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第二十四話

 春史くんの笑い声がおさまった後の用具室には、雨の音が蘇っていた。

 空から降り注いだ水滴が、ぱらぱらと屋根に当たって中に響く。

 少し前まで環境音としてしか認識しなかった音も、よく聞けば結構いろんな音程を奏でているものだ。

 雨音で作った音楽とかすごくいいかも。ぱらぱんぴんぽん。……私には到底無理だということだけは良く分かった。


 春史くんは笑いの尻尾が残っているのか満足したように壁に背を預けて目を瞑っていて、夕太は不機嫌そうにあぐらを掻いて虚空を睨みつけている。

 喋りかけるのもなんだか具合が悪く、話す内容も思いつかない。

 仕方なく適当に歩き回った。


 古い用具室というだけあって、スプリングの効かないマットや片っぽが外れたスコアボード、欠けた跳び箱なんかの壊れた用具ばっかりある。

 一応まだ使えそうなのもあるにはあるけど、奥には埃で地層ができてそうな代物がちらほらと。精神衛生上の観点から記憶を消去した。


 扉の方に回ると、実に頑丈そうな作り。ドラマとかでは体当たりなんかで扉を壊してるけど、これは私の体当たり如きではビクともしないだろう。

 花梨がやるとあの子の方が吹っ飛びそうだ。


 扉の向こうからは特に音は聞こえない。先生達は職員室に戻ってくれただろうか。

 扉に触れれば、指先に硬い感触が返ってくる。ふと疑問に思う。


「鍵、かかってなかった?」


 春史くんが普通に扉を開けていたので何も思わなかったが、そういえば鍵はどうしたんだろう?

 普通、こういう用具室って体育の先生が鍵の管理をしてるものだと思ってたけど。


「この用具室、よく鍵をかけ忘れるそうなんです」


 後ろから春史くんの声がして自分でもびっくりする速度で振り返る。

 少し驚いたようにびくりとしたけど、彼はいつもの苦笑を浮かべた。


「すみません、お邪魔でしたか?」

「……ううん、別に。それより、ここの鍵って?」


 続きを促すと、春史くんは静かに話してくれた。

 さっきまで大笑いしていた人と同じとは思えないくらいに。


「この用具室は見ての通り古くなったものを置いていて、殆ど誰も近寄らないそうです。だから、鍵も一度かけ忘れたら長いことそのままらしくて。一応、休み時間に確認しました」


 へぇ……それは知らなかった。ていうか、確認したんだ。

 一瞬なんで? と思ったけど、多分こういう事態を想定していたんだろう。

 そりゃそうだよね。先生達が見回りするって噂あったもんね。備えるよね、そりゃね!

 ……夕太と何話すかばっかり考えて、他の事なんて頭になかったですよ、えぇ。


「ケッ、管理のズサンな学校だな!」

 そっぽを向いたままの夕太が吐き捨てるように言う。


 良く分かんないけど、よっぽど春史くんが気に食わないらしい。あんたそれで助かったんだから大人しくしときなさい。

 弟が急速に生意気になっていく気がして、お姉ちゃんはちょっぴり悲しい。


「古い倉庫なんてそんなものでしょ。特にこんなガラクタ置き場じゃ無理ないわ。それより、よくそんなこと知ってたわね」


 姉として夕太のフォローをしつつ、気になったことを聞いてみる。

 こんなとこ、普通は気づかないと思うんだけど。


「実は、ラルフから聞いたんです。もしもの時は、って」

 春史くんはいつもと少し違う照れくさそうな笑みを浮かべて、すまなそうに言った。


 ……うん、すまなさそうなのは自分で見つけたわけじゃないからだよね? いや別にそんな風に思う必要はないと思うんだけど、春史くんだからまぁ分かる。

 照れくさそうなのは何なのかな? あとラルフって呼び捨てにしてるんだね? いつの間にそんなに仲良くなったのかな?

