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第二十六話

 軽く一服した後、お姉さんは暮石家の中を案内してくれた。


 応接間に二つ目の――お姉さん曰く『冬用の』――居間に、客間にお風呂場にお手洗い。どこも広くて純和風という雰囲気を全力で醸し出していた。

 檜風呂の実物なんか生まれて初めて見たし、木目のはっきりした廊下を歩くとえも言われぬ木の感触が足裏から伝わってきた。

 中学で修学旅行の時に行ったお寺みたい。


「あと100年くらいすると鴬張りになるかもね」


 なんて言って笑う春史くんの顔はなんだかとっても気安くて、急に距離が近くなった気がして心臓が痛い。

 体育倉庫に逃げ込んだのも、そこで『大事な友達』だと言われたのもつい昨日のことなのだ。そんな昨日の今日で何事もなかったように笑うのは難しい。

 ここで助かったのが夕太の存在だ。


「短命で短慮な“人間(愚者)”ほど未来を夢想するものだな」

「夕太、人の家に来てまでルビ振りは止めなさい」


 見下していることを隠そうともしない態度は問題だが、おかげでツッコミを入れて逃げることができる。

 春史くんも主に夕太の相手をしてくれるおかげで、不審な態度はとらずに済んでいる……はずだ。

 お姉さんは夕太が騒ぐのを気にも止めずに淡々と先導している。


「次は、お父さんの書斎」

「……姉さん、そこはいいと思うよ」


 春史くんのツッコミに私も夕太もうんうんと頷いてしまう。

 流石に他人の家のご両親の部屋に入る趣味はない。案内されても困る。どう反応すればいいというのか。

 お姉さん――リリィは不思議そうに振り向いて、


「そう?」

「うん。部屋がどこにあるか案内するだけでいいと思う」


 きわめて理性的な春史くんの助言に、お姉さんは素直に従ってくれた。

 うっかり間違って入らないよう、場所は知っておいて損はない。ご両親に失礼な奴だと思われたくないし。


 ご両親の部屋はどれも普通の扉だった。居間や応接間なんかは襖に障子だったが、家族の部屋は普通に扉らしい。まぁ、そりゃそうか。

 ご両親の書斎と寝室、それぞれの部屋の場所を教えてもらった次は裏庭に案内された。


 張り出した廊下に長い庇と今時映画くらいでしか見ないような縁側に移動すると、でっかい犬がそこに寝転んでいた。

 でかい。本当に大きい。花梨より絶対に縦も横もある。


「でけぇ!?」


 夕太が声を上げると、その大きな犬はちらりとこちらを向いて何事もなかったように寝る姿勢に戻った。

 大きいだけでなく胆力もあるようだ。すごい。


「ゾフィー、起きて。昼子と夕太、ハルの友達」


 お姉さんに揺すられ、ゾフィーと呼ばれた大型犬は私達に向けて挨拶するようにひと吠えする。

 そしてすぐに興味を失ったように眠り込んだ。


「あの子がうちにいる最後の一匹、ゾフィーです」

「……随分度胸のある子ね」


 なるべく春史くんの方を見ないようにしながら返す。

 その豪胆さに感心しているのは本心だ。いざという時は頼りになりそうだと思う。


「えぇ。以前空き巣を退治したこともあるんですよ」

「そう。さしずめ暮石家の守り神ね」


 そうですね、と応える春史くんの声がやたらと楽し気で、ちらりと盗み見る。

 彼は心底大事なものを慈しむような目でゾフィーを見つめていた。


 タロウの時も思ったが、春史くんは飼っている子達のことになると饒舌になる。雰囲気もぐっと柔らかくなるし、学校では見ないような隙も見せる。

 動物が好きなんだろうか。いや、好きなのは間違いないんだけど、やっぱ飼っている子は特別なんだろう。

 ……それだけじゃないような気も、しないでもないんだけど。踏み込める領域でもないから、黙っている。


「だぁーっ! おい、引っ張るなタロウ!!」


 わめき声に釣られてみれば、我が弟はふわふわ子犬に袖を引っ張られていた。

 中学生vs子犬。力づくの引っ張り合い対決は、やや中学生が不利か。子犬に負けるんじゃないぞ、闇の侯爵家次期当主。


「おい、暮石!」


