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第二十九話

 CM撮影は一週間かかる――とはいえ、一週間ずっと撮り続けるわけじゃない。

 私のスケジュールは抑えられてるけど、他の人――特に大人気俳優たる市松さんのスケジュールはそう簡単に抑えられないのだ。


 そんなわけで、一週間の内スケジュールが合う時に一気に撮る、という形なのだと日曜終わりにスタッフさんから聞いた。

 そんなわけで、私は花梨達と一緒に勉強する時間を作ることが出来た。


 やったー! と喜んでいたのもつかの間、彼がいなくても撮れるシーンは別に撮るという話なので、やっぱり今週は忙しいのが確定してしまった。

 それでも、勉強会に一、二回くらいなら参加できそうだ。全滅を覚悟していただけにかなり嬉しい。

 本日月曜は、その貴重な勉強会に参加できる機会を得られた日である。


 いつものように朝の準備を済ませ、いつものように護堂さんに返信する。そういえば市松さんのことを伏せていた件について問い詰めようと思っていたんだった。

 まぁ、もういいや。結構いい人だったし……腹立つけど。

 花梨を迎えに行って勉強会に参加できると告げると、嬉しそうに笑ってくれた。


 二人で適当な話をしながら登校し、放課後を待ち遠しく思いながら過ごす。

 午前が過ぎお昼を食べて午後の授業が終わる。

 窓から見える太陽はまだ空の上で照り付けていて、夏の気配を感じさせた。


「帰りましょうか」

「うん! 暮石くーん!」


 手を振る花梨に微笑を返し、春史くんが鞄を持って立ち上がる。

 勉強会のメンバーは、花梨、私、ラルフ、春史くんの四人。誰が何を言うともなく、自然とそうなっていた。

 ラルフを迎えに行って、花梨の家に向かう。別に図書館とかでもいいが、ラルフ目当ての女子が大量に湧くので集中し辛いのだ。


 勉強会は、小町邸と烏丸邸で開催することが殆どだった。我が家が入っていないのは、弟による激しい抵抗にあったせいである。

 これからは暮石邸も候補に入るのかな、と思いながら歩く。


「にしてもさー、部活禁止はひでぇよなぁ」

「学生は学業が本分だからね」

「体が鈍っちまうじゃんか」

「それは筋トレとかで対処するしかないかな」


 テスト前の毎度のボヤキをするラルフに、暮石くんが律儀に応える。

 うちの学校は、テスト一週間前からテスト終了まで部活動は休止になる。

 大会前などの特別な事情がある場合を除いて、実質的に禁止扱いなのだ。


「練習できる場所くらい家に幾らでもあるでしょ」

「オレはいいんだよ、チームの問題!」


 私が突っ込むと、ラルフがいつもの文句を繰り出してきた。

 ラルフの家――烏丸家ならサッカーができる場所くらい幾らでもある。ていうか、サッカー場があるのだ。家の敷地内に。

 とはいえ、テスト休みにチーム全員ラルフの家に呼んで練習するんじゃ部活と一緒だ。一応は真面目なラルフはそういうことはしたくないらしい。


「いいじゃない、テスト終わったらインハイに向けて猛練習でしょ? 最後の休息くらいとらないと」

「お前の言い方ってたまに怖ぇよな……」


 眉尻を下げるラルフの視線をスルーして前を向く。

 嘘は言っていない。インハイ前はラルフが張り切って練習するので、皆それに釣られるのだ。そしてラルフはほぼ無尽蔵に近い体力持ちである。

 練習後は滝に打たれたように汗でずぶぬれになった部員達が、死屍累々と地面に転がることになる。それが、インハイ直前まで続く。

 あれはもう、部員の皆が哀れというかなんというか……去年を知ってる二~三年生は悲壮な覚悟をしていることだろう。なので、テスト前くらい休ませてあげたい。


「インハイは来月だったね」

「おぅ! 応援きてくれよな!」

「勿論」