 ラルフの奴、あとで覚えてろよ。


「ラルフも少しは役に立つのね」

「凄い人ですよ、彼は」

 一応助かったから少しあいつを褒めてやると、春史くんは嬉しそうに笑った。


 ……仲が良いのね。本当に仲が良いのね。

 これだから男ってやつはさぁ! 同じ男だってわかるとすぐ打ち解けやがって、女相手には及び腰のくせによぉ!

 なんかちょっとイライラするけど、雨のせいってことにしよう。

 早く終われ、梅雨。雨音がうるさいのよ。


「姉ちゃん、いい加減あいつと友達付き合いすんのやめたら?」

 横から不機嫌そうに夕太が口をはさんでくる。


 そういえば、この子ってラルフが嫌いだったわね。ラルフ個人がっていうより、私と仲が良いのが気に食わないみたいだけど。

 可愛い弟の嫉妬を微笑ましく見守っていたけど、そろそろ態度を変えないといけないかしら。


「どうして?」

「ウザいから」


 うーん、とんでもない一刀両断。

 春史くんは苦笑して成り行きを見守っている。まぁ、口を挟み辛いよね。あんまりそういうことする人でもないし。


「あれでいいとこあるのよ。今日も役に立ったし」

「小町さんとられてもいーの?」


 唇を尖らせた弟の言葉が私の心にクリーンヒットする。

 取られるも何もないんだけどさ……二人は前世からの恋人同士っていう漫画でも最近見ないようなヤツなんだから。

 どっちかというと、私が不正に花梨を奪っているような状態なわけで。

 二人で料理した朝の会話を思えば、どうせそのうちどうにかなるとは思うんだけど。


「いいも何も、それは花梨とラルフ次第よ。それに、そういう話なら夕太のほうが心配なんだけれど」

「は? オレ?」


 少し強引だけど軌道を変えてえぐりこんでみる。

 そうだよ、思い出したんだけど夕太の二股について話し合わなきゃいけなかったんじゃん!

 疑惑はまだ晴れてないってか全然話せてないし! 夕太がいきなりとんでもないこと言うから!

 ここからは私のターンだ。事と次第を明らかにしなければ。


「夕太は、今付き合ってる子いる?」

「いるわけねぇだろ」


 はいダウトー!! そんなわけないでしょ!!

 雨のコンビニ前で待ち合わせした挙句家に行く仲の子と付き合ってないわけあるか!!


 ……いやいや、落ち着け私。一応本人の言い分を尊重しよう。

 もしかしたら、私の前では恥ずかしくて言えないだけかもしれないし。


「そうなの? 仲いい子とかいない?」

「いねぇよ! なんでそんなこと気にすんだよ」


 頑なな態度でそっぽを向く弟。

 うーん、これは直接的な方法じゃ厳しいか……? 伝家の宝刀『私、見ちゃったの』を使ってもいいけど、少し早すぎる気もする。

 もう少し外側からジャブを打っていこう。


「その制服はどうしたの?」

「これは……借りたんだよ」


 言葉を濁した挙句に目を逸らした。

 やましいことがあるって分かりやすいのはどうなんだ、弟よ。


「誰に?」

「誰でもいいだろ」

「よくない」


 絶対に言ってくると思った逃げ道を即座に塞ぐ。

 いやでも本当に誰でもいいわけないよ。迷惑かけた相手ぐらい知っておきたい。

 大体、うちの学校の制服持っててそれを貸し借りする仲なんてめちゃくちゃ気になるに決まってるじゃない。

 じっと顔を見つめると、夕太は観念したように息を吐いた。


「……友達にだよ。そいつの兄貴がここの生徒だから、借りてもらった」

「又貸しってこと?」

「いいじゃんか、そんなこと別に」


 うわぁ……でもそうだよね、うちの学校の生徒に直接借りたんじゃすぐバレるよね。その人は夕太の事知ってることになるわけだし。

 バレないように考えすぎでしょ、弟よ。

 でも又貸しは良くない。


「友達って?」

「なんでそんなことまで言わなきゃいけないんだよ!」


 嫌そうに叫んで顔を逸らす。

 ふーん、そういうこと言うんだ?


