第二十一話
――これは夢なんだ、と思うことにした。
両親が私を見る目が恐ろしいのも、毎日苦しいばかりのお稽古と授業が続くのも、全て夢なのだと思えば耐えられた。
ここにいるのは私であって私じゃない。そんなふわふわした気分で生きればどんな視線や言葉も物の数ではなかった。
昔は、そうじゃなかったと思う。
それがいつの頃かは忘れてしまったけれど、確かにそんな記憶がある。
普通に笑って、泣いて、生きていた。
その頃、いつも隣には誰かがいた。
それが誰だったのか、よく思い出せない。男の子、だったような気がする。おぼろげな記憶を繋ぎ合わせても、顔さえ良く分からない。
一番可能性が高いのは、ユーリだろうか。
ユーリ・シャミーニ。三歳違いの弟。
言葉もろくにしゃべれないくらい小さかった頃は、よく私の後ろをついて回っていた。
私のやることを真似して、無邪気に笑う姿が可愛かった。
今では食事の時以外顔を合わせることもない。
別に嫌いだからそうしているわけじゃない。両親があまりいい顔をしないからだ。
弟と一緒にいるのは『淑女らしくない』そうだ。
徹底して男の影を消したいのだろう。その潔癖ぶりに笑いがこみあげてくる。
食事中は会話をすることもほぼない。一言二言、定型文を交わすか交わさないか。それも、家庭教師にマナーレッスンとして睨まれながら。
このままだと、弟の顔も思い出せなくなりそうだ。
だから、こんな人生は夢なのだ。ぼんやりした記憶しか残らない世界なんて、夢に決まっている。
リリィが頬ずりをしてくる。そっと手を添えて頬をくっつけ、静かに目を閉じる。
再び開いた時、私は庭園にいた。
空には月。真っ黒に染め上げられた世界に一筋の光が落ちる。
その光を受けて、真っ白な花が薄く輝いていた。
ムーンフラワー。私の好きな花。
辺り一面に咲き誇り、甘い香りがふわりと漂う。
父も母も夜に庭園を散歩するような趣味はない。ここは私だけの場所。幻想の中に身も心も埋めるのに最高の空間だった。
ここまで歩いてきた記憶はない。でも、いつものことだから気にしない。疲れているとよくあることだ。
立ち上る香りを吸い込み、ただ空を見上げて立ち尽くす。
頭の中が空っぽになるこの瞬間が、大好きだった。
なんだか眠くなってくる。もう一度深呼吸して、軽く目を瞑り、
「……姉さん?」
いるはずのない弟の声がした。
ゆっくりと振り向けば、驚いた顔でこちらを見るユーリがいた。良かった、まだ一応顔は忘れていなかったらしい。
それにしても、何故こんなところにいるのだろう?
「姉さん……なんでこんなところに?」
それは私が聞きたい。
姉弟だから考えることも似るのだろうか。同じ時間を過ごしたのは、もうずっと前のことなのに。
弟は表情を取り繕い、気遣わしげな様子を作る。
「もう深夜です。部屋に戻られないと皆心配しますよ」
そう言うユーリは、もう立派な貴族の跡継ぎに見えた。
まだ10歳だというのに、立ち居振る舞いに隙が無い。やはり、あの両親にそれなりの教育をされているのだろう。
私にやって、弟には何もしないというのは考えられない。
その事実に、どこかほっとしている自分がいた。
苦しい思いをしているのは、私だけではないということに。
「大丈夫よ。“私”の心配なんて誰もしてないから」
同類意識が芽生えたせいだろうか。それとも、弟にくらいは話したかったか。
気づけば、そんなことを口走っていた。
ユーリの瞳が戸惑いに揺れる。そうよね、こんなこと言われても困るよね。
でも、口にしてしまったものはもう戻らない。
まぁいいや。
どうせ夢なのだ。
だったら、久しぶりに姉弟の会話とやらをしてみよう。
「そんなことありませんよ」
苦しい否定をする弟に微笑みかけ、空を見上げた。
銀色に輝く月は、空に咲くムーンフラワーだ。
「ユーリは、大丈夫? 家庭教師は厳しくない?」
聞いてみると、弟はまたも驚いた顔で息を呑んだ。
何をそんなに驚くことがあるのだろうか。私が話しかけたことかな?