 拳を握りしめるラルフに、目を細めて春史くんが頷く。

 その顔は、なんだか懐かしそうな、どこか羨ましそうな……複雑な表情をしていた。

 そういえば、半月ほど前にインハイ出場が決まった時も似たような顔をしていた気がする。

 横断幕を見上げる横顔が、いつもと違う感じがしたのを覚えている。


 サッカーが好き……ってだけじゃないよね、やっぱり。この前の小百合さんの態度といい、何かあるのは間違いない。

 その何かを、聞く勇気がずっと持てないんだけども、


「ラルフくん、今年もお手伝いする?」

「あぁ、頼めるか? 今年は監督も張り切ってるから、マネ一人映像分析に回されそうなんだよ」


 ラルフが軽く拝むと、花梨は嬉しそうに首を上下に振った。

 映像、ってことは他校の試合を撮ってるんだな。ラルフもいるし、去年のインハイ優勝で多分父母会も張り切って手伝ったんだろう。


 相手校の戦術分析に選手一人一人の能力分析。スコアやシュート数から見るスタイルの好みやチームの性格など、試合映像から分かること・できることは多い。

 そういうのは監督の仕事だけど、学校の先生でもあるから時間は限られている。

 その分をマネージャーが補填する、というのが基本的なやり方だ。しかしそうなると、必然的に人手が足りなくなる。

 普通はそこを人員を増やしたりある程度手を抜いたりで対処するが、ラルフがいるとどっちもダメになる。


 人員を確保しようにもラルフ目当ての女子はほぼ役に立たないから厳選が必要になるし、ラルフがいると勝利への希望がちらつかされて皆すごく張り切ってしまう。

 おかげでどうにもならない人手不足に陥り、あっちこっち手が回らなくなる。

 それが、中学時代からずっとサッカー部を手伝ってきた理由だ。見かねた花梨が手伝いを申し出てから、ずっとその形が続いている。


「去年はラルフが高校でも通用するか半信半疑だったものね」

「今年は違うぜ! 全員で優勝一直線だ!」


 去年は、まぁ色々と大変だった。その記憶を思い出しながら突っついてみたが、ラルフはもうすっかり忘れているのかキラッキラの瞳で明日しか見ていない。

 こいつの頭はおめでたくて羨ましくなる。

 先輩方から妬まれたり、拗ねられたり。監督もラルフの能力を信じきれない采配をずっとしていたし、インハイで勝ち上がる度に先輩達の顔は曇っていった。


 極めつけは準決勝戦で二点先取された状態でのハーフタイムだ。

 控室で先輩達とラルフがかち合い、監督は見ているだけ。結局花梨と私が口を出してなんとか後半戦に臨んだのだ。

 試合中、彼らがどういう気持ちだったのかは知らない。どういう変遷があったのかも。

 けど、結果として勝利し、続く決勝戦は見違えるようなチームワークで快勝した。


 それは、いいことなんだけど。

 あの控室の空気は最悪だった。二度と味わいたくない。

 マネージャーの手伝いもあんまりやる気はなかったのだが……そんな私を、花梨の瞳が捉えた。


 何かを期待する視線に、肩が重くなっていく。

 今年は花梨だけでいいでしょ、私は遠慮します。そう言おうと思うのに、縋るような花梨の目に追い詰められていく。

 観念してため息を吐いた。


「暇があれば、私も手伝うわ」

「おぅ、頼むぜ!」


 渋々口にする私に、ラルフがとてもいい笑顔でサムズアップする。

 この能天気野郎め! 悪いことだけすっぱり忘れてやがって!

 でも、そこは私も見習うべきところかもしれないと思う。


 悪いことだけ覚えていても、ストレスになるだけだ。反省や改善はすべきだとしても、嫌な記憶を引きずっていいことはない。

 ……前世の記憶を引きずってる私が言っても説得力はないが。


 ラルフから視線を外せば、ニコニコと笑う春史くんが見えた。

 ふと思う。

 サッカー好きなんだったら、手伝ってくれないかな?