「私の友達付き合いには口を出すのに?」

「オレはいいの!」


 あーもう、これはダメだ。完全に拗ねちゃった。

 夕太は頬杖をついて絶対に私と目を合わせない姿勢を取った。


 この子がこういう態度をとる時は、怒っていると伝えたい時だ。そして本当は構って欲しい時でもある。

 よしよし、大丈夫。お姉ちゃんは分かってるからね。


 ここでようやく、私は伝家の宝刀を取り出した。

「その友達って、この前コンビニで待ち合わせしてた子?」


 夕太はぎょっとして反射的に私の方を見た。

 ふふふ、これでもうそんな態度はとれまいよ。


「なんで姉ちゃんが知ってんの!?」

「見ちゃったの、この前。おば様の手伝いで買い出ししてた時に」


 衝撃の事実を突きつけると、夕太は金魚みたいに口をパクパクさせる。

 口もきけなくなった弟にトドメの一撃を繰り出した。


「付き合ってるの? あの子と」

「ちげーよ!!」


 あれ? 外れた?

 様子を窺えば、夕太は目を三角にしてプリプリ怒っていた。


「なんでそうなんだよ! 誰とも付き合ってねぇって言ったじゃん!」

「で、でも、仲の良い子はいないって嘘吐いたじゃない」

「嘘じゃねー! 別に仲良くねーよ!!」


 今度は私が口をぱくぱくさせてしまう。

 いやだって、あれで仲良くないってウチの弟の頭の中どうなってんの!?


「たまたま都合が良くて手伝わせてただけだ!」


 なんかすごい外道発言をさらっと言ってのけたんですけど我が弟ぉーーー!?


「ゆ、夕太!? なんてこと言うの!?」

「姉ちゃんが聞くからだろ!」


 あれ? 私のせい? ん? なんかおかしくない!?


「制服はあいつの兄貴ので、高校がどうだったか知りたいって言うから話してやってただけ! 姉ちゃんの思うようなことはなんにもねぇよ!」

 なんか私が思ってることより凄いことが起きてた気がするんですけどぉ!?


 お姉ちゃん、夕太の学生生活が心配だよ……本当に……!

 大丈夫だよね? 孤立してたりしないよね? 逆にいじめっ子になってたりしないよね?

 うわぁなんか聞かなきゃよかったってちょっと思い始めてる自分が嫌だぁ……。


「あの、じゃあ、真希とは……?」

「真希? あいつが何?」


 ぶっきらぼうな口調で咎めるように私を見つめてくる。

 うぅ、生まれて16年、弟にこんな視線を浴びせられるのは初めてだよぉ。

 前世では……多少あったかもしれない。そう思うと少し持ち直してきた。

 息を吸う。


「あの、真希と付き合ってるって……」

「はぁ? オレが? なんで!?」


 なんでって、それは自分の胸に聞いてほしい。私が真希と付き合ってるわけじゃないし。

 でも、この様子だと、


「付き合ってない、の?」

「当たり前だろ!? むしろなんでそんなことになってんの?」


 なんで、と聞かれても。そういえば私も詳しい経緯は知らない。

 確か榎本さんから聞いた話だと――


「――一緒にいたから?」

「は? そんだけ?」


 夕太が殊更にバカにした表情で見つめてくる。

 そんな目で私を見るなぁ! 私だってある日急に言われたの!!

 ……怪しいとはちゃんと思ったよ? でもほら、もしかしてってことはあるわけで。


「鳥居さんは人気者だし、夕太君も格好良いから噂の的になったみたいだね」

 二の句が継げないでいる私に代わって、春史くんが説明してくれた。


 すごく優しいフォロー……私も見習わなきゃ。

 そんな春史くんを何故か睨みつけ、夕太が舌打ちする。


「夕太君って言うな」

「えと、じゃあなんて呼べば……?」


 口元だけを歪ませ、夕太が勝ち誇った笑みを浮かべる。

「オレの名はユーリ・シャミーニ! 氷の異能を持つ闇の侯爵家の次期当主、『ユーリ様』と――」

「――夕太でいいから。年下なんだし」


 阿呆なことを言い出す弟を遮り、春史くんに許可を出す。

 突っかかるなって何度言っても聞かないなこの子は!


