第二十三話
弟が初めて女の子と付き合ったと思ったら二股してた。
そのあまりの衝撃は私の頭を軽くクラッシュさせ、正常な感情と思考を破壊し普段より更に無反応にさせた。
おかげで話しかけてきた榎本さんは怯えて逃げるし、教室は一時誰も喋らない沈黙の部屋と化してしまった。
仕方ないのだ。めちゃくちゃ驚いたし、花梨があからさまに『何か知ってますよ』という顔をしてしまったので無反応を貫くしかなかった。
まぁ、それはいい。今更私の評判がどうなろうが物の数ではない。
そんなことより、
夕太ぁぁぁぁぁぁぁ……おねーちゃんそれはどうかと思うよぉぉぉぉぉ……。
何かの間違いだ。姉が弟を信じないでどうする。
そういう気持ちも確かにあるんだけど、真希も夕太もちょっとよくわかんないところがあるから断言できない自分が悲しい。
思い返せば、私に兄弟がいるかって聞いてきた時の真希は少し変だった。もしかして、あれは何かそういうのに関係した話だったのでは……?
ともかく、真希と少し話さなくては。
そう思ってチャットを送れば、すぐ返事は来た。
『今日は忙しくて無理っすー! さーせん!』
ナメてんのか。
適当にその辺の一年を捕まえて真希の動向を聞こうかと思ったけど、それじゃ何か関係ありますと宣言してるも同然だ。
漏れ聞こえてくる噂話では、先生達が放課後に見回りを始めようとしてるとか、その件で真希が呼び出されているとか。
そんな話が耳に入る度に焦りが募る。もし夕太が見つかって、ウチの生徒じゃないことがバレた場合ってどんなお咎めがあるんだろうか。
中学に報告されて両親呼び出し? もしかして停学とか食らったり!? うわぁぁぁ! 姉としてなんとか守ってやらねば!!
内心の動揺を悟られないようポーカーフェイスを気取れば、まるで中学の時みたいにクラスメイトに怯えられる始末。
どーするんだよ、と思っていると、
「ひーちゃん、大丈夫?」
休み時間に花梨が話しかけてきた。
「大丈夫よ」
それ以外に何と答えればいいのか。
全然大丈夫じゃないんだけど、うまく言葉にできない。
「あれってさ、夕太くんだよね?」
顔を近づけて、こそっと尋ねてくる。
凄いわ花梨、察して周りを気にするようになってくれたのね……なんて感動してる場合じゃない。
「……多分ね」
多分ではなく99.9%そうなのだが、一縷の望みをかけて曖昧な言い方をしてみる。
それが無意味なことは私が一番分かっていた。
「まきちゃんと付き合ってたの?」
「……どうかしら。何も聞いてないから」
実は別の子と付き合ってます、なんて言えるわけもない。
それにそもそも、どっちも私の想像だ。本人の口からはっきり聞いたわけじゃない。
……あのやり取りで付き合ってる以外の関係があるなら聞いてみたいもんだけど、それは置いといて。
「じゃあ、話を聞かないとね~。ウチのガッコに来てる理由もわかんないし~」
「……そうね」
言われてハッとした。
そうだよ、どっちも確定したわけじゃない! あの子から誰かと付き合ってると言われたわけじゃないし。
やっぱりこういうのはちゃんと本人と話をしなくちゃ!
真希も呼び出したいけど、それはいつでもできる。今日ももし夕太がウチに来るなら、先生達より先に捕まえて話をしないと。
大体、学校に来るのがおかしい。真希と付き合ってるならどっかで待ち合わせすればいいんだし。
それがもし二股を成立させるための手法なら……姉として説教をしてやらねば。
「ありがとう、花梨」
「うん? どういたしまして~」
良く分かってない顔でニコニコと笑う花梨。
こういうところがなんか人をほっこりさせるんだよね、この子は。
放課後に向けて力を蓄えるべく、今日の授業はある程度手を抜くことを決めた。
試験前だから復習的な授業や自習をする先生もいるし、問題はない。
ひたすら夕太と会ったらどんな話をするか、実際に二股だったらどう対応するかを考えながら時間が過ぎるのを待った。
できれば今日は学校に来ないで欲しい、と思いながら。
「それであんなに悩んでいたんですか」
お昼休み。
雨なので教室でお昼を食べようとしたところ、ラルフのバカが早速夕太の話をしようとしたので急遽場所を移した。
誰も来ない屋上に至る階段の踊り場。花梨が持っていたレジャーシートを広げて、四人そろって同じ内容のお弁当を広げて食べる。
誰も周囲にいないのを確認してからラルフと春史くんに事情を説明し、最初に返ってきた言葉がそれだった。
「……そう見えた?」
「えぇ、まぁ」
言葉は濁しながらも、春史くんがはっきり頷く。
……そんなに分かりやすかっただろうか、私。
他にもバレてないといいなぁ。夕太の事は事実確認ができるまで誰にも知られたくない。
「あのガキんちょがねぇ。何かの間違いじゃねぇ?」
首を傾げるラルフに私もめちゃくちゃ同意したい。
「さぁ。今日話してみれば、間違いかどうかわかるでしょ」
「あんなにお前にくっついてた奴が簡単に彼女作るとは思えねぇけどな。それもお前に内緒で」
いいこと言うなぁ、ラルフのくせに!
