腹の底に渦巻いている。
それをどうにもできないでいることが、一番ストレスを感じていた。
白峰さんの手がコースのふちに触れる。
白くて細い指先。小町さんの頭を撫で、美味しい料理を作り、子供たちに星を教える柔らかな指先。
その指が僕に触れたのは、初めて会ったあの一回きりだ。
護堂さんとは、もっと多く触れ合ったのだろうか。
その暖かな指先で、彼に触れたことがあるのだろうか。
体の中で何かが爆発した。
コースを蹴りつけ、頭から水に突っ込む。
どうにもならない気持ちを吐き出すように、がむしゃらに水を掻き足を動かした。
50mじゃ、あまりにも短い。
この気分を発散するには、もっと泳ぎたいのに。
プールサイドに上がった時、あの二人と目が合った。
二人とも怯えたように目を逸らし、慌てて自分のコースに並んでいた。
髪をかき上げ、ため息を吐く。
一体いつまでこの苛立ちと付き合えばいいのだろうか。
可能な限り早くなくなってくれるように祈るが、経験則からするとこういうのは決して自分の思い通りにならない。
セブンがいなくなった、あの時のように。
水にぬれて邪魔な髪を掻きまわして、泳ぎ終わった人の列に並ぶ。
白峰さんは、小町さんと楽しそうに何かの話をしていた。
自分が周りからどう見られているかも知らず、呑気なものだ。
あの調子では、自分に浴びせられている視線の意味も知らないんじゃなかろうか。
それもなんだか腹立たしく感じられて、もう一度髪をひっつかんだ。
プールの授業以外の七月は、比較的おとなしく過ぎていった。
期末試験も終わり夏休みを前にするからか、学校全体の空気もどことなく弛緩している。休み時間には早くも夏休みをどう過ごすか相談する人達もいた。
そんな七月だが、ラルフも小町さんも白峰さんも忙しそうだった。
サッカー部はインターハイを前にしてラルフに釣られて猛特訓を行っている。臨時マネージャーとしてその手伝いとケアをしている二人も大変そうだ。
どちらかと言えばサッカーは冬の選手権大会の方が本番だが、インハイも大きな目標の一つになっている。ここで勝って冬に向けて弾みをつけたい高校も多い。
だから最近は一人になることが多く、放課後には図書館で勉強することが増えた。
家に帰って本当に一人になると、七夕の日の事やうちに白峰さんが来た日のことを思い返して無性にボールを蹴りたくなるからダメだ。勉強が捗らない。
図書室はいい。下手なことはできないし、周りに多少なりと人がいるから抑制も効く。他人を意識するから逆に勉強に集中できたりもする。
そうしている内に仲良くしてくれる人もできた。
図書委員の平下さん。三つ編みの大人しい子で、いつも静かに受付に座っている。
何か良い本はないか聞いたのがきっかけで、今ではお勧めの本を教え合う関係だ。
解剖学の本や動物の病気についての本も教えてくれて、良い勉強になっている。
彼女は当番の日じゃなくても図書室にいる。毎日会うから、よほど本が好きなんだと思う。
人と話していると嫌なことを考えずに済む。だから、彼女と話しながら勉強をするのはここ最近の日課のようになっていた。
下校時刻まで勉強して、頑張っているラルフ達を横目に家に帰りボールを持って裏庭に出る。
それが、七月の日常だった。
別に家に帰ってからボールを蹴る必要はないだろと言われればそうなのだが、へとへとになって眠りにつかないと嫌な夢を見そうで嫌だったのだ。
頭の中が空っぽになるまで走って蹴って、風呂に入って寝る。それが、七夕の日からずっとルーティンになっていた。
そうして、気が付けば一学期も終業式の日を迎えていた。
朝から浮足立つ生徒ばかりで、夏休みにどこに遊びに行くか話し合う声で校舎が満ちる。
僕はと言えば、どこに行く予定もなく家……いや図書館で勉強漬けの毎日を送る予定だ。できれば休みとはいえ図書館に人がいて欲しい。
小町さんと白峰さんも楽しそうに何か話している。多分、夏休みの話かインハイの話だろう。去年は夏冬と制覇したらしいし、今年も学校全体でサッカー部に連覇を期待している。
ラルフはすごい。サッカーをやっていた身としては、確かにあんなエースがいたら張り切ってしまうだろうと思う。
球技大会ではガラにもなく熱くなって張り合ってしまい、ボロボロにされてしまった。サッカーから離れていたこともあって……いや、例えサッカーをずっと続けていたとしても、勝てなかっただろう。