 何の気なしに思いついたそれは、存外いいアイディアに思えた。

 春史くんがサッカーが好きなのは間違いない。と思う。そのはずだ。多分。

 ラルフと張り合って夕太を手玉に取るくらいだ、ルールにも精通しているだろう。彼が手伝ってくれれば、すごくいいのではなかろうか。


 ていうか、それならラルフが誘ってもいいはずなのに。花梨と私は誘うのに、春史くんには水を向けない。

 今こそ絶好のタイミングだというのに、だ。


 そっとラルフと春史くんを交互に見る。

 話題は変わって、何でもない世間話をしている。


 もしかして。

 もしかして、ラルフは私の知らない春史くんの事情を知っているんだろうか。

 だから、誘うにはバッチリのタイミングで黙っているのだろうか。


 それは、なんだか。

 すごく、胸の奥がモヤモヤした。


 二人から視線を逸らして、花梨と何でもない話をする。

 抜群に癒される花梨の笑顔を見ても、胸のモヤは晴れなかった。





 花梨の家での勉強会はスムーズに進んだ。

 元々花梨以外はそれほど勉強することもない。軽い復習とテスト範囲のおさらいをするくらいだ。

 肝心要の花梨の勉強は、なんとか一教科分のテスト範囲を詰め込めたと思う。

 ラルフは甘いし春史くんは優しいしで、あんまり詰め込み教育には向いていない。私は花梨の為に心を鬼にして詰め込ませた。


 途中花梨が半泣きで、

「ひーちゃんこわい~」

 と言った時はうっかり手を緩めそうになったが。


 赤点を取って困るのは花梨なのだ。普段の勉強会は緩くてもいいが、試験前はそうも言っていられない。

 それでも、何かにつけて勉強していたおかげもあって、一日一教科ならスムーズにいけそうだ。

 この後のことを二人に任せるのは若干不安だが、仕事なので致し方がない。


 一日一教科、泣いても喚いても甘やかさず、と告げればラルフは渋面を作り春史くんは苦笑して頷いた。

 ひーちゃんのおに~、と花梨が呻くが気にしない。

 これも貴女の為なのよ、と前世の母が自分に言っていた言葉を心の中で贈った。口に出すにはちょっと……なので。


 そうこうしている内に一日は過ぎ、テスト期間二日目。

 今日の放課後はスタジオでの撮影だ。CMは外の場面だけじゃなく室内のシーンもあるので、そういうのを撮る。

 広いスタジオには家の断面図みたいなセットが用意されており、シーンによって使い分ける為の他のセットの材料が奥に置かれていた。

 こういうのは、一応モデルの撮影でも経験がある。


 渡された台本は読み込んできたので、もうなくてもどこかそらんじれる。今日撮るのはシーン6の祖母と少年の会話、シーン17の少女と少年が神社の縁側で話すところ。他にも時間があれば監督の采配で撮るらしい。

