第二十二話
弟とは、可愛いものだ。
世間一般では生意気だったり反抗的だったりとあまり良いものではないように言われることもあるが、私にとっては愛くるしい存在なのだ。
記憶というのは時間と共に風化するらしいが、ハイハイしながら「ねーたん、ねーたん」と私を呼ぶ弟の姿は鮮明に思い出せる。
小さくてぷにぷにの手、ぷるぷるのほっぺた、どれをとっても愛おしい以外の言葉が出てこない。
中二病になろうがなんだろうが、それがどうだというのか。少し独特な言葉遣いをするぐらい、可愛らしいものだろう。
私にとっての弟とは、そういう存在だったのだ。
分かってる。
人間は時間と共に成長する。
私にだって幼い頃はあっただろう可愛げは、今となっては欠片もない。そういうものだ。
だから、弟だってもう小さくてぷにぷにの手をしておらず、ぷるぷるのほっぺたもしていない。分かっているのだ。
だが、現実として目の前で見せられるとクるものがある。
いつの間にか夜遊びを覚え、何も言わずに彼女を作り、このまま家族の知らないところで大人へなっていくのだろう。
いや、もしかしたらもう大人なのかもしれない。最近の子供は早いって言うし。
嗚呼、弟よ。お姉ちゃんはどうしたらいいの?
後ろを歩いていたはずのあの子が、いつの間にか遠くに行ってしまうような感覚。妙に寂しくて、胸の中を隙間風が通っていく。
せめて彼女とか紹介してくたら、もう少し順序を踏んでくれたら、こんな悲しくならなかったかもしれないのに。
いやでも、男の子ってそういうもんだよね。ジェラルドもそういうのなかった。比較対象が前世の元婚約者ってのもどうかと思うけど。
人は誰しも、いつか大人になる。なるしかない。だから、必ず来る出来事が今来ただけなのだ。
でも、まだ中学生なんだし、もうちょっと後でもいいと思うけど。
ぐるぐると考えが回って、出口のない迷路に迷い込んでいる。こういうのに正しい答えっていうのはあるんだろうか。
それでも。
それでも、夕太に彼女ができたのは喜ばしいことのはずだ。
大人になるにしたって、夕太には夕太のペースがあるだろう。皆と一緒じゃなきゃいけないなんてないし、こっちの希望をゴリ押しして夕太らしくないことをさせるのだけは絶対に間違ってる。
それじゃ、前世の両親と同じだ。
幸いにして、今世の両親は子供の気持ちを尊重してくれる人達だ。なら、私だってそうすべきだろう。
前世の記憶があまりいいものではないと思うなら、そのはずだ。
ようやくそう思えたのは、夕食の片づけを終えて軽く作業の手伝いと明日の準備をした後の、寝る前のお風呂の最中だった。
何をしたかは覚えているけど、完全に意識は飛んでいた。これも前世の杵柄というべきか……頭空っぽでも体を動かすことができるのは特技と呼んでいいのだろうか。
湯船のお湯を掬って顔にぶつけ、意識をはっきりさせる。
そうだ、夕太に彼女ができたのだ。顔はいいけど中二病で、コミュニケーションもあんまりうまくないあの子に。
姉として、祝福してやるべきだろう。あの子が隠しているなら、明かされるまで知らないふりをしてから。
うんうん、これが正しい姉の立場というものだ。おば様の漫画でもそういう姉キャラはいたし。
思えば、今の私は恋愛漫画に出てくるヒーローの姉みたいなものじゃないか。隠れて付き合う二人に、それを知ってしまった姉。ここは一つ、それらしく振舞おう。
そうと決まれば、私のやることは普段と変わらない。何でもない顔をして、それとなく夕太のフォローをしてあげるのだ。
だいぶすっきりした心持ちでお風呂から上がり、パジャマに着替える。着替え一式は借り物ではなく私の物だ。
小町家に泊まるのは割と頻繁にあるので、収納スペースには私用の下着や服がきっちり揃えられている。