そうだよね、私もそう思う。せめて私に内緒ってのはないでしょ。
「話してみればわかりますよ。中学の頃って、結構色々あるものですから」
「んー、まぁ……言われりゃそうかもな」
おい二人とも! 今私からの評価が3ポイントくらい減ったぞ!!
何にしろ、本人と話さないと進まないのはそうだけど。
とにかく放課後になったら真希のクラスに行って、夕太がくるまで張り込まなければ。来なかったら来なかったで、家で話せばいいだけだし。
こういう時こそ真希に協力してほしいのに、朝に返事がきたっきり無反応。一応昼休み始まってすぐに「話したいことがある」ってチャットしたけど、未読のまんま。
いい度胸してやがる。
事と次第によっては夕太ごと部屋に詰め込んで説教してやるからな。
暗い決意を固めながら花梨の卵焼きを口に放り込み、
「もしよければ、放課後付き添いましょうか?」
驚きの余り味を楽しむ前に飲み込んでしまった。
あぁ、勿体ない……じゃなくて!
なに? 春史くんどうしたの!? 付き添うって何に!?
「あ~、それいいかも~」
「そうだな、こいつ一人だと冷静に話できるかわかんねぇし」
花梨とラルフが口々に賛同する。
っておい、ラルフあんた私を何だと思ってるわけ? あんたに冷静になれないとか言われたくないんだけどマジで。
春史くんはいつもの苦笑を浮かべ、
「お役に立てるかはわかりませんが、第三者が居た方がいいこともあるかなと」
私に許可を求めてきた。
……まぁ、正直、もしあの子と学校で会ったらパニくらない自信はない。何を言おうか迷った挙句に思ってもないことを口走る可能性だってある。
春史くんがいれば確かに頼りになる……なるんだけど!
姉弟のことに巻き込むのもどうかと思ったりそもそも弟と話してるのを見られるのがなんだか恥ずかしい気がしなくもないっていうかどうしよう!?
「土曜日にはこちらがお世話になりますから。僕にも手伝わせてもらえたら、気兼ねなく当日を迎えられます」
春史くんが優しく微笑む。
そんなこと言われたら、断る理由がなくなるじゃない。
ズルいっていうか……退路が断たれたような気がする。
「……別に、いいけど」
どうしようもなく素直じゃない私の返事にも、「はい」と優しく返してくれる。
前世から変わらない、柔らかく包んでくれるような感覚。
トゲばっかりの私でも、何も気にせず接してくれる。こういうとこ、やっぱヤバいよなぁって思う。
今更ながら、前世では本当に初恋だったんだなと自覚する。
好きにならない方がおかしいよね。あの頃の私にとって、ただ一人暖かさをくれた人だったんだもの。
……今は違いますよ? 家族にも友達にも恵まれてますから? 人の暖かさってやつは前世と違ってよーく知ってます。
「ごめんね~。本当はわたしも一緒に行きたいんだけど、おかーさんの方が~……」
「分かってる。頑張ってね」
終わりが見えたとは言えまだまだおば様は修羅場中で花梨の仕事はなくならない。
軽く笑いかけると、倍の笑顔が返ってきた。
「ひーちゃんも頑張ってね~!」
「手伝えることがあったら言えよ~」
親友の暖かい応援とバカのおざなりな声援を受け、私は春史くんと放課後の夕太を待ち構えることになった。
土曜日のことについては二人とも聞きたそうな顔をしていたが、見ないふりをした。
今はそのことを上手く説明できる自信がない。
とにかく目先の問題をなんとかしなくては。
放課後までの時間は、酷く長く感じられた。
HRが終わり、チャイムが鳴る。
よりによって今日は七時間授業の日なのを忘れていた。しかも二年だけ。三年と一年はもう六時間で授業が終わっている。
急がないと、もう夕太が来ているかもしれない。
もし先生に見つかっていたら。そう思うと焦りが胸を焦がす。こちこちと鳴る秒針の音が、刻々と制限時間が減っていくのを教えてくるようだった。