 今度ばかりは抗議の色強く声を荒げる夕太に、春史くんはしっかりと頷き、


「そっちの踏み石にサンダルがあるから」

「そんなことは聞いてねぇ!!」


 叫び返しながら、なんとかサンダルに足を突っ込んだところで夕太は裏庭に引っ張り込まれた。

 ……春史くん、やっぱり男の子相手だと態度変わるよね? いや、クラスメイトだと変わらないから仲良い子だけ?

 それもおかしいよね、夕太とは昨日会ったばっかりじゃん。


 春史くんの基準が分からなくてなんだか腹立たしい。つーかさ、そりゃ今日は私にもそれなりに気安いけどさ? 敬語も敬称も全然抜けてないじゃん?

 ……いきなりなくされても困るけどさ。苗字呼びは変わってもいいじゃんねとは思う。

 あくまで自然に、段階を踏んでという前提だけども。急に名前呼びされると間違いなく心臓が止まる。


 春史くんをチラ見して、自分のそれが高望みであることを確信すると同時にため息が漏れる。

 諸々諦めて夕太の方を見れば、フリスビーを咥えたタロウに遊べと要求されているところだった。ちゃっかりアストラも待機している。


「なんでオレがお前らと遊ばなきゃいけねぇんだ!」


 ぷりぷりと怒りながらフリスビーを構える夕太。多分そういうところが動物に見抜かれてなつかれているのだろう。


「オラァ! 取ってこい!」


 溜まったストレスを発散するように思い切り投げ飛ばす。

 あんなに力強く投げて敷地の外に出て行かないかと思って見回してみると、


 裏庭はめちゃくちゃ広かった。


 池でも作れそうなくらいの広さ。公園かよ、と突っ込みたくなる。全面にわたって芝生が植えてあり、サッカーでもできそうなくらいだ。遠くにゴールポストっぽいネットも見える。

 驚いてぱちぱちと瞬きを繰り返していると、


「両親が、ゾフィー達の為にって作ったんです」


 春史くんがいつもの苦笑交じりに説明してくれた。


「新しい環境に早く慣れる為にも、思い切り遊べる場所があった方が良いだろうって。やりすぎかなとは思ったんですが、散歩に連れて行けない日もありますから」

「家で済むなら、便利ね」


 自分でも何を言っているのか良く分からない。

 犬にとって散歩は重要だと聞いたことはあるが、だからって自宅にドッグラン作る人は聞いたことがない。

 金持ちってのはやりたい放題だな、もう。


 でも、思い返してみれば前世のウチも自宅に花畑作ったり色々やらかしてたか。お金持ちとはそういうものかもしれない。

 それに、タロウもアストラも楽しそうだ。


 投げられたフリスビーを全力で追いかけて、二匹で取り合っては夕太の元に持ってくる。

 夕太もノってきたのか角度をつけたり回転を工夫したりと実に楽しんでいる。

 そして楽しそうな一人と二匹の声を聞いてもゾフィーは全く動じず、その上に乗っかったレオも泰然と丸まっていた。

 動物にも性格ってのはあるもんねと妙な納得を覚える。


「この獣ども! これでもくらえ!!」


 再び投げられたフリスビー目掛けてタロウとアストラが走る。

 余りに楽しかったのか地面に落ちる前にジャンプして咥え、ごろごろと地面を転がった。


「……あれ、大丈夫なの?」


 心配して尋ねてみると、春史くんが薄く微笑んだまま頷く。


「あのくらいなら平気です。ほら」


 指し示す先を見てみると、タロウが跳ね上がるように起きたところだった。

 タロウの真似をしてアストラもフリスビーに噛みつき、二匹揃って二人三脚でもしているように夕太のところにフリスビーを持ってきた。


「根性あるじゃねぇか、タロウ。アストラも頑張れよ!」


 嬉しそうに吠える一匹と鳴く一匹。

 再びフリスビーを構える弟に、そろそろ戻るよう言うべきか考えていると、


「次は、ハルの部屋」


 硬直した。


 来るかな来るかなとは思っていたけど、本当に来るとは思っていなかった。

 お姉さん――リリィは前世と変わらずマイペースらしい。


 ていうか、いいのか姉として!? 弟の部屋に、一応は異性を連れ込むような真似して!? 私だったら絶対しないぞ!!