そう、今日は泊まりだ。料理が大好評で明日も頼まれ、作業の手伝いも必要だったこともあって自然にそうなった。
外は結構な大雨で帰るのが億劫だった私にも丁度良く、お母さんも渋ることなく簡単にOKしてくれた。
……ふと思ったけど、超売れっ子漫画家でお金持ちのおば様とうちのお母さんってどこで接点があったんだろう。幼稚園に入る前から花梨とは友達だったらしいから、親同士に繋がりがあるのは間違いないはず。
後で聞いてみようかな、と考える私に手を振って花梨がお風呂に行く。アシさん達に会釈して仮眠室に引っ込んだ。
空気的に私も手伝った方がいいかなとは思う。でも、おば様が「年頃の女の子なんだからちゃんと寝ないと」と仰るのでお言葉に甘えている。
いい人だよなぁ。前世のマーチル家の人もいい人だったみたいだし、花梨はほんと家族に恵まれている。きっと、あの子が良い子だからだろう。
善人が良い目に合うのは世の道理って感じで嫌いじゃない。ラルフの両親は破天荒な人だけど、あいつを見てると納得してしまう。
だから、春史くんの両親もきっと良い人達なんだろう。
今度の土曜日、会うだろうか。正直、ご両親のことはお仕事のこと以外ほとんど知らない。この前の雨の日に送った時も、実は家にいたのだろうか。
貿易会社の役職者って、そんなにしょっちゅう出張するもんだっけ。そういう知識が全然ないからさっぱりわからない。会社や人によるんだろうけど。
だとしたら、リリィとの仲はどうなんだろう。
春史くんの話だとリリィは問題があるというか……性格的に前世とほぼ一緒だと思う。だとしたら、両親は身内だから仲が良いんだろうか。
他人に冷たいどころか興味がない娘を、ご両親はどう思っていらっしゃるんだろうか。
んー、やばい、考えたら色々気になってきた。
夕太は見守るしかないなって思ったら、今度はリリィが気になってくる。まぁ、前世でもあの子は強かったから大丈夫でしょ。土曜日になればわかるさ。
髪を乾かしながら柔軟とストレッチを済ませていると、花梨がお風呂から上がってきた。
「ひーちゃん、部屋にいこ~」
「髪拭いてからね」
バスタオルを花梨の頭にかけて、手早く拭いていく。
この子はほんと身だしなみをあんまり気にしない。それでつやつやの肌にサラサラの髪なんだから世界ってのは不公平だ。
「ありがと~!」
「はいはい」
顔をバスタオルに挟まれたまま、満面の笑みを浮かべる。
それがどうにも可愛くて、つい笑ってしまう。不公平な世界だって、こんなふうにいいことも結構ある。
前世でもそう思えていたらな。
それはそれで、今世でこんなふうになれなかったら良し悪しかな。
薄れていく記憶の向こうのヒルダに謝って、あらかた髪を拭き終えた花梨と手を繋いだ。
おば様とアシさん達に挨拶して、関係者宿泊用の部屋に移る。おば様の仕事を手伝う時は、いつもこの部屋に泊まるのだ。
私は別にどこでもいいのだが、こっちだと特別感がして好きだと花梨が言うので仕方ない。
部屋の中はとにかくあちこちにベッドが置いてあって休めるようになっている。リビングなんかは壁沿いに仕切りとベッドが並んでいて、野戦病院みたいだ。
私達がいつも使う部屋に入り、ドライヤーで最後の仕上げをする。あとはお肌のお手入れをしてベッドイン。
大きめのキングサイズベッドは、私と花梨が入ってもまだ余裕があった。
それでも、私達は身を寄せ合って眠る。隙間が出ないように、ぴったりとくっついて。
そうすれば、世界に二人だけでもきっと寂しくないから。
「ひーちゃん」
「ん?」
花梨が小声で呼びかけてくる。
大きな枕を二人で分け合う。普段は合わない目線が、寝る時だけは同じ高さになる。
そういうのが、私はなんか好きだった。
「今日はありがと~」
「ん」
シャンプーと石鹸のいい香りがする。