「春史くん、行きましょ」
返事も待たずに教室から出て、真希の教室へと向かう。
後ろをついてきてる気配はするけど、それが春史くんかは分からない。考えている時間も余裕もなかった。
一階への階段を駆け下りる。昨日から降り続く雨のせいで濡れているけど問題ない。
そう思って油断したのが間違いだった。
半分を下り切って踊り場でターンして次の段に足をかけ、
滑った。
思い切り足を踏み外した。
少し水滴の残った濡れた床と靴底が擦れて体が一瞬宙に浮く。
体重を支えるものがなくなって頭が混乱し、成す術もなく落ちて、
「危なっ!」
後ろから誰かに抱きしめられた。
衝撃に備えて目を瞑ったのに、体に何一つ痛みがない。
感じるのはごつごつしたものと丸い金属みたいなものが当たっている感触。
恐る恐る目を開ければ、誰かの腕が見えた。
そこまで太くもないのに、硬くてがっしりした感触がする。後頭部も同じようにがっしりしたものに支えられていて、一体なんだろうと思う。
「あー……大丈夫ですか? 白峰さん」
言葉の隙間に痛みをにじませて、聞き慣れた声が頭の上から降ってくる。
一拍置いて正常な思考を取り戻した脳みそが、春史くんの声だと教えてくれた。
「う、うん、大丈夫」
なんとか返事をして、しがみついていた腕から手を離す。
心臓がとんでもない速度で動いている。鼓動が爆音になって体中に響いている。
なに、この状況!?
いやいやいや、冷静になれ。落ち着け。とにかく考えがまとまらないままじゃ困る。
まず、階段から足を踏み外して。落ちる! と思ったら誰かに抱きしめられて。気が付けばこの状態……ということは。
「そ、それより春史くんこそ大丈夫? どこか痛くない?」
そう、私を庇って春史くんも落ちたのだ。そうとしか考えられない。多分そう。
未だに心臓の音が煩いが、冷静な対応を続けていればそのうち治まるはずだ。
「はい、まぁ、なんとか。打ち身くらいで済んだと思います」
「え!? ちょっと、大変じゃない!?」
抱きしめる彼の腕を押しのけて体を反転させる。
いつもの苦笑を浮かべる春史くんだが、苦痛が表情に滲んでいた。
慌ててあちこち触ってみるが、頭を打ったりとかはしてないみたい。背中やわき腹のあたりを触ると痛そうだったから、本当に打ち身くらいで済んでるのだろう。
いやでも、油断は禁物だ。特に背中は重大事故になりやすいって聞いたことがある。
「保健室行く? それより病院?」
「大丈夫ですよ、そこまでしなくて。それより弟さんを」
「今はいいから! 先に保健室よね、やっぱり」
夕太の方を優先させようとする彼の発言を押し込め、酷いところはないか触れて確認する。
痣になってる場所は見たところはなくて、はれ上がってるところもないっぽい。でも、素人判断はアレだし保健室に行って先生に確認してもらった方がいいかな。
首筋と頬が赤くなってるみたいだけど、ぶつけて腫れたんじゃないみたい。触っても痛そうにはしない。
背中側をぶつけた痛みで体温が上がってるのかも。やっぱり保健室行かなきゃ。
「立てる? 保健室に行きましょ」
「でも、弟さんが――」
それはいいから、と言おうとしたところで、
「――てめぇ! 姉ちゃんから離れろ!!」
とんでもない怒声が雨音を吹き飛ばし、私達に叩きつけられる。
ほとんど音に反応する小動物みたいにそちらを見れば、何故かウチの制服に身を包んだ夕太が早足に近づいてきていた。
その後ろでは、真希が悪戯がバレた小学生みたいな苦笑いを浮かべている。
呆気に取られている内に夕太が目の前まで来ていて、無意識に名前を呼んだ。
「夕――」
言い終わらない内に、弟は私を押しのけて春史くんの襟元を掴み上げる。
ギャァーーー!!! 何してんの夕太ぁ!?