今までろくに話さなかったから、嫌われていると思っているのかもしれない。
「……それなりに。でも、シャミーニ侯爵家の跡継ぎとして必要なことですから」
「あんなお父様の跡なんて継がなくていいのに」
言ってしまえば、本当にその通りだと心の中の私が全力で賛同した。
笑いがこみあげてくる。こんな簡単なこと、なんで今まで言えなかったんだろう。
ふと見れば、ユーリが絶句して私を見つめていた。
そんなに驚かなくてもいいのに。
「適当に手を抜いていいのよ。今のお父様は跡取りより、娘をどこに嫁がせるかに一生懸命だから」
弟の雰囲気が変わる。
だんまりを決め込んだままだが、目つきが鋭くなり眉間に皺が寄る。
十歳でそんな表情をしなくてもいいと思うんだけどな。
この家に生まれた以上、無理な相談かな。
「貴方には、面白くないだろうけど」
「……まぁ、そうですね」
あぁ、と納得する。
これは、嫌われているのは私の方だ。
考えてみればそうかもしれない。両親からやたらと過保護にされている上に目をかけられている姉というのは、構ってもらいたい盛りの弟からすれば厄介者なのだろう。
仕方ない。
でも、これで私や両親から距離を取ってくれるなら有難い。
弟まで両親の野望に巻き込むのは忍びないと思わなくもないのだ。
「姉さんばかり苦しむのは、面白くないです」
耳を疑った。
言われた言葉が飲み込めず、願望による幻聴でも起こしたのかと思った。
けれど、弟の目は真っ直ぐに私を見つめていて。
混乱する私を余所に、ユーリは言葉を続ける。
「オレは……昔の姉さんが好きでした。だから、早く後継者になって、力をつけたいんです。姉さんを殺した父さんと母さんを追い出したいから」
これは、夢だ。
そうでなければ、ユーリがここまで激しい言葉を使うはずがない。
視界に映るのは無邪気に笑う幼子ではなく、確固とした意志をもった一人の貴族だった。
大事なものを守る為に、他のものを切り捨てる。
そんなところまで姉弟で似なくても良かったのに、と思った。
「オレは大丈夫です。姉さんも、早く部屋に戻ってください」
言うだけ言って、ユーリは背を向けて屋敷の中に入っていく。
かけるべき言葉もなく、私はただ見送るしかなかった。
一面のムーンフラワーを見回し、最後に月を見上げる。
今夜の夢は、中々に強烈だった。
――どうかあの子が、無事に過ごせますように。
誰にともなく祈り、目を瞑った。
優しい子なのだ、ユーリは。姉の為に怒ることができる、心根の綺麗な子。
だから、どうか、父母の野心に食われませんように。
私を守るように巻き付いてくるリリィを撫で、心底そう願った。
軽く息を吐くと、体がぐらぐらと揺れた。
地面が揺れ、庭園ががらがらと崩れて闇に呑まれていく。
足元が崩れ、反射的に空に手を伸ばす。
どこかから伸びた手が私を掴み、
『――ちゃん――姉――』
聞き覚えのある男の子の声が耳朶を打つ。
掴まれた手に体を揺すられ、意識が急速に覚醒して――
「じゃあ、お前も知らねぇの?」
「なんで知ってると思うの」
お昼休み、屋上。
みんなでお弁当をつつきながら、今朝榎本さんにも聞かれたことをラルフにも聞かれた。それで正直に知らないと返したらこの反応だ。
『真希の彼氏は誰?』問題は結構な勢いで広がっているらしい。
それはいいんだけど、なんで私に聞いてくるのか。
「いやー、だって最近お前ら仲良いし」
「……先輩後輩の関係なだけよ」
否定することもできず、かといって本当の事も答え辛く。
無難な返しにラルフは訝しげに眉をひそめた。
「まぁいいけどよ。にしても誰なんだろうな」
「気になるの? 珍しいわね」
こいつは基本的に恋愛ごとに興味を示さない。
そのせいで花梨との仲が進展しないという見方もある。そもそも前世からかなりの鈍感というか無頓着な男なのだ。
いいから早く付き合えよ、と周りは皆思ってる。私がそうなので皆そのはずだ。
前世でもこいつはそういうところがあった。諸々の都合があったとはいえ私よりキャスリン優先させたり、ヒルダとの婚約破棄もあんな追い詰められてからだったり。
やば、思い出したらちょっと腹立ってきた。