同じものを使ったから、私も同じ香りがするだろうか。しない気もする。
「ひーちゃんのご飯、美味しかった~」
「そう、なら良かった」
なんとなく頬に手を添えてみる。
夕太と違って、この子はまだぷるぷるのほっぺただ。
親指の腹でそっと撫でると、嬉しそうに微笑んだ。
「明日もがんばろ~ね」
「そうね」
この子は、いつまでこのままでいてくれるのだろうか。
夕太のように、気づかない間に変わってしまうのだろうか。
それはそれで仕方ないが、寂しさが波のように襲い掛かってくる。
できればいつまでもこのままでいたいなぁ、なんてありえないことを夢に見ながら。
いつの間にか、眠ってしまっていた。
夢は、特に見なかった。
朝、スマホのアラームで目を覚ます。
まだ寝ている花梨を起こさないようにそっとベッドから抜け出し、着替えて顔を洗っておば様の仕事部屋に移動する。
小町家のいたるところに私の着替えがあるのは、こういう時の利便性の為だ。
まだ起きていたアシさん二人に挨拶して、台所に向かう。
今日作るのは、アスパラと人参の肉巻きに鯖の塩焼き、卵焼きときんぴらごぼうだ。昨日のうちにできるものは作り置きと、下ごしらえはしてあるので手間は殆どない。
例によって記憶というか意識はなかったが、何をしたかは覚えているのだ。
……前世のあんな苦労も役に立つんだなと思うと、人生何事も無駄はないのかもしれない。
フライパンにごま油を引いてアスパラと細切りにした人参を炒める。量はお弁当の分も入れてかなり多め。
誰の分かっていうと、当然私と花梨の分。それと、ラルフと春史くんの分も。
私と花梨は他に作ってくれる人もいないから当然として、ラルフの分は止むを得ず。以前、修羅場を手伝った私と花梨がおそろいのお弁当を持ってきているのをあのバカが酷く羨んで、花梨が「ラルフくんの分も作ってきてあげる!」と言ったせいだ。
それから、こういう時はラルフの分も作ることになっている。
だが、ここで一つ問題が。
今は四人で昼食を摂っているのだ。三人同じ弁当で、一人だけパンっていうのはどうかと思う。
なので、春史くんの分も自動的に作ることになった。理に適っている。
七人分の朝食+四人分のお弁当だと結構な分量だが、おば様や花梨が少食なのと大食いがラルフくらいしかいないのでなんとかなるはず。
アスパラや人参は見た目で焼き具合が分かりにくいが、菜箸で軽くつついて柔らかさで判断しいい感じに炒める。
お肉は薄めのロースで色が変わるのを見つつさっと焼いて、片っ端から巻いていく。
鯖をグリルにセットしてきんぴらごぼうの味を見つつ炒め直しているあたりで、花梨が起きてきた。
「おはよ~、いい匂い~」
「おはよう、顔洗った?」
『あ』の形に口を開けて、パジャマ姿の花梨がゆったりした足取りで去っていく。
朝に弱いんだから無理しなくていいのに。まぁでも、こうして手のかかる内はどこにもいかないだろうなって思えて安心かな~……なんて。
妙な思考を引きちぎって捨て、きんぴらごぼうを少し辛めの味付けにした。体がしんどい時は少し濃いめの味がいいってどこかで聞いた気がする。
おば様やアシさん達がゆっくり休めるのはまだ少し先だろうし。
唐辛子とか混ぜても面白いかな~? と思ったけど止めた。春史くんが初めて食べるお弁当なんだし、冒険するわけにはいかない。
ラルフだけが食べるんなら試したんだけどな。
卵焼きを準備しているところで、花梨が戻ってきた。
「ごめんね~、ひーちゃん。卵焼きは私が作るよ~」
「うん、お願い。お弁当箱と食器準備するから」
「は~い!」
嬉しそうに手を上げる花梨に後を任せ、諸々の準備を始める。
こう見えて、花梨はめちゃくちゃ料理が上手い。運動も勉強もダメな方だが、ある種のセンスを要求される事柄なら抜群の才能を誇る。