そのくらい、ラルフは圧倒的だった。
『フィールドのプリンス』と呼ばれるのも納得だ。僕も、久しぶりにサッカーの試合を見に行こうかと思っている。
ラルフは友達だし、何よりそのプレーを見てみたい。
そうして気合を分けてもらえば、勉強にももっと身が入るだろう。
そう思って気合を入れ直し参考書を開く。
と、教室のドアがけたたましい音を立てて開かれた。
「花梨! 白峰! ハル! 来てくれ!」
緊迫した声に振り向けば、真剣な顔をしたラルフがドアに手をかけていた。
余りの事についていけず呆けていると、
「春史くん、行ける?」
いつの間にか近くに立っていた白峰さんに声をかけられた。
「は、はい」
とにかく頷いて、席を立つ。
僕たち三人が向かってくるのを見ると、ラルフはすぐさま背を向けた。
「ついてきてくれ」
言葉短かにそう言うと、早足で歩きだす。
小町さんも白峰さんもそれに文句も言わず、小走りになって後を追う。
なんだろう、と思う。
何か、良くないことが起きている気がする。
それは、予感と言うよりも確信に近かった。
ラルフのあんな顔、初めて見た。サッカー部への勧誘を断った時ですら、もう少し柔らかい表情をしていたと思う。
黙ってラルフの後をついていくと、ある会議室へと通された。
中に入ると、サッカー部の部員が勢ぞろいしていて、ボードの前には顧問の先生がいかめしい顔をして立っていた。
明らかにただ事ではない雰囲気に、体が硬くなる。
顧問の先生は僕をちらりと見、何も言わず部員達に向き直った。
「先ほど伝えた通り、レギュラーに二名の欠員が出た。二年の飯塚 雅也と、三年のキャプテン下原 誠だ。飯塚は誤って段差を踏み外し腕の骨折、下原は暴走車両から登校中の小学生を守ろうとし足の骨折。両名とも命に別状はなく、全治一か月はかかるとの見通しで、冬には間に合うはずだ」
部員から安堵と舌打ちと絶望の呻きが漏れる。
インハイまであと一週間。
そこまで来て、レギュラーが二名も怪我をした。
治るのは間に合わない。連覇の期待がかかっている今、重い事実としてそれは全員の肩に圧し掛かっている。
しかも、片方はキャプテンだ。
簡単に代わりができる人材じゃない。レギュラーから惜しくも漏れた人を繰り上げればいいなどという話では済まない。
根本的に戦術やチームワークの変更を求められる。
いくらラルフがエースとはいえ、エースだけで試合ができないのがサッカーだ。キャプテンとは精神的支柱でもある。その人が欠ければ、戦力はガタ落ち必至だ。
「下原から言伝を預かっている。『後の事はラルフに任せる。“無敗の天才、初の敗北”なんて不名誉を俺の代に残すな。意地でも勝て』」
顧問が告げたメッセージに、部員達の目に力がこもる。
凄い人だ。夏と冬の大会はサッカー部にとって総決算とも言えるものだ。特に三年の冬となれば受験の事もある。ここはそこまでの進学校ではないとはいえ、引退する三年生もいるのではないだろうか。
そう考えると、夏の大会を逃すのは苦しい結果に違いない。しかも、それが暴走車両から他人を助けてのものだなんて。神様を恨んでも仕方ない状況だろう。
それなのに、落胆しているであろう部員達の為に激励するだなんて。よっぽど人間出来ていないと出来ないことだ。
彼がキャプテンでラルフのいるこのチームなら、間違いなく優勝できていただろう。それだけに、怪我が悔やまれてならない。
部員達も同じ気持ちなのだろう、歯を食いしばっている人もいる。
「今日の部活はブリーフィングを行う。レギュラー二名を早急に選ばなければならない。各人、心構えはしておけ」
「それについて、提案があります」
顧問の先生がまとめようとしているところに、ラルフが口を挟んだ。
顧問が訝し気にラルフを見やり、部員達の視線も集まる。
全員の注目が集まっていることを確認したラルフが、ゆっくりと口を開く。
「下原先輩の代わりは、誰にも務まりません。彼の穴は、決して埋まりません」
「そんなことは分かっている。それでもなんとかするしかないだろう」
顧問の真っ当な言い分に、ラルフは頷く。
「はい。ですから、俺は穴を埋める方向じゃなく、新しいものを追加する方向で考えました」
「新しいものを……?」