昨日、ソファで寝たときに昔の夢を見たせいか少し感情的になってるみたいだ。どんな夢か内容は忘れたけど、前世のことだからろくなもんじゃないのは間違いない。
卵焼きを口に放り込み、苛立ちを紛れさせる。
うん、やっぱり美味しい。私もこの味を出せるようになりたい。
「んー、その相手ってのが、すげーイケメンなんだろ?」
「らしいわね」
ラルフが言うと嫌味に聞こえるのは、私の性格が悪いのだろう。
フィールドのプリンス様は悩ましい表情のままパンにかじりつく。
「わたしも聞いた~! すっごくかっこいいって~」
「だよなぁ? なのに、そいつが誰かわかんねぇんだよ」
元気よく手を上げる花梨に頷き返し、ラルフがぼやく。
花梨、あんたはいいから早くお弁当食べなさい。
「それが?」
「おかしいと思わねぇ? そんな奴なら有名になっててもおかしくねぇのに」
ラルフの言わんとすることも分かる。
学校と言うのは話が広がりやすいもので、そんなにイケメンなら話題に上ってもおかしくない。
ラルフや花梨は別格としても、目立つ人は学年問わず噂になるものだ。
それが、噂をする人みんなが誰か分からないというのは不思議なものを感じる。
「単に噂にならなかっただけでしょ」
一応、それっぽい結論を口にしてみる。
イケメンや可愛い子が絶対に噂になって皆が知ってる、なんてこともない。私だって真希の事よく知らなかったし。
性格が大人しかったりすれば、普通にあり得ることだ。
「かもしんねぇ。なら、なんでお前の事聞いて回ってるんだ?」
ラルフに問われ、口をつぐむ。
そう、今朝もそれを榎本さんに聞かれたのだ。「何か知らない?」って。
知るわけないだろ! 私こそ聞きたいわ!
もちろん実際に言えるわけないので、心の中でだけ叫んだ。
真希の彼氏がなんで私の事なんか気にするのか。あれかなー、真希がなついてるから妬いたのかなぁ?
それにしても、私の事を知らない人がまだこの学校にいたとは思わなかった。
……そこだけ抜き取ると凄い自意識過剰だな、私。
止めよう。いいじゃないか私の事知らない人がいたって。
「さぁね。それより、再来週はもう期末だけど大丈夫?」
少しわざとらしかったかな、と思ってちらりと見回す。
ラルフが自信満々に頷き、春史くんが柔らかく微笑み、花梨が絶望にまみれた顔でもごもごと咀嚼していた。
うん、明暗分かれるってこういうことを言うのね。
再来週――正確にはもう二週間を切っている――には一学期の期末試験がある。二年だからまだ余裕があるとはいえ、進学を考えている人にとっては気の抜けない試験だ。
夏には模試もあるし、弾みをつけたい人もいるだろう。
私は……まだよく考えていない。ラルフも花梨も似たようなものだろう。ラルフはサッカーのことしか考えてないだろうけど。
春史くんはどうなのかな、と思う。
良く勉強しているけれど、やっぱり進学するんだろうか。
学部とか大学とか、もう決まっているんだろうか。
こっそりと盗み見た彼は、ラルフに絡まれて困ったように笑っていた。
「よし、じゃあ点数で勝負しようぜ!」
「そんなことしなくても、学年順位は出ると思うよ」
「なんだよー、そっちの方が燃えるだろ?」
「うーん、どうかな……僕は別に」
「そこは張り合えよー、サッカーんときみたいにさぁ」
むせた。
食べてたものが喉に詰まって咳が止まらない。
「わわっ!? ひ、ひーちゃん、お水~!」
「お、おいハル!? ほれ、飲め!」
花梨から受け取ったミネラルウォーターを一気飲みして異物を流し込む。
肩で息をしていると、同じように息の荒い春史くんと目が合った。
――サッカーんときみたいに――
頭の中でラルフの言葉がリフレインして、思いっきり目をそらしてしまった。
ヤバい、恥ずかしい。なんだこれ。
アホのラルフが下手なこと思い出させるからだ。せっかく忘れていたのに。
なんであんなことしたんだ、私ぃ! これが黒歴史ってやつか!? 高校生になってまで作るとは思わなかったわ!
「ひーちゃん、大丈夫?」
心配げに話しかけてくる花梨に微笑みかける。
あのアホにこの子を渡すのが嫌になってくる。もうちょいデリカシーを身につけないと安心して預けられないわ。
「えぇ、大丈夫。ありがとう」
向かい側では男二人が同じような会話をしている。
春史くんもむせたの? なんで?