下手をすると演技の方も才能があるのかもしれないが……そっちは見たことがないのでわからない。でも花梨ならありそうで少し怖い。
ともあれ、花梨の卵焼きは私の大好物でもある。お母さんのと同じくらい好き。作り始める前に戻ってきてくれて良かった。
「ふんふんふ~ん♪」
鼻歌を歌いながら気持ちよさそうに料理をする花梨。
フライパンの上で卵が焼ける音がする。もうそれだけで心が浮足立つ。
花梨の卵焼きを食べるのは久しぶりだ。私の分をちょっと大きくして、ラルフの分を少し小さくしよう。代わりに肉巻きを多く入れるので許してほしい。
ふと思い至って聞いてみた。
「花梨は、ラルフにお弁当作ってあげないの?」
「作ってるよ~?」
フライパンから視線を離さず、卵焼きをくるくると巻いていく。その手つきは熟練の技を思わせた。私はまだそこまでいけない。
違った、感動してる場合じゃない。
「そうじゃなくて。普段から作ってあげないの?」
私と違って、花梨は料理を作り慣れている。なのに、ラルフに作ってあげるのは私と一緒に作る時だけだ。
普段から作ってやれば、あの鈍感唐変木でも多少なりと進展が見込めると思うのに。
「ん~……んへへぇ~、えっとね~」
花梨は口ごもりながら、恥ずかしそうに笑った。
その顔は、今まで私が見たこともない色をしていた。
「今はいいんだ~。味に飽きられたら困るし~、もっと上手くなってからがいいの~」
嬉しそうに笑う幼馴染に、私は言葉を失った。
『そういう未来』を、ちゃんと考えてるんだ。
その事実に、何故だかハンマーを打ち付けられたような衝撃を受けた。
「将来、いっぱい作っていっぱい食べてもらうから~。それまでのお楽しみ~」
「そう」
一言返すだけで精一杯だった。
本当だったら何もかも投げ捨ててベッドの中で丸まりたいくらいのダメージだったが、なんとか踏みとどまる。
お世話になっているおば様達の為にも、春史くんへの初お弁当の為にも倒れるわけにはいかない。
なんていうか、花梨はちゃんと考える子だってわかってたんだけど。
分かってたんだけど、現実に目の前で見せられるとクるものがある。
……昨日も同じようなこと思ったな。
なんだか皆に置いてかれてるような気分になる。私一人子供だなっていうか……進んでないような感覚。
だからって、どうにもできないんだけど。
花梨や夕太みたいに相手もいないし。それっぽいアテもないし。あーなんか、ラルフに殺意湧いてきた。
護堂さんがいるじゃん、と頭の片隅で声がするが、いやいやナイナイナイ。
だって前世エッジだよ? それに、どう考えても釣り合わないし。
向こうは人気急上昇中のイケメンモデル兼俳優で、こっちは一応事務所所属とはいえ読者モデル。格差ってやつが凄い。
そもそも護堂さんと付き合う自分が想像できない。いい人だとは思うけど、それ以上ってのは困る。
……こういうところが子供なんだろうか。
なんか急に花梨や夕太が凄い大人に見えてきた。ラルフは子供のまんまだけど。
アルフォンスが忘れられない、ってのも事実だ。心のどこかにずっと引っかかったまま、そこだけ前世から変わらないでいる。
なんなんだろう。自分で自分が良く分からない。
ので、考えないことにした。
「準備できたから、皆呼んでくるね」
「うん、お願い~」
盛り付けする花梨に一声かけて、おば様達を呼ぶ。
目を輝かせてやってきたアシさん達が料理に舌鼓を打つ。
自分でも食べてみて、それなりによくできたと思う。これなら春史くんに食べてもらっても問題ないだろう。
花梨の卵焼きは相変わらずおいしくて、これ以上とかどうするんだろうとさえ思う。
その努力が全てラルフの為かと思うと……おのれラルフ。
朝食を片付けて制服に着替え、傘を差して学校に向かう。
