第二十八話
ある夏の日、少年は海辺の田舎に里帰りする。
ろくに遊ぶところも友達もいない町で暇を持て余した少年は、海辺の堤防に座り込んで「早く帰りたい」とぼやいていた。
そこに、不思議な少女が現れる。
驚く少年に構わず、「海は嫌い?」と少女は問う。少年は思わず、「好きです」と答えてしまう。
少女は儚げに微笑み、「仲良くなったお礼に」と見たこともないジュースを渡す。喉が渇いていた少年はそれを飲み、爽快な味を気に入ってどこに行けば買えるか聞こうとして少女の方を向く。
そこには、誰もいなかった。
その後、祖父母の家に戻って祖母に話を聞いてみると――
――というのが、今回録るCMの大まかなあらすじだ。
ちなみに、不貞腐れた少年の役が市松直哉で、不思議な少女の役が私である。
シリーズものとして発表することが決定していて、全部で三作。七月末から八月末にかけて順に流していく予定だという。
一つの大きなストーリー型CMを三分割すると言ってもいい。なので、本日はロケでないと録れない部分を一気にやる予定である。
そりゃあ夜まで予定パンパンになるはずだよ。もう少し細かく刻んでやってほしい。あ、いや、そうなるとあの市松直哉と何回も顔を合わせなきゃいけなくなるのか。
みっちりスケジュール万歳、夜まで頑張ります!
……とまぁ、意気込んでみたはいいものの。
昼食までの三時間で、私はかなりヘロヘロになっていた。
元悪役令嬢の演技力見せてやる! なんて粋がっていたのは最初だけで、テイク数が増える度に精神が削れていった。
日常的にやる演技と、こういうフィクションの芝居は違うんだと思い知らされる。
私が前世で日常的にやっていたのは、『隠す』演技だった。これはもう、今世で皆が普段からやってることと変わりないと思う。相手にバレないよう、本心や秘密を隠す。悟らせないよう、勘付かれないよう、覆い隠してしまっておく。
もちろんわざと別の感情や表情を見せる場合もあるけど、主目的は『隠す』ことだ。見せるのはそのための手段にすぎない。
フィクションのお芝居は、全くの逆だ。こっちは、『見せる』芝居なのだ。
魅せる、と言い換えてもいい。相手に分かってもらうよう、感情や表情を見せる。悟らせるよう、勘付かれるよう、表に出して見せていく。
もちろんわざと隠す場合もあるけど、それはあえてそうすることで分かってもらう為だ。つまり、『見せる』為にわざと日常で行う演技もするということ。
人によっては『見せる』方を普段からやってるかもしれないけど、極めてレアケースといっていいだろう。少なくとも私は違う。
なので、これがもうすごく、すごーく疲れる!
元々内面を表現するのが苦手なのだ。おかげで少し遠巻きにされるわ、学校でも『白蛇姫』って言われるわ、友達も少ないわで散々な有様なのである。
いきなりそういうことしろって言われてできるかぁ!
まぁ、しかし、市松直哉に好き勝手言われるのも腹が立つ。だから私なりに不思議少女の事を考え、一所懸命それっぽくやってはみた。
台本を頭の中で繰り返し思い出し、どういう気持ちなのか、何がしたかったのかを考える。彼女はなんで不貞腐れて堤防で座り込む少年に声をかけたのか。
多分、寂しかったのだ。
時が流れてゆっくり老いていく海辺の町で、静かに朽ちていく。それを受け入れているとはいえ、感情だけはどうにもならない。
だから、ふと見かけた少年につい話しかけてしまった。
だって、その子も寂しそうに見えたから。
別に何がしたかったわけじゃない。ただ、一言二言話せればよかった。若い子は皆町から出ていく。少年もきっとそうだ。
引き止めたいわけじゃない。ここにいて欲しいわけじゃない。少しだけ、友達気分を味わってみたかった。
それだけ。
……そんな風に考えて、頑張ってはみたんだけれど。
ああしろこうしろと指示を飛ばしてくれるテイクは何とかなるけど、誰も何も言わずただもう一回とテイク数が嵩むときがあって、たまに心臓が痛くなる。
何が悪かったのかわからないし、実はこれ私が悪いわけじゃないんじゃない? と思ったりもするけどやっぱり私が悪いんじゃないかとも思うわけで。
精神が恐ろしい勢いですり減っていく。これがモデルの仕事ならポーズ変えてみたりとか色々やるんだけど、芝居ってどう変えていいかもわからないから怖いね!