やっぱり、彼も意地になったのが恥ずかしかったのだろうか。あんなふうに意固地になって張り合うタイプじゃないのはもう分かってるし。
勝負ごとに熱くなれるのは格好いいとは思うんだけどな。ラルフみたいに頭の中全部それで染まるのはご遠慮願いたいけど。
ていうか、さっきラルフの野郎ハルって呼んでなかった!?
いつの間にそんな距離を詰めたの、このアホ! お姉さんにしか許されないあだ名だと思ってたのに!
「そろそろ戻りましょうか」
ちらりとスマホを見て春史くんが促す。
「あ、もうそんな時間か。お前ら大丈夫か?」
「うん! もう食べたよ~」
ラルフに笑い返す花梨を横目に、私も頷く。
お弁当を片付けて腰を上げると、ポケットの中のスマホがぶるぶると振動した。
こんな時間に誰かと思えば、社長の二文字がでかでかと表示されている。
……何も見なかったことにしようかな。
いやでも、何か重要な用事だったら困るし。護堂さんの件のほとぼりも冷めたとは言いづらいし……無視はダメか。
「ごめん、先に行ってて」
「電話? 誰から?」
「社長」
ラルフに短く答えると、あぁ、と納得してくれた。
三人と別れて隅っこに移動し、通話ボタンを押す。
『やぁ、急にごめんね~』
「そう思うなら電話しないでください」
素っ気なく突き放すと、『ひどっ!?』と電話口で嘆いてみせた。
これでノーダメージなんだから、もうこの人には何を言っても無駄だ。
『いやぁ、言い忘れたことがあってね。ようやく詳細が決まったから知らせようと思って』
「なんですか?」
昼休みの時間は残り少ないのだ。無駄口を叩く暇はない。
『あぁうん、来週、いや日曜からCMの録りが入ったから。詳細は後でメールするよ』
「……はい?」
何を言ってるんだこの人は?
CM? 録り? いやいやいや再来週試験ですから!!
大体、私そういう仕事は嫌だって常々言ってると思うんですけど!? せめて私の意思を聞くとかしてくれませんかね!?
『実は真希ちゃんの件でね、向こうとの手打ちの条件の一つなんだ。大丈夫、これが終わればもう何もないよ。そんなわけでよろしくね~』
「いやちょっと待ってください社長!?」
切れた。
いやもうちょっと詳細を話せよ! 後でメールするっつってるけど、もうなんかそれ以前に色々聞きたいことしかないよ!!
示談の条件って……一体何がどうして私がCMに出るのがそうなるのかわかんないけど、少なくとも嘘じゃないだろう。
あの人は一応そういうタチの悪い嘘はつかない。
なら、もう私に選択肢はないわけで。恨むなら面倒を見ると決めた自分を恨むしかない。
あぁ~、試験休み中はずっと花梨と春史くんとついでにラルフと勉強する予定だったのにぃ!
これで成績下がったらしばらく社長に恨み言吐きまくってやる。
ほんと、ここんとこ真希に振り回されっぱなしだ。
でも、ようやくこれで終わる。
彼氏の方はまだしばらく聞かれるだろうが、そのうち治まる。そうなれば、また元の穏やかで楽しい生活が待ってるはずだ。
……いや、そういえば夕太の方の問題がまだだった。
しかも昨日やらかしたせいで妙にこじれてる気もする。今朝もろくに話せなかったし。
あぁ~、土曜日にはリリィに会いに行かなきゃだし、ちっとも落ち着かない。
頭が痛くなってきたので、思考を放棄した。
考えても仕方ない。なるようになる。
スマホをポケットに突っ込んで、教室に戻った。
花梨にCMの事を話すと、一緒に勉強できないことを悲しんでくれた。
きっつい日々の中、この子は私の癒しですよ本当に。
5時間目が始まるまで、軽い雑談をして時間を潰した。
放課後になり、今日はどうしようかなと思案していると。
「ひーちゃん、今日は時間ある?」
メールを見ていた花梨が、申し訳なさそうにこちらを見上げてきた。
「あるよ。どうしたの?」
「おかーさんがね、大変でね。手伝ってもらえたらな~って」
上目遣いに覗き込まれてしまえば、NOという選択肢は残らない。
余りの可愛さに気づけば頷いていた。
「いいよ。工藤さんも白井さんもいないんじゃね」
「ありがと~! おかーさんにメールするね!」
私に二人の穴を埋められるとは思わないが、少しでも助けになるなら手伝おう。