今日も梅雨らしく雨だが、今週で終わるとの予報だ。日曜からは晴れ間が広がるらしい。
……日曜も雨ならよかったのに。
とりあえずCMのことは頭から追い出して、昼休みのことを春史くんに話さないと。
パンを買わなくていいよ、お弁当あるよってことを……こう、それとなく伝える方法を考えよう。
変な意味を持たせないよう、さらりと。
これ以上誤解と騒ぎが広がるのはごめんだ。私の手に負えない。
水たまりに喜ぶ花梨を横目に、そんなことを考えていた。
今日は朝から榎本さんに報告されることもなく、無事に席に着いた。
話題はやっぱり真希の彼氏の謎のイケメンで持ち切りだが、私にはどーでもいい。むしろ関係ないことで盛り上がってくれた方が有り難い。
さて、いつ言おうか。
やっぱり早い方がいいかな……いや関係ないか。要はパンを買いに行く前に言えさえすればいいのだ。
そうしてチャンスを窺っている内に、昼休みになってしまった。
「暮石く~ん、お昼食べよ~」
「はい、パン買ってきますね」
いつも通り花梨が誘い、春史くんが席を立つ。
今だ! 今が最後のチャンスだ! 言え、私!
「今日は大丈夫だよ~、お弁当あるから!」
かりぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃんんんん!!!
とっても、とっても完璧な仕事ぶりなんだけど、こう、なんていうか、うんグッジョブ!!
言えない私が悪いのだ。花梨が言わなきゃ春史くんは必要ないパンを買いに行っていたのだ。
……成長しろ、私。
「はい?」
春史くんが首を傾げる。
まぁ、そうだよね。よく意味わからないよね。
「いこ! 今日はどこで食べようかな~?」
「雨だから外は無理よ」
念の為突っ込むと、「そうだった~」と悲しそうな顔をされる。
うっかりは家系なんだろうな……おば様とそっくりな表情をする花梨を見るとそう思う。
まだ頭の疑問符をつけたままの春史くんにちらりと視線を移し、
「行きましょ。何も買わなくて大丈夫だから」
「……はぁ」
とりあえず頷く春史くんを連れて、ラルフの教室に向かう。
花梨から連絡を受けていたラルフは教室で待ち構えていて、私達を見た途端、
「おーっす! 早く飯食おうぜ!」
と自分の周囲の机を四人分くっつけ始めた。
いやいいけど。どんだけ待ち遠しかったの。
いつも通りに合わせた机の上に、四人分の弁当箱を置く。
「はい、ラルフくん!」
「おー! 久々だなぁ!」
嬉しそうに花梨から受け取り、早速蓋を開けやがった。
あんたは春史くんが受け取るまで待つということができんのか。
「うぉ、美味そう!」
「えへへ~♪ 今日のはひーちゃんがほとんど作ったんだよ~」
「えっ!?」
おいバカ、死ぬほど疑わしそうな驚愕の目で私を見るな。ぶん殴られたいか。
無視して私も春史くんの弁当箱を取る。
「はい、春史くんの分」
「……僕の分もあるんですね」
どういう返事だと思えばいいんだろう。
声の感じからして驚いてる、でいいのかな……それとも嫌なのかな? 少なくとも、めちゃくちゃ嬉しいって声色じゃない。
「嫌ならいいけど」
なんか、頑張って作ったけどやっぱりダメかな。
それなりに親しくなったと勝手に思ってたけど、会って二か月程度の女の手作り弁当とかやっぱ軽く引くよね。
そう思って引っ込めようとして、
「いただきます」
思ったより強い力で弁当箱を掴まれた。
反応に困り、思わず上目遣いで春史君の顔色を窺い、
「……そう」
とだけ言って、手を離した。
春史くんがお弁当箱の蓋を開ける。今朝作ったのと、昨日の残りのポテトサラダとおにぎり。今見てみると、色合いがあんまりよくないかもしれない。
ていうか、女子高生が作るお弁当にしては地味!? 地味じゃない!?