そんな地獄の撮影時間が過ぎ、遅い昼食を迎えたわけですが。
ぐったりした私はロケ弁に手を付ける気にもなれず、峯野さんにもらった十秒チャージと今回の宣伝対象であるジュースをちびちびと飲んでいた。
こんなこともあろうかと、と十秒ゼリーを出してくれた時はあまりの感動に峯野さんが未来世界の青狸に見えたくらいだった。
もうね、固形物を食べたくない。お腹は空いてるんだけど。
じゅるるるとゼリーを飲み、ペットボトルを傾ける。
三ツ〇サイダー・マリンブルー味。それが、今飲んでいるジュースの名前で今回のCMで宣伝するものだ。
マリンブルーて何味やねん、と心の中で突っ込んだものだが、飲んでみるとかなり美味しい。爽やかだし、炭酸特有のしゅわしゅわ感も薄い。
私はどーもあのしゅわしゅわがダメなのだ。前世の影響だろうと思う。飲めないってほどじゃないけど、紅茶やコーヒーの方がいい。
日陰に用意してもらった椅子に座ってぐったりしていると、誰かが近づいてきた。
「おい」
市松直哉だった。最悪である。
何も知らない顔をして聞こえてませんとぐったりしてようかと思ったけど、これが真希の後始末だったことを思い出して断念する。
あの爆弾娘、今度会ったらでこぴんしてやる。
「なんですか?」
それでも愛想よくするのは難しい。
なんとか身を起こして、いつもより三割増しで冷たい声で返す。
「名前は?」
「は?」
思わず声が出たのは許してほしい。
名前。名前て。峯野さんが教えたやろがい!!
腹が立ちすぎると怒りを通り越すのだと初めて知った。無礼が服着て歩いてるような奴だな、キミは。
「名前。教えろ」
「……白峰、昼子です」
飛び上がって頭突きでもかましてやろうかと思うけど、私は大人だと心の中で十回唱えて我慢。
市松直哉は鼻を鳴らして持ってきた椅子を私の隣に置いた。
……は?
いやいやいや教えたんだからどっかいけよ。ていうかなんで私の隣に座るのよ。こちとら一刻も早く会話を終わらせたいというのに。
「白峰か。素人扱いして悪かったな」
「は?」
思わず口から飛び出てしまった。
それに気を悪くするでもなく、市松直哉は背もたれに身を預けた。
「大体こういうのに出てくる奴ってのは、芝居のしの字も知らないんだ。まして女となると周りの連中に媚びを売ってくるもんだからうざったい上に腹が立つ。まともに仕事もできない癖にな」
冷笑と嘲笑を隠しもせず、嫌そうに吐き捨てる。
子供の頃から芸能界にいると、嫌なところも沢山目にしてしまうのだろう。
モデルの世界でもままある話だ。私はそういうのに前世で慣れていたが、どうもこの二世はそうではないらしい。
嫌悪を露にする瞳は、その奥に純真さがあることを窺わせた。
「だが、お前は違った。素人臭さはあるが、ちゃんと芝居はするし質も悪くない。変に媚びも売らず実直に撮影に取り組んでいる。護堂の言う通りで、俺が間違っていた」
市松直哉は一息にそう言うと、私に向き直る。
何故か私も思わず姿勢をただしてしまい、正面から向き合う形になってしまった。
ちょっと緊張する。
「すまなかった。これからもその調子で頑張ってくれ」
頭を下げられてしまった。
……いやいやいやちょいちょいちょい、どういうことこれ!?
クッソ生意気で腹が立つ奴にド正面から謝罪された。なんかもう事実が受け止めきれずに混乱してしまう。
えぇ~!? キミそういうキャラ? なんかこう、違うでしょ!? 大体、こういうイベントってもっと私が頑張ってなんらかの成果を上げてからとか、そういうんじゃない!?
……少女漫画の読みすぎであることは認めよう。
つーか、あの初対面からこんなちゃんと頭を下げる人だなんて思えないでしょ!? 詐欺だよ、騙されたよ! 謝罪と賠償を要求……してどうする!?
困惑と混乱に頭を支配されながらも、サラブレッドに頭を下げさせたままだと色んな誤解が生まれそうで必死に言葉を探す。
「気にしてませんから」
なんかいつものチョイスになっちゃったよ!? だ、大丈夫? いける?