あ、そうだ、一緒に夕太も……連れていけるわけないか。
本当なら一緒に手伝いにいくつもりだったのに。おのれ昨日の私。声をかけることさえ難しくしてしまうとは。
メールを終えた花梨と連れ立って、小雨のぱらつく帰り道を歩く。
花梨と帰りも一緒になるのは数日ぶりだ。何も無い時はいつも一緒に帰るから、なんだすごく久しぶりに思える。
隣の花梨も心なしか嬉しそうだ。願望がそう見せてるのかもしれないけど。
「そんなに大変なの?」
「うん。私もず~っと背景描いたりペン入れしたりしてる~」
げっそりした様子で花梨が頷く。
この子はこう見えて芸術全般なんでもござれだ。絵も勿論上手い。中学の頃はあちこちのコンクールで入賞していた。
でも、おば様の仕事を手伝う時はアシもそうだけどご飯作ったり掃除したりといった所謂メシスタント的な側面も強かったはずだ。
それがアシの仕事ばっかりってことは……もしかしたら、想像していたよりずっとヤバいかもしれない。
覚悟を決めて花梨の家に向かう。
いつもの億ションは、相変わらず私の庶民心に軽い緊張を強いてくる。
今日は花梨がいるので部屋に連絡せずにそのままロックを解除して中に入った。
映画でしか見ないようなエレベーターに乗って三階へ。適当な雑談の中に期末試験の事を混ぜて危機感を煽りながら、おば様の仕事用の部屋の鍵を開ける。
一応インターホンを押そうかと思ったが、花梨がいいというので止めた。
まぁ、修羅場中はそのまま入ってきていいとも言われているし、いいのだろう。
中に入った瞬間、異様な臭いがした。
エナジードリンクとコーヒーと、あとなにか変な臭いが混ざってる。
玄関を開けた時点で惨状が想像できてしまうというのは、今までの中でも最大級のクライシスだ。
すたすたと歩く花梨の後を追って、リビングに入る。
そこは、地獄だった。
仕事部屋に改造された元リビングには、ゾンビみたいな顔をしたアシスタントが男女四人。奥にある机にはおば様が座っていたが、その背中がすすけていた。
全員軽く汗の臭いがする。お風呂に入ってないんだろうか……多分入ってないな。
床に転がるペットボトルにコンビニ弁当の残骸。机の上にはデジタル作業用のタブレットとペン、マウスに大量のエナジードリンク。全部空だ。
一部の机には灰皿にタバコが剣山のように刺さっていて、臭いをより強烈にしている。
ヤバいヤバいとは思っていたけれど。
これは、想像以上のカタストロフだ。
「おかーさん、ただいま~」
「あぁ、花梨……お帰りなさい……」
振り返るおば様の目にはクマがくっきり浮かんでいて、微笑む顔に力がまるでない。
アシスタントの皆様はこちらに目もくれない。普段ならにっこり笑って「お嬢、お帰り~」とか「白峰さんお久しぶり~」とか言ってくれるのに。
この最悪の労働環境では、全ての力が失われても仕方がない。もしかしたら、私達が来たことにも気づいていない可能性がある。
「あぁ、昼子ちゃんも来てくれたのね……ありがとう……」
「お邪魔しています、おば様」
ぺこりと頭を下げると、おば様は申し訳なさそうに微笑んだ。
その顔は花梨とそっくりなだけに、非常に居たたまれない。
「じゃ、着替えてくるね~」
手を振る花梨に連れられ、仮眠室に入る。
鞄を隅っこにおいて、クローゼットから適当な服を借りて着替える。制服はちゃんとハンガーにかけておいておけるのが有り難い。
「ね、大変でしょ~?」
「そうね……これは気合入るわ」
頷き返して、汚れてもいいパーカーに袖を通す。
私が呼ばれた理由は、もう一つしかない。
いつもなら花梨がしていることを、私がやるのだ。
確かにこの状況は限界極まっていて、これ以上悪化すると作業効率に多大な影響を及ぼすことは間違いない。
一応デジタル含め軽い作業ならできるが、そっちは後回しでいいだろう。
「おかーさんにも、連載絞ればって言うんだけどね~」
「難しいわね。おば様、頼まれると断れないところがあるし」
「そうなんだよ~、娘としては心配なの~」
ふぅ、とため息を吐く花梨。
その様子がどうにも可愛らしくて笑みが漏れる。なんというか、子供が大人っぽいことをしているときに感じるものと同じというか。
いや、失礼なのは分かってる。娘が母を心配するのは至極当然だし。