あぁそうだ、なんか茶色系多いし! 一応緑や赤もあるけど茶色で包んでちゃ地味じゃん!?
違うんだよ春史くんこれはアシさん達の付箋であって私の趣味じゃないのいやでも私が自分で選んでもこんな感じになる予感がていうかフランス料理とかイタリア料理とか作れないしなんでよ前世はザ・パスタな国だったじゃんていうか私令嬢だからキッチンに入ったこともなかったんだった!!
心臓の音が耳元で聞こえる。言い訳を探して必死に頭を働かせ、何も思いつかず、
「美味しそうですね」
脳みそが吹っ飛んだ。
横目にこっそりと様子を窺う。
春史くんは目を細めて、宝石でも見るようにお弁当箱に視線を落としていた。
心臓の音が煩い。
次はもっと頑張ろう。
今回は意識飛んだまま作ったものもあるし、次はもっとしっかり作ろう。
ていうか、今日また作るから明日リベンジだ。料理本読み込まなきゃ。
「美味しそう、じゃなくて美味しいんだよ~!」
「食べたんですか?」
「朝ごはんが同じだったもん!」
花梨がそれはもう鼻高々に胸を張る。
いややめて花梨、ちょっと恥ずかしい。朝ごはんの残りみたいでマジ恥ずかしいからやめて。
お弁当ってそういうもんだとは思うんだけど、なんか所帯臭くない……?
最近女子高生らしさを見失ってる気がする。
「それは……羨ましいですね」
心臓が爆音を上げる。
落ち着け、リップサービスだ。すごい儚げなスマイルをしてるけど、春史くんは人がいいから花梨に付き合っているだけだ。
冷静さを失った者から戦場では死んでいくのだ。
「しかし、こいつ料理なんてできたのかよ。この卵焼きなんてめちゃくちゃ美味そうだし」
「あ! それはわたしが作ったんだよ~」
「お~、やっぱりか! こん中で一番美味そうだもんな!」
「んへへぇ~」
ウザイ。
いや違った、仲が良くて何よりだ。
見つめあってへらへらと笑いあうのはもうどこに出しても恥ずかしくないバカップルで、これで付き合ってないんだから頭が痛くなる。
まぁでも、確かに花梨の卵焼きは超一級品だ。ラルフの気持ちもわからんではない。
「美味そう、じゃなくて美味いのよ」
「あ! お前朝に食ったな!?」
「当然でしょ」
恨めし気に睨んでくるラルフを受け流し、お箸を手に取る。
ラルフの卵焼きは他と変わらない大きさだ。流石に花梨に悪いと思って大きさを弄るのは止めたのだ。
でも、こんなことなら弄っとくべきだったな。そのくらいしても許されると思う。
「僕はこのきんぴらごぼうが一番ですね」
不意打ちは勘弁してほしい。
さらりと言ってのける春史くんに、うんうんと頷く花梨。ラルフは訝し気な顔をしていて、やっぱり卵焼き小さくしてやればよかったと思った。
「さ、早く食べましょ」
全員を促し、手を合わせる。
食べ始めると、ラルフのバカは満面の笑みでうまいうまいと連呼していた。
こいつはいつもそうだ。金持ちのクセに幸せな舌をしている。
春史くんも美味しそうに食べてくれて、ひとまずほっと胸を撫でおろした。
あぁ、これで週末のCM録りさえなきゃ完璧なのに。
真希の彼氏騒動なんかすっかり忘れて、楽しいお昼を満喫した。
こういう時、いつも落とし穴が待っていることを人生経験で知ってたはずなのに。
放課後になり、花梨と一緒に帰る。
雨は朝よりも少し強くなっていて、梅雨最後の足掻きだとクラスメイトが話していた。
雨は明日まで続き、ゆっくり強くなっていくらしい。土曜の明け方には止んで日曜には晴れると天気予報のお姉さんが教えてくれた。
「あとどれくらい長引きそう?」
修羅場状態について尋ねてみると、花梨が悩まし気な表情をする。
「ん~、もうちょっとかなぁ。ネーム上がらないと進まないのが二つくらいあるけど、それはどうせ後回しになるし」