「呼び捨ては止めろ!」

「じゃあ、『夕太君』にしますね」


 私と夕太、両方の間をとって『君』づけにおさまった。

 夕太は忌々しそうに春史くんを睨むも、何も言わずにそっぽを向いた。


 考えてみると、春史くんも結構ちゃっかりしてるな。さりげなく元の呼び方を通してるし。

 それはともかくとして、


「じゃあ、夕太はどっちとも付き合ってないのね?」

「そう言ってるだろ」


 夕太が頷くのを見て、ほっと胸を撫でおろす。

 良かった。うちの弟はまだ大人になってないし、二股もしていない。心底安心した。

 二股浮気不倫ダメ絶対。前世の経験からも争いの種にしかならない。

 あと聞かなきゃならないことは、っと。


「そういえば夕太。なんでウチの高校に来たの?」


 一応、これを聞いておかなきゃ。

 ここまで騒ぎになったんだしもう来ないとは思うけど、目的が果たされてない場合どうにかしようとしかねないから。うちの弟は特に。


 すると、何故か春史くんが驚いた顔をして夕太に視線を流した。

 その視線を受けて、夕太が眉をひそめてため息を吐く。


 ……なに? なんなの? その『自分達だけ分かってます』オーラは?

 これだから男ってさぁ! なんでそうすぐアイコンタクトとか取るの!? 『男同士分かりあえます』みたいなさぁ!?


「いいよ、もう来ねぇから」

「は?」


 え? 何? 意味わかんないんだけど。

 夕太は疲れたように手を振って壁に寄りかかった。

 ちょっと? 姉に対してその態度はないんじゃない?


「なんでって聞いてるんだけど」


 更に問い詰めると、夕太が嫌そうな顔をする。

 何よ、そんなに聞かれちゃ都合悪いことなの?


「えー、あの……大丈夫だと思いますよ」

「春史くん?」


 意外なところから夕太への助け舟が出された。

 春史くんはいつもの……いや、いつもよりちょっと深くて気遣うような苦笑を浮かべて、私の弟をフォローしてきた。


「夕太君の言葉に、嘘はないと思います」

 穏やかにそう言われ、私は何も言えなくなった。


 だって、これ以上何か言うとめっちゃ弟を疑ってますってことになるし……姉としてそこは信じてあげないと。

 二股は疑っちゃったわけだし。

 でも、なんかこう、どうして春史くんが夕太を庇ってるわけ? なんかすごい仲間外れの気分なんですけど。


「そう」

 とりあえずそう返して頷いておいた。


「それより、オレも聞きたいことあんだけど」

 夕太が話を振ってくる。


 あれ? これ話逸らされてる? コンビ技決められてる??