 それにしても、モデルの時と違ってセットが凄い。本格的というか、本当に実際の建物と遜色ない。

 神社のセットなんか砂利まで再現しててヤバイと思った。


 まぁでも、そうだよね。都合よく撮影できるかわかんないし、ちょうどいいロケ地が見つかるかもわかんないし。天候の影響がないセットで撮れるなら一番いいよね。

 技術の進歩を感じていると、何か柔らかいもので頭を叩かれた。


「ぼーっとするな。次、出番だぞ」


 振り向けば、市松さんがいた。手には台本。

 ……台本で頭を叩くって、昔のドラマじゃないんだから。


「分かってます。感心していただけです」

「セットに? そんな珍しいもんか?」


 市松さんは不思議そうに眉根を寄せるが、そりゃあんたが子供の頃から見慣れているだけだと言いたい。

 本物そっくりに作りこまれた大道具なんて、普通見る機会ないからね。


「こっちの仕事も受けるようになれば、嫌と言うほど見れるぞ」

「遠慮します」


 少なくとも高校卒業までは。

 市松さんは苦笑し、私を連れてセットに登った。



――神社の縁側に二人で座る。彼の瞳が真っ直ぐに私を映す。

「ずっとここに住んでるの?」

「うん、そう。ずっと、ずーっとここに居るの」

 小さく微笑んで、彼から視線を逸らす。

 その視線の向こうに見ているのは、遥かな過去。まだこの町が活気に溢れていた頃。

「……一人で?」

 その声があまりに心配げで、思わず笑みがこぼれてしまう。

「今は君がいるかな」

 そう言うと、彼の顔がくしゃりと悲しそうに歪む。

 サンダルに足をつっかけて、水汲み場にある水の張った桶の中に手を突っ込む。

 ペットボトルを一本取り出して、口をつけた。

「冷たいよ。飲む?」

 差し出したボトルを彼はそっと掴んで、ごくりと一口飲んだ。

「甘い……」

 思わず零れた呟きは、聞こえないふりをした――



「はい、カーット!!」


 一気に肩から力が抜ける。

 バタバタとスタッフさん達が動き回り、機材の確認と映像のチェックをしている。ここから監督や演出家の人達で話し合い、コンテが変わったりする。

 でも、今のは疲れた。一回流してみてみたいと言われたからやったけど、本来はこのシーンはだいぶぶつ切りのはずだ。だから、撮り直しは確定。


 ドラマとかでよく同じシーンでも位置や角度が変わって描写されるけど、あれは一々別に撮っているのだ。

 そうじゃないと他のカメラが映りこんだりする。アップを撮って、カメラを移動して位置を決めて次のセリフを撮って、またカメラを移してその次のセリフ、と撮っていく。実際は不自然にならないよう少し前のセリフから少し後まで撮るんだけど、どっちにしろ短いことには違いない。