「アシさん達は帰れそう?」
「土曜日くらいにはなんとか。ひーちゃんは今日までで大丈夫だと思うよ~」
「そう?」
「うん! あとはわたしが頑張るよ~!」
腕をまくり力こぶを作って見せる花梨に思わず吹き出し、頷いて見せた。
「手伝いが必要なら遠慮なく言ってね」
「うん! 今回も助かったよ~、ありがと~!」
花梨と微笑みあい、家に向かう。
この子がこういうってことは、もうアシ作業を手伝わなくてもいいということだろう。終わりが近いのは本当っぽい。
メシスタント花梨の手伝いをしてもいいのだが、テスト前だしおば様も遠慮したのだと思う。CMのこと夕太のこともあるし、今はそれが有難い。
それなら、今日は精一杯頑張ろう。作り置きも二品か三品くらい作らないと。
テスト前なのは花梨も一緒だし、点数でいうなら花梨の方が危ないんだから。
小町家に到着し、早速片付けと掃除に入る。昨日ほど絶望的な状態じゃないので、早めに終わった。
それからアシ作業の手伝いをして、買い出しに出かける。
料理本についた付箋が昨日より増えている気がするのは……見なかったことにしよう。
時間を合わせてスーパーから出て、角のコンビニの前を通り過ぎる。
昨日と同じ時間。もしかして、と思ったけれど、やっぱり居た。
今日は女の子が一人だ。昨日と同じ子かは分からないけど、多分そう。
何食わぬ顔で通り過ぎて、ちょうどいい角を曲がって少し待機。
五分だけだ。それ以上は待たない。
そう決めて待つこと三分、予想通り夕太がやってきた。
これはもう、確定だろう。
あの子の帰りが遅かったのは、彼女と遊びに行っていたからだ。いや、会話から察するに彼女の家に行っているのだろう。
なんでコンビニ前で待たせるのかとか、色々疑問はあるけど間違いない。
そっかー……本当に付き合ってるんだねぇ。
寂しい気持ちにはなったけど、昨日ほどのショックはない。
見守ると決めたことで、姉としての余裕が出てきたのだろう。
そのまま小町家に戻り、夕食の準備と明日の為の下ごしらえを済ませておば様達を呼ぶ。
花梨の言った通り、明日からは大丈夫とおば様にも言われた。
なら、明日は夕太の為に時間を使おう。
あの子が言ってくるまで彼女の事は黙っているとして、それとなく様子を聞いて励ましたりとかやれることはあるはずだ。
その日の夜も花梨とくっついて眠りについた。
誰かの夢を、見た気がする。
起きたときには忘れてしまったから、誰の夢かは分からなかった。
雨が降り続く登校路を花梨と歩き、教室に行く前に温かい飲み物を飲む。
私は微糖の缶コーヒー、花梨はミルクティー。
冷えた体を温めてから入った教室は、昨日よりも雑然としていた。
榎本さんが近づいてくる。うん、このパターンは知ってる。
でも、真希の彼氏問題以外に何か大きなことでも起きたの? なんなの? 事件が起きる回数多いんだけどコナン君か金田一君でもいるの?
「白峰さん、白峰さん!」
「なに?」
珍しく興奮した様子の榎本さんが、スマホを取り出してなにやら操作する。
「あの、まきちゃんの彼氏なんだけど!」
「噂は聞いたけど?」
興味ないです、という雰囲気全開で答えると彼女は首をぶんぶん振り、
「違うの! これ見て!」
そう言って差し出してきたのは、
夕太の似顔絵だった。
何がなんなのか分からず、思考が停止する。
「これ! まきちゃんの彼氏だって! すごいカッコイイんだけど誰か知らない!?」
隣の花梨が『あ』の形に口を開けている。
知ってる。めっちゃ誰か知ってるけど、ちょっと待って。
夕太、お姉ちゃん初彼女から二股するのはどうかと思うよ?