 まぁ、いいけど。断る理由もないし、頷く。


「なに?」

「姉ちゃんはさ、あの護堂ってのと付き合って――」


 ――今までの人生で最も速く動いたのは間違いないと思う。


 夕太との距離を詰め、鼻から下を鷲掴みにするように口を塞ぐ。

 頬に指をめり込ませて壁に押し付け、それ以上喋れないようにした。


「夕太、なんで知ってるの?」


 小声で喋れるように少し力を抜く。

 夕太の顔が驚きに満ちているが、今は構っている暇はない。


「ま、街に行ったときに見たんだ。ファストフード店の二階にいるとこ」

「そう」


 あれを見られてたのか……そういえば視線を感じた気がする。夕太だったのが不幸中の幸いだ。

 他の子にはこんなとこできないしね。


「私は誰とも付き合ってないし、夕太は何も見なかった。いい?」


 真っ直ぐ目を見つめてお願いすると、可愛い弟はこくこくと頷いてくれた。

 素直な子で助かった。誤解や噂が広まると相手にも迷惑だしね。

 それが人気モデルともなれば、ただの迷惑じゃすまない。夕太の為にも、余計なことは言わないのが一番だ。


「あの、白峰さん?」


 春史くんの遠慮がちな声が聞こえる。

 夕太から手を離し、自分的にはにっこりと微笑んで見せた。


「ちょっと誤解があったみたい。解決したから大丈夫」

「……そう、ですか」


 あんまり納得してないみたいだけど、詳しい説明はできないから許してね。

 再び雨音だけが響くようになった用具室。

 その静寂を破ったのは、扉を叩くノックの音だった。


「おーい、いるんだろ? 鞄持ってきたぞ~」


 聞き慣れたラルフの声。

 私達は顔を見合わせあって扉を開け、ラルフから鞄と傘を受け取った。


 ほんと、たまには役に立つなこいつ。

 そうして、なんとか先生達に見つからずに学校からの脱出を果たしたのだった。


 春史くんが私を見る目が少し変だった気がするけど、気のせいってことにした。




 家までの帰り道、私と夕太は特に会話もなく歩いていた。

 別に最後の私のアレが影響して、とかではない。あのくらい姉弟のスキンシップだ。嘘だと思うなら姉や弟がいる人に聞いてみるといい、本当だと分かるはず。

 ただ、特に話すことがないだけ。


 それでも何かと適当な話を夕太が振ってくるのがいつもなんだけど、学校を出てからずっと何か考え込んでいるようだ。

 何か話しそびれたことがあっただろうか。

 特に思いつかないし、あったとしても家で話せばいいだろう。特に何も気にせず、傘と雨粒の演奏を聞いていた。


 家まであと数分、というところで、

「姉ちゃんさ」

「うん?」


 立ち止まった夕太が話しかけてきた。

 その表情が妙に真剣で、思わず釣られて足を止めてしまった。


「友達、なんだよな?」


 誰の事だろう、と思って、すぐに彼の事だと分かった。

 でも一応、念の為に確認しておく。


「春史くんのこと?」

「あぁ」


 頷く夕太に、私も頷き返す。


「そうよ。大事な友達」

「ラルフや小町さんみたいに?」

「そう」


 躊躇なく頷く私に、夕太は何か考えるように(うつむ)いて、

「そっか」

 と納得したような声を出した。


 再び顔をあげた夕太の表情はすっきりしていて、つっかえがとれたようだった。


「いや、ちょっと疑問だったんだ」

「なにが?」

 尋ねる私に、夕太が肩を竦める。

「姉ちゃんが名前で呼ぶからさ。ただの友達なんかなって」

 ……ん? いまいち夕太が何を言いたいのかわからない。


 首を傾げる私に、生意気盛りの弟が笑って、



「『春史くん』ってさ。呼んだじゃん」



 言われて気が付いた。

 そういえば、そうだ。

 いつからだったっけと考えて、最初が思い出せないことにも気づく。


 私が名前で呼ぶのは、ラルフと花梨と夕太だけだったのに。

 一人は家族で、一人は家族同然で、一人は元婚約者で。

 名前で呼んで当然の、そのくらい親しい仲だと思っていて。

 彼とは二か月前にあったばかりの、殆ど他人なのに。


「帰ろーぜ。腹減ったー」

「そうね」


 歩き出す夕太の後ろについて、置いていかれないように足を動かす。

 傘を持つ手に何故だか力がこもって、顔が熱を持ったように熱くて上げられない。

 見えるのは自分のつま先と、弟の足元だけ。


 頭の中で彼の笑顔が勝手に再生される。


 私、名前で呼んじゃってた。

 当たり前みたいに呼んで、当たり前みたいに受け入れられてた。


 そのことが、死ぬほど恥ずかしくて。

 明日が土曜日ということを、完全に忘れ去っていた。



 明日、彼の家に行くのに。

 マトモに顔を見られる気がまるでしないのは、流石にマズいと思う。

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