「お前が暮石か!? よくも姉ちゃんに手ぇだしてくれたな!!」
拳を握りしめるのを見て、慌てて夕太の腕にしがみつく。
「ちょ、ちょっと、落ち着きなさい夕太!!」
「離せ!! 姉ちゃんも姉ちゃんだぞ! 無防備すぎんだよ!!」
最早弟が何を言っているか分からず、必死に止める。
こんなとこで中学生が高校生相手に暴力沙汰って、洒落になんないってば!!
「え、と……夕太君?」
「お前に呼ばれる筋合いはねぇ!! 廊下で姉ちゃんに抱き着きやがって、この変態が!!」
夕太が襟元を掴み上げる手に力を込める。
え? 抱き着く? 変態? この子の目には何が見えてるの???
「大人しくしてりゃ見逃してやろうと思ったが、もう我慢ならねぇ! ぶっとばしてやるから立ちやがれ!!」
「夕太、夕太、お願いだからもうやめて!」
「なんだってこんなやつ庇うんだよ、姉ちゃん!!」
目を吊り上げた夕太が憎々しげに春史くんを睨む。
そうやると流石私の弟だけあって迫力があって、周りは誰も近づいてこようとしない。
いやもうほんと勘弁して。恥ずかしいやら何やらでお姉ちゃんはもう死にそうだよ。
「ここんとこ姉ちゃんの様子が変だったのもこいつのせいなんだろ!? オレがぶん殴ってやる!」
「いいから! お姉ちゃんそういうの頼んでないから!!」
必死に宥めようとしても、のぼせ上っている夕太には効果が薄い。
もうなんか何しようと思ってきたんだか分からない。話をするどころじゃないのは間違いないんだけど、私の想像と違いすぎて反射でしか動けてない。
そんな時、遠くから絶望の足音が聞こえてきた。
「何の騒ぎだ! 静かにしなさい!」
先生達だ。
朝に聞いた見回りの先生達だろう。
マズいマズいマズいマズいマズいマズいマズい!
こんな場面を見られたら間違いなく生徒指導室直行で、両親呼び出しコースだ。
最悪私はまだなんとかなるとして、制服まで用意して学校に忍び込んでいる夕太はほんとシャレにならない。
どうしよう、どうすればいい!?
視線をさ迷わせるも何も思い浮かばない。この場から逃げようと思うのに、どこに逃げればいいか分からなくて足が動かない。
普段だったら逃げ場なんてすぐに思い浮かぶのに、全くなんにも思いつかなかった。
ヤバい、涙が滲んできた。泣いてる場合じゃないし泣いてもどうにもならないのに。
大体私が泣いたって可愛くなくて、こういうのは花梨の役目で、あぁもうしっかりしろどこに逃げればいいか考えろ!
必死に頭を働かせていると、ぐいっと腕が引っ張られた。
「こっちへ!」
春史くんだった。
見た目から想像したよりずっと強い力で引っ張られ、足がたたらを踏みながらも動き出す。
「おい、なんだよ!?」
隣を見れば、夕太も同じように引っ張られていた。
弟の文句を黙殺し、春史くんが走り出す。
強く引っ張られて腕が少し痛かったけど、頭を空っぽにしてついていく。それ以外の選択肢なんて何も持ってないし。
それに、なんか、安心する。
もう大丈夫だな、って不思議と思えた。
あちこちを走り回って、外に飛び出す。
雨に濡れた視線の先には体育用具室。春史くんがようやくそこで私の手を離して用具室の扉を開けて、私と夕太を引っ張り込む。
ゆっくりと音を立てないよう扉が閉められれば、雨の音と少し埃っぽい匂いがするだけの何もない暗闇が訪れた。
息が荒い。無理やり走り回らされたんだから当然だけど。
春史くんと夕太はそこまで息が乱れてなくて、体力の差を実感する。もう少し夕太の元気は削いでくれた方が嬉しかったかも。
呼吸の音だけが暗闇に響く。
誰も何も言わない。誰かが何かを言うのを待っているようにも思える。
最初の一言。それを、三人とも気にしていた。
息を吸い込む。
「ありがとう、春史くん。おかげで助かったわ」
呼吸を整えてお礼を言う。
第一声を夕太に譲るわけにはいかない。また喧嘩されたら今度こそ怒りそうだし。
かといって春史くんも何を言えばいいか分からないだろう。ここは私が場の空気を作らないと。
落ち着いて話しやすい雰囲気にしなくては。
「いえ、撒けたみたいで良かったです」
外の様子を耳で窺い、春史くんが安堵の息を漏らす。
先生達の声はもう聞こえないし、足音もしない。
しばらくここでほとぼりを冷ませば、学校を抜け出す隙くらいできるだろう。
……雨音に紛れて気づかないせいで実は近くにいる、なんて可能性は考えない。そんな特殊工作員みたいな先生がいても困る。
春史くんと目が合い、どちらからともなく笑みをこぼす。
雨の音以外何も聞こえなかった。
「……で、お前は誰なんだ?」
夕太ぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?