 その短い間でちゃんと芝居をするっていうのは、結構大変だ。長く芝居を続けるのも大変だけど。


 本物同然のセットでの撮影は最初こそ少し浮足だったが、すぐにそんな余裕は吹き飛んだ。日曜もそうだったが、市松さんの圧が凄い。

 特にプレッシャーをかけてるというんじゃなくて、とにかく上手いのだ。

 役に入り込んだ彼に見られると、半端な自分が恥ずかしくなって自然と懸命になる。


 上手い下手は見る人次第と市松さんは言ったが、彼を下手だと言う人はいないんじゃないかと思う。

 演じている感じが全然しない。まさに17歳くらいの少年がそこにいる感覚。カットの声が入ってようやくそう言えばあの人22歳だったと思い出す。


 日曜は初の芝居にロケと色んな理由で最初から余裕が削れていて分からなかったけれど、こうして見ると如何に彼が凄いか分かる。

 それでいてラルフに匹敵するイケメン。芸能二世。放っておく理由がどこにもない。

 芸能界のサラブレッドは伊達じゃなかった。


「今日も監督は気合入ってるな」

「……そうですか?」


 頷いて、彼はブルーマリン味を一口飲む。

 さっきとは逆に、彼が私にボトルを差し出してきた。


「まだ時間あるし、コンテ少し考え直したいんだろう。お前が予想外に使える奴だったって証明だ。良かったな」

「……一週間で終わりますか?」

「大丈夫だろ、俺もスケジュール空けたし」


 驚いて見上げると、市松さんは悪戯そうに口角を上げた。


「なんだ?」

「お忙しいのでは?」

「先に入った仕事を優先するのは当然だろ?」


 いけしゃあしゃあと言ってのけた市松さんに反論できず、ボトルを受け取った。

 いやそりゃそーなんだけど、じゃあどうしてスケジュールの都合をつけなかったのよ。どうせ素人と一緒の仕事は短い方がいいとかなんとかそういうのなんだろうけど。


 こうなってくると、今週はもう勉強会に参加できないかもしれない。

 少し残念だけど、市松さんにも監督にも認められてるみたいで悪い気はしない。しないんだけど、変に期待されても困る。私はトーシロですよ。


 ボトルに口をつけて、傾ける。ブルーマリン味は相変わらず何味か分からない。

 でも、最近は少し炭酸も悪くないかなと思い始めた。コーラとかは勘弁だけど。


「市松さーん、白峰さーん」

「はい!」


 スタッフさんに呼ばれ、市松さんと一緒に監督のところへ向かう。

 これからの撮影方針とどう撮るかについて話されたが、専門用語が多すぎて半分ほどしか意味が分からなかった。

 隣で市松さんが教えてくれなきゃ意味不明のまま撮影に臨んだかもしれない。ありがとうございます。


 そして、話の中で私が一番ショックを受けたのは、土曜日にまたロケにでかけるということだった。





 それからはもう光陰矢の如しという言葉通り、あっという間に過ぎ去っていった。

 起きる。学校行く。撮影。帰宅。寝る。

 これしかしてない。勉強してない。試験前なのに。

 微妙に危機感を煽られるものの、撮影には絶対に手を抜けない。皆さん真剣だし、市松さんともいいCMを作ろうと約束してしまった。


 充実してると言えば、している。きっと、お芝居の仕事を増やすとこういう生活になっていくんだろう。

 将来的には悪くないかもしれないと思う。あくまで将来的に、だけど。

 気が付けば土曜日になって、再び峯野さんの車に揺られて例のロケ地へ。


 海岸に面する町は、相変わらず人気のない穴場だった。

 堤防の上から見える海は綺麗で、泳いだら気持ちいいだろうなと思う。今年の夏は四人で海に行きたいな。春史くんはどんな水着着るんだろう。


 やっぱり普通にハーフパンツみたいなのかな。色も黒とかグレーとかそういう落ち着いたの。ハーフパンツでもピッタリしたのあるけど、多分あぁいうのは着ない。

 もしブーメランパンツとか着たらどうしよう、と思ってうっかり想像してしまう。あまりに恥ずかしい映像を必死に振り払って消し去った。


「何してんの」


 呆れ声に振り向けば、市松さんが胡乱な目で私を見ていた。


「いえ、別に」

「……まぁ、いいけど。行くぞ」


 それ以上追及されないことにほっとして、市松さんについて監督のところに向かう。

 今日の撮り直し分と撮り損ねたシーンの説明。それで全ての撮影は終わりで、今日の夜に打ち上げに行くことが話される。


 打ち上げ……行きたくないなぁ。あんまり大勢でお酒を飲むのは好きじゃない。それに、明日は試験前最後の日だから勉強したいし。

 でも、今回のCMの主役の一人でもあるんだから、出た方が良いとは思う。渋い顔をしていると、監督に「一応考えといて」と言ってもらえた。優しい。


 市松さんは何も言わなかったけど、何か言いたげな視線は向けられた。

 分かるけど、でもあの雰囲気は苦手なんですよ。


 どうしようか迷っている内に撮影が始まり、頭の中からそのことはポンと抜けていった。

 人間、都合の悪いことは考えないようになっているらしい。

 そうして午前が過ぎ、午後の撮影まで休憩に入ったところで騒がしい声が聞こえた。


「というわけで~、潜入! パイセンのCM撮影現場! ちょっとした裏側をお見せするっすよ~!」


 聞き覚えのある声に、早足で向かう。

 そこにいたのはやっぱり真希で、その前でカメラを構えているのは一ノ瀬さんだった。


「……真希」

「あ、パイセン! お疲れっす~!」


 満面の笑みで敬礼じみたポーズをする後輩に毒気が抜かれる。

 勝手に入ってくるなと叱ろうと思っていたけど、よく考えると普通はスタッフに止められるはずだ。

 ということは、あの人の差し金だろう。


「何してるの?」

「動画の撮影っす! パイセンのお仕事ぶりを撮りたいんすよ!」


 ニコニコと応える真希から視線を外して、一ノ瀬さんを見やる。

 大きな体を縮こまらせて、申し訳ないと言うようにぺこぺこ頭を下げていた。

 大きくため息を吐く。


「社長の指示?」

「そっす! 企画動画の第一回ってことらしいっす!」


 あんのアホ親父は何を考えてるんだろうか。

 いやまぁ、動画投稿者を巻き込んだからには所属タレントの宣伝をするのは悪い方法じゃない。それに、このCMでやる意味も分かる。


 このCMはそれなりに長尺で、テレビやネットの宣伝で流すのはショート版なのだ。ノーカット版は動画投稿サイトの公式チャンネルで上げる予定。

 真希がやってるチャンネルも同じサイトだから、相乗効果を狙ったのだろう。概要欄に公式チャンネルのリンクを張り付ければお互いの為にもなる。


 それは分かる。分かるんだが、第一回が私というのが気に食わない。市松さんもいるしそういうのを考えての事だろうけど。

 いいやもう、正直に言おう。


 芝居してるとこ知り合いに見られるのがめっちゃ恥ずかしい!!

 完成品のCMなら諦めもつくよ? そういうもんだしさ? でも、こうして撮影してるところはほんと勘弁して!!