 横目に見れば、春史くんも同じように固まっていた。

 いつもの微笑が引きつっている。そういう顔は初めて見るかもしれない。

 基本的に嫌そうな表情はしない春史くんだけど、流石に衝撃が強かったのだろう。私もだけど。


 どういう顔をすればいいか分からない。

 興味はある、めっちゃある。行けるなら行ってみたいし覗いてみたい。

 しかし、昨日友達宣言したばっかりの仲で完全プライベート空間に足を踏み入れるのはアリなのかナシなのか。

 それに、男の子の部屋なのだ。異性には見られたくないものだってきっとある。あるだろう。あるはずだ。あってほしくはないけど。


 いやでも、春史くんがどういう趣味なのは知りたい。全くこれっぽっちもそういう意図はなくて、単純に音楽とか本とかの趣味が知りたいだけだ。そうして本棚を漁っていてうっかり出てくるものがあったとして素知らぬ振りをする心構えはできている。

 いやいやいや、やっぱり淑女としてそれはどうか。異性の部屋を訪れるのはもっと仲良くなってからであるべきではないのか。少なくとも名前呼びくらいにはなってからじゃないとはしたない。がっついてるみたいだ。

 肉食系のつもりはない。草食系かと言われると頷きがたいところはあるが、獲物をハンティングしようというバイタリティは特にない。


 落ち着け、思考がおかしい方向にしか行っていないぞ。ひとまず深呼吸だ、バレると困るから心の中だけで深呼吸。


 落ち着きを取り戻して、春史くんとお姉さんの双方を覗き見る。

 春史くんはまだ固まっていて、お姉さんは不思議そうに首を傾げて歩き出そうとしていた。


「行かないの?」


 どう答えろと。

 この一言で今後の人生が変わってしまうような気さえする。


 ベストな答えを探すべく頭を働かせるが何も見つからず、春史くんも硬直から回復しそうにない。

 助けて。


「いいじゃん、行こうぜ」


 いつの間にか近くに来ていた夕太が厭らしさ全開の顔をして私達を急かした。

 私と春史くんにほぼ同時に視線を向けられ、夕太は口の端を釣り上げた。


「いいだろ、別に。部屋を見られたって困るもんなんかないよな?」


 完全に春史くんを挑発している。

 ニヤニヤと追い詰める夕太、何も言わない春史くん。

 戦況は圧倒的に劣勢だ。


「そうだね。でも、生まれて初めて女の子を部屋に入れるのは緊張するかな」

「は?」


 苦笑交じりに爆弾発言をする春史くんに、夕太が眉をひそめた。

 ていうか、その発言で私の心臓も爆発しそうなんですけど!?


「な、おま、どういう意味だソレ!?」

「今まで男友達しか家に来たことなかったからね。家を案内するのも、部屋を見せるのも白峰さんが初めてってことになるかな」


 弾頭は炸裂し、広範囲に被害をまき散らした。

 そうかなーとは思ってたけど意識しないようにしてたのに!! ヤバいほんとに心臓が痛い、顔が赤くならないよう深呼吸だ深呼吸!!