じっと市松直哉……市松さんの頭を見つめる。髪のボリュームがあってつむじが見えない。いやそんなの探してる場合じゃなくて。
市松さんはゆっくりと頭を上げた。
「そうか」
「そうです」
頷くと、小さく息を吐いて市松さんは椅子にもたれかかった。
きぃ、と軋みを上げる音がする。ふと周りを見れば、スタッフさん達が思い思いの場所で休んだり機材のチェックをしたりしている。
私達の周りには誰もいない。ぽっかりと開けた空間になっていて、妙な不自然さを感じなくもなかった。
「聞きたいことがあるんだけど」
「どうぞ」
脊髄反射で促してしまう。
まだ困惑の尻尾が残っていて、あんまりまともにものを考えられない。
そのくらいの衝撃だったのだ。だって、市松さんの噂からは全く考えられない人間性が垣間見えたんだもん。
こう、俺様で我侭全開で逆らう奴は踏みつぶす! みたいなのだと思ってたのに。案外普通って言うか、割といい人っぽいというか。
一回謝られただけでそう考えるのはチョロいかもしんないけど、実際自分の非を認めて謝るのって結構大変だからね!?
世の中分かっていても中々できなくてタイミングを計ったりするのに、自分から言い出すのって早々出来ないよ。
……前世の私は、死ぬまでできなかったし。
「お前、護堂と付き合ってるのか?」
無警告で投げられた手りゅう弾が炸裂した。
破片が突き刺さり、とんでもないダメージを受けてしまう。手りゅう弾の恐ろしいところはその爆発の威力ではなく、四散する破片が突き刺さることによる殺傷力で――ってそんなことはどうでもいい!!
こいつなんつった!? 私と!? 護堂さんが!? 付き合ってる!?!?
……いや、そういえばあの誤解は表じゃある程度沈静化したけど、業界内でどうなってるかはよく知らないんだった。
ほとぼりが冷めるのはまだまだ先、ってことか……辛い。
「いいえ」
すっぱりきっぱり言い切る。
市松さんは興味なさそうに「ふーん」と呟いた。
「じゃ、あいつと仲良いのか?」
これもまた返答に困る質問をしてくる。
悪いわけじゃないけど、良いというのもなんというか。前世で縁があって今世で何故か告白されてしまった仲です、なんて口が裂けても言えないけども。
「……悪くは、ないです」
「悪くはない、なんて気にかけ方じゃなかったけどな」
こちらを見つめてくる市松さんから目を逸らし、ポーカーフェイスに務める。
こういうのはすごく楽だ。さっきまでと違って慣れたフィールドで戦ってる感。
ていうか、やっぱ護堂さんと市松さん仲良いのか。その辺含めて聞き出さなきゃ……って、護堂さんにチャットすんの忘れてた!
くそう、まぁ後でいいや。絶対問い詰めてやる。
「言う気はないか」
「護堂さんに聞いて下さい」
さらりと流すと、市松さんが苦笑する気配が伝わってきた。
横目で見れば、ボリュームのある髪をくしゃりとかき回している。
「それができりゃ苦労しない。あいつ、何故かお前に関しては中々口を割ろうとしないんだ」
「ご愁傷さまです」
嫌味を含めて言うと、じろりと睨まれた。
「お前、結構性格悪いな?」
「市松さんには劣りますよ」
「……護堂はなんだってこいつを気に入ったんだ?」
それは私が聞きたい。
エッジだって分かってたから、市松さんにするよりもっとツンツンした対応をしてたと思うんだけどなぁ。
もしかして、Mだったりして……やめよう考えたくない。
それからお互い何も話さず、少しの間だけのんびりした時間が過ぎる。
太陽は照り付けているが、日陰ということと昨日まで雨が降っていたせいもあってどこか丁度いいぐらいの気温だ。
これからぐっと暑くなっていく、と天気予報のお姉さんは言っていた。
ぼうっと見上げていたら、少し眠ってしまっていたらしい。市松さんに揺り起こされた。
「おい、白峰。撮影始まるぞ」
「はい」
ぼんやりした頭を振って覚醒させる。
何か言いたげな市松さんの後ろから、スタッフさんの声が聞こえた。
「午後の撮影はじめまーす!」
「……行くぞ」
市松さんは何かを飲み込んで背中を向ける。
ゆっくり起き上がって、撮影に戻るべくその背中を追いかけた。
午後の撮影は、午前よりは気楽にやれそうだった。
夕方。
午後の撮影は順調に続き、日が落ちる頃合いで一旦休憩となった。
録るべきシーンはちゃんと全部録れたらしく、あとは夜のシーンだけ。それはいいんだけど、ロケ弁食べなかったせいかお腹が減ってきた。
もうひと頑張りしなきゃいけないのに、力が出ない。無理してでも食べるべきだったかなぁと思っても時すでに遅し。
すきっ腹を抱えて悲しく水平線の向こうに沈んでいく太陽を眺める。お饅頭みたい……はちょっと無理があるか。
「おい、白峰」
「はい?」
振り向くと、市松さんから何か投げ渡された。
あたふたとお手玉しながら抱きとめると、そこには十秒チャージが!