ここは私も、できる仕事を頑張らなくては。
「じゃ、おば様の負担を減らす為にも頑張りましょうか」
「うん!」
花梨が力強く頷き、仮眠室を出て自分の机に向かう。
「おかーさん、どこやる?」
「えっとね、まずここのペン入れと――」
花梨に指示するおば様を横目に、部屋を見回す。
まずはゴミ出しをして、床掃除をして、ご飯とお風呂はその後で。
頭の中でやるべきことの順序と優先順位をつけて、計画を組み立てていく。
こういうのは、前世の杵柄とやらで結構得意だ。
「昼子ちゃん、試験も近いのにごめんね」
「いえ、大丈夫です」
指示を終えたおば様が軽く頭を下げるのを、首を振って止める。
試験とおば様の手伝い、どちらが大事かを考えれば当然のことだ。
CMなんぞとはわけが違う。
「じゃあ、あの、効果線をお願いしようかな……」
「それより、やるべきことはないですか?」
原稿作業を頼もうとするおば様を止めて、視線で部屋の惨状を示す。
おば様はクマの浮いた顔に苦笑を浮かべて、
「お願いできる……?」
「任せて下さい」
頷いて胸を張れば、ほっとした顔で机に向かい直した。
さて、と。
腕まくりをして、ゴミ袋のある収納を開く。
掃除機をかける前に一通りまとめなければ。
大仕事になるぞ、と気合を入れて市指定のゴミ袋を取り出した。
「えーっと、必要なのはピーマンとひき肉とー」
付箋の貼られた料理本を片手に、スーパーで買い物をする。
あの後、地獄をなんとか人の住める環境に作り替えたところで、アシスタントさん達が私達に気づいて挨拶してくれた。
そして食材を買いに行くと言うと、この本を渡されたのだ。
これは数日間、これが食べたいあれが食べたいと思いながらアシスタントさん達が付箋を貼った代物らしい。
コンビニ弁当はもう嫌だ、とぽつりと呟かれたのが心にぐさっときた。
最近はコンビニも頑張ってると思うんだけどね。やっぱりずっと続くと嫌になるよね。
そんなわけで、アシスタントさん達の願いをかなえるべくこの付箋の中から幾つか料理を選んで作ることになったのだ。
私、一応料理が全くできないなんてことはない。
家庭科の授業ではそれなりの成績を修めたし、たま~にお母さんの手伝いだってする。メシスタントだって初めてじゃない。……花梨の手伝いだけど。
料理本さえあれば、私だってそれなりの料理を作れるのだ。それを見せねばならない。
何故なら、花梨もアシ作業に没頭してるから。
いやー特集に増刊号に連載に寄稿に単行本用の書下ろしにと他にも幾つかあったけど、なんだあの殺人スケジュールは。
おば様曰く、今の内に詰め込んで夏に少しでも花梨と遊びに行きたかった、らしいが。工藤さんも白井さんもいない状況でやることじゃない。
そう突っ込んだら、
「忘れてたの~」
とかいって半泣きになるんだから親子だなぁと思った。
本とにらめっこしながらの買い物を終えて、漏れがないか確認する。ヨシ!
料理下手や初心者が失敗するのは、余計なことをするからだと聞いたことがある。本の通りに作れば何も問題はないはずだ。
この適量とか良い具合になったら、とかが抽象的でちょっとキレそうになるが、なんとかなる!
台車代わりの自転車に買い物袋を乗せ、傘を差して押して帰る。
小雨から少しだけ強くなり、視界が少しかすんでくる。
早く帰ろうと思いながら角のコンビニを曲がり、
「家で待ってろって言ったのに」
「ごめんね、少しでも早く聞きたくて」
聞き覚えのある声に動きが止まった。
角のコンビニ、その手前で。
弟――夕太が、誰か女の子と二人でいた。
「送る。道すがら話せばいいだろ」
「うん、ありがとう」
なんだか親し気な様子だ。あんなふうに話せる子がいたんだ。
ショックのあまり棒立ちになっていると、二人はどこかへ去って行った。
……夕太。
おねーちゃん、煩いことは言わないけれどさ。
彼女を紹介しないのはどうかと思うよ。
混乱しきった茹だる頭で、そんな頭の悪いことを考えてしまっていた。
料理は、アシスタントの皆様から絶賛していただいた。
自分でも食べてみたが、美味しいかどうかは良く分からなかった。
ショックから立ち直ってなかったからかもしれない。