 夕太は体をわなわなと震わせ、タロウとアストラを引っ付けたままサンダルを脱ぎ捨て廊下に上がってきた。


「ヤメだ! こいつの部屋には行かねぇ!!」

「なんで?」


 キョトンとした顔でお姉さんが首を傾げる。

 無垢な少女の如き仕草が妙に似合っていて、本当に妖精か何かかと思う。

 この流れで分からないってところも含めて。


「こんな飢えた野獣のところに姉ちゃんを行かせられるか! こいつの部屋だけは絶対にダメだ!!」


 どういう流れで飢えた野獣になったのかわからないけど、とりあえず黙っとく。

 今の話を聞いて春史くんの部屋に入る度胸は私にはない。微塵もない。

 ありがとう夕太、連れてきて本当に良かった。あんたがいなかったら私はぶっ倒れていたかもしれない。私のイメージを守ってくれてありがとう、最愛の弟よ。


「場所は?」

「それもいい! つーか、もう帰るぞ! やることねぇだろ!?」


 見えない毛を逆立てて犬か猫みたいに威嚇する弟。

 助かったけど、それ以上はちょっと恥ずかしいからやめて欲しい。


「それはダメ」

「なんでだよ!?」

「まだ夜じゃないから」


 さらりと言ってのけるお姉さんに、夕太が毒気を抜かれたようにぽかんとなる。

 いや私も初めて聞いたんだけど夜までいるの!? 何するの……?

 遊ぼうと思えば遊べるだろうけど、さっきの爆弾落とされた後だときっついよ!?


「夜まで何すんだよ!?」


 私の魂の叫びを弟が代弁してくれた。


「ハルの部屋は行かない?」

「行かねぇつっただろ!?」


 ボルテージの上がっている夕太相手にも全く動じないお姉さん。慣れたのか……?