思いっきり喧嘩腰で夕太が春史くんをねめつける。
声が刺々しいなんてもんじゃない。本気の怒気がこもっている。
夕太がここまで怒っているのを、私は今まで一度も見たことがなかった。
「ちょっと、夕太――」
「――姉ちゃんは黙ってろ。お前誰なんだよ?」
暗闇に慣れた目が春史くんに近づく夕太を映す。
背は春史くんの方が高いけど、夕太もそれほど負けていない。あと二年も経てば、殆ど変わらないくらいになるだろう。
それだけに、少し怖い。
喧嘩が始まったら、私は夕太を止められるだろうか。
「誰……ええと、その」
「自己紹介しろっつってんじゃねぇぞ、暮石春史。お前のことは知ってんだ、姉ちゃんと同じクラスだってことも」
夕太が春史くんを睨む目に力を込める。
困惑する頭の中で、妙に冷静な部分が『あぁ、それを調べに学校に来てたんだ』と納得した。
でも、なんで春史くんのことを調べに?
「それじゃあ――」
「――すっとぼけてんなよてめぇ。さっきも姉ちゃん見て変に笑いやがって。ここんとこ姉ちゃんの様子が変だったのはお前のせいだろ」
いぃぃぃぃいぃっ!? 夕太、何言ってんの!?
春史くんが全く分からないという顔で眉根を寄せている。いや、そりゃそうだよね。私だってそんな反応するよ。
夕太、お姉ちゃん今すっごく困ってるし戸惑ってるよ!!
夕太が怒りに任せて春史くんの胸元を掴んで捻り上げ、
「てめぇは姉ちゃんの何なんだよ!?」
雨音を吹っ飛ばすような大声を出した。
残響が過ぎても雨音が戻ってこない。
耳が痛くなるような静けさの中で、私と春史くんは固まっていた。
何を言うんだろう、この子は?
何なんだって……そんな、私と春史くんの間に何かあるような言い方で。
「何とか言えよ、おい!!」
捻り上げる腕に力を込め、春史くんの顔が少し歪む。
空いてる方の拳を握りしめたのを見て、慌てて夕太に飛びついた。
「夕太、やめなさい!」
「姉ちゃんは引っ込んでろ! オレはこいつと話してんだよ!」
そんなこと言われて引っ込めるかぁ!
弟が喧嘩沙汰を起こそうとしてるのに止めない姉はいない!!
夕太の目は吊り上がり、本気で怒っているのが分かる。
睨みつけられた春史くんは完全に困惑してる。そりゃそうだよね、わけわかんないよねごめんなさい!
「……何、と言われても……」
春史くんの目が私を捉える。
そうだよね、困るよね。何って言われても何でもないんだもんねごめんなさい!!
「あぁ!? すっとぼけんのもいい加減に――」
夕太が飛びついた私ごと拳を握りしめた腕を振り上げ、
「――大切な人です」
一瞬、それが誰の声か分からなかった。
間違いなく春史くんのだと分かった時には体から力が抜け、夕太の腕から手を離してしまっていた。
「友達として」
そぉぉぉぉぉぉだよねぇぇぇぇぇ!?
付け加えられた一言に妙な安堵を覚える。
うんうん、そうだよね、友達だもんね! 一緒にお弁当食べたり、勉強したりするし! これはもう友達以外何者でもないよね!
安心する私の横で、夕太が複雑な表情をしていた。
「……友達。友達ね」
嫌そうな顔で春史くんを見やり、捻り上げていた手を離す。
ちらりと私を一瞥して、ふんと鼻を鳴らした。
「まぁいいや。友達ってんなら忠告しといてやるよ」
偉そうにのたまった挙句、人差し指をびしりと突きつけ、
「お前と姉上ではレベルが違う! 身の程を弁えることだな、“人間”!」
「無理なルビ振りは止めなさいって言ってるでしょ!」
思わず家のノリで頭をはたいてしまう。
この子はもう、なんていうか、緊張感とかないの!?