やった、これで夜までもつ!
「昼、ろくに食べてないんだろ。それでも飲んどけ」
「ありがとうございます」
隣に座る市松さんに頭を下げつつ、十秒チャージに口をつける。
あー、染みる~……今度からちゃんとご飯は食べよう。少しでいいから。
横目に見れば、市松さんはブルーマリン味を飲んでいた。夕焼けと相まって、やたらと絵になる。
こうして近くで見ると、ほんとにラルフ並のイケメンだってことが良く分かる。すごい。世の中ほんとにそういう人がいるんだな。
テレビ越しで見るより、カッコイイ……気がしなくもない。一般的意見として。
そうしてじっと見てしまっている私に構わず、市松さんが話しかけてきた。
「監督が褒めてたぞ」
「? はい? 市松さんを?」
「なんでそうなる」
市松さんが眉根を寄せてなんとも形容しがたい顔をする。
そんな顔しててもイケメンなのがなんだかずるいよなぁと思いつつ、言われた言葉を反芻した。
「……私を?」
「普通そうだろ。俺はできて当然だからな」
謙虚そうに見えて傲慢さ全開の発言に面食らってしまう。
これがサラブレッドというものか。当たり前みたいに自信に満ちていらっしゃる。
「……今日、かなりリテイクされたと思うんですが」
「あれは別にお前の芝居だけの問題じゃない。カメラの角度や位置、現場でのコンテ修正や変更なんかの影響だってあるんだ。だから、根本的な演技指導をされなかっただろ?」
「それは、時間が惜しいからだと……」
「まぁ、それもある」
私の意見を肯定しながら、それだけじゃない、と市松さんは言う。
なんだか信じられない。監督が褒めていたっていうのもそうだけど、それを市松さんの口から聞いているという今が一番現実離れしてる。
なんだか今日一日で彼の印象がぐるぐると目まぐるしく変化してしまっている。
「正直、今日みたいな台本を役者じゃないタレントがやるのは無理があるんだ。だから、台本をがらっと変えようって話もあったけど、お前んとこの社長が大丈夫って言うから通したんだと。監督なんか昨日は不安で睡眠不足だったらしい」
「……ご愁傷さまです」
今度は心を込めて言う。
なんであの人はどこでも無茶を通すのか。ていうか変えてよ! そっちの方が楽でしょ絶対に!!
「午前はろくに撮影できないのを覚悟してたら、全然大丈夫で思わず熱が入ってあれこれ注文つけて悪いことしたってさ。本当はもう少し軽い撮影にするはずが、何度もリテイクするうちにいいものになって加減が利かなかったって。良かったな」
「……そうですね」
良かった……のだろうか?
いやまぁ、悪く思われてないならよかった、ということにしておく。私の寿命が縮んだのは無駄じゃなかったと思えるし。心臓痛い。
「別の仕事でも使いたいってスタッフ間で話題に上がってるんだと」
「それは遠慮します」
即答すると、市松さんが苦笑した。
ほんと勘弁して。撮影の仕事は拘束時間長いから学生の内は無理だってば。そうポンポン入れられたら、花梨達に会う時間がなくなっちゃう。
……学校を卒業したら、わかんないけど。大学はそれなりに自由が利くだろうし、進学しなきゃそれこそ、とは思う。
まだ、なんにも決まってないけど。
高校二年なんてそんなものだと思う……そうだよね?
「俺も驚いてる。白峰はいい役者になれる素質があると思うぞ」
「有難いですが、何が良い芝居かも分からない私には無理な話です」
そう言うと、市松さんは真顔になった。
……マズいこと言っちゃった?