 タロウも良く吠えるみたいだし、そもそも慣れているのかもしれない。


「最後は、私の部屋」

「いいのかよ!?」


 やっぱり自分の部屋も例外じゃなかった。

 すたすたと歩くお姉さんの後ろを、三人でとぼとぼとついていく。

 頭と肩にタロウとアストラを乗っけた夕太は疲れた顔でぼやいた。


「おい暮石、お前の姉貴はどうなってんだ……?」

「はしゃいでる……んじゃないかなぁ?」

「なんで疑問形なんだよ!」


 噛みつく夕太に苦笑で返す春史くん。

 お姉さんは事前に聞いた通り、人付き合いが得意そうには確かに見えない。端的だし自分のペースを崩さないし。

 社会生活を上手く行えるとはとても思えない。そこは聞いた通りだ。


 でも、聞いているよりもなんというか親切だし、配慮してくれているような感じはする。

 春史くんもその辺が良く分からないのだろう。


 彼女がもしリリィとほぼ変わらない精神性だとしたら――多分、これははしゃいでるので間違いないと思う。

 喜んで、浮足立っているというか。楽しんでいるのだろう。


 リリィは好感情は分かりにくいけど悪感情は分かりやすかった。嫌なことがあるとすぐに機嫌が悪くなるのだ。

 今のお姉さんは機嫌が悪いようには見えない。だから、それで間違いないと思う。


「ここ」


 扉の前で足を止め、躊躇なく開く。

 中は真っ白な壁紙で染められたかなり簡素な部屋だった。


 私の部屋二つ分くらいの広さに、隅っこにベッドがある。部屋の大部分を占めるのはパソコンの置かれた机で、バカでかいスピーカーがくっついている。

 モニターも二つ。壁に張り付くように薄い液晶も二つあるから、合計四つだろうか。何にそんな使うんだろう。

 スピーカーに隠れるようにしてアンプもエフェクターもある。そして無造作にキーボードの近くに放置されているペンタブ。


 なんかすごい。デジタル世界に迷い込んだ気分になる。ウチにはパソコンなんてお父さんが使ってるやつしかないよ。

 部屋に飾り気がないのもその感覚を助長しているかもしれない。ぬいぐるみもそれっぽい小物も何にもなく、ポスターも貼っていない。

 唯一あるのは本棚くらいで、背の高いやつが一つと三段重ねくらいのが三つ。それも結構スカスカだ。


「見る?」


 本棚から一冊取り出して、渡してくる。画集だった。

 綺麗な絵だ。人物も多いけど、景色だけの絵もある。色合いが淡く美しく、森や海などの自然を中心に描かれている。


 画集をめくる内に、一つ気になったことがある。

 頻繁に出てくる少女が、なんだかヒルダのように見えるのだ。


 少女は長い金髪に薄い翡翠の瞳をしていて、基本的に一人でいるのが多い。たまにいても動物とだけ。

 雰囲気といい顔立ちといい、なんだか似ている。気のせいかもしれないけど。

 気になって作者名を見てみると、『リリィ』と書かれていた。


「それ、私の」


 驚いて顔をあげると、お姉さんと目が合った。

 相変わらずの無表情で、何を考えているかも良く分からない。紅い瞳は何の感情も映していない。

 けれど、今の言葉には意味があるはずだ。


「綺麗な絵ですね。『リリィ』はペンネームですか?」


 そう返すと、ほんの少しだけ嬉しそうに頬を緩めた。

 本当によく注意していないと見逃しそうなくらい僅かな変化。でも、確かにその心が表に現れた瞬間だった。


「そう。私、小百合だから」


 小百合でリリィ。なんとも安直だけど、前世を知っていると違う印象を受ける。

 もしかしたら。

 もしかしたら、リリィにとって前世は忌むべき生ではなかったのかもしれない。

 あの子にとって、私と過ごした日々は良いものだったのかもしれない。

 だから、生まれ変わった今もその名前を使っているのかも。


 そんな、自分に都合のいい妄想をしてしまいそうになる。

 お姉さんが私に優しいのは、前世のことが関係しているのかも、なんて。


 そう思えば簡単に説明がつくけど、安直に流れちゃいけないよね。まぁ、なんとなく好かれたのだろうと思うことにする。

 そうじゃないと、前世みたいに離れられなくなりそうだ。

 今世では、流石に一緒に死ぬわけにはいかない。リリィはもう人間になっていて、立場も何もかも違うんだから。


「小百合さん、なんですね」


 そういえば、彼女の名前を聞いていなかった。

 そう思って確認がてら口にすると、小百合さんは大きく頷く。


「そう。暮石 小百合。リリィでもいい」


 とんでもない誘惑に心が揺れる。

 リリィ。前世の私の唯一の友達。死ぬ間際まで一緒にいてくれた親友。

 昔みたいにそう呼べたなら、どんなにいいか。今は少し素直になれたから、あの頃どんなに貴女に助けられたか、どれだけ大切だったか伝えられる。


 もう意地を張る理由もないし、顔色を窺うべき両親もいない。それに、今は人間だから会話だって通じる。あの頃と違って一緒にいるのに何の障害もない。

 リリィ。その名前は、あの辛い前世にあって幸せを意味するものでもあった。


「ありがとうございます、小百合さん」


 笑って返すと、小百合さんは小さく頷いた。