 深呼吸して真希を見る。

 笑顔を振りまいてそこらのスタッフさんを捕まえて話をしている。それなりに美少女だからスタッフさん達もまんざらでもなさそうだ。

 その調子で撮影してるとこを撮られたらたまったもんじゃない。


「真希」

「なんすか?」


 首を傾げて真希が振り向く。

 悪気は一切ありませんという表情で実際に悪気はないだろうが、だからタチが悪いこともある。


「撮影の邪魔をしない、皆さんに迷惑をかけない、撮影中はカメラを回さない。いい?」

「……パイセン、おかーさんみたいっす」


 唇を尖らせて恨めしい目で見上げてくる。

 母親扱いはちょっと、だいぶ、心にクるものがあったが無視する。


「い・い?」

「はぁ~い、りょっすー」


 不満げながらも頷いたから良しとしよう。

 ほっと胸を撫でおろすと、後ろから市松さんが声をかけてきた。


「その子が例のまきちゃん?」

「はい、そうです」


 振り向きながら答える。

 市松さんは興味深そうに真希を見つめ、テレビでよく見たぼんやりした笑顔を浮かべた。


 初めて会った時から疑問に思ってたけど、やっぱりこれ余所行きの顔なんだ。

 私にも是非その態度で接してほしかった。今更されても鳥肌ものだけど。


「よろしく、市松直哉です」

「は、はいっ! 鳥居真希っす! よろしゃす!!」


 カチコチに緊張した真希が、腰からがばっと体を折って頭を下げる。

 無理もない。相手は超有名芸能二世、緊張するなという方が無理だろう。しかも目が潰れそうなくらいのイケメン。

 真希は珍しく頬を染めて、憧れと尊敬の入り混じった目をしていた。


「あ、あのっ! 後で少しお話させていただいていいっすか!?」

「あぁ、いいよ。紫藤さんから話は聞いてるし」


 市松さんが言うと、真希は「あざます!」と何度も頭を下げていた。


 ……社長から? 話を? 私は全然聞いてませんけど?

 ていうか、事務所も違う市松さんが何故ウチの社長から話を聞いてるの? なんかすっごい作為的な何かを感じるんですが!?


 胡乱気な目で見上げると、市松さんは人の悪そうな笑みを浮かべてブルーマリン味を差し出した。


「ほら、喉乾いてるだろ? 暑くなってきたしな」

「……ありがとうございます」


 問い詰めるタイミングを潰され、大人しく受け取る。

 ため息を飲み込むようにペットボトルに口をつければ、真希が目を丸くした。


「え、それもしかして市松さんの飲みかけっすか?」

「そうだけど?」


 何でもないように言う市松さんの横で、私もこいつ何言ってんだと言う目で真希を見る。

 今更それがどうしたというのか。撮影で何度やってると思ってるんだ。


「か、間接キスっすね……」


 むせた。

 今更それ言う!? 全然気にしてなかったのに!!


 いやまぁ、撮影の最初くらいは気にしてたけど、なんか気にする方が悪い気がして。真剣に芝居してるときにそんなこと気にする方がダメだよなって。

 その流れで撮影外でもなんか普通になってて意識してなかったのに!!


「そんなこと気にする業界じゃないからね」


 市松さんが苦笑する。その顔には、子供だなぁと書いてあった。

 悪ぅござんしたね、まだ16の小娘ですよ!


「撮影でやってるから、気にしなかったわ」

「そっすか、さーせんっす!」


 勢いよく頭を下げる真希に手を振って、市松さんが離れていく。

 何をしに来たんだろうと思うが、多分真希を見に来たんだろう。今回の元凶みたいなものだし。

 市松さんの背中を見送って、真希を横目でちらりと見る。


「……飲む?」


 ペットボトルを差し出すと、首を振られた。


「自分のあるっす。それに、これ言おうか迷うんすけど」


 真希が眉根を寄せ、そそっと私に近づく。

 気になって私も体を真希の方に傾けると、耳元に唇を近づけてきた。


「噂っすけど、市松さんって人に物を貸したりしないらしいっすよ。タオルやハンカチは常に自分用で、回し飲みとかもしないって話っす」


 ……んん?

 私が見る限り、そういうところはなかった、ような?

 ブルーマリン味も良くお互い飲んだりしてるし?