「俺にもわかんねぇよ、そんなもん」
「……え?」
思わず聞き返すと、市松さんは眉根を寄せて『やっちまった』みたいな顔をする。
どうやら、彼にとって失言だったらしい。
ただ、何か諦めようにため息をついて続きを話してくれた。
「いい芝居なんて人による。見た人が決めるんだ。だから、ある人にとっちゃ良くても別の人にとっちゃダメってことが当たり前にある」
初めて聞く話だ。
お芝居や演技って、なんかこう、絶対的に良い基準みたいなのが存在してると思ってた。
私みたいな素人には分からなくても、それこそ市松さんみたいなプロの人たちにはわかるものがあるって。
なのに、市松さんはそれを真っ向から否定した。
「それどころか、その日の気分とか誰と見るかとか、そういうのでも良し悪しは変わる。芝居は人に見てもらって初めて意味があるもので、だから絶対的な基準なんてない。極端に言えば、監督がいいと思ってやらせた芝居も、視聴者にとっちゃ悪い芝居だったりするってことさ」
投げ捨てるように放たれた言葉に、頭がしびれる。
それじゃ、もう何を信じればいいかも分からないじゃない。
「上手い下手も同じだ。そりゃ棒読みとかあからさまなのは下手ってほぼ全員に言われるが、ある一定の水準を越えればもう訳が分からない。ある役者を監督は上手いといい視聴者は下手だという。逆もまた然り。俺だって散々言われてるしな」
息を呑む。
その横顔は、決して二十そこらの若者がしていい顔じゃなかった。
前世で見たことがある。上流貴族からは税が少ないと突かれ、領民からは税が多いと文句を言われる。そういう下級貴族がしていた顔だ。
芸能界のサラブレッド。
わがまま放題できる権力者みたいに思ってたけど、本当にそうだろうか。
本当は、子供の頃からずっと、普通は味わわなくてもいい何かを口に詰め込まれて生きなければいけない人を指す言葉だったのかもしれない。
「だから、役者は毎日手探りで生きなきゃいけない。何が良いか悪いか、自分で決めて、それを貫く。そういう生き方をする必要が出てくる。勿論、世間様にも配慮してな」
嘲笑と冷笑が入り混じる。
その表情は、なんだか昔の私に似ている気がした。
誰にも頼れず、甘えることも許されず、努力と成果を出すのが当然と言われ続けていたヒルダだった頃の私に。
くだらないと、いろんなものを吐き捨てていたあの頃に。
「白峰にも、それができる気がする。だからいい役者になれると思った」
「買い被りですよ」
首を振る私に、かもな、と彼は言う。
たった一日一緒に仕事をしただけで分かりあえるほど、人は単純じゃない。相手に対する印象なんて、ほんの数分もあれば変わってしまう。
人間は、相手の心が分かるほど賢くはない。
だから、それは、買い被りなのだ。
「私は、何もかも自分で決められるほど強い人間ではないので」
前世では親の言いなりで、自分で決めたことなんてリリィのことくらいだ。
今世だって、簡単にふらふらするし、誰かの意見に左右されてしまう。肝心なことを決めるのだって難しくて、大事な人達に頼ったりもする。
自分一人で決められることなんて、殆どない。
「褒められたら嬉しいですし、貶されたら悲しいです。上手いと言われても下手と言われてもそうかもしれないと思ってしまいます。いい役者にはなれそうもありません」
思ったことを全部言って、一息つく。
怒らせたかなと思って市松さんの方を見れば、顔に手を当てて空を仰いでいた。
彼が何も言わないので、私も何も言えない。
水平線の上に乗っかった太陽は、少しずつ沈んでいく。
鳥の鳴き声が聞こえてきたけど、それがカモメのものか他の鳥なのかが分からない。
ただ、無言の時間が流れていく。
オレンジ色の太陽は、蜜柑みたいに見えた。
「撮影再開しまーす!」
スタッフさんの召集にぱっと振り向く。
もう機材は準備をすませてあって、監督が演出家と何か話し合っていた。
「市松さん、行きましょう」
「――あぁ」
唇がかすかに動いて、掠れそうな声がようやく耳に届いた。
堤防から降りて、そういや言い忘れていたと思って振り向く。
「ゼリー、ありがとうございました。助かりました」
小さく頭を下げると、市松さんは顔から手をのかした。
その向こうに見えたのは、どこか透明で、苦み走った笑みだった。
「あぁ――護堂がお前を気に入ったの、分かる気がする」
え?
私が何か反応するより先に、市松さんは早足で現場に戻っていく。
あれ? なんか数時間前は分からないって言ってなかったっけ?