 前世は、前世だ。いつまでも引っ張るものじゃない。

 現世にまで罪を引きずるものでもないだろう。リリィは白蛇だ。ヒルダの友人の、真っ白くて他者に気を許さない孤高の蛇。


 小百合さんは蛇じゃない。春史くんのお姉さんで、雪のように白い肌と取り込まれそうな紅い瞳をした人だ。

 その両者は、別人だ。たとえ前世が一緒であろうとも。


 花梨がキャスリンではないように。ラルフがジェラルドではないように。

 春史くんが、アルフォンスではないように。

 せっかく生まれ変わったのだ。新しい生を謳歌するべきなのだ。


「そうだ、白峰さん。この子達も紹介するって言ってしていませんでしたね」


 春史くんの声に振り向くと、三匹の犬猫が綺麗に並んでいた。

 タロウの隣に膝をついた彼が一匹ずつ指し示し、


「右からタロウ、アストラ、レオです。アストラとレオは今日初めてですよね?」

「そうね。よろしく」


 試しに指を差し出してみると、タロウとアストラは握手するように右足をぽんと乗せてくれた。

 最後のレオは何故かパンチを返してきたけれど。


「こいつ生意気だな」


 様子を見ていた夕太がレオを上から見下す。

 負けじと見上げるレオとしばらく睨み合い、


 盛大に腹の虫が鳴った。


「……なんだよ」


 犯人たる我が弟は全員の視線を一心に集め、不機嫌そうに唇を尖らせた。


「こいつらの相手してたから体力使ったんだよ! おい飼い主、お前のせいだぞ!!」


 タロウとアストラを指して言い訳をする愛しの弟。

 うん、今の姿めっちゃ情けないよ。


「そろそろお昼だね。何か食べたいものある?」


 にこやかにスルーして私と夕太に聞いてくる春史くん。

 ……そう言えば春史くんも結構なマイペースだよね。姉弟はやっぱ似るのかな。


「オレは別に。姉ちゃんは?」


 夕太に話を振られ、いよいよ覚悟を決める時がきたと唾を飲み込む。

 言うのだ、昼子。聞いてきたってことは特に何するか決めてないってことで、ここで提案するのは何もおかしなことじゃない。

 頑張れ私、いけいけ私、お腹を鳴らした夕太ほどは恥ずかしくないぞ!


「良ければ、私が作りましょうか?」


 よっしゃ! 言えた!


 何でもない顔を取り繕って、反応を窺う。

 夕太はぽかんと口を開け、春史くんは驚いたように目を見開き、

 小百合さんは無表情のまま目力を強めて私をじっと見つめてきた。


「……大したものも作れないので、他にしましょうか」


 逃げるなぁ! 逃げるな私ィ!!

 土壇場で引っ込むのは本当に良くない。でも、この『マジで?』みたいな視線に耐えられるほど私は頑丈にできていない。


「姉ちゃん、作れたっけ?」


 我が弟がふざけた発言をしてくれた。

 あんたは一体今まで何を見てきたんだ!? ちゃんと一緒におば様の手伝い行ったりしたでしょーよ!?


「一応。花梨の手伝いしながら覚えたから」


 本当は料理本がないとちゃんと作れるかは自信がない。でもレシピは覚えてるのもあるし、問題はないはずだ。


「でも、味は保証できないから、別に――」


 そう言って逃げ出す私の手を、冷たくて小さな手が掴んできた。



「――食べたい」



 小百合さんの手だった。

 小さくて柔らかくて、少し冷たい。リリィの鱗とは全然感触が違う。

 人間の手だった。


「私、食べたい」


 言葉少なに言い募る彼女に、胸が詰まる思いがした。

 そういえば、前世ではリリィにご飯を作ってあげたことはなかった。蛇だから当然なんだけど、一緒に食事したこともなかった。


 今世では違うんだ。

 ご飯を作れるし、一緒に食べられるんだ。


 そんなの、お茶を飲んだ時には分かっていたことなのに。

 ものすごく久しぶりに、神様に感謝した。


「この前作ってもらったお弁当、美味しかったので楽しみです」


 衝撃から立ち直ったらしい春史くんが微笑んで言う。

 内容に反応して夕太がものすごい顔をして彼を睨む。


「おい、弁当っていつだよ!?」

「でも、困りましたね。うちは僕も姉さんも料理ができないので、材料がなくて」

「おい無視すんな! 暮石!!」


 騒ぎ立てる夕太を完全に受け流して、春史くんが眉根を寄せる。

 もちろん、それも計算済みだ。


「買ってくるわ。少し歩くけどスーパーがあるみたいだし」


 一応事前に検索済みだ。10分くらい歩くけどスーパーがある。住宅地だからないわけない。


「じゃあ、一緒に行きましょうか。お金は出します」


 思わず体がびくっと震える。

 いや来てくれるのはありがたいしお金持ってくれるのは嬉しいんだけど、爆弾の余波がまだ……!


 むやみに緊張するのは良くないと思ってるんだけど、あの発言の後で冷静に対処しろって言うのは少し無理があります!

 初めての女の子とか、そういうの気軽に口にするもんじゃないよ!!


「私が行く」


 小百合さんが立ち上がる。

 固まる私に気を使ってくれたのだろうか。

 春史くんが心配そうに小百合さんに声をかける。


「姉さん、大丈夫?」

「平気。日傘と帽子していくから」


 日傘? 帽子?