訝し気な顧問や部員達の視線を受け流し、ラルフは僕の方を振り向いた。
その目は、ただ真っ直ぐに僕を見据えていた。
「ハル。お前の力を貸してくれ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
それが下原キャプテンの代わりにサッカー部に入って欲しいという意味だと分かった時、同じように理解したらしい部員達から怒号が飛んだ。
「ラルフ!! ふざけんなよ!!! サッカー部でもない奴に何言ってやがる!!」
「ふざけてねぇ!! これが一番いい方法なんだ!!」
「バカか!? そんなド素人入れてどうすんだ!!!」
「素人じゃねぇ!!」
「そういう問題じゃねぇよ!! 今まで俺達でずっとやってきて、戦術だって組み立ててきたんだ!! いきなり横から助っ人入れてどうしようってんだ!!」
次々襲い来る否定の言葉に、それでもラルフは正面から立ち向かっていった。
自分には何も恥ずべきところはないと、胸を張って。
「ハルなら対応できる! 戦術なら教えりゃいいし、一週間もある! その間にハルを入れた戦い方だって練習できるだろ!!」
「そうじゃねぇ!!! そうじゃねぇよ!!!! キャプテンの代わりは誰にも務まらねぇってお前が言ったじゃねぇか!!!」
彼らの言わんとすることは分かる。
部活ってのは、勝つ為だけにやってきたわけじゃない。スポーツっていうのは、勝てばなんでもいいわけじゃない。
そこにある絆は、時として勝敗を左右するほど大事なものなんだ。
「ハルがキャプテンの代わりになるわけねぇだろ!!!!」
部屋全てを圧するほどの怒号。
ラルフから発された心を引き絞るようなその声は、耳から入って頭を揺さぶり心をからめとった。
悲痛なまでの叫びに、誰も何も言えなかった。
「去年、あの人がいなかったら俺達勝てたかよ!? 最終戦、あの試合で最後まで俺を信じてくれたのはあの人だった!!! 最後のパスを通す為に無様に転がってくれたのはキャプテンだったんだ!!!!」
去年のことなんて、僕は知らない。
けれど、ラルフが下原キャプテンのことを大事に思っていることだけは伝わってきた。
涙をこらえるラルフなんて、初めて見たから。
「その人が、『勝て』っつったんだ!! 俺達はあの人が帰ってくる冬まで一敗もしちゃいけねぇ!! 勝って、勝って、あの人が率いたチームは最強だったって言わせなきゃいけねぇだろうが!!!」
誰も、何も言わなかった。
その言葉が、正しいときっと分かっていたから。
ラルフが息を吐く。
「ハルなら、勝てる。キャプテンの穴埋めなんて誰にもできねぇけど、ハルなら新しい力になる。俺だって、そうじゃなきゃ部外の人間に頼まない」
会議室がしんと静まり返る。
それまで反対意見を述べていた全員が、じっと黙って僕を見つめていた。
ラルフが振り返る。
その瞳に映る僕は、茫然と突っ立っていた。
「頼む、ハル。夏の間だけでいい、力を貸してくれ。お前の力が必要なんだ」
その言葉に、手足が痺れた。
サッカー部には、二度と入らないと決めていた。
いや、サッカー自体二度とやることはないと思っていたんだ。
家のゴールネットも、このままさび付いていくだけだと思っていた。
それなのに。
ラルフを見つめる。
揺らぐことなく僕を見つめる瞳には、果てしない力強さがあった。
セブンがいなくなったあの時。
あれほど大好きだったサッカーを恨みそうになった時。
嫌いにならないよう封印していたはずだったのに。
いつの間にか、またサッカーに触れてしまっていた。
深呼吸をする。
僕は、どうしたいのか。
きっとここで断っても、ラルフは仕方ないと頷いてくれる。
でも、僕はそれでいいのか。
前の高校で、僕は友人を裏切ってしまった。
また、ここでも友達を裏切るのか。
僕と同じ、サッカーが大好きな人達の思いを知らぬふりをして。
それでも、セブンに縋り続けたいのか。
息を吸う。
もう、サッカーはしないと決めていた。
息を吐く。
それは多分、ある意味で僕の『逃げ』だったのだろう。
大事な思いを言い訳にして、他の大切な気持ちを踏みにじるのはもうやめよう。
「僕で良ければ」
中学三年の夏。
セブンが死んでから、二年。
僕のサッカーが、もう一度始まった。
次回は昼子視点に戻ります