今、私の頭には盛大に疑問符が浮かんでいることだろうと思う。
その原因たる市松さんは私を一顧だにせずに監督と打ち合わせに入っていた。
……うん、やっぱ腹立つわ。
初対面の時からそれだけは変わらない印象を胸に、私もスタッフさんに誘導されて撮影に入る。
あともう少し。最後のひと踏ん張りだ!
本日の撮影の全工程が終了したとき、日はとっくに沈んでいた。
監督の軽い挨拶と今後のスケジュール確認の後に解散となり、スタッフさんが機材を持って三々五々散っていく。
私はと言えば、もうグロッキー状態でその辺の壁にもたれかかっていた。
疲れた。
ほんっとーーーーーーーーに疲れた。
緊張するしテイクは嵩むし時々専門用語っぽいので話すから監督が何言ってるかわかんないし!!
褒められてるって言われたし、期待に応えようと頑張ってはみたけれど。なんか午後よりもずっと体力と気力を削り取られていった気がする。
もう嫌だ、もう絶対こんな仕事しない!
でも――気分は、悪くなかった。
妙な達成感はあるし、大勢の人と一丸になって頑張ったって言う感覚はくすぐったくもある。最後に監督が直接褒めてくれたし、演出家の先生から舞台やドラマにも出てみないかと誘われた。
それは丁重にお断りしたけれど、悪い気はしない。
高校卒業したら、もうあと一回くらいはやってもいいかもしれない。
うーん、早速意思がブレている。市松さんの言うような役者には到底なれそうもない。
「お疲れさまでした」
峯野さんが迎えに来てくれた。
なんとか笑顔で頷いて、後をついて歩く。峯野さんは私の歩調に合わせてゆっくりと歩いてくれた。
気を使える大人って素敵。ほんと、うちの社長にはもったいないよ峯野さんは。
なんとか車までたどり着いたところで、
「おい、白峰」
今日一番聞いた声に呼び止められた。
振り向けば、市松さんがいた。ただ、表情がなんだかよろしくない。
何か迷っているような、言いたいことがありそうな。でも、それを口にするのが憚れるような感じで視線を動かしている。
「今日はお疲れさまでした」
とりあえず、さっきも一応かわした挨拶をする。
「あぁ、お疲れ。それでな――」
何かを言おうとして、口を閉じて考え込む仕草を見せる。
そうして悩む姿はラルフには決してできないもので、見惚れるほど格好良い。
似合っているっていうか、雰囲気とあうって言うか。本来、あれこれと考え込んでしまう性格なんだろう。
傲慢そうに見えるのは、外に対して張った防壁なのかもしれない。
前世の私と同じように。
「――お前、この仕事がどうして回されたのか知ってるか?」
突拍子もないことを聞いてきた。
仕事の理由、って真希のアレ以外何があるのって感じなんだけど。
なんでそれを聞いてくるんだろう?
「例の動画の件の後始末だと聞いています。護堂さんと私が映ってた」
「それ以外は?」
それ以外? 何かあるの?
首を傾げてみせると、何かに納得したように市松さんが鼻から息を吐く。
「そういうことか……ったく、芸能事務所の社長ってやつは性格悪くないと務まらないのかよ」
「性格良い人は普通ならない職業だと思います」
反射的に答えた私に、違いない、と市松さんは笑って見せる。
「まぁいいや、それなら。後であいつらに聞けばいいしな」
「はい? あの、何がですか?」
なんか勝手に一人で納得されて、少し腹が立つ。
なんか私の事なんだよね? なのに私に何も言わないってなにそれ?
「いい、お前は何も知らなくて。そっちの方が良いだろうと思うしな」
「はい!? だからなんなんですか!?」
めっちゃ腹立つ。
市松さんは悪い人じゃないけど、腹の立つ人なのが今日一日で確定した。
抗議する私に、市松さんが微笑む。
それは今日見た中で一番穏やかな表情で、思わず胸が高鳴った。
「またな。いいCMを作ろう」
「え? あ、はい……」
勢いをそがれ、茫然と頷く私に峯野さんが乗車を促す。
時間も時間だし、逆らうこともできず車に乗った。
小さく手を振ってくれる市松さんに手を振り返し、峯野さんの車は帰路につく。
結局、何が何だったのか分からない。
分からないけど、なんとなく悪い予感がするのはなんでだろう、と思った。
その予感が的中するのは、一週間後。
試験前日のことだった。