 今日は曇り模様で、そんなに日差しはきつくないはずだけど。

 不思議がる私の表情に気づいたのか、春史くんが苦笑する。


「姉さんは……肌が弱いんです。直射日光はもちろん、強い光もダメで。目にもよくなくて」

「え? それじゃ、家にいた方がいいんじゃ……」


 そういう私に、春史くんが苦笑を深くする。

 そういえば、昔白蛇について調べたときに見た気がする。

 アルビノ。先天的色素欠乏症。とにかく日光に弱くて、気を付けないとガンの発生率も高いとか。

 だ、大丈夫!? 家の外に出たりして!?


「大丈夫。行く」


 小百合さんの決意は固いらしく、早速帽子と日傘と長袖のシャツを取り出している。


「……ごめん、白峰さん。姉さんをお願いします。そこまで気にしなくて大丈夫だから、日傘を差し忘れないようにだけ気を付けてあげてください」

「う、うん。気を付ける」


 ま、まぁ、アルビノでもリリィはあちこち動き回ってたし、こういうのは気にしすぎる方が相手に対しても良くないって言うし。

 日傘だけは気を付けよう、うん。


「ハル、お金」

「あぁ、はい」


 財布を春史くんから受け取った小百合さんが私の手を取る。


「行こう、昼子」

「は、はい」


 まだ少しおっかなびっくりで、小百合さんと手を繋いで買い物にでかける。

 ワンピースの上から長袖のシャツを着ていて、なるべく肌を晒さないようにしている。そういうのを見ると少し緊張するけど、リリィと変わらないと言い聞かせて歩いた。

 日傘の位置を人生で一番気にした日かもしれない。




 スーパーでの買い物を終えて、袋を両手に小百合さんと帰り道を歩く。

 しばらく一緒にいるとそれなりに慣れるもので、彼女だって気を付けてるんだからと思えば気も楽になった。


 でも、流石に荷物を持たせる気にはならず私が全部持ってるけど。

 買う量を絞ってよかった。筋トレになるところだった。


「大丈夫?」


 小百合さんが心配そうに聞いてくる。

 リリィと一緒にいた経験もあるからか、この数時間でなんとか小百合さんの感情表現を多少は掴めるようになってきた。


 表情や目に頼っちゃダメだ。この人本当にそこが動かないから。

 声の感じや動きとか、とにかく全部で判断するのが大事。


「大丈夫。このくらいいつものことです」


 少しだけ強がりを混ぜて言う。

 私だってお母さんの買い物の手伝いをすることくらいはあるし、若いので多少の重さで音を上げたりはしない。モデルとして少し鍛えてるし。

 ただ、少し張り切っちゃったかなとは思う。お肉の量は少し抑えても良かったかも。


 人気の少ない道を歩く。

 土曜日のお昼、皆家でご飯を食べているのだろうか。

 天気もそこまでよくないし、家でゆっくりしてるのかも。おかげで、小百合さんは過ごしやすそうだ。


 これから夏だから、多分殆ど家に引きこもるんだろう。リリィの頃は全く気付かなかったけど、そう言えばあの子も日差しが強い日は私の服の中に隠れて出てこなかった。

 ま、私も外で遊ぶなんて10歳くらいからしなくなったから、当時は全くわかんなかったけど。


「昼子は、料理好き?」


 突然、小百合さんが尋ねてくる。

 この急な話しぶりにも少し慣れた。


「嫌いじゃないですよ」


 これは本心だ。面倒だなと思うこともあるし好きだと言い切ることはできないが、自分が作った料理をおいしそうに食べてくれると嬉しくなる。

 逆に、自分の為にはあんまり作る気がしない。だから料理が好きってわけじゃないんだとは思う。



「昼子は、ハル好き?」



 あまりのド直球に、何を聞かれたのか分からなかった。

 勝手に足が止まり、心臓がばくばくと音を立てる。


 どう答えよう。

 どう答えればいいんだろう。

 『正解』はどんな返答だ?


 小百合さんの紅い瞳が私を射抜く。

 何か答えなければ、逃がしてはもらえない。

 唾を飲み込んで、口を開いた。

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