「仲が良いんですね」
春史くんが私達を見て楽しそうに笑う。
あぁぁぁなんか恥ずかしい! これじゃ頭おかしい姉弟だよね、うわぁもう家族の第一印象最悪じゃない!?
「弟が本当にごめんなさい。夕太!」
「なんだよ」
春史くんに頭を下げ、夕太を呼びつける。
我が弟は不貞腐れた顔をしてそっぽを向き、私の顔を見ようともしない。
ほほーぅ、つまり分かってるのね? 私が怒ってることを?
「謝りなさい」
「ヤだ」
即答された。
弟が生意気だと言う皆の気持ちが今日初めて分かった気がする。
「さっきから失礼な事はするわ、言葉遣いは悪いわ! 先生達から助けてもらったのにお礼も言ってないし!」
「別にいいだろ、大体助けてくれなんて頼んでねーよ!」
ほっほーぅ?
そういうこと言う? 言っちゃう?
如何に弟に甘い私と言えど躾に関しては前世の経験から厳しくいきますわよ?
「大丈夫ですよ、僕が勝手にやったことですから」
「そういう問題じゃないの」
春史くんの助け舟を申し訳ないけどばっさり切り捨てる。
例え春史くんが良くても夕太の為にならない。こんなあまのじゃくな態度を取っていたらそのうち周りに誰もいなくなるんだから。
経験者は語る。
「ふん、愚かな“人間”だが中々分際を弁えているな」
「ゆ・う・た!」
両手で頬を挟み込み、ぐりっと首を動かして真っ直ぐ目を合わさせる。
目をそらそうとしても無駄。ぐいっと引き寄せて逃げられないようにする。
「な、なんだよ……」
「ちゃんと謝りなさい」
問答無用の気合を込めて言い聞かせる。
姉の私から見ても綺麗な瞳を揺らして逡巡する夕太だったが、観念したように息を吐いた。
「……分かったよ」
頬を挟む私の手をのけて、春史くんに向き直る。
しばらく嫌そうに視線を逸らしてため息をついてを繰り返して、
「……悪かったな」
「いいえ」
ぼやくような謝罪に、春史くんがすぐに反応してしまった。
も~……やり直させようと思ったのに、これじゃできないじゃない。
春史くんは優しく笑って、
「お姉さんが心配でしたことでしょうから。僕にも姉がいるのでわかります」
えぇっ!? 分かるの!?
夕太を慰めるための方便なんだろうなとは思うんだけど……いやでも、土曜日の件を考えるとそうとも言い切れないかも。
なんか、リリィのことで春史くんが夕太みたいになったら嫌だなぁと思いながらも何も言わずにおく。
藪蛇をつつくのもなんだし、それよりもやるべきことがあるし。
「夕太、ちゃんとお礼も言いなさい」
「えぇ!?」
「助けてもらったでしょ」
あからさまに嫌そうな声を上げる弟を睨みつける。
唇を尖らせて逃げようとしてもダメだからね。絶対言わせるからね!
「そこまではしなくても……」
「ダメ。今回の騒動は夕太のせいなんだから」
フォローしようとする春史くんに首を振り、強行する。
そもそもの原因は夕太なんだし、そこはやらないと。これは大事な教育です!
夕太は渋々と春史くんの方を向き、
「世話になったな、“人間”! 貴様如きが姉上の友人とは片腹痛いが、その功績に免じて許してやる!」
「いい加減にしなさい!」
ぐーで頭を叩く。
ほんと、弟じゃなかったら蹴り入れてるからね!
「くくっ」
春史くんが押し殺した笑い声をあげ、すぐにこらえきれないといった具合に笑い始めた。
その顔があまりにも無邪気で、なんだか毒気が抜かれてしまう。
夕太は機嫌悪そうにそっぽを向いて、耳を塞いでいる。
外ではまだ雨が降っているだろうに、雨音が耳に入ってこない。
誰も近づかない用具室に、春史くんの笑い声が響く。
子供みたいなその声が、どうしてか多分ずっと忘れられないだろうなと思った。
夕太の二股疑惑について問い詰めることに気づいたのは、春史くんの笑いが収まって少ししてからだった。