 不思議そうに真希を見ると、我が後輩は目をキラキラと輝かせた。


「流石パイセンっす、天下の超イケメン俳優も手懐けたんすね!」

「誤解を招く言い方はやめて」


 どちらかというと、私の方が手懐けられてる気がしないでもない。

 とりあえず邪魔しないようにと言い残して、真希を野に放った。

 嬉しそうにあれこれ話を聞いて回る後輩を横目に、さっきの事を考える。


 真希が聞いた噂。でも、噂は噂だ。実際に私も市松さんと一緒に仕事するようになって、聞いていた噂の殆どが尾ひれ背びれがついたものだろうと理解した。

 あれだけ厳しい人だ、共演した人を泣かせることもあったかもしれない。本業が役者でなければ、特に。

 多分そういうのが積み重なって、嫉妬や何やらが織り込まれてそんな噂になったのだろう。


 だから、さっきのもさほど気にするものじゃない。

 そう片付けて、私を呼ぶスタッフさんに返事をして撮影に向かった。




 結局、打ち上げには参加させられてしまった。

 抜け辛かったのもあるし、真希の件もあるからだ。


「あの子誰なの? 打ち上げで教えてよ」


 なんて言われては断る術はない。

 お世話になったのだ、参加して愛想よくするぐらいは義務か――なんて思ったのがいけなかった。


 酔った。


 いや、一滴もお酒は飲んでないよ! ちゃんと法律は順守してますよ!

 ただ、周り皆が飲むものだから濃厚なお酒の匂いが充満して、それだけでクラクラしてしまったのだ。


 前世では結構お酒に対する耐性は強かったはずだけど、あれは昔から少しずつ飲めるように訓練していたせいなのだと実感した。

 とにかく今世の体は全くお酒への耐性がない。少しずつ飲めば徐々に強くなっていくだろうけど、今はもうまるでダメだ。


 なので、市松さんに肩を貸してもらって、峯野さんが呼んだタクシーを待っている。

 ちなみに、峯野さんは私の代わりに皆さんに捕まって飲ませられていた。


「まさか匂いだけで酔うとはな」

「……未成年ですから」


 苦笑する市松さんに応える私の声はあまりにも弱々しい。

 自分でもそう思うんだから、他の人なら尚更だろう。

 でも、外の空気を吸っていたら少し楽になってきた。お店の中だともうお酒の中で息をしているような気分だった。


「明日は休みだっけ? セーフだな」

「……学校だったら絶対打ち上げ出ませんでした」


 そうだな、と市松さんが笑う。

 夜なのに、そんなに寒くない。夏が近づいてきている証だろうか。

 時折吹く風が気持ちよく、頭の中が少しクリアになってくる。


「ありがとうございます。もう一人で立てますから」

「あぁ、無理するなよ」


 市松さんの肩から手を離すと、ちょうどタクシーが目の前に止まった。

 ドアが開き、運転手さんに峯野さんが呼んだ車かどうか確認する。

 間違いなかった。これでようやく帰れる。


 振り向いた私の目に、何故か真剣な顔をした市松さんが映った。


「気を付けて帰れよ。あぁ、それと……」


 何事か口ごもり、ふっと視線を逸らす。

 もう一度私を見たとき、その目は見たことのない色で染まっていた。


「いい芝居だった。このCMは人気になる。間違いなく」

「……あ、ありがとうございます」


 なんだか顔が熱くなっていく。酔いが醒めたと思ったのに、まだ残っていたのだろうか?

 心臓が脈打つ音が次第に早くなっていく。


「生まれて初めて、素人を褒めた。野心もなく、ただ真剣に努力するお前は――綺麗だった」


 ひときわ大きく、心臓が跳ねた。

 市松さんの手がタクシーの屋根にかかり、顔が近づいてくる。


 ラルフと並んでも見劣りしない綺麗な顔。黒と灰色の無造作ヘアーはわざとらしくない色気を醸していて、小さめの瞳は黒曜石みたいに輝いている。

 撮影で触れる中で分かった、細いのに筋肉質の体。瑞々しい唇は皮肉を紡ぐことが多いのに、時々褒めてくれるのが嬉しかった。


 潤んだ瞳に縫い留められて、息すらできない。

 ゆっくりと唇が近づいてくる。


 少しずつ、

 顔が、

 重なって、



 寸前に挟んだ掌に、唇の感触がした。



「……お休み。明日はゆっくりしとけよ」


 軽く肩を押され、私はへろへろと後部座席のシートに尻もちをつく。

 ドアが閉められる。


 市松さんは平然とした様子で軽く手を振ってきた。

 タクシーがエンジン音を響かせる。


 何をされたのか分からない。

 ただ、掌には確かに市松さんの唇の感触があった。


「~~~~~~~~~~~~~っ!!!!!」


 顔が真っ赤になっているのを自覚しながら、声にならない叫びをあげた。

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